Mysterious Herb.
Lesson19「不思議な草」
三つ目の筆跡。
昨日の続きを読むために、朝から日記を開いた。
エレノアの茶色いインク。ドワーフの青黒いインク。そしてこの三つ目——薄い灰色の、細くて小さな文字。ペンの持ち方が違う。紙の上を撫でるような、軽い筆圧だ。
"They found the flowers."
たった一行。俺は声に出して読んだ。
「"彼らは花を見つけた"」
「花?」
クミが首を傾げた。
"The flowers that grow by the river. The ones with the sweet smell. Eleanor called them 'ylang-ylang.' She said it was a flower from her world too."
「川のそばに咲く花。甘い香りのする花。エレノアはそれを"イランイラン"と呼んだ。自分の世界にもある花だと言っていた」
イランイラン。
この国の名前だ。
「……え、ちょっと待って」
クミの目が大きくなった。
「イランイランって、あの花の名前だったの?」
「どの花だ?」
「紅茶に入れてるやつ! 黄色くて、甘い匂いのする——あの花!」
俺は紅茶のカップを見下ろした。ハーブ抜き。エミリーが俺専用に淹れてくれている、ハーブ抜きの紅茶。
読み進めた。
"They found that the flowers could make you forget. Not everything. Just the edges. The old words. The old songs. The memories that were no longer needed."
「花には忘れさせる力があることがわかった。すべてではない。輪郭だけ。古い言葉。古い歌。もう"不要"とされた記憶を」
テーブルの上に、沈黙が落ちた。
"Senchi ordered the flowers to be dried and mixed into tea. Everyone drank it. Every day."
「センチは花を乾燥させ、茶に混ぜるよう命じた。全員がそれを飲んだ。毎日」
俺の頭の中で、いくつものピースが一気に噛み合った。
初日。この家に来た時。エミリーが紅茶を淹れてくれた。飲んだら妙にぼんやりした。疑問を感じていたのに、深く考えられなくなった。あの甘い香り——
「……まさか」
「タカシさん」
エミリーの声が震えていた。顔が真っ白だ。
「わたくしたち……ずっとあの紅茶を飲んでいましたわ。毎日」
「知ってたのか?」
「知りませんでした! おばあちゃんの代からずっと、あの花を紅茶に入れるのが当たり前で——」
「ごめん!」
クミが突然叫んだ。テーブルに手をついて身を乗り出している。
「ごめんタカシ!ほんとに知らなかったんだよ!あたしたちもずっと飲んでたし、まさか忘れさせるためのものだったなんて——」
「落ち着け、クミ。お前のせいじゃない」
「でもあたしがお茶出したんだよ!初日にタカシに!」
「知らなかったんだろ。それはお前の責任じゃない。数百年前の仕組みだ」
クミの目が潤んでいる。珍しくしょんぼりしていて、ツインテールもしなっと垂れている。
俺は続きを読んだ。
"The tea worked slowly. People did not notice. They simply… stopped remembering. The old words felt strange. The old songs sounded wrong. And one day, they were gone."
「茶はゆっくり効いた。人々は気づかなかった。ただ……覚えていられなくなった。古い言葉が奇妙に感じられるようになった。古い歌が間違って聞こえるようになった。そしてある日、それらは消えた」
一世代でエルフの歌が消えた理由。これだ。自然に消えたんじゃない。毎日の紅茶で、少しずつ記憶の輪郭を溶かされていた。
「……ひどい」
クミの声は小さかった。怒りよりも、悲しみが勝っている。
「あたしたち、毎日飲んでた。おばあちゃんも。ずっとずっと、知らないまま」
"But there was one thing the flowers could not erase."
「だが、花にも消せないものが一つあった」
三人の視線が日記に集中した。
"Melodies. The flowers could take the words, but not the music. The elves hummed without knowing why. The tune stayed, even when the meaning was lost."
「旋律だ。花は言葉を奪えたが、音楽は奪えなかった。エルフたちは理由もわからず口ずさんだ。意味が失われても、曲だけが残った」
「……おばあちゃんの子守歌」
クミが呟いた。
「意味がわからない歌。でもメロディだけ覚えてた。——そういうことだったんだ」
「ああ。ハーブは記憶に効くけど、メロディは記憶より深い場所にあるんだろう。体が覚えてるというか……歌は言葉じゃなくて、音楽だから」
三つ目の筆者の記述は、あとわずかだった。
"I write this so someone will know. The flowers are not just flowers. The tea is not just tea. Do not forget that you were made to forget."
「誰かに知ってほしくてこれを書く。花はただの花ではない。茶はただの茶ではない。忘れさせられたということを、忘れないでほしい」
これが三つ目の筆跡の最後だった。
エレノアでもなく、ドワーフでもない。この書き手が誰なのかはわからない。だが、花の効能を知り、それでも記録を残した誰かだ。
日記の全ての記述を読み終えた。
「……"I don't want to forget."」
「"I don't want to forget."——忘れたくない。エレノアも、ドワーフも、三人目の書き手も、お前らのばあちゃんも。全員、同じ気持ちだったんだ」
「"I don't want to forget the songs."」
クミが言った。
「"I don't want to forget the words."」
エミリーが続けた。
「……合ってる。二人とも」
クミが急に立ち上がった。
「タカシ」
「ん?」
「今日から——あたしが淹れるお茶にも、あの花入れない。タカシだけじゃなくて、あたしたちの分も」
「……いいのか?」
「"I don't want to forget."——あたしたちも、だよ」
エミリーが静かに頷いた。
「今さら忘れるものなんてありませんけれど。念のため、ですわ」
「よし」
俺はチョークを置いた。
「ところでさ、クミ」
「なに」
「お前のせいじゃないってのは本当だからな。それに——ぼんやりしてなかったら、お前のツンデレに正面から耐えなきゃいけなかっただろうし」
「なっ……!!」
クミのツインテールが跳ね上がった。しょんぼりモード、終了。
「ツンデレじゃないし! あたしは最初からこうだし!」
「それをツンデレって言うんだよ」
「うるさいっ!」
エミリーがくすくす笑った。
窓の外を見ると、庭にあの黄色い花が咲いているのが見えた。
甘い香りの、綺麗な花。
国の名前にもなった花。
イランイラン。
忘れさせるための花。
でも、もう忘れない。
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※本作はフィクションです。イランイラン(Cananga odorata)は実在する植物で、アロマテラピー等に広く用いられています。一部にリラックス効果による集中力・記憶力への影響を示唆する研究報告もありますが、本作で描かれるような「記憶を消す」効果は創作上の設定であり、実際のイランイランにそのような作用はありません。




