Lovely tea break part.2
Lesson14「おやつの時間2」
翌朝。
目が覚めると、紅茶のいい香りが部屋まで漂ってきていた。
エミリーだ。あいつは朝も紅茶を淹れるのか。この世界にモーニングコーヒーの概念はないらしい。
リビングに出ると、テーブルにはすでに紅茶と、リンゴを薄切りにした皿と、クッキーが並んでいた。エミリーが椅子に座ってにこにこしている。
「おはようございます、タカシさん。よく眠れましたかしら?」
「……まあ、そこそこな」
ほとんど眠れなかったのは内緒だ。エレノアの日記の文章がぐるぐると頭の中を回っていた。
あと、髪を下ろしたクミの残像がちらついたのも内緒だ。
当のクミは、まだ部屋から出てこない。
「クミは?」
「まだ寝てますわ。昨夜遅くまで起きていたみたいで」
エミリーが意味ありげに微笑む。……何か気づかれてるのだろうか。いや、壁越しに足音くらいは聞こえたかもしれない。
「クミ!朝だよ!紅茶冷めるぞ!」
俺が大声で呼ぶと、ドタバタと音がして、クミが髪をぼさぼさにしたまま飛び出してきた。ツインテールを結ぶ途中らしく、片方だけ垂れている。
「う、うるさいな!今行くって!」
「片方だけツインテールって新しいな」
「見るなっ!」
クミは顔を赤くして部屋に引っ込み、30秒後にきちんとツインテールを完成させて再登場した。なんだその早業は。
三人でテーブルにつく。いつもの風景だ。
だが、テーブルの下の棚には、いつもと違うものが眠っている。木箱。あの木箱だ。
「さて」
俺はリンゴをかじりながら切り出した。
「昨日の続き、読み進めたいところだけど。その前にさ」
二人を見る。
「そろそろ教えてくれよ。お前らの『お仕事』のこと」
クミのリンゴを持つ手が止まった。エミリーは紅茶のカップを静かにソーサーに戻した。
「昨日、あの日記を読んで思ったんだ。お前ら、最初からエレノアの日記を読むのが目的で俺を召喚したんだろ? 英語の会話がしたかったわけじゃなく」
「…………」
「で、その目的は『お仕事』に関係がある。ベティも知ってるくらいだから、お前らだけの秘密ってわけでもない。……もう隠す理由、ないだろ?」
クミとエミリーが目を合わせた。
数秒の沈黙の後、エミリーが口を開いた。
「……タカシさん。わたくしたちのすべてを、お見せしますわ」
エミリーが俺の目をまっすぐに見て、そう言った。
え。
すべてを?
見せる?
お見せしますわ?
「…………」
俺の頭の中で、何かが高速回転した。いや待て。落ち着け俺。すべてをお見せしますわ。これはどういう意味だ。文脈的にはお仕事の話をしているはずだ。だが「すべてを見せる」という日本語の響きがどうしても——
エミリーは立ち上がって、棚の奥から何かを取り出した。
古い布に包まれた、巻物だった。
……巻物。
そっちか。
いや、そっちに決まってるだろ。何を期待していたんだ俺は。最低か。
「何赤くなってんの?」
クミの冷たい視線が突き刺さる。こいつは本当に、こういう時だけ鋭い。
「赤くない。かまどの熱だ」
「かまど、今朝は点けてないけど」
「……紅茶が熱いんだよ」
苦しい言い訳を無視して、エミリーはテーブルの上に巻物を広げた。
中にはびっしりと、手書きの日本語が記されていた。古い字体だが読める。何世代にもわたって書き足されてきたようで、インクの色も筆跡も少しずつ違っていた。
「これは……何だ?」
「わたくしたちの家に代々伝わるものですの。イランイラン国の歴史が、ここに書かれていますわ」
「歴史……口伝の?」
「はい」
エミリーが頷いた。
「わたくしたちの家系は、代々『語り部』と呼ばれてきました」
語り部。
ストーリーテラー。
「イランイラン国の歴史を暗記して、語り継ぐ。それがわたくしたちのお仕事ですの」
「大日本人が国を作った時の話とか、三種族が手を取り合った話とか、そういうのを覚えて次の世代に伝えるの。あたしたちの前はおばあちゃんがやってた」
クミが補足する。語り部。なるほど、それが『お仕事』の正体か。
歴史を口伝で語り継ぐ一族。図書館にある歴史書とは別に、語りの形で歴史を保存する。文字のない時代から続いてきた仕組みだったのかもしれない。
「ベティが知ってたのは?」
「語り部の存在は、街では知られてますわ。秘密というよりは、そういう役目の家がある、という程度のことですの」
「じゃあ、秘密にしてたのは——」
「英語を読みたい理由の方、だよ」
クミが言った。
「語り部が"地上の歴史"とは違う何かを探ってるなんて知られたら、まずいじゃん」
確かにそうだ。国の公式な歴史を語り継ぐ役目の人間が、その歴史に疑問を持っている——なんてのは、あまり公にできる話じゃない。
「おばあちゃんがね、死ぬちょっと前に言ったんだ」
クミの声が少し小さくなった。
「"図書館の地下に、読めない言葉で書かれた本当の歴史がある。あたしは読めなかった。でもお前たちは、なんとかしなさい"って」
「祖母は……ずっと気づいていたのだと思いますわ。自分が語っている歴史が、全部ではないということに」
エミリーが巻物をそっと撫でた。何世代分もの筆跡が重なった、語り部の記録。
「だから、英語を読める人間を召喚したんですの。地下の文書を読むために」
「おばあちゃんはcouldn't readだった。読むことができなかったんだ」
クミが、妙にはっきりした発音で言った。
……お前、いつの間にそのフレーズ覚えたんだ。
「couldn't、ね」
「うん。couldn'tだよ。おばあちゃんは、couldn't」
クミの目が、真剣だった。こういう時のクミは、ツンでもデレでもない。ただの、まっすぐな女の子だ。
「……最初からそう言えよ」
俺はため息まじりに言った。
「言ったら引くかもしれないじゃん!」
「引かねーよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。むしろ燃えるだろ、こういうの」
禁書の解読。隠された歴史。語り部の使命。
バイトの英語講師がやるにはだいぶスケールがデカいが——まあ、ファンタジー世界に来た時点で今さらだ。
「それにさ」
俺は二人を見た。
「couldn'tは過去形だ。"could not"の過去形。おばあちゃんは読めなかった。でも」
俺はテーブルの上の日記を軽く叩いた。
「お前らは"can"になる。これから、だけど」
「can……」
「"can read"だ。読むことが、できる。現在形。今と、これからの話だ」
クミが、ふっと笑った。笑ったというか、口の端がほんの少し上がっただけだ。でもツインテールがゆるやかに揺れたから、たぶん嬉しかったんだと思う。
「あたしたちも、canになれる?」
「なれるよ。俺が教えるんだから」
「……ふーん。自信あるんだ」
「バイトなめんなよ」
クミが今度ははっきり笑った。良かった。空気が戻ってきた。
「ちなみにだけど、"can"と"can't"の発音の違いって結構難しいんだぞ。ネイティブでも聞き間違えることがある」
「えっ、そうなの?」
「うん。"I can do it"と"I can't do it"は、聞き取りだと文脈で判断するしかない時もある」
「なにそれ、英語ポンコツじゃん」
「お前に言われたくないな」
エミリーがくすくす笑いながら、紅茶のおかわりを淹れてくれた。
「では、改めまして」
エミリーがカップを置いて、姿勢を正した。クミも、なんとなく背筋を伸ばす。
「わたくしたち語り部は、タカシさんにお願いしたいことがあります」
「エレノアの日記を読んで、この国の本当の歴史を教えてほしい」
クミが続けた。真剣な目。ツインテールがぴんと立っている。怒りじゃなくて、決意の方だ。
「語り部として、嘘の歴史だけを語り継ぐのは嫌だ。本当のことを知りたいんだ」
「わたくしも、同じ気持ちですわ」
俺は二人を見た。
最初は土下座していた二人のエルフ。「英語を教えてください」と叫んでいたあの二人が、今は語り部として、この国の歴史の真実を求めている。
あの時は「まいったなあ」と思ったけど。
今は——まあ、やっぱりまいったなあ、って感じではあるけど、ちょっと意味合いが違う。
「わかった」
俺は紅茶を一口飲んで、言った。
「日記を全部翻訳する。お前らにも読み方を教える。時間はかかるけど——最後のページまで、一緒に読もう」
「……!」
クミの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう!ありがとうタカシ!」
「ありがとうございます、タカシさん……」
エミリーが目を潤ませている。うん、ちょっと待て。一個だけ確認しておきたいことがある。
「で、聞いていいか。全部終わったら——俺、帰れるのか? 元の世界に」
二人の動きが止まった。
クミがエミリーを見た。エミリーがクミを見た。
「……ごめん」
クミが俯いた。
「おばあちゃんが教えてくれたのは、召喚の術だけなの。帰す方法は……わからない」
「わたくしたちも調べましたの。でも、文献が見つからなくて……」
「……片道切符かよ」
「ごめん……ほんとに、ごめん……」
クミのツインテールがしおしおと垂れた。エミリーも目を伏せている。
怒るべきなのかもしれない。いや、普通は怒るだろう。帰れないかもしれないのに勝手に召喚したんだから。
でも——目の前の二人を見ていると、怒れなかった。
「……まあ、なんとかなるだろ」
「え?」
「方法がないって決まったわけじゃないだろ。探せばいい。全部終わってから考えればいい」
適当に言ったつもりだったが、クミが泣きそうな顔で俺を見ていた。
「……あんた、お人好しにもほどがあるよ」
「バイト講師の適性だ。さ、話を戻すぞ」
エミリーが深々と頭を下げた。巻き毛が紅茶のカップにかかりそうになって、慌てて頭を上げる。
こうして、俺とクミとエミリーの関係は、「先生と生徒」から「語り部と翻訳者」に——いや、なんだろう。共犯者? 仲間?
まあ、名前はなんでもいい。
三人で同じ方を向いている。それだけで十分だ。
紅茶のいい香りが、部屋を満たしていた。
窓の外には、いつもと変わらない異世界の青い空が広がっている。
とても穏やかな朝だった。
棚の奥に眠る木箱が物々しすぎて、これから大変なことになるんだろうなあ、と俺はぼんやりと思った。




