第6話
バイトが終わって携帯電話を見てみると、メールが入っていた。実家の母親からでも、ヒーロー本部からでもないメールなんて久しぶりだなと若干感動しながらそれを開く。
差出人はあの、キャプテングレイシスからだった。
百瀬ヶ淵の神社正面にあるファミリーレストランに着いたのは、午後六時を少し回ったところだった。一階の駐輪場に愛車のママチャリを留めると、二階への階段を上がる。六時半に待ち合わせの約束だったから、まだいないかもしれない。そう思いながら店内を覗くと、時間をきっちりと守ることが大人の嗜みとでも言わんばかりに、窓際の席で優雅にコーヒーを啜る男の姿があった。
一言で言えば様になっている。まるで映画かドラマのワンシーンみたいだった。何でもない風景のはずなのに、彼のいるそこだけが華やいで見える。そのオーラに惹きつけられるのか、ただ座っているだけなのに周囲の女性の目がひっきりなしに彼に向けられるのがわかる。その度に格好いいだとか、素敵だとか、そんな賞賛の声が聞こえてきた。
その人、実はただの無職ですよ。そう教えたら、その周りの女の人たちはどういう顔をするのだろう。それなら私が養ってあげる、という人が彼なら現れそうで、つくづく世の中というのは不公平だななどと、勝手な言いがかりをつけたくなる。羨ましい。
「お久しぶりです」
最後に会ってからまだ、一週間も経っていない。そんなに久しくはないけど、適当な言葉が思いつかずにそう声を掛けた。憂えげに窓の外の横断歩道を渡る人たちを見下ろしていたグレイシスの顔が上がると、人好きするような笑顔が浮かんだ。
「随分と早かったんだね」
そう言う彼の腕時計はまだ、六時十五分前を指していた。それは敏腕営業マン時代の名残なのだろう。俺が就活用に買った二万円の腕時計とは比べるのもおこがましいほど、高級なものに見えた。もっとも、彼なら俺が着ているような量販店の安物の服でさえも、どこかのブランド品みたいに着こなしてしまうに違いない。
「そちらこそ、いつからいたんですか?」グレイシスの正面に座りながら訊ねると、彼は小さく肩を竦めた。
「一時間くらい前から、かな。時間があるのだけは、この仕事のいいところだからね」
皮肉とも自虐ともつかないことを言って彼は笑った。そして、飯でも食べながら話をしようと、メニューを渡してくる。そんな彼の一挙一動をずっと見つめていたのか、ショートカットのウェイトレスが呼ばれてもないのにやってきた。
ご注文でしょうかと訊ねる彼女の声は、いつもより半音程度上ずっているように思えた。髭面のイケメンを前に緊張しているのだろう。注文票を手にしたままグレイシスに熱い視線を送る少女は、掛け値なしに可愛かった。それに気づいていないわけがない彼はごく自然にハンバーグセットを頼み、俺はドリンクバーだけを注文した。財布の中の野口英世が、失踪したきり帰ってこないのだから仕方がない。グレイシスは物憂げな目で俺を見たけど、ウェイトレスの少女は飲み物しか注文できない哀れな俺のことなんて眼中にないらしい。かしこまりましたとグレイシスにだけ笑いかけると、小鹿のように駆けて行った。今頃は裏で、ウェイトレス仲間とはしゃいでいるのかもしれない。
気づけば、周りを取り囲んでいた殺伐とした空気が和らいでいるのを感じた。自分が太刀打ちできないくらいの美人の恋人が現れるのではないかと戦々恐々としていた女たちが、何の変哲もない俺という男の出現で安心したのかもしれない。俺自身は深く傷つきながらも、どうやら世間の平穏を一つ守ったらしい。
「それで、メールでもらった相談したいことってなんですか?」
「あぁ、例の件について、君の意見を聞きたくてね」
例の件というのが先日市役所で話していた、団体交渉についてのことだというのはすぐにわかった。作戦会議というわけだ、と向かいに座る髭面の男は秘密基地で遊ぶ子供みたいに目を輝かせた。
「役所相手に団体で交渉をしにいくといっても、現状だと俺と君しかいないわけだ。これが労働者としての我々の総意ですと言ったところで、取り合ってくれるはずがない。この街で活動するヒーローが二人だけなんて、まずあり得ないからね。さしずめ俺たちの最初の課題としては、いかに仲間を集めるか、ということになる」
それについて君のアイディアを聞かせてもらいたいんだ。そう、期待に満ちた視線を送られる。だけど、いきなりそんなことを言われても、そうそう良い考えが浮かぶわけがない。
どんな些細なことでもいいからと言われてまず最初に思いついたのが、市役所の特殊治安維持課に問い合わせ、ヒーローの名簿を開示してもらうというものだった。相手がどこの誰だかわかっていれば、あとは直接会いに行くなり、電話で協力を訴えるなりできる。だけど、この考えには一つ問題があった。ヒーローはその正体を秘匿すべし。原則としてそう謳っている行政側が、名簿の開示を要求したところでおいそれと教えてくれるとは思えないということだ。どうせ個人情報保護だとか、機密保持だとかの得意な常套句でかわされるのがオチだ。
「正体秘匿の原則は、ヒーロー自身のプライベートを保護するというのは建前で、実はヒーロー間の横の繋がりを絶つためのものなんじゃないかって、俺は思っている。自分以外のヤツがどんな仕事によってどれだけの報酬を得ているかを知らなければ、自らの正当な対価も推し測れずに、自分のおかれている現状に疑問を持ちにくくなる。誰かが不満を抱いて改善を要求したところで、みんながこれで納得してやっているのに、お前だけ文句を言うのかと責め立ててやれば、泣き寝入りさせることもできる。みんなが同じ不満を抱えていることも知らないからね。どこの誰が味方かわからなければ、互いに団結して抗うこともできない。そうして一人ひとりを個のままにしておくことで、この不条理なシステムを成り立たせているのではないのかな」
「じゃあ、その原則を無視して名乗り出てもらえばいいんじゃないですか?」
「どうだろう。それをするということは、我々はルールを破ることになる。社会のルールから逸脱した組織がどんなにまともな批判をしたところで、それが正当な評価を受けるとは疑わしい。寧ろ、交渉の際、それはウィークポイントになりかねない」
そもそも誰に呼びかけをしていいのかさえもわからないのだと、グレイシスは苦虫を噛み潰したような顔をした。俺たちのようにたまたま出会えたのが幸運で、その幸運の輪を更に広げていくのには困難が付きまとう。作戦会議第一回目にして、希望に満ちて出航した船がいきなり暗礁に乗り上げた気分だった。
まぁ、焦っていきなり答えを出す必要はないさ、とグレイシスは言う。だけど、秋口から本格的に始まる来年度予算案の編成に捻り込むには、少なくとも夏が終わる前には第一回目の交渉の場を持ちたいとも漏らしていた。それから逆算すると、あと四ヶ月ほどしかない。あまり悠長なことを言っている時間もないわけだ。
頭を抱えるようにテーブルに肘をつくと、そこにようやくハンバーグセットが運ばれてきた。嫌味なまでに弾ける肉汁のメロディーと暴力的なまでの肉の香りが、目を伏せようとも容赦なく襲い掛かってくる。体に染み付いた記憶というものは厄介だ。匂いを嗅ぐだけでその味を思い出し、喉が鳴る。この三日間キャベツともやしだけしか得られずに、おまけに昼食を抜かれた胃袋が、東大の講堂を占拠した学生のように高らかと不当な要求を突きつけてくる。我々に肉を食わせろ、と。
これは拷問に近いな、と歯を食いしばっていると、目の前にふと、三分の一ほどの大きさのハンバーグとライスが乗った取り皿が差し出された。顔を上げてグレイシスを見ると、彼は飼い犬に食べてよし、と許可を与えるように頷いた。
「最近食が細くなってきてね。だから、もし良かったらだけでど、君も少し手伝ってくれないかな?」
食べ残してしまうのも勿体無いしね、と嫌味もなく付け加える彼の顔が、救世主に見えた。彼の言葉が本当だとは思えない。だけど施しは受けられないと、人間としてのプライドを主張する俺は、人の好意は素直に受けておくべきだという俺に容易く踏み潰される。今なら猿、鳥、犬がなぜ吉備団子ぐらいで簡単に心を売り渡したのかがわかる。背に腹は代えられない。
――どこまでもついて行きますぜ、兄貴!
挽肉の一粒ひとつぶをかみ締めながら、俺は心の中で忠誠を誓った。組織の結束というのは、こうやってできていくものなのかもしれない。
ものの数分で取り皿を平らげた俺を見て、グレイシスは苦笑していた。彼はまだ、綺麗に切り分けられたハンバーグの、最初の一切れを頬張ったところだった。食べ方の作法にしても所作の一つひとつが丁寧で、彼のきっちりとした性格が表れているようだった。
もしかしてデザートもあった方が良かったかな、とメニューに手が伸びたけど、さすがにそれは断った。純粋に好意だけで言ってくれているのかもしれない。だけど俺もヒーローである以上、ヒーローの財布事情なら大方は予想がつく。これ以上、借りを作るわけにもいかない。
メニューを押し返そうとしたとき、そこでふとあるものに目が留まった。新緑のケーキフェスタという謳い文句に、ではない。そのメニューの隅の方にプリントされているウェブアドレスにだ。最近の飲食店ではそんなふうにメニューのカロリーだとか、食材の原産地といった情報をウェブ上で公開しているところが少なくはない。もしかしたらそこに掲示板を設置して、店舗や料理に関する口コミの共有なんかをやっているところもあるのかもしれない。そうすることで、店はメニューに載せきらない情報を、不特定多数の人間に発信することができる。そんな意図があるからだろう。
「どうかしたのかい?」
ハスキーで艶っぽい声がした。俺はメニューから視線を上げると、丁寧にフォークにライスを盛るグレイシスを見つめた。まるで女性と一緒に高級フランス料理店でフルコースを楽しんでいるみたいで、様になっていた。
「さっきの話なんですけど、ホームページを作るっていうのはどうですか?」
ホームページ? とグレイシスが口の中で繰り返す。それに俺は頷いた。
「最近は消費者と情報をやり取りするために殆どの企業がホームページを持っています。例えばこのメニューのものもそうですし、就活でエントリーの申し込みをするのだって、今では大概ウェブからだ。そうすることで企業は、興味を持ってもらった不特定多数の人と、一辺に接触することができるわけです」
不特定多数という言葉を、俺は強調した。そう、ネットの世界では大抵相手は個ではなく、不特定多数となる。つまり、相手がどこの誰だかわからないまま、情報を報せることができるし、受け取ることができる。
「要するにそこにきてくれたヒーロー相手であれば、匿名性を維持したまま接触できる、というわけか」
察し良く呟かれた答えに、俺は頷いた。
「そこに俺たちの目的を記して、その考えに賛同してくれる人に対しては会員登録をしてもらう。ネットは四六時中、全世界に開放されているわけだから、案外効率的に仲間を集められるかもしないですよ」
なるほどと、髭面の男は目を輝かせた。「それはやってみる価値ありそうだな」
重く大きな岩が転がり出すような手応えを感じた。それは笑みを浮かべたグレイシスも同じなのだろう。あとは加速度が伴えば、それは一つの大きなムーブメントとなる。堰き止めようとしても容易にはできないくらい力強く、巨大なものに。
「それで、君はホームページを作れるのかい?」
期待に満ちたグレイシスの目を強く見据えながら、俺は答える。
「それは勿論――」できるはずがない。俺がパソコンを使ってできることといえば、簡単な文章作成とネットサーフィンくらいがせいぜいだ。グレイシスはどうなのかと訊ねると、彼もまた肩を竦めた。
「まぁ、これに関してはどちらかが勉強しながらやっていくしかなさそうだな」
そう決着がついたところで、不意にズボンのポケットに押し込んだ携帯電話が鳴った。グレイシスに目線だけで許可を取ると、それを取り出す。そしてディスプレイに映し出された『ヒーロー本部』の文字を見て、俺はげんなりとした気分になる。それを見せると、グレイシスも同情気味に苦笑を浮かべた。
携帯電話はまだ手の中で震動していた。話の内容なら、聞かなくてもおよそ見当はついている。このまま無視して出ないことも一瞬考えたが、やはりそれもできない。
まがいなりにも俺は、ヒーローなのだから。
意を決して通話ボタンを押す。するとこちらの返事も待たずに、実家の母親よりも年上そうなお姉様の声が聞こえてくる。彼女はとある場所を告げた。
そして最後に俺の名を呼び、高らかに叫んだ。
「さあ、出動よ!」