Hi! Jack and Betty.
Lesson22「永遠のジャック&ベティ」
返却期限まで三日。
俺は一人でヤクシの街に出た。クミとエミリーには「ちょっと考えをまとめたい」とだけ伝えた。
まずジャックの工房に向かった。
トンカン、トンカン。変わらない金属の音。煤だらけの顔で、ジャックは俺を見た。
「また来たか」
「ジャック、ひとつ聞きたい」
「なんだ」
「あの石板の意味——知りたいか?」
ジャックの手が止まった。ハンマーを下ろして、俺をじっと見る。
「……知りたくねえわけがあるか」
「ブラウネル長老に、元の資料を返せと言われてる。返したら、もう読めなくなるかもしれない」
「返すのか?」
「返す。でも——中身を翻訳して、日本語で書き写してから返すことはできる」
ジャックは腕を組んだ。鍛冶師の太い腕が、炉の光に照らされている。
「……俺のじいさんも、そのまたじいさんも、あの石の意味を知りたがってた。読めねえまま、ただ守り続けた」
「ああ」
「知る権利はある。——俺たちには、自分たちの言葉を知る権利がある」
短く、はっきりした言葉だった。ドワーフらしい。石に刻むような言い方。
「ありがとう、ジャック」
「礼はいい。茶を飲んでけ」
「今日は急ぐんだ。また来る」
工房を出て、次はベティの家に向かった。
街の西側。酒瓶が転がっている庭。ベティは縁側で昼から飲んでいた。平常運転だ。
「あら、タカシ。一人? 珍しいじゃない」
「ちょっと相談がある」
「相談? あたしに?」
ベティが酒瓶を置いた。
俺はかいつまんで話した。ブラウネルの通達。三日の猶予。翻訳して返す計画。
ベティはしばらく黙って聞いていた。いつものからかうような笑顔が消えている。
「……あんたさ」
「ん?」
「部外者でしょ」
ベティの目が、真剣だった。
いつもの酔っぱらいの目じゃない。冷たいわけでもない。ただ——まっすぐだった。
「この国の歴史。語り部の仕事。エルフの歌。ドワーフの石文字。全部、あんたには関係ない話よ。首突っ込みすぎると——帰れなくなるわよ」
「……もともと帰る方法がないんだ」
「知ってるわ。でもね、方法がないのと、帰る場所がなくなるのは違う」
重い言葉だった。
ベティは酒飲みで、おちゃらけていて、距離感がバグっている。でもこういう時に、核心を突いてくる。
「ブラウネル長老を敵に回すってことよ。この街で暮らしにくくなるかもしれない。あの二人も、語り部の立場を失うかもしれない。——それでもやるの?」
「……やらなきゃいけないと思ってる」
「"思ってる"じゃなくて、"やる"って言いなさいよ」
ベティが立ち上がった。俺の目の前に来て、顔を覗き込む。近い。酒の匂い。でも目は澄んでいる。
「あんたが中途半端な覚悟であの二人を巻き込んだら、あたしが許さないからね」
「……ベティ、お前、真面目な顔するとめちゃくちゃ美人だな」
「あら。口説いてるの?」
「感想を述べただけだ」
「……ふうん」
ベティが少しだけ笑った。さっきまでの鋭さが消えて、いつもの余裕が戻ってくる。
「まあ、あんたがやるって言うなら止めないわ。じいちゃんの歌の意味が分かるかもしれないしね」
「ありがとう」
「お礼は今度こそ一杯ね。約束よ」
ベティの家を出て、帰り道を歩く。
夕暮れ。一人で考える時間が必要だった。
エレノアの最後の一文が、頭の中で繰り返される。
"If someone reads this one day, please — let the songs be heard again."
エレノアは数百年前にこれを書いた。ドワーフが引き継いだ。三人目の書き手が花の秘密を記した。代々のドワーフが木箱を守った。クミとエミリーの祖母が遺言を残した。クミとエミリーが俺を召喚した。
全部、リレーだ。
バトンが今、俺の手にある。
家に着くと、クミとエミリーがテーブルで待っていた。紅茶はハーブ抜き。三人分。
「おかえり。……考え、まとまった?」
「ああ」
俺は座った。二人の顔を見た。
「箱は返す。期限通りに。原本も全部」
クミの顔が曇った。
「でも——中身は翻訳して、日本語で書き写す。原本を返しても、真実は消えない」
「……!」
「ブラウネルが求めてるのは箱の返却だ。"翻訳するな"とは言われてない。返すまでの三日間で、残りを全部翻訳して書き写す」
「三日で……できるの?」
「やるしかない。ほとんどは訳し終わってる。残ってるのは細部の確認と、清書だ」
クミが俺を見た。それからエミリーを見た。二人で頷いた。
「……それを、語り部として語り継ぐんだね」
「お前らの仕事だろ」
クミが、ふっと笑った。覚悟の決まった顔だ。
「うん。あたしたちの仕事だ」
「わたくしたちの、お仕事ですわ」
エミリーが言った。Ep5でベティが口にした「お仕事」。あの時は謎めいた言葉だった。今は、覚悟の言葉だ。
俺は黒板にチョークで書いた。
have to 〜 = 〜しなければならない
don't have to 〜 = 〜しなくてもいい
「箱を返すのは"have to"だ。約束したからな」
その下に、もう一行。
「でも——真実を忘れるのは"don't have to"。しなくていい。する必要がない」
"We have to return the box."
"We don't have to forget the truth."
「クミ。エミリー。覚えとけ。"don't have to"は"してはいけない"じゃない。"しなくていい"だ。忘れることを禁止されてるんじゃなくて——忘れる必要がない、ってことだ」
「……いい英語の授業ですわね」
「だろ? 俺、バイトだけど、授業の質には自信あるんだ」
「帰り道にクミがすっごい不機嫌だったんですけど、何かありましたの〜?」
「……別に。ベティの家に行ったって聞いただけ」
「聞いただけで不機嫌になるの?」
「なってない!」
ツインテールが微振動している。なってるな。
「ベティに何言ってたの。すっごい笑ってたって、帰り道すれ違った人が言ってた」
「……エルフの情報網怖いな」
「で、何言ったの」
「感想を述べただけだよ」
「どんな感想」
「美人だなって」
クミのツインテールが、ぶわっと膨らんだ。
「……ふーん」
「いや待て、文脈があるんだって——」
「ふーーーん」
エミリーがにこにこしながら紅茶を啜っている。助けてくれ。
明日から、三日間の翻訳作戦が始まる。
こりゃー骨が折れそうだ。




