第4話
これは髭面の男から聞いた話しだ。市役所のソファーに沈みながら、男は淡々と語りだした。
彼は以前にも別のヒーローと出会ったことがあるらしい。そういう巡り合せなのだろうと、男は言ってかすかに笑った。
その同業者は、戦闘スーツを着ていてもわかるくらいに痩せ細った奴だったらしい。タンポポの綿毛みたいに、風に吹かれただけで飛んでいくんじゃないかって、そんなふうに思えるくらいに。実際、走るだけでもふらつくぐらいだったし、お陰で怪人やら戦闘員相手でさえも相当、ボコられていたみたいだった。
聞けばあんまり飯を食べられてはいなかったらしい。
そいつは要領の悪い奴だったから、戦いに行くたびにそこそこの被害を出して報酬を減らしていた。毎月、食うに困るくらいの手取りしかなく、今月の俺のようにマイナスになることさえざらだったようだ。だからそいつはいつも飢えていて、ふらふらだった。それでも彼は一度も、不平や不満を言わなかったのだという。
どうしてそこまで誰かのために頑張らなければならないのかと、髭面の男は訊いたらしい。すると何の迷いもなく彼は答えた。困っている人を助けるために俺たちはいるのだから、と。誰かのために、自分ができる最大限のことをしてあげられるなんて、それは素晴しいじゃないか。そう話す姿を見て、そいつこそが本当の正義の味方なのだと思ったという。
だけどそいつはヒーローでありながら、ヒーローであり続けることはできなかった。
その男は今どうしているのかと訊くと、髭面の男は表情をなくして俯いた。まるで床のタイルに張り付いた汚れから運命を占おうとしているみたいに長い時間凝視しながら彼は、ただ呟いた。
――そいつならもう、死んだよ。
俺は目を瞠った。その言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
確かに俺たちが従事するのは暴力の世界だ。パンチやキックで相手を殴り倒しながら、騒動を納めていく。言われてみれば互いに暴力を振るう以上、そこに完全な安全が保障されているわけではない。だけどなぜだか俺は、安全なボードの上で遊んでいるような気分でいた。子供の頃に良く見た特撮では最後にヒーローが必ず勝つように、茶番じみたその舞台の上では危険性なんて見当たらなくて、ましてや死なんてものがそこに存在するだなんて、まるで頭になかった。
思わず俺は唾を飲み込む。髭面の横顔を見ると、彼は黙って頷いた。どうして助けることができなかったのだろう。そんな無念を滲ませるように。
そして俺の動揺を見透かしたように男が続ける。
「そいつには恋人がいたんだ。どうやらその彼女には、自分はサラリーマンだって言っていたらしい。本当は定職に就き続けるほどの要領なんて持ち合わせてはいなかったのに。ところがある日、そいつがいつも通り平日の昼間にパンの耳をもらいにいっている姿を、彼女に見られてしまった。それはもう、酷い有様だったんだろう。自分に嘘をついていたからなのか、パンの耳ごときを必死にせがんでいた姿が情けなかったからなのか、彼女がヤツの何が許せなかったのかはわからない。だけど結局そいつは振られ、そしてそのストレスから胃に穴が空いて血を吐いた。弱りきった体にはそれが最期の一押しになったらしい。そのままそいつは――」
最後は言葉にできなかったみたいに喉を震わせていた。一度結んだ口元がわななき、そして込み上げてくるものを抑えきれなくなったように、ただ一言漏らす。
俺の兄貴だった――と。
ヒーローでなければ、そいつは死ななかったのかもしれない。パンの耳をもらわなくても生活できるほど豊かであれば、死ななくてよかったのかもしれない。そいつに彼女さえいなければ――それはまぁ、因果応報というやつかもしれないけど。
酷くいたたまれない気持ちになった。その告白を聞いて、どんな感想を並べればいいのかわからなかった。そんなふうに混乱する俺を、髭の男はまた真剣な眼差しで見つめてくる。
「ヒーローがヒーローであるために最低限必要なもの。俺は、それは生活の保障であると思う」
右手で握り締めた拳を左の掌に叩きつけながら、男は先程の質問の答えを呟いた。その答えに、俺は素直に頷く。さっきの男の話ではないけれど、腹が減っては戦はできぬというのを地でいくものだ。ヒーローというのは確かに体が資本なのだから、それが崩れ去ってしまえばヒーローですらいられない。
それにはやはり金がいる。綺麗ごとでは済まされないほどに、それは真実だった。もしその考えを否定するのなら、それこそ社会システムそのものを変えていかなければならない。
「この制度の運用自体まだ日が浅く、洗練されたものじゃない。公には指摘されないが、俺たち側にとってすれば非常に不平等だって感じるところは少なくはない。賃金に関することだとか、雇用体系に関することだとかね」
大本の特殊治安維持法自体が、議会制民主主義という名の数の暴力で可決されている。その発症率の低さから、この国中で合わせても一万人にみたない俺たちの代弁者は、当時そこにはいなかった。つまりは欠席裁判にかけられたようなものだ。俺たちを縛る重要な法案は、俺たちの知らないところで練られ、当事者でない者たちが決め、運用が始められた。そこにある歪みも、苦痛も、誰も知らないまま。そんなものが適正に機能するわけがなく、だからそれらは須らく是正されるべきものなのだと、男は言った。
それは魅力的な考えだと思った。要するに労働条件の改善というわけだ。業務を続けられなくなった者への救済。今の俺や彼の兄のように、負債を背負い込むような者への救済。この業務に従事する上で覆い被さってくるリスクを排除し、現状の不平等さによって生じる不幸を、きっとなくそうとしているに違いない。
「でも、どうやって?」
これから呼ばれた窓口で、今の制度はここがおかしいから直してください、なんて頼んでも軽くあしらわれるのなんて目に見えている。たかだか人口もあまり多くもない地方自治体が相手だからといって、いや、寧ろそれが一行政機関であるからこそ、個人の力で立ち向かう術を、俺は知らない。
そんな不安を口にしたつもりなのに、男は俺が鼻で笑わなかったことを好感したのだろう。またニヤリと笑った。その顔は自信に満ち溢れているみたいで、最早甘いだけでも渋いだけではなく、ひどく頼もしく見えた。
「俺たち一人ひとりの声っていうのは小さい。簡単に握り潰せてしまうくらいにね。だけど労働者には団体で使用者と交渉する権利が認められている。大きな束になった声っていうのは、簡単には無視できない」
団体交渉権の行使――男の言葉はそれを示唆していた。俺たちヒーローが何人も集まって労働組合を結成し、使用者つまりは役所に対して交渉のテーブルにつくことを要求する。基本的に使用者は組合からのこの要求を不当に断ることができない。その交渉の先に輝かしい未来が待っているのだと、彼は信じているのだろう。その目には希望が溢れ出しているかのように、強い光を放っていた。
そのときふと、甲高い電子音が鳴ると番号が呼ばれた。いつの間にか手の中で潰れていた整理券を見ると、それは俺の番号だった。さっきまで今日の晩御飯の献立にまで話を咲かせていたおばあさんはもう満足したらしく、自動ドアを元気な足取りで出て行くのが見えた。俺は立ち上がると何やら書類の整理をしているらしい窓口の女性職員を眺め、それから髭面の男を見た。男は少し前のめりになった姿勢のまま、上目遣いに俺をじっと見つめていた。
「どうだろう。俺と一緒に戦わないか?」
そう口にすると男は右手を伸ばしてきた。その手を握るった瞬間、一つの平穏な日常が消え去るような気がした。それはきっと、新たな戦いへの道標だ。だけどその先の未来を見てみたいと思えたのは、男の自信に満ちた強い眼差しのせいだったのだろう。
いずれにしても、今よりも悪くなることなんてない。
俺はもう一度窓口の方に目をやり、誰も見ていないことを確認すると男の手を握った。こうして、敵の本拠地で俺たちは手を組んだ。そして暫く握手をしていると、男は少し可笑しそうに笑った。緊張の糸が緩んだのかもしれない。彼の手はほんの少しだけ、湿り気を帯びていた。
彼はきっと、このときを待っていたのだろう。孤独にたった一人で希望を温めながら、一緒に夢を見てくれる仲間が現れるのを待ち続けていたのだろう。
「そういえば名前、聞いてなかったですね」
ふと思いついてそう言うと、男の笑顔が強張った気がした。
「名前、教えてもらえますか?」
もう一度訊くと、彼は観念したみたいに人差し指で鼻先を撫で、視線を泳がせながら呟いた。
――キャプテングレイシス……。
さっきまでの堂々とした態度とは打って変わった、消え入りそうなその声の主は、羞恥に耐えるように顔を赤らめていた。