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Hi, Betty! How are you?

Lesson16「お元気ですか?ベティ」


 翻訳作業を本格的に進めるにあたって、ひとつ問題が発生した。

 紙がない。

 正確にはインクもない。

 エレノアの日記を日本語に書き写すにしても、このログハウスにはノートの一冊もないのだ。クミの魔法で出した黒板とチョークはあるが、黒板に翻訳全文は書けない。


「買いに行かなきゃだね」


「ですわね〜」


「よし、じゃあ街に行くか。誰が行く?」


「あたしが行く!」


 クミが即答した。


「エミリーは?」


「わたくしは残って、昨日の翻訳メモを整理してますわ。それに、お昼のリンゴも剥かないと」


 エミリーは家庭的な理由で辞退した。というわけで、俺とクミの二人で街へ向かうことになった。


 ヤクシまでの道のりは相変わらず、ファンタジー映画のような風景だ。緑の野原、遠くに見える山、時々すれ違うエルフやホビット。俺はもうローブ姿が板についてしまった。Gパンが恋しいのは正直なところだが。


「ねえタカシ」


「ん?」


「昨日の子守歌のことなんだけどさ」


 クミが隣を歩きながら言う。今日は風がちょうどいい。クミのツインテールが風になびいている。


「あの歌、エミリーのおばあちゃんもあたしのおばあちゃんも歌ってたってことは、結構有名な歌だったのかな」


「かもな。子守歌って、広い地域で共有されることが多いから。地球でも"きらきら星"はフランスからイギリス、アメリカ、日本まで広まってるし」


「きらきら星?」


「Twinkle, twinkle, little star. ……知らないか」


「知らないけど、なんか可愛い単語だね。トゥインコー」


「トゥインクルな。星がきらきらする様子だ」


「トゥインクル。いいね、響きが。あたしもトゥインクルしたい」


「お前は十分きらきらしてるよ」


「えっ」


「ツインテールが」


「……っ!ま、紛らわしいこと言うなっ!」


 クミがばしっと俺の腕を叩いた。エルフパンチ、地味に痛い。


 そんなやり取りをしながら歩いていると、街の入り口が見えてきた。木造の門。「ようこそ温泉の街ヤクシへ」の看板。この日本語の看板も、今となっては少し違った目で見てしまうな。この名前の前に、三つの名前があったんだ。


「よーし、まずは日用品屋だね。紙とインクと——」


「あら、クミスティーナじゃない」


 聞き覚えのある声に、クミが足を止めた。

 通りの向こうから、長身のエルフが酒瓶を片手にこちらへ歩いてくる。鼻筋の通った美人。朝から飲んでるのか、頬がほんのり赤い。


 ベティだ。


「あら、人間も一緒じゃない。前に会ったわよね。……えーと」


「タカシだ」


「そうそう、タカシ。覚えてるわよ〜」


 覚えてなかっただろ、今の間は。


「ベティ、おっす。ちょっと買い物に来たんだ」


「あらそう。……ふうん」


 ベティの視線が、俺の上から下までゆっくりと動いた。品定めするような目つきだ。


 ベティがすっと近づいてきて、俺の腕に自分の腕を絡めた。

 自然な動作だった。あまりにも自然すぎて、一瞬何が起きたのかわからなかった。

 酒の匂い。それと、甘い花のような香り。酒に香水を混ぜたような、ちょっと危険な匂いだ。

 あと、腕に柔らかいものが当たっている。スタイルがいいのは前から知ってたけど、こうして密着すると——いや、あの、これは。


「ねえタカシ。英語の先生やってるんですって? あたしにも教えてくれないかしら。英語だけじゃなくて、もっと色々」


 耳元で囁くように言われた。

 こ、この人、距離感がバグっている。


「ベティ!!」


 背後から、聞いたことのないくらいの声量が響いた。

 振り向くと、クミが仁王立ちしていた。ツインテールが逆立っている。猫が威嚇する時みたいに、ぶわっと膨らんでいる。新しい形態だ。


「こいつはあたしたちの先生なの!勝手にくっつくな!」


「あらあら」


 ベティは全く動じない。むしろ楽しそうだ。


「独占欲が強いのねえ〜。クミスティーナちゃん」


「ど、独占なんかしてない!」


「じゃあ腕くらいいいじゃない」


「よくない!授業に差し支える!」


「今授業中には見えないけど」


「……精神的に!精神的に差し支えるの!」


 精神的に差し支えるのは俺の方なんだが、まあ黙っておこう。


「はいはい。じゃあ離すわよ〜」


 ベティはあっさりと腕を解いた。からかうのが目的だったのか、あるいは半分くらい本気だったのか。この人の場合、どっちとも取れるのが厄介だ。


「ところでさ、ベティ」


 俺は話題を切り替えた。このままだとクミの血圧が危ない。


「お前、前にクミたちの『お仕事』のこと知ってたよな。語り部の話」


 ベティの表情が、ほんの少し変わった。酔っぱらいのゆるい笑顔の奥に、何か別のものが覗いた。


「……あら、そこまで知ってるのね」


「クミとエミリーから聞いた」


「そう」


 ベティは酒瓶を揺らしながら、少し考えるように空を見上げた。


「あたしの祖父——おじいちゃんが、ちょっと変わった人でね」


「変わった人?」


「日本語じゃない歌を覚えてたの。古い、古い歌。意味はわからないけど、綺麗なメロディの歌」


 俺とクミが顔を見合わせた。


「じいちゃんは"これはエルフの本当の言葉だ"って言ってたわ。周りからは変人扱いされてたけどね。"建国前の言葉なんてあるわけないだろう"って」


「ベティは、その歌を?」


「覚えてない」


 ベティの声が、初めて少しだけ暗くなった。


「子供の頃に何回か聞いたけど、ちゃんと覚える前にじいちゃんが死んじゃったから。……あたしが酒飲みになったのは、じいちゃんの影響よ。あの人、いっつも飲んでた」


 だからか。酒好きは遺伝かよ。


「じいちゃんがなんて言ってたか、あたしは覚えてる。"いつか、この歌の意味がわかる日が来る"って。……来たのかしらね、その日」


 ベティが俺を見た。酔っぱらいの目じゃなかった。


「……来たかもしれない」


 俺はそれだけ答えた。詳しいことはまだ言えない。木箱を持ち出したことは、なるべく少ない人数で収めておきたい。


「ふうん」


 ベティはそれ以上追及しなかった。代わりに、にやりと笑った。


「面白いことになってきたじゃない。——ねえ、あんたたち、ドワーフの鍛冶師って知ってる? ジャックってやつ」


「ジャック?」


「あいつの工房に面白いものがあるのよ。石に刻まれた、誰にも読めない文字がね」


 石に刻まれた文字。

 "The dwarves carved words into stone."

 エレノアの日記の一節が、頭の中で響いた。


「……場所は?」


「街の東の外れ。鍛冶の煙が出てるからすぐわかるわ。あたしの名前出していいわよ」


「ありがとう、ベティ。助かる」


「お礼は今度、一緒にお酒でもね♡」


「あっ、タカシ、行くよ!ジャックのとこ行くよ!ほら早く!」


 クミが俺の袖を引っ張った。ベティと話させたくないオーラが全開である。


「じゃあな、ベティ」


「はいはい。またね〜」


 ベティが酒瓶をひらひら振って見送る。

 クミは俺の袖を掴んだまま、ずんずん歩いていく。


「……怒ってんの?」


「怒ってない」


 ツインテールが全立ちしている。怒ってるな。


「ベティはああいう奴なんだって。からかってるだけだよ」


「わかってるし。別にあたしには関係ないし」


 関係ないならなんでそんなに足速いんだ。


「あたしはただ、先生がチャラチャラしてたら授業に影響するでしょって思ってるだけだし!」


「はいはい」


「はいは一回!」


 こいつのツンデレ、だいぶテンプレだな。


 街の東の外れに向かうと、確かに黒い煙がもくもくと上がっている場所があった。

 トンカン、トンカンと、金属を叩く音が響いている。

 小さな工房だった。入り口は低い。ドワーフサイズだ。俺は思いっきり屈まないと入れない。


「すみませーん。ジャックさんはいますか? ベティの紹介で来たんですけど」


 中を覗くと、炉の前に一人のドワーフが立っていた。

 果物屋のホビットとは違う。こいつはドワーフだ。背丈はホビットと同じくらい——1メートルちょっとだが、横幅が全然違う。肩幅が広く、腕が丸太みたいに太い。顔は煤で汚れていて、無骨な革のエプロンをつけている。


「ベティの? ……ああ、あの酒飲みか。なんの用だ」


 低い、ずっしりした声だった。ドワーフの声って、地面から響いてくるような感じがするんだな。


「石の文字を見せてもらいたくて。壁にあるって聞いたんだけど」


「……あんた、人間か?」


 ジャックが俺をじっと見た。煤だらけの顔の中で、目だけが鋭く光っている。


「そうだ。矢島タカシ。このエルフたちの英語の先生をやってる」


「英語? ……聞いたことない言葉だな。まあいい、入れ」


 ジャックは無愛想に手招きした。俺は頭をぶつけないように屈んで入る。クミは普通に入れた。小柄は便利だな。


「これだ」


 ジャックが炉の反対側の壁を指差した。

 そこには、平たい石板が嵌め込まれていた。30センチ四方くらいの灰色の石。表面に、角ばった文字がびっしりと刻まれている。

 日本語じゃない。英語でもない。見たことのない文字だった。

 だが、「文字」だということはわかる。規則性がある。同じ記号が繰り返し現れている。言語だ。


「ドワーフの……」


「じいさんから受け継いだ。じいさんはそのまたじいさんから。どこまで遡るかはわからねえ」


 ジャックが太い腕を組んだ。


「意味は誰もわからねえ。"先祖が大事にしてたから大事にしろ"としか言われてない」


 俺はエレノアの日記の一節を思い出していた。


"The dwarves carved words into stone. Every important thought, every agreement, every memory — they etched them into rock with small chisels. Their letters were angular and beautiful."


 角ばっていて、美しい文字。小さなノミで岩に彫り込まれた。

 目の前にある石板は、まさにその通りだった。


「……ジャックさん」


「ジャックでいい」


「ジャック。これは、大日本人が来る前のドワーフの文字だ」


 ジャックの目が見開かれた。


「なんだと?」


「俺たちが読んでいる古い記録に、こう書いてある。"ドワーフは石に言葉を刻んだ。大切な考え、約束、記憶のすべてを、小さなノミで岩に彫り込んだ"と」


 ジャックは石板を見つめた。そして、ゆっくりと、分厚い手でその表面を撫でた。


「……じいさんが言ってたんだ。"この石はただの飾りじゃねえ。意味があるんだ"って。意味はわからねえけど、壊すなって」


「じいさんの言う通りだよ。意味がある。……まだ読めないけど」


「読めるようになんのか?」


「約束はできない。でも手がかりはある」


 ジャックは長い間黙っていた。それから、ふっと鼻で笑った。笑ったというか、息を吐いたような音だった。


「……あんた、変な人間だな」


「よく言われる」


「悪い意味じゃねえよ。——また来い。茶くらい出す」


 工房を出ると、西日が差し始めていた。思ったより長居してしまったらしい。


「すごいね……本当にあったんだ、石の文字」


 クミが興奮した声で言った。ツインテールがぴょこぴょこ跳ねている。嫉妬モードはどこかに飛んだらしい。


「ああ。エレノアの日記に書いてあった通りだ」


「ねえタカシ。エルフの歌と、ドワーフの石文字。二つ見つかったよ」


「あとはホビットの焚き火の物語だな。……そっちはまだ手がかりがないけど」


「三つ揃ったら、なにか起きるかな」


「RPGじゃないんだから。……でもまあ、何かは見えてくるかもな」


 帰り道、すっかり忘れていたが日用品屋で紙とインクを買った。


「タカシがベティにデレデレしなければ買い忘れなかったのに……」


 クミがブツブツ言っていたが、聞こえないことにした。


 家に帰ると、エミリーがリンゴの薄切りと紅茶を用意して待っていた。


「おかえりなさいませ〜。収穫はありましたかしら?」


「ああ。いろいろあった」


「ベティにタカシが盗られそうになった」


「盗られてねーよ」


「あらあら。聞き捨てなりませんわね〜」


 エミリーがにこにこしているが、目が笑っていない気がするのは気のせいだろうか。


 俺は紙とインクをテーブルに置いた。


「明日から、翻訳を本格的に紙に書き写す。それと——」


 俺は石板のことを話した。ドワーフの文字の実物が残っていたこと。エレノアの記述と一致すること。


「エルフの歌が子守歌に残っていたように、ドワーフの文字も石に残っていた。エレノアの記録は嘘じゃない。……"there were words here before them"。ここには、ちゃんと言葉があったんだ」


「"There were"……」


 クミが、小さく繰り返した。


「"There were words." 言葉が、あったんだね」


「"There were songs." 歌が、あったんですわね」


 エミリーが続けた。


 過去形だ。あった。でも今は失われている。

 ——いや。

 完全には失われていなかった。歌として。石として。

 小さな欠片が、確かに残っていた。


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