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What does she say?

Lesson18「彼女は何を伝えたいのか」


 クミの風邪は一晩で治った。

 エルフの回復力、おそるべし。昨日あんなにぐったりしていたのに、朝起きたらもうツインテールが元気にぴょこぴょこしている。


「昨日はあたしがいない間に翻訳進めたんでしょ。どこまでやったの」


「途中までだ。核心部分はまだ残してある」


「えっ、なんで残したの」


「三人で読みたかったからだよ」


 クミが一瞬きょとんとして、それから小さく「……ふん」と横を向いた。耳が少し赤い。


「べ、別に嬉しくなんかないし」


「はいはい」


 エミリーがくすくす笑いながら紅茶を運んできた。俺の分はハーブ抜き。もうそれが当たり前になった。


「では、始めましょうか。エレノアさんの日記の後半……いよいよ核心部分ですわね」


 テーブルの上に、エレノアの日記。インク壺。翻訳用の白紙。

 三人の視線が、古い革表紙のノートに集まった。


 ページをめくる。エレノアの筆記体は後半に入ると、少しずつ乱れてくる。前半の端正で学術的な筆致と比べて、文字が大きくなり、インクの滲みが増えている。書いている時の感情が、文字に滲んでいる。


「ここからだ」


 俺は一文ずつ、声に出して読み始めた。


"The people who call themselves the Great Japanese held a meeting. I was not invited. But I heard them through the walls."


「大日本人と名乗る人々が会議を開いた。私は招かれなかった。しかし壁越しに聞こえた」


 クミが息を呑んだ。エミリーが紙にペンを走らせ、俺の翻訳を書き取っていく。


"They said the three languages were 'inefficient.' Three languages for one small country — it would cause confusion, division, conflict."


「三つの言語は"非効率"だと彼らは言った。小さな国に三つの言語——混乱と分断と対立を生むだろう、と」


「……非効率」


 クミが低い声で繰り返した。


「エルフの歌が。ドワーフの石文字が。ホビットの物語が。"非効率"って」


「クミ、落ち着け。感情は後でいい。今は全部読む」


「……わかった」


 クミはぎゅっと拳を握った。俺は次の文に目を落とした。


"Their leader — the one they call Senchi — stood up and said:"


「彼らのリーダー——センチと呼ばれる人物が立ち上がって言った」


 Senchi……大日本人のことかな。


"'One country, one language. That's how you build a nation.'"


 俺はこの一文を、あえてゆっくり読んだ。


「"一つの国に、一つの言語。それが国家の作り方だ"」


 沈黙が落ちた。

 ログハウスの中で、ペンがインクに浸る音だけが聞こえた。エミリーの手が、紙の上で止まっている。


「……続けて、タカシさん」


 エミリーの声は静かだった。だがペンを握る手に、力がこもっていた。


"I tried to argue. I said there must be another way. Three languages can exist together. The world I came from has hundreds of languages — it is messy, yes, but it is alive."


「私は反論を試みた。別の方法があるはずだと。三つの言語は共存できると。私の出身世界には何百もの言語がある——混沌としている、確かに。だが、生きている」


「何百もの言語……」


 エミリーが呟いた。


「地球にはそんなに言語がありますの?」


「もっとある。たしか、七千以上とかかな。……まあ、消えかけてるものも含めてだけど」


「七千……」


 クミが目を丸くした。


「そんなにあって、やっていけるの?」


「やっていけてる。完璧じゃないけどな。翻訳者がいて、通訳がいて、辞書があって。面倒だけど、そうやって回してる」


 エレノアもそう思ったんだろう。自分の世界で何百もの言語が共存しているのを知っていたから、三つくらい残せるはずだと。


 次の一文。


"Senchi listened to me. He always listened. That was the cruelest part — he understood, and still chose to erase them."


「センチは私の話を聞いた。彼はいつも聞いてくれた。それが最も残酷な部分だった——彼は理解した上で、それでも消すことを選んだ」


 この文が、一番きつかった。

 センチは暴君じゃない。理解する力があった。それでもなお、自分の判断を優先した。

 悪意ではなく、信念で。


「タカシ……大日本人は、悪い人だったの?」


 クミが聞いた。単純な質問だが、答えるのは単純じゃない。


「……わからない。たぶん、本人は正しいと思ってた。少なくとも最初は」


「正しいと思って、言葉を消したの?」


「国を作るためにな。三種族をまとめて、平和な国にするために。言語がバラバラだと統治が難しい。……地球でも同じことをやった国は、いくつもある」


 クミは何か言いたそうにしていたが、言葉が見つからないようだった。


 読み進める。


"The process has begun. They are teaching Japanese to the village leaders first. Schools will be built. The old languages will not be forbidden — they will simply become… unnecessary."


「プロセスが始まった。まず村の指導者たちに日本語を教えている。学校が建てられるだろう。古い言語は禁止されるのではない——ただ……"不要"になるのだ」


「禁止じゃなくて、不要に……」


 エミリーの声が震えた。


「それが……一番ひどいですわ。禁止されたなら抵抗できます。でも"もう要らない"と思わされたら……自分から手放してしまいますわ」


 エミリーの洞察は鋭い。昨日、二人きりの時にも感じたが、この子は物事の本質を掴む力がある。


"I asked Senchi one more time. 'Must you take their words from them?'"


「私はセンチにもう一度尋ねた。"彼らから言葉を奪わなければなりませんか?"」


"He said: 'I am not taking their words. I am giving them better ones.'"


「彼は言った。"奪っているのではない。より良い言葉を与えているのだ"」


 俺は読んでいて、背筋が冷たくなった。

 この台詞が一番怖い。本気でそう信じている人間の言葉だ。


"I could not answer him. Because part of me wondered if he was right."


「私は答えられなかった。なぜなら、彼が正しいかもしれないと、心のどこかで思ってしまったから」


「エレノアも……」


「ああ。エレノアですら、完全には否定できなかった。言語の統一がもたらす利便性を、言語学者であるエレノアが一番よく知っていたからだ」


 俺だって——正直に言えば、理屈はわかる。一つの国に一つの言語。効率的だ。統治しやすい。教育が行き届く。地球でも、そうやって方言や少数言語が消えていった例は山ほどある。


 だが——


「タカシ」


「ん?」


「ばあちゃんの子守歌は"効率"じゃないよ」


 クミが言った。怒っているわけじゃなかった。ただ、はっきりと。


「歌は、効率で測るもんじゃない」


「……ああ、そうだな」


 それが答えだ。理屈じゃない。歌は効率じゃ測れない。石に刻んだ約束は効率じゃ測れない。焚き火のそばの物語は効率じゃ測れない。


 エレノアも、たぶんそう思ったんだろう。だから次にこう書いた。


"But I knew one thing. Words are not just tools. They are memories. They are songs. They are promises carved in stone. They are stories told by a fire."


「しかし一つだけわかっていることがあった。言葉はただの道具ではない。言葉は記憶だ。歌だ。石に刻まれた約束だ。焚き火のそばで語られた物語だ」


 エミリーのペンが、翻訳を書き写す手が、震えていた。


"And so I decided. I could not stop them. But I could write it down."


「だから私は決めた。彼らを止めることはできなかった。だが、書き残すことはできた」


 次のページ。エレノアの文字は、ここにきて不思議と落ち着いている。乱れていた筆跡が、最初の端正さを取り戻している。覚悟を決めた人間の字だ。


"If someone reads this one day, please — let the songs be heard again."


「"もしいつか誰かがこれを読んだなら、どうか——歌をもう一度、聞こえるようにしてほしい"」


 俺は声を出して読み終えた。

 ここでエレノアの日記は終わっている。ページの下半分は空白だ。


 ——だが。


「……ん?」


 次のページをめくった瞬間、俺は手を止めた。


「どうしたの、タカシ」


「……筆跡が変わった」


「え?」


 クミとエミリーがのぞき込んでくる。

 確かに——エレノアの端正な筆記体ではない。もっと不揃いで、角ばった文字。インクの色も違う。エレノアが使っていた茶色がかったインクではなく、やや青みのある黒。


 別の誰かが、エレノアの日記の続きを書いている。


「エレノアじゃない……?」


「ああ、明らかに別の人間——いや、人間じゃないかもしれない。筆跡が角ばってる」


 まるで石に文字を刻んでいた人たちみたいな……。


「……ドワーフ?」


 クミの声が上ずった。俺もそう思った。ジャックの先祖が石文字を受け継いでいたことを思い出す。エレノアの日記に記述があった——"The dwarves carved words into stone." ドワーフは文字を石に刻む種族だった。その手で、紙にペンを走らせたら——こういう、角ばった字になるんじゃないか。


 最初の一文を読んだ。


"Eleanor is gone. She asked me to continue."


「エレノアがいなくなった。彼女は私に続きを書くよう頼んだ」


 三人の間に、静かな衝撃が走った。


"I cannot write as well as she did. I am a dwarf. My hands are made for stone, not paper. But I will try."


「彼女ほどうまくは書けない。私はドワーフだ。この手は石のためにある、紙のためではない。だが、やってみる」


「……ドワーフが、エレノアの記録を引き継いだんだ」


 クミが呟いた。俺は頷いて、読み続けた。


"It has been many years since Eleanor wrote her last words. I have watched what she feared come true."


「エレノアが最後の言葉を書いてから、何年も経った。私は、彼女が恐れていたことが現実になるのを見てきた」


"The elves' songs lasted only one generation. The young ones laugh when the old ones hum. 'What is that strange noise?' they say."


「エルフの歌は一世代しか残らなかった。年寄りが口ずさむと、若い者が笑う。"なんだ、その変な音は?"と言って」


 クミが目をつぶった。


"The dwarves' carvings lasted two generations. We carved in secret, in the backs of our workshops, where no one looked. But my grandchildren do not carve. They say there is no need."


「ドワーフの石文字は二世代残った。工房の奥で、誰の目にも触れない場所で、密かに彫り続けた。だが孫の世代はもう彫らない。"必要がない"と言う」


「……工房の奥で」


 ジャックの工房。壁の奥に嵌め込まれた石板。あれは隠すように残されたものだったのかもしれない。


"The hobbits' stories lasted three generations. They kept telling them by the fire. But by the fourth generation, even their stories were told in Japanese. The fire still burns. The stories have changed."


「ホビットの物語は三世代残った。焚き火のそばで語り続けた。だが四世代目には、その物語も日本語で語られるようになった。火はまだ燃えている。物語が変わったのだ」


 エミリーのペンが止まった。


「一世代、二世代、三世代……」


 クミの声が掠れていた。


「歌が一番先に消えて、石文字が次で、物語が最後……。あたしたちのおばあちゃんの、おばあちゃんの、そのまたおばあちゃんが……歌うのをやめた世代なんだ」


「……そうかもしれない」


「でも子守歌は残ったんでしょ。おばあちゃんは歌ってたんでしょ」


「ああ。全員がやめたわけじゃなかったんだろう。この記述は"世代"単位の話だ。個人の中には——こっそり歌い続けた人がいたはずだ。お前らのばあちゃんみたいに」


 クミが頷いた。強く、何度も。


 ドワーフの筆跡による記述は、あと数行で終わっていた。


"Eleanor told me: 'Someone will come. Someone who can read my words.' I did not believe her. But I promised to keep this book safe."


「エレノアは私に言った。"いつか誰かが来る。私の言葉を読める誰かが。"私は信じなかった。だがこの本を守ると約束した」


"I am old now. I will give this book to my son, and tell him to give it to his son. We dwarves are good at keeping things in stone. We can keep things in paper too."


「私はもう年だ。この本を息子に渡し、息子にはそのまた息子に渡すよう伝える。我々ドワーフは石のものを守るのが得意だ。紙のものだって守れる」


 それが、このドワーフの最後の記述だった。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 ログハウスの中に、午後の光が差し込んでいる。テーブルの上の日記。インク壺。書き写された翻訳。

 エレノアが数百年前に書き始め、名もなきドワーフが引き継いだ言葉が、今、日本語になって目の前にある。


「……エレノアは、一人じゃなかったんだ」


 エミリーが呟いた。目が赤い。


「日記を読んでいて、ずっと思っていたんです。エレノアさんは一人で、誰にも理解されずに書いていたんだって。……でも、違った。ドワーフが一人、隣にいた」


「ああ。少なくとも一人は、エレノアの言葉を受け取った人がいた」


「しかもさ」


 クミが鼻をすすりながら言った。


「このドワーフ、息子に渡して、その息子にも渡して……ずっとリレーして……」


「……ジャックの家まで、届いたんだろうな」


 ジャックの工房の壁に嵌め込まれた石板。"先祖が大事にしてたから大事にしろ"。石文字の意味はわからない。だが壊すなと言われた。

 文字の意味は失われても、"大事なものだ"という記憶だけが、世代を超えて受け継がれてきた。


 エミリーがペンを置いた。翻訳を書き取った紙の上に、インクの滴が一つ落ちた。涙だった。


「エレノアさんは"いつか誰かが来る"と信じて書いたんですのね。ドワーフはそれを信じなかったけど、守り続けた。……そしてわたくしたちが来た」


 エミリーの声が詰まった。


「"読んでますよ"って伝えたいんですの。エレノアさんにも、このドワーフさんにも。あなたたちの言葉は届きましたよ、って」


 クミが黙ってエミリーの肩に手を置いた。

 エミリーがクミの手の上に、自分の手を重ねた。


 二人とも泣いていた。

 クミは声を出さずに、目だけが濡れていた。エミリーは静かに、でも確実に、涙を流していた。


 俺は——何もしなかった。

 何もしないことが、この瞬間の正解だと思った。

 こいつらの涙は、こいつらのものだ。先祖の歌を、文字を、物語を奪われた子孫の涙だ。

 俺みたいなバイトの英語講師が拭いていいものじゃない。


 だからただ、黙って待った。


 やがてクミが鼻をすすった。


「……あたしさ」


「ん」


「"I could not sing the songs."ってずっと思ってたんだ。あの子守歌、意味もわからないし、ちゃんと歌えてるかもわかんないし」


「ああ」


「でも今は思う。"But I could remember."——覚えてることは、できた」


 くそ。

 こいつら、どんどん英語で文を作れるようになってきやがる。


「……エレノアと同じだな、お前」


「え?」


「できなかったこともある。でもできたこともある。エレノアは書き残した。ドワーフは守り続けた。お前は覚えていた。全部、"could"だ」


 クミが少しだけ笑った。泣いた後の、ぐしゃっとした笑い方だった。


「……"She couldn't stop them."でもさ、タカシ」


「ん?」


「"She could save the words."——彼女は言葉を救うことができた。……合ってる?」


「……合ってるよ。文法も、意味も」


 クミが作った文だ。誰にも教わっていない。自分で、英語の文を作った。


 俺は黒板にチョークで書いた。


「"could"は"can"の過去形だ。"〜できた"。否定形の"could not"は"〜できなかった"」


 I could not stop them. = 彼らを止めることができなかった。

 But I could write it down. = しかし書き残すことはできた。


「"couldn't"と"could"。できなかったこと、と、できたこと。エレノアの人生は、この二つの間にある」


「エレノアはcouldn'tとcouldの間を生きた。お前らもそうだ。できなかったことを悔やむより、できたことを積み上げろ」


「……まるで先生みたいなこと言うじゃん」


「先生だからな」


「ふんっ」


 クミがぷいっと横を向いた。でもツインテールは、今日一番穏やかに揺れていた。


 エミリーが目元を拭いて、翻訳用紙を丁寧に重ねた。


「……タカシさん。日記の最後のページの余白に、まだ何か書いてありますわ。ドワーフさんの字とも違う……もっと細い字で」


 俺は日記の末尾をもう一度確認した。確かに、余白の隅に、三つ目の筆跡——エレノアでもドワーフでもない、細く小さな文字が見える。


 だがそれは、今日は読まないでおこう。

 今日はもう十分だ。


「明日にしよう。今日はこれで終わりだ」


「……はいですわ」


「……うん」


 夕暮れのログハウスに、三人分の紅茶の湯気が立ち上った。

 エレノアの日記は、テーブルの真ん中に置かれたままだった。


 一人の女性が書き始め、一人のドワーフが引き継ぎ、そしてまだ読んでいない誰かの言葉が残っている。


 この日記は、一冊のリレーだったのだ。


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