第8話
ブラウザ上でENTERと描かれた赤いボタンをクリックすると、トップページが表示される。淡いクリーム色をした無地の背景に、ゴシック体で配置された『N市ヒーロー組合』の文字が躍る。その下には代表挨拶と沿革、コンタクト、BBSといったものが並ぶが、グレイシスが書いた堅苦しいほど真面目な挨拶文のページ以外は、まだ工事中だった。
とても元敏腕営業マンが企画したとは思えないほど簡素で味気ない画面になっているのは多分、グレイシスの技術がそれに伴わないからだろう。ページの一番下に置かれたアクセスカウンターは、公開一週間にして十六という数字を弾き出していた。ちなみにその内の七回は俺が気になって覗いた回数で、五回はグレイシスがレイアウトチェックのために確認したときのものだ。
世界の広大さから考えれば、のべ十六人という数字が微々たるものであるのは否定しない。だけど、取りあえずスタートを切ったという事実を強調しておきたい。何にせよ、言いだしっぺの割りに何もできなかった俺が、文句を言えるわけもないのだから。
「もう少し魅力的なコンテンツが必要なのだと思う」
食後のコーヒーを啜りながらグレイシスが呟く。今日も前回と同じファミリーレストランで、二人でパソコンの画面を覗き込んでいた。傍らにはグレイシスが注文したグリルチキンの鉄板が残っていて、その隣には例の如くチキンを三分の一ほど分けてもらった俺の取り皿が並んでいる。お冷を持ってくるタイミングを狙うように周りをうろつく女の子を焦らすように、俺はちびちびとグラスの水を飲んだ。
「こういうのは、人目に触れて初めて効果を成すものだからね。口コミによる拡散を期待するにしても、その最初の火種となるものがどうしても欲しい」
それならグレイシスの素顔を出したグラビアでも掲載すれば、女性に人気が出るのではないかと思った。だけど、公に正体をばらすことになるからそれはできないのだろう。かといって、他にいいアイディアも思い浮かばない。
「訴求相手がはっきりしないというのは、やっぱり難しいな。普通は相手が男性なのか女性なのか、年齢はどれくらいなのか、仕事は、生活リズムは……、そういったものを意識した上で、じゃあどうすればその狙った人たちに効果的に届くのかを考えて広告を出す。だけどヒーローはどうかといわれると、正体がわからない分、その実像が見えてこない。男性が多いのか、実は女性が多いのか、年齢層のピークはどこなのか。ヒーローの実態調査が行われていないのだから、そんなのがまるでわからない」
万人受けするものを作るのが一番難しいのだと、言い訳するみたいに彼は呟いた。だとしたら、このファミリーレストランというのは、実は凄いものなのかもしれない。ハンバーグも、サラダも、コーンスープも、どれも感動するくらい美味しいものは出てこないけど、誰もがそこそこ満足できるクオリティーにはなっていると思う。だから平日の夕方だというのに、席は子供からおばあちゃんまで、様々な性別や年恰好をした人で埋まっていた。それは一つの理想を体現した姿なのかもしれない。
とにかくサイトが工事中ばかりでは話にならないということと、グレイシスが営業時代に知り合ったブロガーのツテを頼ってみるということを話し合って、その日は別れた。
なかなか物事は上手く転がりだしてはくれない。そんなことを思いながらアパートの郵便受けを覗くと、また面接を受けた一つの会社から、今後の成功を祈る通知が届いていた。無責任に祈って誰かに任せるくらいなら、責任を持って採用してみて欲しいものだと思う。
酒を飲みたい気分になって財布覗いたけど、それを買う金すらなかった。
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次の日の朝になって、電話の音で目を醒まされた。時計を見ると十一時を回ろうとしている。午前中からのバイトがない分、遅い朝だった。
布団を出てカーテンを開けると軽く伸びをした。もう朝日とは呼べない陽の光だったけど、体内時計は正しくリセットされたらしい。幾分眠気が晴れていくのを感じた。そして、卓袱台の上で尚も存在を主張し続ける携帯電話を手に取った。
最初、面接の通知かと思ったが、今はどこにもエントリーシートを出していないことに思い当たる。ディスプレイには樋口和葉と表示されている。知らない名前だった。だけど名前がちゃんと出てくる以上、俺が登録した相手なのだろう。
焦らされてヒステリックになったような電話の音に根負けして、通話ボタンを押す。すると、相手はすぐにわかった。あの、橋建設予定地で会ったピンクだった。
「どうしてなかなか出てくれないんですか。酷いじゃないですか」
挨拶もそこそこに喚かれる迫力に気圧されて、俺は頭を掻く。「悪い、寝てた」
「ふーん、随分とお寝坊さんなんですね」
あ、そうか、やっぱり正義の味方に昼も夜もないんですね。溜息混じりに呟かれたあとで、勝手にそう納得される。向うの頭の中でどんな物語が形成されたのかはわからないけど、否定するのも面倒だったから放っておくことにした。
「それで、何か用か?」
「何か用がないと電話をしちゃいけないんですか?」
「普通はまぁ、そんなもんだろ?」
そう返すと、呆れ返ったような溜息が聞こえた。「そんなんだから女の子にモテないんですよ」
前に一度だけ、それも十分程度しか話もしていない女子高生に、俺の何がわかるのだろう。そんな反発心が沸いたけど、当たっているから無闇に言い返すこともできない。黙っていると、そんなことはどうでもいいのだけど、と向うから話題を変えてきた。
どうでもいいのか――。
「折角連絡先教えて上げたのに全然連絡くれないから、仕方なくこちらからかけてみたんです」
感謝して欲しいものだわ、と言わんばかりの語気に、俺は首を傾げる。人の知られたくない秘密をネタにアドレスの交換を迫る行為は、果たして教えて上げたと言われるべきものなのだろうか。
「どうしてわざわざ脅迫者に自分から連絡を取らなければいけないんだよ」
「脅迫? 何のことですか?」俺の言葉に惚けると、何食わぬように和葉は続けた。
「それで、最近出動とかしてないんですか? 何かあったら教えてってお願いしたのに」
「教えたところで、どうするんだよ」
「勿論、駆けつけて戦います」
臆面もなくそう宣言する彼女は、恐らく本当にそうするのだろう。たまたま見つけた悪の組織相手に、わざわざコスプレをして戦いを挑むようなヤツだ。止めたってきっと、聞きはしない。だけど、あの建設予定地での動きを見る限りだと、とても戦力になるとは思えなかった。寧ろ足手まといにもなりかねない。それに――。
「お前勘違いしているよ。言っただろ? 別に俺はヒーローでもなんでもないって」
苦しい言い訳だと思いながらも口にしたところで、軽く流された。
「あぁ、はいはい、そうでしたね」
露ほども信じていない白々しさを隠すつもりもないところが、腹立たしさを通り越して呆れさせる。
「そもそも、何でそんなにヒーローに拘るんだよ。あんなの肉体労働だし、規則はやたらあるし、お役所仕事だし、危険だし、給料安いって聞くし――」おまけに借金まで背負い込むかもしれないし。「いいことなんて、何一つもないだろうに」
俺が偽らざる本音の不満を漏らす。これが公営の団体でなかったとしたら、ブラック企業と言っても差支えがないだろう。痛い思いをして、綺麗な顔に傷がつくリスクを考えると、とても女の子に向いている仕事とは思えないし、勧められるものでもない。男でも嫌がるようなもののどこにそんな魅力を感じているのか、俺はそれが心底不思議だった。
対して和葉は暫く考え込むように押し黙り、そして答えた。
「……だって、格好いいじゃないですか」
「格好いい?」
訊ね返すと、今度は確信に満ちた力強い声が聞こえた。
「そうです。正しいことをしている姿っていうのは、格好いいんです。誰も立ち向かえないような巨悪と戦って、弱い人を守って、そんな姿を見て周りの人は勇気とか、何か胸が温かくなるようなパワーをもらうんです」
そんなヒーローってやっぱり、格好いいじゃないですか。少し熱く語ったあとで、和葉は恥らうようにそう付け加えた。
胸が温かくなるようなパワーをもらった周りの人というのは、実は和葉自身のことなのかもしれない。彼女の話を聞いて、そんなことを思った。
和葉は昔、そんな正しい心を持った者に出会い、その様に憧憬を抱いたのかもしれない。そして、そこに俺たちヒーローの姿を重ねた。だけど、ヒーローが誰しもそんな正義の心を持っているわけではないと知ったとき、彼女はどんな顔をするのだろう。少なくとも俺は本部からやれと言われているからやっているのに過ぎないし、グレイシスなんかはもう少し、ビジネスライクな姿勢で臨んでいるように思える。
そう、これは所詮、数ある仕事の一つでしかないのだ。そうである以上、俺たちに必要なものは正義の心なんかでは、決してない。正しい行いが何であるかとか、そんこと考えたこともない。
それなのに和葉は、強い憧れだけを信じ続けるように、ひどく真剣な声で訊いてくる。
「お兄さんはどうして、十数年前に突然ヒーローが現れだしたと思いますか?」
「さぁな」思いもよらなかった質問に、俺は碌に考えずに答えた。和葉も俺の答えなんて期待していなかったのだろう。ただ、続けた。
「それはきっと、誰かが願ったからですよ。そんな人がいて欲しいって、そんな人が必要なんだって、誰かが……」
それはまるで、自分の祈りを『誰か』で代弁させたもののように感じた。昔、小さな女の子の願いによって俺たちが生まれた。迷惑な話ではあるものの、その設定はひどくロマンティックに思えた。
悪くは、ないかもしれない。
「誰かに求められている限り、彼らはヒーローであり続けるのです」
だから、そんなふうに求められる存在になりたいのだと、和葉は呟いた。その言葉は、俺の心の鐘を静かに打った。
俺は――誰かに必要とされているのだろうか。今まで幾つもの会社から不要の烙印を押され、社会から爪弾きにされている俺が、本当に誰かから求められているというのだろうか。だけど和葉のその考えは、温かい日光に干したての毛布に包まれたような、そんな安心感を与えてくれた。ヒーローでいる限りは誰かに、少なくとも和葉にはそこにいてもいいのだと、言ってもらえる気がした。
それと同時に、あるアイディアが思い浮かぶ。
「ヒーローの存在っていうのは、本当に求められているものだと思うか?」
「え?」
そんな話に俺が乗ってくるとは思っていなかったのだろう。和葉は面食らったような声を上げた。だけど、俺は構わず繰り返す。いつの間にか、携帯電話を握り締める手には強い力が込められていた。
「ヒーローが戦う姿を、みんな見たいと願っていると思うか? そんな姿を楽しみにする誰かがいると思うか?」
「それは、勿論」
「お前、作文は得意か?」
「え? まぁ、国語の成績は悪くないですけど……?」再び和葉の怪訝そうな声が聞こえてくる。その答えに満足して、俺は最後に訊ねる。
「お前は、俺たちの仲間になりたいか?」
だけど、その質問の答えなら、訊く前からわかっている。
「はい!」
躊躇いもなく言い切る和葉の声を聞いて、俺は一方的に通話を切った。そして携帯電話のアドレス帳から別の電話番号を呼び出すと、ダイヤルボタンを押す。するとすぐに、渋みをきかせたグレイシスの声が聞こえた。
昨日のことでちょっと思いついたんですけど。俺はそう告げると、ある計画を話し始めた。