未来へ向けて2
風が吹く。
スモモの香りに全身が包まれた。
つい一週間前に自分がここで目覚めたのを思い出すと身震いする。
過去に置いてきたとばかり思っていた世界で、自分は知っているのに相手は自分のことを知らない人達に囲まれた。
林の中の空き地にどっしりと構えているスモモの木。
呪いの木。
祝福の木。
何と呼べばいいのだろう。
知れば知るほど、ただ悲しい話だけが横たわっているのだ。
斎希はその物語に巻き込まれた迷い子。
迷子だったことに気づいてなかった迷い子。
スモモの木は斎希を招いた。
理由は一つ。
後悔を残すなと言いたいだけ。
後悔など最初から持ち合わせてなかったのに。
斎希はスモモの木の下でうずくまる。
過去の世界は温かい。
未来で氷のように冷え切っていた斎希は溶けてしまった。
温められて温められて。
東京で冷え切った心を温めたのは過去の人達。
東京は寒かった。
忙しくて大切な人と触れ合えずに、心が冷えていくのだ。
夢見ていた世界はとてもつまらないものだった。
うずくまるのをやめて、スモモの木に背中を預けて座る。
「貴方、一体何がしたかったのよ……」
斎希は後悔を断ち切らないまま、秘めていくと決意した。
スモモの木にとってその事実は、はたして本意なのだろうか。
「そもそも意志のある木とかホラーなのかファンタジーなのか。植物じゃないのは確かだけど」
昔から馴染みのある木なだけに、この事実は逆に驚かされた。
そうやって物思いにふけながら待ちぼうけをしていると、やけに甲高い声が聞こえてきた。
「よーせーさーんー!!」
イツキだ。
ちゃんと膨らんだカバンを持っている。
中身はお弁当で間違いないだろう。
昨日言ったことをイツキは守ったのだ。
「こんにちわ」
「こんにちわっ!」
しゃきーん、と両手を真っ直ぐのばして斎希の前に現れるイツキ。
斎希はそれに微笑んだ。
「おなかすいたー」
「お弁当持ってきたかしら?」
「ぬかりはないぜー」
やはりカバンの中からお弁当箱が出てきた。
「ようせいさんはー?」
「ふふふ、今日はちゃんとあるのです」
斎希も置いておいたお弁当箱をイツキに見せた。
イツキは目を輝かせる。
「おお!」
「さあ、手を合わせて下さい」
「はい、あわせました!」
小学校の給食を思い出す。
給食を食べる前には必ず、給食当番の人がこうやって音頭をとっていた。
斎希はそれをまねて音頭をとる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
イツキは元気よく声を上げて、お弁当の蓋をあけた。
「たまごやきー♪」
イツキが食べ出したのを見て、斎希も微笑みながらお弁当の蓋をとる。
中にはリユウの作ってくれた卵焼きやウインナー、ポテトサラダが入ってる。
イツキのお弁当は見事に卵焼き以外、冷凍食品だった。
「さすが母……」
徹底的に手を抜いている。
卵焼きが作られているだけ、マシだろうが。
それでもイツキは美味しそうにお弁当を頬張る。
お弁当という言葉が大切で中身には頓着していない。
それが昔のイツキだ。
「美味しい?」
「おいしいよー!」
「私のお弁当のおかずと何か交換する?」
イツキが目を輝かせた。
「するー! んとね、んとね、たまごやきとたまごやきをこうかんするー!」
卵焼きのトレードを要求された。
斎希は卵焼きが好きなので、イツキももちろん卵焼きが好きだ。
好物をいの一番にトレードをしようとするイツキはなんというか、他人に尽くす性格が現れている気がする。
それは今の斎希を形作るもので。
「はい、どうぞ」
「わーい!」
イツキは喜んで斎希のお弁当箱にいる卵焼きを箸で器用に摘む。
口に入れると本当に幸せそうな笑顔を浮かべた。
自分のことだが、可愛い。
めちゃくちゃ可愛い。
ぎゅっと抱きしめたくなる衝動を抑えて斎希は箸を進めた。
イツキより先に食べ終えた斎希は、ゆっくりとのびをした。
「お腹いっぱい」
ころん、と横に転がる。
リユウから借りた腕時計を見ると、十二時五十四分。
約束の時まであと六分だった。
「イツキちゃん、好きな人いる?」
ぶふっ。
最後の一口を頬張っていたイツキが吹き出した。
「げほっげほっ」
「だ、大丈夫?」
斎希が目を白黒させて聞くと、イツキがガバリと顔を上げた。
「わっ」
「い、いないよ! いないからねっ!」
顔が真っ赤だ。
これは図星、というよりはそうだよなあー、と思ったのでとりあえず笑ってやる。
今は封印してしまった気持ちを、この頃は自覚していたのだ。
微笑ましくて、羨ましくて。
自分が成長する過程でなくしてしまったものを彼女はまだ持っているのだ。
「イツキちゃん、好きな人には好きってちゃんと言わないと愛唄みたいになるわよ?」
「アイちゃん?」
「そうよ」
「スキナヒトとおわかれ?」
「ええ」
イツキが顔を曇らせる。
「それはイヤ」
斎希はそっとイツキの髪を撫でた。
柔らかい髪の感触や小さな頭。
本当にこれが自分なのだろうと信じられなくなる。
我慢して、押し込めて、気づかないフリをして、ひねくれて。
そうやって斎希は今の斎希になった。
人見知りのくせに他人に世話を焼きたがり、本当は勉強が不得手なのに優等生のイメージだけが先走る。
そんな自分が嫌いだと思うこともあった。
その度に桜樹が気づいてくれて。
その度に桜樹が支えてくれた。
今の斎希になるには桜樹が不可欠だった。
きっと『イツキ』が『斎希』になるのにも『オウキ』が不可欠で。
───うん、昔から好きだったわ。
斎希はイツキだったから。
───でもね、私が好きなのは桜樹だけじゃない……。
斎希はゆっくりと立ち上がる。
風が凪いだ。
「イツキちゃん、イツキちゃんが好きなのは『皆』よね」
早口に言って腕時計を見る。
そろそろ時間だ。
始めよう。
「イツキちゃん、成功するかどうかは分からないけど妖精さんからのプレゼント。欲しい?」
イツキは斎希を見上げていたが、大きく頷いた。
「うん!」
「じゃあ、お歌のプレゼントよ」
斎希は左手を胸の上に置く。
この間、桜樹と会ったのも、大体これくらいの時間だったはず。
思いを言葉に、言葉を風に。
空へと解き放つ。
「すももさま
どうかもういちど
やりなおさせて
くださいな
このすもものみがおちたとき
あのひととあえると
しんじています だから
すももさま
どうかもういちど
やりなおさせて
くださいな
いまおちたみはおちてない
おちたようにみえるだけ
きっとかえってくる だから
すももさま
どうかもういちど
やりなおさせて
くださいな
もうなんどめでしょうか
みがおちるてくるのは
いつかあえるの ですか
すももさま
どうかもういちど
やりなおさせて
くださいな
もういくとしかすぎました
わたしはもうまてない
あなたももうすでに いない
すももさま
どうかもういちど
やりなおさせて
くださいな
らいせでもまたあのひとと
ともにあゆめるじんせい
のぞみます またいつか」
旋律がなめらかに流れる。
言葉の一つ一つに力があるかのように、辺りがざわめく。
風がかき乱れる。
バサバサと緑の葉が踊り出す。
光の粒子が斎希に纏わりつく。
「わあ───」
イツキは顔を輝かせた。
きらきらと輝く光の粒が真新しくて、思わず掴もうとするが掴めなかった。
光の粒子だけではない。
葉っぱだって、枝だって、雑草だって。
みんなみんな、生き生きと輝いてる。
その中でも、斎希が。
光の中心で歌う斎希が。
イツキにとっての妖精が。
とても柔らかな声で歌うのが耳に心地よい。
まるでお伽噺の世界に入り込んだみたいで。
───いいな、いいな。
イツキはますます目を輝かす。
───イツキもこんなセカイつくりたいな。
この綺麗な世界を好きな人に見せたいと思った。
◇◇◇
イツキが光の奔流に目を奪われ始めた頃、斎希は別の物を見ていた。
───桜樹……!
光の中に人影が。
斎希はそれが桜樹だとすぐに分かった。
「もうなんどめでしょうか」
「われらがみずをあげようか」
───……っ!
斎希は泣きそうになる。
桜樹の声が聞こえた。
向こうもこちらに気づいたようで、泣きそうな顔で微笑んだ。
一歩を踏み出す。
桜樹も一歩を踏み出す。
でも、と斎希は足を止めた。
───私は、諦めるんじゃなかったの……?
愛する人より友情を取ったのだ。
斎希は歌うのを止めようとした。
けれど。
───桜樹が、こっちに向かって歩いてくる。
桜樹がだんだん歩調をあげて走ってくる。
桜樹の姿が大きくなる。
駄目だ。
言葉にするんじゃなかった。
後悔を残して何事もなく過ぎ去ろうと、これが運命だからと思って過ごそうと思ったのに。
斎希と桜樹の想いは繋がってしまった。
桜樹は無意識かも知れない。
本当は意識してたのかも知れない。
斎希を好きだと想ってくれているのだろうと自惚れてしまうではないか。
曲が終わる。
「斎希っ!!」
桜樹が斎希の名前を呼んだ。
「見つけた!」
彼が微笑む。
「斎希っ」
「……ばかっ!」
桜樹の向こうに小さく茶奈と連夜も見えた。
それを見た瞬間、戸惑っていた斎希の足は動きだした。
「またね、小さな私」
少しも後ろを振り向かずに。
走って、
走って、
「桜樹!」
彼の首に腕を回した。




