Let's have a teabreak with Emilly.
Lesson17「エメラルド色のティータイム」
朝起きたら、クミが死んでいた。
——というのは冗談で、正確にはベッドから出られなくなっていた。
「……うー」
ログハウスの二階から聞こえてくる、情けない声。
俺が部屋を出ると、エミリーが階段の前でおろおろしていた。
「タカシさん、大変ですの。クミが……」
「聞こえてる。風邪か?」
「昨日、ジャックさんの工房から帰る途中で雨に降られたでしょう? あの時、濡れた服のまま走ってたから……」
そういえば、帰り道の後半で小雨が降ったんだった。俺はローブのフードをかぶったが、クミは「あたしの髪は雨に強い!」とか言って走り回っていた。強くなかったらしい。
二階のクミの部屋を覗くと、毛布の山が微動していた。
ツインテールだけが布団から飛び出している。今日のツインテールは力なくしなっている。体調バロメーターとしてあまりにも正確だ。
「……タカシぃ?」
毛布の隙間から、赤い顔が覗いた。鼻声だ。エルフでも風邪をひくのか。
「声出すな。喉に悪い」
「……でも、今日の授業……」
「休みだ。寝てろ」
「え、でも翻訳が……」
「翻訳は俺とエミリーで進めるから安心しろ。"I am sick."って言ってみろ」
「……あい、あむ、しっく」
「よし。それだけ覚えたら今日の授業は終わりだ。寝ろ」
「……うー」
クミは毛布の中に沈んでいった。ツインテールが最後にぴくっと動いて、それきり静かになった。
一階に降りると、エミリーがすでにテーブルの上を整えていた。
いつもは三人分のカップが、今日は二つだけ並んでいる。
蒸気を立てる紅茶のポット。リンゴの薄切りが乗った小皿。それと——紙束とインク壺。翻訳作業の準備も完璧だ。
「エミリー、段取りいいな」
「えへへ。わたくし、こういうの得意ですの」
エミリーがにこにこしながら椅子を引いた。俺に座れと。
「……わたくし、タカシさんと二人きりなのは初めてですわね〜」
言われて気づいた。確かに、今まで常にクミがいた。あいつは存在感がでかいから——主にツインテールの物理的な存在感で——忘れがちだが、二人きりは初めてだ。
「そうだな。エミリーと俺だけって、なかったな」
「いつもクミが元気すぎますから。……今日は静かですわね」
確かに。ログハウスの中が、妙に静かだ。クミがいないと、こんなに穏やかなのか。
窓から差し込む朝の光が、エミリーの金髪ウェーブを柔らかく照らしている。クミのストレートな金髪と違って、エミリーの髪はゆるやかな波を描いている。光を受けて、その一本一本がきらきらと——
……いかん。見すぎた。
「紅茶、どうぞ」
エミリーがカップを差し出した。今日はハーブ抜き。あの伏線が回収されてからは、俺専用のブレンドにしてくれている。
「ありがとう」
カップを受け取ろうとした時、指が触れた。
エミリーの指は細くて、白くて、少し冷たかった。
「あら」
「あ」
二人同時に手を止めた。
カップが宙に浮いている。俺の指とエミリーの指が、カップの取っ手を挟んで重なっている。
「……」
「……」
沈黙が流れた。
時計があれば、秒針の音が聞こえるような沈黙だ。この世界に時計はないが。
「す、すまん。受け取るわ」
「い、いえ。わたくしこそ、お渡しするのがヘタでして」
なんでもないはずのことに、なんで二人してしどろもどろになっているんだ。
紅茶は美味かった。ハーブなしでも、エミリーの淹れる紅茶はいい香りがする。
「さて、やるか」
俺はエレノアの日記を開いた。気持ちを切り替える。翻訳だ。仕事だ。
「エミリー、今日は一緒に読んでみよう。俺が一文ずつ読むから、意味を推測してみてくれ」
「はいですわ。……緊張しますわね、テストみたいで」
「テストじゃないよ。わからなくて当然だ」
日記のページをめくる。昨日の続き。エレノアが三種族の文化を記録した部分だ。
"Where did the elves sing? In the forest, under the moonlight."
「これ、読めるか?」
「えっと……"Where"は聞いたことがありますわ。Whereは……"どこ"?」
「正解。"Where did the elves sing?"——エルフたちはどこで歌ったか」
「"In the forest, under the moonlight."……森の中で、月の光の下で」
「エミリー、お前すごいな」
「え?」
「単語力がかなりついてきてる。"moonlight"なんて教えてないぞ」
「あ、"moon"はお月様ですわよね。"light"は光。だから"moonlight"は……月の光? 合ってます?」
「完璧だ。それが英語の面白いところで、二つの単語をくっつけて新しい意味を作る。"sun"と"light"で"sunlight"は陽光、"star"と"light"で"starlight"は星の光」
「まあ、素敵ですわ。じゃあ"Emilylight"はわたくしの光?」
「……作れなくはないけど、普通は使わないな」
「残念ですわ〜」
エミリーがくすっと笑った。冗談を言うのか、この子は。普段はクミのツッコミ役に回っているから気づきにくいが、エミリーには独特のユーモアがある。
翻訳を進める。エレノアの記述は丁寧で、学術的でありながら、時々人間味のある表現が混じる。
"When I asked the hobbits about their stories, they laughed. 'Why would we write them down?' they said. 'Stories live in the telling.'"
「"Why would we write them down?"——ホビットが言った台詞だ」
「"Why"……なぜ。"write them down"は……書き留める? "なぜ書き留めるのか"……ということは、ホビットは書かなかったんですのね」
「そうだ。ホビットにとって物語は、語ることの中に生きている。書き残すものじゃなかった」
「……語り部、ですわね」
エミリーの声が少し硬くなった。
「語る、ことで、伝える。……わたくしたちのお仕事と、同じですわ」
「ああ。もしかしたら、語り部って仕事のルーツはホビットにあるのかもしれないな」
エミリーが目を丸くした。
「それは……考えたこともなかったですわ」
「エレノアも仮説として書いてる。"Perhaps the tradition of oral storytelling in this country has its roots in hobbit culture."——この国の口伝の伝統は、ホビットの文化に起源があるのかもしれない」
エミリーはしばらく黙って、その一文をじっと見つめていた。
「……おばあちゃんに教えてあげたかったですわ」
「……ああ」
それ以上は言わなかった。言う必要もなかった。
翻訳を続けるうちに、昼を過ぎた。
エミリーが昼食の準備をしに立ち上がる。リンゴを切って、パン的なものを焼いて——この世界のパンは発酵じゃなくて魔法で膨らむので、ものの3分でできる。便利だが、なんか釈然としない。
「タカシさん、お昼にしましょう」
「ああ、ありがとう。……ところでクミの分は?」
「先に持って行きましたわ。リンゴのすりおろしと、お水。あと、おでこに冷却の魔法をかけておきました」
「至れり尽くせりだな」
「妹みたいなものですから」
エミリーが微笑んだ。クミとエミリーは血のつながりはないはずだが、一緒に暮らしてきた時間が長いのだろう。家族のような距離感だ。
昼食を食べながら、英語のレッスンを挟む。
「よし、今日は疑問詞をちゃんとやるか」
黒板にチョークで書く。
What = 何
Where = どこ
When = いつ
Why = なぜ
How = どのように
「"5W1H"って地球では呼ぶ。……あ、"Who"を忘れてた」
「Who?」
「"Who"は"誰"だ。"Who are you?"で"あなたは誰?"」
「"Who are you?"……わたくしに聞きますの?」
「例文だよ」
「I am Emerald York. ……あら、Lesson1に戻りましたわね」
「成長したな。最初はそれすら言えなかったのに」
エミリーが嬉しそうに頷いた。
「じゃあ練習だ。俺が質問するから、英語で答えてみろ。——Where do you live?」
「えっと……I live in……this house?」
「いいぞ。——What do you like?」
「I like……tea. And apples. And……」
エミリーが少し考えた。
「……and studying English.」
「お、優等生の回答だな」
「本当ですのよ? 最近、英語が楽しいんです。新しい単語を覚えるたびに、エレノアさんの言葉が少しずつ見えてくるのが嬉しくて」
素直にそう言えるところが、エミリーの良さだと思う。クミだったら「べ、別に楽しいなんて思ってないし」と言うだろう。
「じゃあ次——Why do you want to read Eleanor's diary?」
「Why……なぜエレノアの日記を読みたいか」
エミリーの表情が変わった。さっきまでの柔らかい笑顔が消えて、真剣な目になった。
「Because……it is our history. わたくしたちの歴史だからですわ」
「……うん」
「でも、本当はもうひとつ理由がありますの」
「もうひとつ?」
「エレノアさんは、一人で書いていたんですわよね。誰にも読まれないかもしれない日記を、それでも書き続けた。……それって、すごく孤独なことだと思いません?」
俺は黙った。
「わたくし、エレノアさんの言葉を読むたびに思いますの。"読んでますよ"って、伝えたいって。……もう届かないのはわかっていますけど」
エミリーの目が、少し潤んでいた。泣いているわけじゃない。ただ、感情が溢れかけている。
「……届いてると思うよ」
「え?」
「エレノアが日記を書いたのは、いつか誰かが読むことを信じてたからだ。"If someone reads this one day"——いつか誰かがこれを読んだら。お前がその"someone"なんだよ、エミリー」
「……」
エミリーが両手でカップを包んだ。白い指が、ほんの少し震えていた。
「……ありがとうございます、タカシさん」
「礼を言われることじゃない」
「いえ。タカシさんがいなかったら、わたくしたちはエレノアさんの言葉を永遠に読めなかった。……タカシさんが来てくれて、本当によかった」
エミリーがまっすぐ俺を見て言った。
おっとりした口調ではあるけれど、一語一語に力がこもっている。この子は、こういう時に嘘をつかない。飾らない。クミのようにツンデレで隠すこともしない。ストレートに、静かに、本心を言う。
それが怖いくらいだ。
「……もうひとつ、質問していいですか」
「テストはまだ続いてるのか?」
「テストではなくて……個人的な質問ですわ」
エミリーがカップをテーブルに置いた。真っすぐな目。
「タカシさんは……帰りたいですの? 元の世界に」
空気が変わった。
窓の外で鳥が鳴いている。風がカーテンを揺らしている。
「……正直、まだわからん」
嘘は言えなかった。帰りたくないと言い切れるほど、俺はまだこの世界に根を下ろしていない。帰りたいと言い切れるほど、この世界が嫌いでもない。
「そうですわよね。突然連れてこられたんですもの。帰りたいと思って当然ですわ」
「いや、帰りたいとも言ってない。……ほんとに、わからないんだ」
「……」
エミリーが俺の目を見た。
それから、小さな声で言った。
「わたくしは……帰ってほしくないですわ」
小声だった。でも、はっきり聞こえた。
エミリーの声は、いつだってふわふわしているのに、この一言だけは、地面に足がついていた。
「……」
何も言えなかった。
この沈黙をどう埋めればいいのか、わからなかった。英語の先生は日本語の語彙が足りない。
エミリーが、ふっと笑った。自分で自分の発言に照れたような、でも後悔はしていないような顔。
「……英語で言いますわね。"I don't want you to go home."」
「……文法、合ってるよ」
「えへへ。テスト合格ですか?」
「……百点だ」
それ以上は言えなかった。
言葉にしてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
エミリーはそれ以上何も言わなかった。代わりに、紅茶をもう一杯淹れてくれた。二杯目は一杯目よりさらに丁寧に、時間をかけて。
夕方近くになって、翻訳のキリがいいところで休憩を入れた。
三杯目の紅茶。エミリーがカップを二つ並べて、ティーポットを傾ける。その手つきを、俺はぼんやりと見ていた。
指が長い。動きが滑らかだ。紅茶を淹れる姿が、ひとつの儀式みたいに見える。
「タカシさん、見すぎですわ」
「あ、いや、手つきが綺麗だなと思って」
「まあ」
エミリーが耳まで赤くなった。エルフの耳は長い分、赤くなると目立つ。
「……お世辞がお上手ですわね」
「お世辞じゃなくて感想だ」
昨日もベティに同じようなことを言った気がする。俺は褒めるとすぐ「感想」と言う癖があるらしい。
そこへ——
どすどすどすどす。
階段を降りてくる足音が聞こえた。
「あ、あたしも……混ぜて……」
毛布を頭からかぶったクミが、ゾンビのような足取りで一階に現れた。鼻は赤い。目はとろんとしている。ツインテールは毛布の隙間からだらんと垂れている。
「クミ!寝てろって言っただろ!」
「……だって、下から楽しそうな声が聞こえるし……」
「翻訳してるだけだ」
「……二人だけで、ずるい」
ずるいって何がだ。
「クミ、熱がまだありますわよ? ベッドに戻りなさい」
「やだ。ここにいる」
クミはふらふらとテーブルまで来て、椅子にどさっと座った。毛布にくるまったまま、テーブルに突っ伏す。
「……あたしも紅茶……」
「はいはい。生姜入りにしますわね」
エミリーが三つ目のカップを出した。こうなることを予想していたかのように、手際がいい。
「クミ、ちょっとだけ顔上げろ」
「……んー」
「おでこ」
俺はクミのおでこに手を当てた。
「熱っ! 馬鹿、お前まだ39度はあるぞこれ」
「……エルフの平熱は37度5分だし……」
俺らの世界だと馬の平熱と同じだ。
「それでも高いだろ」
「……タカシの手、冷たくて気持ちい」
クミが目を閉じたまま、俺の手に額を押し付けてきた。
普段ならありえない。風邪でガードが下がっているんだろう。
結局クミはまた二階に消えていった。今度こそ本当に眠ったらしく、小さな寝息が聞こえてきた。
「……やれやれ」
「ふふ。クミらしいですわね」
「エミリーは大変だな、あいつの面倒見て」
「いいえ。楽しいですわ。……一人よりも、ずっと」
エミリーが窓の外を見た。夕暮れが近い。オレンジの光が部屋を染めている。
「タカシさん」
「ん?」
「今日はありがとうございました。二人きりでお話しできて……嬉しかったですわ」
「……ああ。俺も、エミリーの英語力が思ったより伸びてて驚いた」
「そっちの感想ですの?」
「ん?」
「……いえ、なんでもありませんわ。ふふ」
エミリーが少し呆れたように、でも嬉しそうに笑った。
俺は何かを間違えた気がするが、何を間違えたのかわからない。
鈍感? いや、鈍感じゃなくて、わざと気づかないフリをしている。
それが誠実なのか不誠実なのかも、わからない。
「"Why do you want to stay?"」
俺は、黒板に書きながら誰に向けるでもなく呟いた。
「なぜ残りたいのか。……って聞かれたら、なんて答えるかな」
独り言のつもりだった。エミリーには聞こえていないと思った。
「"Because there are people I want to be with."」
背後から、エミリーの声がした。
振り向くと、エミリーは片付けをしながら、こちらを見ていなかった。
「……一緒にいたい人がいるから、ですわ」
それが翻訳なのか、エミリー自身の答えなのか。
聞けなかった。聞いたら、答えなきゃいけないから。
夜になって、俺は自分の部屋のベッドに横になった。
天井を見上げる。木目の天井。もうすっかり見慣れた。
エミリーの言葉が、頭の中でリピートしている。
"I don't want you to go home."
"Because there are people I want to be with."
静かな言葉だった。クミみたいに叫んだわけじゃない。ベティみたいに絡んできたわけでもない。
ただ、そっと差し出された。
紅茶を渡す時の、あの丁寧な手つきと同じように。
……まいったな。
二階から、クミの寝息が聞こえる。
一階から、エミリーがカップを洗う音が聞こえる。
このログハウスは、静かだけど、寂しくない。
"Why do you want to stay?"
答えは、もう少しだけ保留にさせてくれ。




