右の手鏡、左の水鏡
カラスの濡れ羽色という黒髪の褒め言葉があるが、それ以上に美しい黒髪だった。
色白で、ほんのり頬が染まり、薄青の影を落とすほど、まつ毛が長い。
これでまだ、5歳だった。
唇の赤味が、益々その美しさをきわだ出せる。
華奢な身体つきに、何気ない浴衣と兵児帯が、似合う。
誰もが褒めそさすが、人を見ない。
手のひらと甲を試す違えず見ては、ブツブツと独り言を言うのだ。
この子は何を見てるのでしょうと、両親は話し合っていたが、その親にも、計り知れなかった。
とうとう、爺様婆様にもほだされて、隣村の口寄せの婆さんのところに、娘を連れて行く事になった。
案の定、隣村に入ると、わらわらと人が寄ってくる。
娘の可愛らしさは、遠目でも、キラキラとわかるほどだった。
両親に両手を引かれていたので、手のひらも甲も見ることはなかったが、周りの人や景色を見ることもなく、何やらぼーっと引かれるまま、歩いているのだった。
口寄せの婆さんの家に入ると、父親が手を離した。
その右手を顔の前に持っていくと、娘は、わっと泣き出した。
玄関先で、ワンワンと泣くのだ。
慌てて、玄関の、引き戸を閉めたが、集まっていた村人達は、怪訝な顔をしていた。
泣き声に、口寄せの婆さんが、ヨタヨタと出て来た。
「おやめなわ。
全部、わかっとるなわ。」
姿形からは、想像のつかない、凛とした声が、響くと、娘は今度はふてくされた顔をした。
整った美しい顔がゆがむと、とても5歳とは思えない、凶々しさが現れた。
思わず、母親が掴んでいた手を離したほどだった。
「さて、お上がりなわ。」
間口が狭く、奥が長く広い鰻の寝床の長い廊下を四人で歩く。
ふてくされてから、娘はむしろ従順で、黙ってついてくる。
途中の障子を開くと、両親はここで待つように言われた。
ホッとしたのがわかる。
長火鉢に、鉄瓶がかけてあり、お茶の支度と漬物が用意してあった。
廊下の隅の御不浄の場所を教えると、二人を残し、廊下の角を曲がっていってしまった。
通された部屋で、お茶を入れて飲んでると、父親が口を開いた。
「あの二人。
足音がしなかった気が。」
母親が、サッと青ざめ、話は続かないのだった。
熱いお茶が、手の中で冷めていった。
滑るように廊下を歩いていた、口寄せの婆さんが、ふすまの戸を開いた部屋は、龍神の絵が4枚の戸板に描かれている、特別な部屋だった。
「どれ、そのこにお座り。」
娘は、言われたまま、チョコンと座布団に座った。
薄く大きな座布団だったが、座り心地も良く、板の間の冷気も上がってこない。
入ってきたふすまも、部屋の内側は板張りで、まるで道場の様な部屋だった。
龍神の絵の反対側には、祭壇があり、白い瓶に、見たこともない木の枝が差してあった。
そこから、良い匂いが部屋に漂っていたのだ。
片仮名のこの字の台が、ひとつあり、ひし形をつないだ様な和紙が、何枚か垂れ下がっていて、百目ロウソクが、5本立っている。
口寄せの婆さんは、そのロウソクの1本1本に、火を灯していった。
ロウソクを背にして、娘の前にある座布団に、口寄せの婆さんが、座った。
まだ暗くなる様な時間ではなかったが、閉め切った部屋でロウソクを灯すと、陰が濃く見える。
廊下側にある欄間と、反対側の天井に格子のはまった高窓があった。
だが、かえってそれが、暗さを感じさせるのだった。
「腹をくくったなわ。
中々、剛のこわい子だ。」
婆さんが、ニヤニヤと笑う。
「お前の手には、鏡があるなわ。」
娘の顔がくもる。
ふてぶてしい態度が引っ込み、不安が広がるのがわかる。
「お前の婆様が、高慢ちきと、言い捨てたのを、お前様が言い返したら、それっきり、口をきかなくなったなわ。」
娘の手がブルブル震えだした。
「何も言わんで良い。
この婆さんは、みんな見えるからこそ、口寄せなんだなわ。」
娘が、握ってた両手を広げ、口寄せの婆さんの前に出した。
「手鏡を持って生まれると、もっと早くにあちらに引き寄せられて、人と話すような歳になる前に、帰ってしまうのだなわ。」
口寄せの婆さんは、首から下げた長い数珠玉を左手で引きながら、右手で、球を回しだした。
「お前の寿命は、3歳でつきとる。
爺様、婆様の残りを喰ってるなわ。
で、婆様には、嫌われたなわ。」
口寄せの婆さんは、ケラケラと笑った。
「婆様ってのは、大体ケチやし。」
口寄せの婆さんは、娘の右手をとり、自分の右手で、何やら文字らしき物を、描いた。
バチバチと火花が散り、手のひらの中に、竜と火焔が、渦巻く。
見えない手鏡が、歪む。
「こんくらいで、ええ。
ハッキリ見えれば良いというものでもないのが、世の常だなわ。」
今度は左手に、形のしっかりしない猫とも狸とも見える獣と水の渦巻きを出し、真ん中に納めていく。
「これなら、誰彼かまわず、精気を盗まなくても、世の中の精霊の気を受ける事ができるなわ。」
口寄せの婆さんは、じっとりと汗をかいていたが、終わると汗もスッと引っ込んでいった。
「さてさて、5歳となわ。」
娘は、いやいやをした。
「運命は、明日がわからん方がええんじゃなわ。」
手鏡が見せる未来が封じられ、あいまいな水鏡がのせらせた。
身を守るための過剰な美しい妖艶さも、水の中に溶けていくのだった。
両親の元に帰ってきたのは、普通の5歳児だった。
普通の容姿で、平凡な子供。
その上、さっきまでの過剰に美しかった娘の姿を二人共、すっかりわすれていたのだ。
「ご祈祷、ありがとうござました。」
「お気をつけて、帰りんなされなわ。」
口寄せの婆さんに見送られ、3人は帰って行った。
子供らしく娘が、お腹が空いたと、言うと、父親が笑った。
自分もお腹が空いてたのだ。
蕎麦屋による。
天ぷらそばを待つ間、ふと思い出しかけたが、すぐに忘れた。
もう、娘は無駄に人を引き付けるような容姿をしていなかったし、足をブラブラさせて、母親に叱られるような、平凡な子供になっていたのだから。
今は、ここまで。