Promised Yakushi Spa.
Lesson21「お約束のヤクシ」
ブラウネルが去った翌朝。三日の猶予。重い空気がログハウスに漂っていた。
朝食のリンゴを齧りながら、三人とも黙っている。クミのツインテールが力なく垂れている。エミリーの紅茶を注ぐ手も、いつもより遅い。
「……気分転換に、温泉に行きませんこと?」
エミリーが唐突に言った。
「温泉?」
「ヤクシは温泉の街ですわよね。看板にもそう書いてありますのに、一度も入ってませんわ」
言われてみればその通りだ。「ようこそ温泉の街ヤクシへ」の看板は何度も見た。買い物にも図書館にも行った。なのに温泉だけスルーしてきた。
「でもエミリー、三日しかないのに……」
「だからこそですわ。頭が固まったまま考えても、良い案は出ませんもの!」
エミリーがにっこり笑った。こういう時のエミリーは強い。
「……あたしも賛成」
クミが顔を上げた。
「ブラウネルのことばっかり考えてたら頭おかしくなる」
「よし、行くか」
というわけで、温泉である。
ヤクシの温泉街は、街の北側にあった。湯気がもくもく立ち上る建物がいくつか並んでいて、硫黄っぽい匂いが漂っている。地球の温泉街と大差ない光景だ。
看板にもでかでかと「ゆ♨」みたいなことが日本語で書いてある。ファンタジーフォントだが。
「えーと、受付はどこだ?」
入り口の案内板を見ると——「エルフの湯」「ドワーフの湯」「ホビットの湯」と書いてある。
「種族ごとに分かれてるのか」
「体格が違いますからね。ドワーフの湯は浅いですし、ホビットの湯はもっと浅いですわ」
「人間の湯は?」
「ありませんわね〜」
ないのか。
「この世界に人間はいないから仕方ないですわ!エルフの湯にどうぞ。体格的には一番近いですし」
受付のエルフに事情を説明すると、「まあ珍しい、人間!」と騒がれた上で、エルフの湯の利用を許可された。
脱衣所に入る。
男女で分かれている。この世界にもその概念はあるらしい。安心した。
ローブを脱ぎ、下着を脱ぎ——あ、タオルはあるのか。木綿の大きな布が置いてあった。タオルというより風呂敷に近いが、まあ巻けばいい。
そこへ。
「あら、タカシじゃない」
脱衣所の入り口から、聞き覚えのありすぎる声が響いた。
振り向くと、ベティが酒瓶片手に立っている。すでに布一枚という状態で。
「ベッ……!なんでいるんだ!」
「あたしだって温泉くらい来るわよ〜。ねえ、一緒に入りましょ?」
「いや、ここ男湯——」
「この温泉、エルフの湯は男女で分かれてるけど、脱衣所は共用なのよ〜」
なんだその設計は。エルフの文化どうなってんだ。
「ちょっとベティ、距離近い——」
「いい体してるじゃない、タカシ。鍛えてるの?」
ベティが酒瓶で俺の肩をぽんぽんと叩いた。酒瓶が冷たい。
その瞬間——
バァン!!
脱衣所の扉が蹴り破られた。比喩ではなく物理的に。蝶番がギシギシ言っている。
「入るわけないでしょーーーーがッ!!!」
クミだ。ツインテール大爆発。猫の威嚇を超えて、もはやライオンのたてがみくらい膨らんでいる。
「クミ、ここ脱衣所……」
「知ってる!!」
「お前も布一枚なんだが」
「それは今関係ない!!」
「この温泉、混浴ではありませんのよ〜?」
エミリーがのんびりした声で後ろから現れた。こちらも布一枚。布に包まれてもわかる巨乳。やめろ、見るな、俺。
「冗談よ冗談〜。あたしはこれから女湯に行くわ」
ベティはけろっと笑って、女湯の方に消えていった。嵐のような人だ。
「……タカシ。顔赤いけど」
「赤くない」
「赤いし。ベティのどこ見てたの」
「どこも見てない」
「嘘。目が泳いでるし」
「湯気のせいだ」
「まだお湯入ってないでしょ!!」
追い出されるように男湯に入った。
一人きりの湯船は広かった。エルフサイズだから、人間の俺にもちょうどいい。
湯気の向こうに、竹の壁がある。壁越しに、女湯の声が聞こえてくる。
「ベティ、あんたまた酒持ち込んでるでしょ!温泉に酒はダメだって!」
「いいじゃない〜。温泉と酒は最高の組み合わせよ〜」
「エミリー、あんたも止めてよ!」
「わたくしは今、ゆで卵みたいにとろけておりますので……」
「役に立たない!」
壁一枚隔てて、賑やかなやり取りが続いている。
俺は湯船に肩まで浸かって、天井を見上げた。
……なんだろう、この幸福感は。
三日の猶予。ブラウネルの威圧。木箱の返却。これからどうするかの決断。
問題は山積みだ。でも今この瞬間、湯に浸かりながら、壁の向こうのあいつらの声を聞いていると——不思議と、大丈夫な気がした。
湯上がり。
ヤギ乳が瓶で売っていた。この世界の牛乳的ポジションらしい。四人で縁側に並んで座り、瓶を開ける。ベティが当然のように合流していた。
三人とも浴衣っぽいゆったりした服を着ていて、目のやり場に困る。
「ぷはーっ。やっぱ風呂上がりはヤギ乳よね」
「ベティ、あんたさっきまで酒飲んでたでしょ」
「酒は酒、乳は乳。別腹よ」
四人、並んで座る。
左からクミ、俺、エミリー、ベティ。夕暮れの光が温泉街を染めている。
「ねえ、タカシ」
ベティが瓶を揺らしながら言った。
「あんたさ、この国に残んないの?」
唐突な問いかけだった。
クミとエミリーが、同時にちらっと俺を見た。
「……どうだろうな」
「帰る方法、あるんでしょ?」
「ない。召喚は片道切符だった。帰す術はあいつらも知らない」
「ふうん」
ベティがヤギ乳を一口飲んだ。
「帰れるとしたら、帰る?」
「……今は答えられない。他に考えなきゃいけないことがある」
「木箱のこと?」
俺とクミが同時にベティを見た。
「あたしの耳は長いのよ〜。色々聞こえちゃうの」
どこまで知ってるんだ、この人。
「まあ、深くは聞かないわ。ただね——」
ベティが夕日を見た。酔っぱらいの目じゃない、あの目だ。
「あんたがいなくなったら、あの二人は泣くわよ」
隣で、クミのヤギ乳を持つ手がぴくりと動いた。エミリーは黙って瓶を見つめていた。
「……"Don't go."」
俺は呟いた。
「ん?」
「今日の英語。命令文。"Don't"をつけると禁止になる。"Don't go."——行くな」
「あたしに教えてるの?」
「独り言だ」
ベティがにやりと笑った。
「じゃあ覚えとくわ。"Don't go." ——あたしからも言っとくわね」
クミが瓶を両手で握りしめたまま、何も言わなかった。
ツインテールだけが、小さく揺れていた。
「"Don't look." これだけは完璧に覚えろ。温泉で命に関わる」
「……誰に言ってんの」
「主に自分に」
クミがぷっと吹き出した。今日初めて、ちゃんと笑った。
束の間の休息は終わった。
明日から、三日間のカウントダウンが始まる。
いや〜恐ろしいなあ。




