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Mission possible.

Lesson23「徹夜で翻訳!」


 返却期限一日目。

 テーブルの上に、エレノアの日記、地図、紙片。その横に、白紙の束とインク壺を三つ並べた。三人分だ。


「よし、作戦を説明する」


 俺は黒板に書いた。


 目標:日記・地図・紙片の全内容を日本語で書き写す

 期限:三日

 方法:俺が口頭で訳す → エミリーが清書 → クミが地図を模写


「"Let's translate."——翻訳しよう。"Let's"は"〜しよう"の勧誘だ。今日から三日間、これが合言葉だ」


「"Let's translate!"」


「"Let's do it ですわ!"」


「……"ですわ"は英語じゃないけど、気持ちは伝わった」


 作業開始。


 日記の冒頭から、一文ずつ確認しながら清書していく。これまでの翻訳はその場で口頭にやったものだから、改めて正確に書き起こす必要がある。


「エミリー、ここの"brought"は"連れてこられた"だ。"bring"の過去分詞」


「はいですわ。……ところでタカシさん、"brought"と"thought"と"bought"、全部"ought"が入っていますわよね。発音は同じですの?」


「いい質問だ。この三つは全部"-オート"で同じ。"brought"がブロート、"thought"がソート、"bought"がボート」


「なるほど。じゃあ"ough"は"オー"って読めばいいんだね」


「……と、言いたいところなんだが」


「なに、その嫌な顔」


「"though"は"ゾー"、"through"は"スルー"、"tough"は"タフ"」


「……は?」


「全部"ough"なのに、全部発音が違う」


「英語ポンコツじゃん!!」


「否定できない」


「なんで同じ綴りで毎回発音変わるの!? ルールないの!?」


「ない。……英語ってね、文法は簡単だけど発音が複雑な言語なんだよ……」


「文法も十分難しいですわ〜」


 エミリーの心の叫びが聞こえる。


 こんな調子で、翻訳は予想より遅れた。だが悪くない遅れだ。クミとエミリーが自分たちの目で英語を読もうとしている。間違えるたびに、正しい読み方を覚えていく。実質的に、英語の集中授業だ。


 地図の模写はクミが担当した。エレノアが描いた手描きの地図——山や川の位置は現在の公式地図と一致するが、地名が全て英語で書かれている。


「ねえタカシ、ヤクシのところに三つ名前が書いてある」


「見せろ。……ああ、三種族それぞれの呼び名だな。エルフ語で"Shaliya"、ドワーフ語で"Korrak"、ホビット語で"Hearth"」


「シャリヤ、コラック、ハース……。全然違うんだね」


「"Hearth"は"暖炉"って意味だ。ホビットは焚き火の民だからな。温泉の街を"暖炉"と呼ぶのは、なんかいいよな」


「"Shaliya"はどういう意味?」


「わからない。エルフ語の意味はエレノアも記録してない。歌の言葉だから、一対一で翻訳できなかったんだろう」


 クミが地図の上で指を動かした。三つの名前を持つ街。今は「ヤクシ」というひとつの名前しかない。


「……三つとも書いとくね。全部、この街の名前だから」


「ああ、頼む」


 日が暮れた。

 夜食タイム。イチゴとパンと、ハーブ抜きの紅茶。

 

 夜食を食べながら、作業を続ける。


 翻訳を進めるうちに、エレノアの人柄が改めて浮かび上がってきた。学術的な記述の合間に、ちょっとした感想が挟まっている。


"The hobbit bread is surprisingly good. I must ask for the recipe before I leave."

——ホビットのパンは驚くほど美味しい。帰る前にレシピを聞かなければ。


「エレノアさん、食いしん坊ですわね」


"The elf children tried to teach me their songs. I could not sing them. My voice is not made for their melodies. But I tried, and they laughed. It was a good laugh."

——エルフの子供たちが歌を教えてくれた。私にはうまく歌えなかった。私の声はあのメロディには向いていない。でも試みたら、子供たちが笑った。いい笑い方だった。


「……いい人だったんだね、エレノアさん」


 クミが呟いた。


「ああ。この世界を愛してた」


 深夜を過ぎた。

 エミリーの筆が遅くなってきた。目が半分閉じている。


「エミリー、休めよ」


「いえ……まだ、できますわ……」


「お前の字、さっきから"s"と"f"が同じになってるぞ」


「……あら、ほんとですわ」


 エミリーがペンを置いた。腕を枕にして、テーブルに突っ伏す。「少しだけ……」と言ったきり、三秒で寝落ちした。金色の巻き毛がテーブルの上に広がっている。


 俺とクミの二人だけになった。


「……"We are translating."」


 俺が呟いた。


「今日の英語。現在進行形。"be動詞 + -ing"で"今まさにやっている最中"を表す」


「"We are translating." ……あたしたち、翻訳してるね」


「ああ」


「"We are translating all night."」


「完璧だ」


 深夜3時を過ぎた頃。

 クミのペンを持つ手が止まった。


「タカシ……」


「ん?」


「ちょっとだけ……」


 ことり、と。

 クミの頭が、俺の肩に乗った。


 金髪のツインテールが、俺の首元に触れている。細い髪。軽い。こいつ、こんなに軽かったのか。

 寝息が聞こえる。小さくて、規則的で。


 動けない。

 動いたら起こしてしまう。


 俺は左手だけでペンを持ち替えて、翻訳を続けた。右肩にクミ。正面のテーブルにエミリー。二人とも寝ている。ログハウスの中に、ペンが紙を走る音だけが響いている。


 窓の外が、少しずつ白み始めた。


 朝日が射し込んできた時、翻訳の最後の一文を書き終えた。

 エレノアの言葉。ドワーフの記録。三人目の警告。全て、日本語になった。


 右肩にはまだクミがいる。テーブルにはエミリー。二人の寝顔に、朝の光が当たっている。


 ……まいったなあ。


 このまま、もう少しだけ。


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