Yes, it is stolen book.
Lesson13「はい、それは盗品です」
息を切らして家に飛び込んだ三人は、しばらく玄関先で突っ伏していた。
エミリーはドアに背中を預けて呼吸を整え、クミは床に手をついてゼーゼー言っている。俺は木箱を抱えたままだ。腕がプルプルしている。紙の束というのは想像以上に重い。
黒装束を脱いで普段着に戻ると、クミがかまどに火を入れた。エミリーが自動的に紅茶の準備を始める。この子は本当に紅茶が好きだなあ。
俺たちはテーブルを囲んで、その真ん中に木箱を置いた。
「さて、と……俺達、完全に窃盗犯だな」
俺は木箱を見つめながら言う。
「ぬ、盗んだんじゃないでしょ。……借りたんだよ」
「無断で、ですわね〜」
エミリーが紅茶を配りながら、にこにこと的確なことを言う。こいつの毒舌は紅茶と一緒に出てくるらしい。
まあ、犯行についての反省は後でいい。今はこの中身だ。
俺は木箱の蓋を開け、中のものをひとつひとつテーブルに並べた。
革表紙のノート——エレノアの日記。
折りたたまれた紙——広げてみると、手描きの地図だった。
それから、ばらばらの紙片が数枚。
「地図だ!」
クミが身を乗り出す。ツインテールがテーブルに垂れかかった。
「これ、イランイラン国の地図ですわね。この形はわたくしにもわかりますわ」
エミリーの言う通りだった。輪郭は俺が図書館で見た地図と同じだ。山の位置、川の位置、海岸線。間違いなくイランイラン国の地図である。
だが、書き込まれた地名が違った。
公式の地図にはもちろん日本語で地名が書いてある。「ヤクシ」とか、そういうやつだ。
この地図に書いてあるのは、英語だった。
しかも、ただ日本語を英語に置き換えたものじゃない。
「ここ、ヤクシのあたりだろ?」
俺はその場所を指差した。そこには"Yakushi"ではなく、見慣れない綴りが書いてあった。しかも、一つじゃない。同じ場所に三つの名前が併記されている。異なるインクの色で、丁寧に。
「……三つの名前?」
「多分、エルフ、ドワーフ、ホビット、それぞれの呼び方じゃないかな」
俺がそう言うと、クミとエミリーが顔を見合わせた。
「大日本人が名前をつける前の、元々の地名じゃないのか、これ」
二人とも、黙っていた。
この地図を描いたのはエレノアだろう。三種族がそれぞれの言語で呼んでいた地名を、アルファベットで記録したんだ。
日本語に上書きされる前の名前。
俺はそっと地図を置いた。今は読めない部分の方が多い。ゆっくり解読しよう。
「次は日記だな」
俺はエレノアの日記を開いた。地下で最初の数行は読んだが、その先がある。
クミが椅子ごと寄ってきた。近い。肩がくっつきそうだ。
「あたしにも見せてよ。読めないけど」
「読めないなら見ても意味ないだろ」
「雰囲気!雰囲気を味わうの!」
味わうもなにも、筆記体の英語なんだが。
エミリーも反対側から覗き込んでくる。巻き毛が俺の腕に触れた。いい匂いがする。紅茶の匂いだろうか、それともこいつ自身の匂いだろうか。
……集中しろ、俺。
ページをめくる。さっき地下で読んだ部分の続きだ。
"I am a linguist. I studied languages at the University of Edinburgh."
「"私は言語学者です。エディンバラ大学で言語を学びました"」
「エディンバラ?」
「イギリスの大学だよ。地球の、スコットランドっていう場所にある」
「すこっとらんど……すっとこどっこい」
大日本人はこんな単語までエルフに教えたのか。面白半分だな。
"They needed someone who could learn new languages quickly. That is why they brought me."
「"彼らは新しい言語を素早く覚えられる人間を必要としていた。だから私を連れてきた"」
「つまりエレノアは、通訳として連れてこられたんですのね」
エミリーが紅茶をすすりながら言う。
なるほど。大日本人——自らをそう呼ぶ日本人の集団は、この世界に来る際にエレノアという言語学者を同行させていた。新しい世界の言語を学ぶために。
ということは、大日本人はこの世界に「言葉がある」ことを最初から想定していたんじゃないか? 言語学者を連れてくるくらいだから。
なのに建国史では「この土地には言葉がなかった」ことになっている。
おかしいだろ、それは。
ページをさらにめくる。
エレノアの筆記体は几帳面で読みやすい。数百年経ってもインクが残っているのは、特別なインクを使っていたのか、この世界の紙が丈夫なのか。
"When we arrived, I heard them for the first time."
「"この地に着いた時、私は初めてそれを聞いた"」
「それって?」
"The voices of this world."
「"この世界の声を"」
クミが、息を止めた気配がした。
"The elves had beautiful songs. Their language was not spoken — it was sung. Melodies carried meaning, and rhythm held grammar. I had never encountered anything like it."
俺は少し時間をかけて訳した。
「"エルフには美しい歌があった。彼らの言語は喋るものではなく——歌うものだった。旋律が意味を運び、リズムが文法の役割を果たしていた。こんなものには出会ったことがなかった"」
クミが何か言いかけて、やめた。口を小さく開けたまま、ノートを見つめている。
"The dwarves carved words into stone. Every important thought, every agreement, every memory — they etched them into rock with small chisels. Their letters were angular and beautiful."
「"ドワーフは石に言葉を刻んだ。大切な考え、約束、記憶のすべてを——小さなノミで岩に彫り込んだ。彼らの文字は角ばっていて美しかった"」
"The hobbits told stories by the fire. They had no writing, no songs, but their words lived in the air between speaker and listener. A hobbit elder could recite the history of their people for three days without stopping."
「"ホビットは焚き火のそばで物語を語った。彼らには文字も歌もなかったが、その言葉は話し手と聞き手の間の空気の中に生きていた。ホビットの長老は三日間休むことなく、一族の歴史を暗唱できた"」
俺が訳し終えた後、しばらく誰も喋らなかった。
かまどの火がぱちぱちと音を立てている。紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
「……三つ、あったんだ」
クミが、小さな声で言った。
「三つの種族に、三つの言葉。……あったんだね」
「そうみたいだな」
俺はできるだけ淡々と言った。
「ここで使われている動詞、"had" "carved" "told"、これは全部過去形だ。"have"の過去形が"had"。"carve"の過去形が"carved"。"tell"の過去形が"told"」
「過去形……うこっけい」
クミがシリアスな雰囲気を顧みずに言う。
こいつ、図書館から返ってきてよりポンコツになっている気がする。
「昔はそうだった、ってことだ。"had"ってことは、昔は"持っていた"。今は——」
俺はそこで言葉を切った。
今は、持っていない。
エレノアが過去形で書いたのは、書いた時点で既にそれが失われていたからだ。あるいは、失われつつあったからだ。
クミが唇をきゅっと噛んだ。
「……英語って、残酷な言語だね」
「いや、英語が残酷なんじゃなくて——」
「わかってるよ。残酷なのは、過去形にした奴らだ」
クミの目が、妙に鋭かった。こいつにこんな目ができるんだな、と思った。
エミリーはカップを両手で包んだまま、じっとテーブルを見つめていた。
「……今日は、ここまでにしましょう」
エミリーが静かに言った。
「そうだな。続きは明日にしよう」
俺は日記を閉じて、木箱に戻した。地図も紙片も一緒に。蓋をして、棚の奥に押し込む。
クミが黒装束を脱いで自分の部屋に引っ込み、エミリーが食器を片付けた。俺は客間として使わせてもらっている部屋に戻る。
ログハウスが静かになった。
かまどの火だけが、微かに音を立てていた。
……眠れない。
当たり前だ。あんなものを読んだ後で、すんなり寝られるほど鈍感じゃない。
三種族には元々それぞれの言語があった。歌と、石文字と、焚き火の物語。それを大日本人が——。
いや、まだ決めつけるのは早い。日記にはまだ続きがある。
コンコン。
控えめなノックの音がした。
「……誰だ?」
「…………」
返事がない。でも、ドアの向こうにいるのは一人しかいないだろう。エミリーならちゃんと名乗る。
「クミだろ。入っていいぞ」
「……っ」
ドアがゆっくり開いた。
クミが立っていた。寝間着に着替えている。ツインテールは下ろしていて、金髪がさらさらと肩にかかっていた。
……下ろすと雰囲気変わるんだな、こいつ。
「べ、別に眠れないわけじゃないし」
「うん」
「日記の続きが気になっただけだし」
「うん」
「だから、その、ちょっとだけ」
「いいよ。座れよ」
俺はベッドの端に座り直して、横を空けた。クミは少し迷った後、そっと腰を下ろす。ベッドが軋む音が、やけに大きく聞こえた。
沈黙。
かまどの残り火がぱちり、と鳴る。
「……日記、持ってきたのか?」
「ううん。……読めないし」
「じゃあ何しに来たんだよ」
「うるさいな!」
声を張ってから、クミはハッとして口を押さえた。エミリーを起こしたらまずいと思ったのだろう。
「……うるさいな」
今度は小さな声で言い直した。同じ台詞なのに、なんか可愛いな。
また沈黙。
窓の外で虫が鳴いている。この世界にも虫はいるらしい。
「あのさ」
「ん?」
「エレノアって人、どんな気持ちだったのかなって」
クミは膝を抱えていた。下ろした髪が頬にかかっている。
「連れてこられて、知らない世界で、自分の知らない言葉を聞いて。……ちょっとタカシに似てない?」
「……まあ、境遇は近いかもな」
「あたしたちもさ、タカシを連れてきた側じゃん。大日本人がエレノアを連れてきたみたいに」
俺は少し驚いた。こいつがそういうことを考えるとは思わなかった。
「気にしてんのか?」
「……ちょっとだけ」
クミの声が、らしくないくらい小さかった。
「気にすんなよ。俺は別に嫌じゃないし」
「ほんとに?」
「ほんとに。Gパンは惜しかったけどな」
「……ふっ」
クミが小さく噴き出した。良かった。こいつが深刻な顔してると、こっちまで落ち着かない。
「それに、エレノアと俺は違うよ」
「何が?」
「エレノアは記録を残すことしかできなかった。でも俺は、今ここで、お前らに英語を教えてる。お前らが自分で読めるようになれば、俺一人で抱え込む必要はないだろ」
クミが俺を見た。
近い。
こいつ、近くで見ると睫毛ながいな。エルフだからか? それとも個人差か? そんなことが気になるくらいには、近い。
「……なんかかっこいいこと言うじゃん」
「たまにはな」
「たまに、ね」
クミはふいっと横を向いた。耳が赤い。エルフの耳は尖っている分、赤くなるとよく目立つんだな。新発見だ。
「……もう寝ろ。明日も続き読むんだろ?」
「……うん」
クミは立ち上がって、ドアの方へ歩いた。
途中で振り返る。
「タカシ」
「ん?」
「……おやすみ」
たった一言なのに、なんだかやけに丁寧に聞こえた。
「おやすみ、クミ」
ドアが閉まる。
さらさらの金髪が最後に揺れて、消えた。
……ああ、こいつ、普段ツインテール下ろさないからわかんなかったけど、髪めちゃくちゃ綺麗なんだな。
いかんいかん。
集中力を日記に残しておけ、俺。明日も翻訳作業が待ってるんだから。
窓の外では、月がゆっくりと傾いていた。
図書館から持ち出した木箱が、棚の奥で静かに眠っている。
エレノア・レーンの言葉が、数百年の沈黙を経て、ようやく誰かの耳に届いた夜だった。




