I like singing a song.
Lesson15「エルフたちの歌」
語り部の秘密を打ち明けてもらった翌日から、俺たちの英語授業は性質が変わった。
教科書はエレノアの日記。目的は翻訳。生徒は共犯者。
……予備校とはだいぶ様変わりしたもんだ。
「じゃあ、今日もエレノアの日記を読み進めるぞ」
「おー!」
「はいですわ!」
いつものテーブル。いつもの紅茶。
日記を開く。昨日読んだところの続きだ。
エレノアがこの世界に到着し、三種族の言語を初めて聞いた——そこまでは読んだ。今日はその先。エレノアが三種族の言語を詳しく記録した部分に入る。
"I will now describe what I have learned about the three languages of this world."
「"この世界の三つの言語について、私が学んだことを記す"」
「おお、本題だ」
クミが身を乗り出す。
"The language of the elves is unlike anything I have studied before."
「"エルフの言語は、私がこれまで学んだどんなものとも違っていた"」
「エディンバラ大学の言語学者にそこまで言わせるんだから、相当だな」
"It is not spoken. It is sung."
短い一文だった。でも、その意味は重い。
「"それは喋るものではない。歌うものだ"」
「歌う……?」
クミが首を傾げた。エミリーも不思議そうだ。
"There is no grammar in the way we understand it. Instead, meaning is carried by melody. A rising tone means a question. A falling tone means certainty. And the rhythm — the rhythm functions as syntax."
俺は慎重に訳した。
「"我々が理解するような文法は存在しない。代わりに、意味は旋律によって運ばれる。上がる音は質問を意味し、下がる音は確信を意味する。そしてリズム。リズムが構文の役割を果たす"」
「旋律が意味を運ぶ……?」
「つまり、メロディで会話するってことだ。音の上がり下がりで疑問文か肯定文かが決まって、リズムが文の構造になる」
「それって……言語っていうより……」
エミリーが言いかけた。
「音楽、ですわね」
「ああ。エルフの言語は、限りなく音楽に近い言語だったんだろうな」
俺は英語の授業として補足した。
「ちなみに、英語で"speaking"は喋ること、"singing"は歌うこと。どっちも動名詞——動詞にingをつけた形だ。"speak"にingで"speaking"、"sing"にingで"singing"」
「スピーキングとシンギング」
「そう。エルフの言語は"speaking"じゃなくて"singing"だった、ってことだ」
クミが「シンギング」と口の中で繰り返した。
"I tried to transcribe their songs using musical notation, but it was insufficient. The elves' melodies contained microtones that do not exist in Western music. I resorted to describing them in words instead."
「"楽譜で書き写そうとしたが、不十分だった。エルフの旋律には西洋音楽にない微小な音程が含まれていた。代わりに言葉で記述することにした"」
エレノアは言語学者であると同時に、かなり音楽にも詳しかったらしい。楽譜で記録しようとするあたり、根っからの学者だ。
"The most common form of elven language was the lullaby."
「"エルフの言語で最も一般的な形式は、子守歌だった"」
クミの手が、止まった。
"Mothers sang to their children, not merely to comfort them, but to teach them. History, morality, the names of stars — all were passed down through lullabies. A single lullaby could contain a family's entire story."
俺は訳した。
「"母親は子供に歌を歌った。ただ安心させるためだけでなく、教えるために。歴史、道徳、星の名前——すべてが子守歌を通じて受け継がれた。ひとつの子守歌に、一族の物語がまるごと込められていることもあった"」
沈黙。
「……あたし」
クミの声が、かすれていた。
「あたし……知ってるかも。この歌」
「え?」
「おばあちゃんが歌ってた。寝る前に。意味はわかんなかったけど、日本語じゃない歌」
クミは目を閉じた。
そして——歌い始めた。
それは、ほんの短い旋律だった。
歌詞はない。正確に言えば、歌詞はあるのかもしれないが、クミ自身がその意味を知らない。音だけが残っている。祖母の声から、孫の声へ。意味を剥ぎ取られてもなお、メロディだけが数百年を超えて伝わってきた音。
高く、透き通った声だった。
エルフの声帯はもともと綺麗な音を出すようにできているのかもしれない。クミの歌は、ログハウスの木の壁に染みこむように響いた。
短い旋律が終わった。
残響が消えるまで、誰も動かなかった。
「……わたくしも」
エミリーが、小さく言った。
「わたくしも、知ってますわ。おばあさまが、同じ歌を」
「歌える?」
「……ええ」
エミリーが目を閉じて、同じ旋律を歌った。
クミとは少し違う。同じメロディなのに、声質が違うからか、あるいは祖母から受け継ぐ過程で微妙に変わったのか。でも間違いなく同じ歌だった。
二人とも、意味のわからない歌を子守歌として教わっていた。
寝る前のおまじないみたいに。意味なんて気にせず、ただ祖母の声を真似て。
俺は、エレノアの日記をもう一度見た。
"A single lullaby could contain a family's entire story."
ひとつの子守歌に、一族の物語がまるごと込められていた。
「……お前ら」
俺はできるだけ落ち着いた声で言った。
「それがエルフ語だよ」
クミが俺を見た。
「お前らのおばあちゃんが歌ってたのは——お前らの、元々の言葉だ」
クミの口が、小さく開いた。
何か言おうとして、言葉が出てこない。
日本語が出てこないんじゃない。感情が多すぎて、どの言葉を選べばいいのかわからないんだ。
ぽろ、と涙がこぼれた。
「……っ」
クミは慌てて袖で目を拭いた。でも次から次へとこぼれてくる。
「な、泣いてないし。泣いてないから」
泣いてるよ。明らかに泣いてるよお前。ツインテールがしんなり垂れてるし。
エミリーも、カップを持つ手が震えていた。目が赤い。こっちは静かに、でも確実に泣いている。
「あたし、ずっと……ただの子守歌だと思ってた」
クミがしゃくり上げながら言う。
「意味もわかんない、変な歌だって。でも好きだった。おばあちゃんの声、好きだったから」
「それでいいんだよ」
「それが……あたしたちの言葉だったなんて……」
クミの目から、また涙がこぼれた。
——気がついたら、俺はクミの頭に手を置いていた。
自分でも驚いた。考えてやったわけじゃない。泣いてる子供の頭をなでるみたいに、反射的に手が動いた。
金色の髪。ツインテールの結び目のすぐ上。思ったより柔らかかった。
クミが固まった。
涙が頬の途中で止まっている。目が見開かれて、俺を見上げている。
耳が赤くなっていった。ゆっくりと、確実に。エルフの尖った耳は隠しようがないくらい赤くなる。便利な種族だ。いや便利って言い方はおかしいな。
ツインテールがピーンと立った。
次の瞬間、しんなり垂れた。
またピーンと立つ。垂れる。立つ。垂れる。
忙しいな。
「……お前のツインテール、今どの感情だ?」
「う、うるさい!全部だよ全部!」
クミは俺の手を振り払って——いや、振り払おうとして、やめた。
「…………」
結局、そのまま俺の手を頭に乗せたまま、クミはもう少しだけ泣いた。
声は出さなかった。ただ涙だけが、ぽろぽろとこぼれていた。
エミリーがそっとハンカチを差し出した。自分も目を赤くしているのに、こういう時に気が回るあたり、こいつはこいつで大したやつだ。
「……ありがと、エミリー」
「いいえ。わたくしも、同じ気持ちですわ」
しばらくして、クミは俺の手の下から抜け出した。目が真っ赤だったが、表情はもう落ち着いていた。
「……ねえ、タカシ」
「ん?」
「おばあちゃんの歌、エレノアの記述と照らし合わせたら、意味がわかったりする?」
俺は少し考えた。
「全部は無理だろうな。エレノア自身、楽譜で完全には記録できなかったって書いてる。でも……断片的に何かわかるかもしれない」
「断片でもいい」
クミの目が、泣いた後だというのに、きらきらしていた。
「あたしの歌に、どんな意味があったか知りたい。おばあちゃんが、あたしに何を伝えたかったのか」
俺はノートを閉じた。
「じゃあ、次の授業テーマは決まりだな」
「え?」
「エルフ語解読。……って言っても、日記の中のエレノアの記録を手がかりにするだけだけどな。エルフ語を教えられる先生は、この世界にはもういないから」
「いるよ」
クミが言った。
「あたしたちの中に、歌として残ってるじゃん」
おや、アツいね。
でも嫌いじゃないぜ。
「"singing"ですわね」
エミリーが、少しだけ鼻声で言った。
「エルフの言語は、"singing"」
「そうだな。"Speaking"じゃなくて、"singing"だ」
俺は黒板にチョークで書いた。
speaking = 喋ること
singing = 歌うこと
writing = 書くこと
「"speaking""singing""writing"。動詞にingをつけると、"〜すること"って意味になる。これを動名詞って言うんだ」
「ドウメイシ」
「たとえば、"I like singing."なら"私は歌うことが好きです"。"I like speaking."なら"私は喋ることが好きです"」
「I like singing!」
クミが、さっきまでの涙がどこに行ったのかと思うくらい元気に言った。
「うん。発音いいぞ」
「へへ」
「でも先に"I like studying."を覚えてくれ。"勉強することが好き"」
「……それはちょっとウソになる」
「正直でよろしい」
エミリーがくすくす笑った。
窓の外から、鳥の声が聞こえてきた。
この世界の鳥は、どんな歌を歌うんだろう。
そしてかつてのエルフたちは、鳥のように歌いながら暮らしていたんだろうか。
答えは、エレノアの日記の中にあるのかもしれない。
あるいは——クミとエミリーが口ずさむ、意味のわからない子守歌の中に。
まだ解読は始まったばかりだ。
でも、ほんの少しだけ、欠片が見つかった。
失われた言語は、歌として生き残っていた。




