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第5話

 カーテンを開けると、眩しい朝日が六畳間のワンルームを満たした。家賃重視で選んだ物件だったが、日当たりがいいのはもうけものだった。そうして全身に太陽のエネルギーを行渡らせると、朝食の準備にキッチンへ行く。ケトルで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れると、冷蔵庫を覗いた。三日前に最後の一切れを齧った食パンは、どんなに願をかけても復活することはなく、虚しい空間だけが広がっていた。


 一度ドアを閉め、目を強く瞑ってからもう一度冷蔵庫を開ける。結果は同じことだ。昨夜もやしだけで満たしたお腹が、孤立した敵地の中で必死に白旗を振るように、状況の絶望さを伝えようと鳴った。


 これじゃ、まるで減量中のボクサーだな。そんなことを考えながら、仕事を失って久しいトースターを見つめる。こんなトースターでさえ職にあぶれる時代なのだ。景気がいいわけがない。


 コンビニのバイト代が入るのはまだ一週間ほど先のことだ。それに、それが入ってきたところでその大半は、就職のための説明会だとか面接会場への移動費で消えることになる。安定した収入を得るためにもまず投資が必要で、俺の豊かな食生活の復活は、遥か先のことになりそうだった。


 固形物は諦めて、コーヒーの入ったカップだけを部屋の中央の卓袱台まで運んだ。昨晩書きかけたエントリーシートを汚さないように脇に片付けると、テレビをつける。そこで一つ、欠伸が漏れた。


 昨晩は久々に夜更かしをした。昨日中に書き上げると心に決めたエントリーシートが片付かなかったからだ。俺くらい就活のベテランになってくると、自己アピールだとか、学生時代に頑張ったことだとか、そんなものに次第に鉄板ネタができてくる。今まではそれを書き写せばいいだけで、一枚一時間もあればできていた。だけどそこに迷いが生じてくるようになったのだ。何度も面接を受けたところで良い返事がもらえないのは、その鉄板ネタが間違っているからではないか。もっと良い自己分析ネタがあるのではないか。そんなことを考え出すと、ペンはなかなか進まなかった。


 人はいつまで経っても迷うものだと、子供の頃実家の裏に住んでいたおじいさんが言っていた。どれだけ人生経験を積もうとも、それはなくならない。これが絶対的に正しいと信じたあり方でさえも近づくたびにわからなくなり、若輩の者からも諭され、学ばされる。人とは所詮、その程度のものだ。迷いがあるからこそ、人はいつまでも成長し続けられる。裏のおじいさんが八十年かけて辿り着いた境地に、俺も二年弱で辿り着こうとしている。

 就活というのは、人生経験を加速させるものらしい。


 コーヒーだけの味気ない食事を終える頃には、朝のワイドショーでは今日の特集が始まっていた。関東地方では悪の組織が繰り出した新手の怪獣が可愛いと、子供連れやカップルを中心に人気で、連日行列ができているらしい。お陰で連休の客足を見込んでいた市営の動物園には人影が疎らだそうだ。園長が憤っているその背後で、ライオンが暇を謳歌するように寛いでいた。


 相変わらず悪の組織の連中は卑劣な手を使う。


 テレビを見ながら着替えを済ますと、歯を磨き、そして寝癖を直した。空になったカップを流しに置きに行く勢いでアパートを出ると、愛用のママチャリに跨った。


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 バイト先のコンビニまでは、自転車で十五分ほどだった。おはようございますと声を掛けながら入っていくと、一人でレジに佇んでいた先輩が、ようやく話し相手ができたというように安堵の表情を浮かべた。その先輩は野球やサッカーの話を一頻りしたところで、一時間ほどして泉さんと交代していった。


「君も暇なんだね。折角の連休なんだから、彼女と旅行でもしてこればいいのに」


 制服に着替えて顔を出すなり、泉さんは自分のことを棚に上げた発言をする。どうせ彼女なんて、想像上の生き物でしかないことを知っているのだろう。そう言う泉さんには旅行に連れて行ってくれる彼氏はいないのかと訊くと、余裕たっぷりの笑顔を返された。


「それはまぁ、秘密かな」


 例え特定の存在がいなくても言い寄る男は多いのだろう。女はアクセサリーだなんて誰かが言っていたけど、もしそうなら彼女はダイヤモンドよりも華やかな輝きを放っている。それを身に着けていたいという欲求を持つ者は、少なくはないはずだ。こうして青い縦縞のペアルックで並んでいるだけで、男として優越感を持ってしまうくらいに彼女は魅力的で、同時にそんなことで喜んでしまう自分の器の小ささを思い知らされる。


 休日の店は、いつも以上に人が少なかった。オフィス街にあって、サラリーマン相手が主だからだろう。連休中まで会社のために奉仕するような奇特な人なんていないのだという泉さんの言葉通り、訪れるのは彼女目当ての近隣住民か、暇を持余した学生が立ち読みに現れるくらいだった。


 それで、ぼうっとしているよりは体を動かしていた方がいいと言い出した泉さんは、今日何周目かのモップをかけている。床のタイルはもうピカピカなのに、コンマいくつかの平面度を追求するように更に磨きをかけていく。店の床全面を鏡面仕上げにでもするつもりなのかもしれない。その口元からは、相変わらず有線放送とは関係ない鼻歌が零れていた。始めは文学的なフォークソングだったのに、次第にネタが切れてきたのかもしれない。気づけば俺が高校生くらいのときに流行ったロックナンバーに変わっていた。そういう歌も歌えるのだと思いながら、選曲がようやく俺と同年代だと信じられるものくらいに下がってきたことに安堵していた。楽曲が耳に馴染んでいるせいかもしれない。彼女の歌声はいつもよりひどく心地よかった。


「泉さんって、歌上手いですよね」


 ふと目が合って小首を傾げた彼女にそう感想を告げると、珍しくはにかんだ笑顔を見せた。


「ボイストレーニングとか受けてたんですか?」

「昔、アイドルになりたかったんだって言ったら、笑う?」

 その問いかけに首を振ると、泉さんは安堵するように目を瞬かせた。


 アイドルに憧れるのなんて、年頃の女の子なら一度はあることだ。あの可愛くてキラキラとした存在に惹かれないわけがない。だけど、本当のことをいうと少し意外だった。背もあるし、可愛いというよりは綺麗系の顔立ちの泉さんは、アイドルというよりはモデルというイメージな気が合っていた。それに彼女が好んで歌う曲も、フレーズの合間に思わず名前を叫んだり、合いの手を入れたくなるようなものではない。そう言うと彼女は、なぜだかその豊かな胸を張った。制服の縦縞が歪むスタイルの良さは相変わらず圧巻だった。


「だってアイドルって暇という意味でしょ? 好きな歌を歌って、あとは自由にやりたいことができるのなら、やっぱりアイドルの方がいいに決まっているじゃない」


 そのアイドルは『IDLE』であってアイドル違いだという突っ込みは、あえて入れなかった。ガードが下がっているのはカウンターを誘っているからなのか、単に無防備なだけなのか判然としないから、そこは打ち込んでいかないのが俺の優しさだ。いくら年上であっても、女の人に傷をつけるのは忍びない。


 それにしてもこの自称自由を求めて闘う戦士は、一体いつからその大志を抱くようになったのだろう。そう想うと少し呆れた。少なくともアイドルに憧れるくらいの歳にはもう、その傾向を持っていたわけだ。


「泉さんってもしかすると昔誰かに攫われて、小さな貨物船で海の向うまで運ばれて、狭い部屋に監禁されながら強制労働をさせられていた過去とかないですか?」


 見るからに少し世間離れしたお嬢様然とした彼女だけれど、実は見かけによらない、自由を渇望するに相応しい壮絶な過去があったのかもしれない。だから思いつきでそう訊ねてみたのだけれど、泉さんは予想以上に呆気なく、不思議そうに瞳をクルクルとさせながら小首を傾げた。


「うん? なんで?」

 ――あぁ、やっぱりそうですか。


 どうせそんなところだろうと思っていたから、落胆はなかった。だけど、これ見よがしに溜息は漏らす。泉さんにはその姿も目に入ってはいなかったのか、何やら楽しそうに「あ、それいいかも」と小さく手を叩いた。何がいいのかは気になったけれど、追求すると深みにはまる。本能がそう囁くのだから、放っておくことにした。訊いてもどうせ、女は秘密を着飾っていきていくものだからとか何とか言って、教えてはくれないのかもしれない。だとしたらあとは、その秘密が男が思わず脱がせたくなるような魅力的なものであることを祈るしかない。


「ああ、そういえばさぁ」触らぬ神に――と放置を決め込んだ矢先に、泉さんは俺に向き直った。「溜息をつくと幸せが逃げちゃうんだよ。知ってた?」


 さも自慢するように一般的に流布されている都市伝説を披露する彼女に、また溜息が出そうになる。もしかしたらここ最近の俺の幸せを奪っているのは泉さんなのかもしれない。


 それはまた貴重な忠告ありがとうございます、とでも返そうとしたところで、泉さんの表情が強張るのが見えた。まるで信じられないものを見たというようなその視線の先には、二人組みの男がいた。ガラス張りの自動ドアに近づいてくるところを見ると、どうやら客らしい。二人とも、世間では連休というのにきちんとスーツを着こなしていた。歳は両方とも三十代の半ばくらいだろうか。家に帰れば幼稚園くらいの子供がいてもおかしくない感じがした。家族や恋人や友達と戯れるひと時を投げ打ってまで、彼らは会社に奉仕している。それが、泉さんには信じられなかったのかもしれない。


 それはきっと、彼女の言い出しそうな言葉を探るなら、社会という巨悪に蒙昧に従う愚かな下僕というところなのだろう。だけど彼女はそんな下僕たちのお陰で毎日新鮮な食料にありつけることや、ネオニートが部屋から一歩も出ないで巨額を稼ぐことができることを知っているのだろうか。俺にはそんな彼らが、やっぱり立派な戦士に思えた。


「いらっしゃいませ」


 自動ドアが開いてレジから声をかけると、紺色のスーツを着た背が高い方の男が愛想よく笑い返してきてくれた。まだモップを片手に持つ泉さんも一応挨拶は口にしたものの、表情は相変わらず固いままだった。二人が缶コーヒーと煙草を買って出て行くまで、泉さんはじっとその二人を見つめていた。


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