第3話
市役所のロビーでは、一人暮らしのアパートには置けないくらい大きなテレビで国会中継が流れていた。五列に並べられたソファーの一番前ですらギリギリ喋っているのに気づくくらいの小さな音量で、何について議論しているのかはわからない。だけど質問者が持ち出したフィリップを見ると、また首相の漢字テストでもやっているのかもしれない。そんなテスト前の中学生みたいなやりとりで、あの人たちは破綻しかけている国庫から、俺には想像もできないほどの時給をもらうのだろう。いい職に就ける人はトコトン、恵まれている。
馬鹿らしくてもう、頭を抱える気にもなれない。
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メールで呼び出されて訪れたヒーロー本部、つまりは市役所の特殊治安維持課で待ち受けていたのは、ただの月例の清算報告だけだった。それによって、ヒーローとしての俺の今月の報酬が決まる。正体が露見したことに対してペナルティーを架せられるのではないかと戦々恐々として出向いたわけだけれど、結果からいえばそれは肩透かしだった。そもそも冷静になって考えてみれば、監査官がトイレを覗き、変身中まで終止チェックしていたわけではないのだから、その事実さえも把握していないのかもしれない。
報告は終止和やかだった。出動回数や難易度に応じた基本報酬はこれくらいだとか、業務中に破損した公共物や付近住民への被害物のリストや諸費用について読み合わせながら、報酬が適正かを確認をしていく。しかし、これ自体はただガイドラインがあるからやっているという、形式的なものに過ぎない。そもそも確認と言われても、何を確認すればいいのかもわからない。俺は、例えば信号機一つの適正な値段すらも知らないのだから、相手の提示した額に頷くしかない。
それで、俺のやることといえばいつも通り、監査官の言葉に適当に相槌を打つだけだった。そんなものよりもいつ、原則を侵したことに対する追求が始まるのかと怯えていた。それなのに、リストを軽くさらっただけで、監査官は席を立った。心配はただの杞憂で、お咎めはなしというわけだ。安堵して、そこでようやく手渡された明細を見た。今月の手取りはどれくらいなのだろう。そんな小さな希望を抱いていたのに、それは浮き足立った俺の背中を、東尋坊クラスの高い崖から突き落としていく。
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報酬支払いの手続きはなぜか窓口でさせられる。例え支払われえるものがなくても、何かしらの手続きがあるらしい。お金を管理するのは別部署だからという、いかにもお役所らしい理由で整理券を渡され、ロビーで待たされる。
二つある内の窓口は両方とも塞がっていて、一つは小太りの中年男がみっともなく声を荒げながら何やら揉めている。もう一つはかれこれ二十分くらい、おばあちゃんが話し込んでいた。そうやって毎日話し相手を求めてやってくるのだろう。いずれにしても長引きそうで俺は、つまらない国会中継を眺めるか、興味のない備え付けの本を捲るかしかやることがない。
こんなことなら、来週締め切りのエントリーシートでも持ってこればよかったと後悔する。そうしたところで、やはりやることがないからもう一度、先程もらった明細を目にする。報酬の合計金額の欄には、マイナスを示す横棒の後ろに、数字が七つ並んでいた。それはつまり、受け取る報酬など一円たりともなく、向う数ヶ月のタダ働きが待っていることを意味していた。見間違いじゃないかと思って何度も見返しているのに、一向に正しい数字になってはくれない。
人も疎らの市役所のロビーで、また一つ大きな溜息をつく。
BMW――どこがどうしてそんなにするのかわからない高級車に、あのハチだかトンボだかのコスプレをしたオッサンが突っ込んだらしい。
さようなら二八〇円の牛丼。こんにちは、キャベツともやしだけの生活。両者がスキップをしながら入れ替わっていくのが頭に思い浮かんで、思わず目頭を指で摘んだ。
溜息をつくのはタダだから、また盛大に吐き捨てる。逃げていく幸せすら、もうないように思えた。
壁のポスターでは、市長がガッツポーズをしながら高瀬良川への橋建設の推進を訴えていた。去年の市長選でそれを争点にしながら勝ったのだから、もうノリノリなのだろう。スローガンには、市民の豊かさのためにというようなことが書いてあった。今まで迂回路しかなかった高瀬良川に橋を架けることで交通の利便性が増し、物流が増え、人も沢山入ってきて、仕事も増える。そうしてみんなが幸せになれる計画らしい。そのみんなの中に俺は入っているのだろうか。そんな俺の疑問に、笑顔で写る市長は何も答えてはくれない。
そんなときに、奥の応接間のドアが開くと、長身の男が出てくるのが見えた。歳は多分、二十代後半くらいだろう。少し大股に歩くその足は長く、モデルのような体型を見せ付けられているようで、少し嫉妬心が掻き立てられる。おまけに並のアイドルよりも顔が良くて、綺麗に手入れされた口髭が甘いだけでない渋みを効かせていた。白地のシャツにダークブルーのベストを羽織り、ハットを被ったその格好はセンス良く纏められていて、まるでスタイリストでもつけているようだった。
きっと女にモテるのだろう。まだ窓口で世間話を続けるおばあちゃんさえも、チラッとその男を見るのがわかった。
やっかみの視線に気づいたのか、髭面の男は革靴独特の高い足音を響かせながらロビーまで戻ってくると、俺の隣のソファーに腰掛けた。そもそも人口の多い街でもないし平日の昼間ということで、人も多くはない。席なら他にいくらでも空いていた。
それでもわざわざそこに腰掛けた彼は置いてあった本を手に取ると、パラパラとページを捲る。覗き込んでみるとそれは山頭火の生涯とその詩について紹介したもので、これまた渋いチョイスだった。だけどそこにはあまり興味がなかったらしく、すぐに手が止まっていた。
「災難だったみたいじゃないか」
不意に某男性歌手みたいなハスキーな声が聞こえた。バラードでも歌えば大抵の女なら虜になりそうなその声が、目の前にいる男のものだということは妙に納得できた。上目遣いに向けられた視線から、どうやら俺に話しかけているらしい。だけど俺には身に覚えがなかった。男の顔を、見た記憶がなかった。
「BMW」
その単語を聞いた瞬間、手の中で弄んでいた明細を握り潰していた。僅かに目を見張る俺に、髭面の男は半分可笑しそうに、半分同情的に呟く。
「さっき監査官が嬉しそうに話してたよ。こんなマヌケな奴がいるんだって」
話を聞くまでもなくわかる。そのマヌケ野郎というのは間違いなく俺のことだ。世界征服を標榜する悪の組織が、まずは足がかりに近所の公園の砂場における支配権の確立を目論んで行動に移った。怪人を使い、そこで遊ぶ子供たちを締め出すという暴挙に出たのだ。そこに颯爽と現れたヒーローこと俺が、奴等の目論見を打ち砕いたのだ。路肩に止まっていた高級外車とともに。
だけどその事実と素顔のままの俺とを結びつけられるのは、監査官以外にはいないはずだ――ただ一人を除いては。
そこでふと、納得がいった。男の綺麗に整えられた顎鬚には見覚えがあった。それはあのトイレで出くわした、金ピカマスクに他ならない。
俺が気づいたことを察したらしく、男はニヤリと笑った。些細な悪戯をともに隠した仲間に送るみたいなその表情には、イケメンらしい嫌味はなかった。
何の準備動作もなく、俺の懐に飛び込まれたような気がした。警戒網を配備する前に鮮やかに侵入されたせいか、馴れ馴れしい不快感はない。こんなヤツがきっと、同性であろうが異性であろうがモテるんだろうなと思った。
羨ましい。
「車ってどうしてあんなにするんですかね?」
気が緩んだためか、ついそんな恨み言を口にする。ほぼ初対面なのに、自分でも驚くくらいよそよそしさはなかった。「そもそも世界のどこかではインドの自動車会社が一台十万くらいで売っている時代ですよ。桁を一つ間違えているんじゃないかと」
「物っていうのは、買いたいという人間さえいれば幾らでも高く売れるんだよ。車なんてその最たるものだろ? 名前とエンブレムさえあれば高い金を出してくれる人が、世の中には沢山いるんだよ」
「そんな見栄っ張りのせいで俺は暫くただ働きですよ。やってられない」
溜息混じりに溢す俺の軽口に、男は宥めるように苦笑した。そして男の方にも身につまされることがあるのだろう、おどけたように顔を顰める。いうなればこれは、ヒーローにとって共通の悩みなのだろう。悪の組織がこちらの懐事情を考慮して迷惑行為に及んでくれない以上、いつ借金やらただ働きの憂き目に会うかわかったものではない。当事者たちにしてみれば、対岸の火事だと笑ってばかりはいられない。
知らなかったわけではないけど、自分の身近に降りかかってきてようやくその理不尽さに気づく。人とは得てして、そんなものだ。
「それで、そっちはどうなんですか?」
途端に湿っぽい空気になりそうだったから、慌てて髭面の男に水を向けた。男はばつが悪そうに尖った靴の爪先に視線を落とすと、呟いた。
「俺はまぁ、ぼちぼちやってるよ。今はもう、これしか食い扶持がないからな」
「他に仕事とか、してないんですか?」
ヒーローの立場としては地方公務員に近いものではあるけれど、副業を禁じられているわけではない。だから大抵は、ちゃんと職に就いているものだと思っていた。ある者は新聞記者だったり、ある者は弁護士だったり、またある者は学校の先生だったり。でも、男からは俺が期待するような、否定の言葉は出なかった。
「昔はしてたさ。自分で言うのもなんだが、こう見えてもちょっとは名が知れた会社の営業部にいて、将来有望なんて囁かれたりして」
一瞬輝いた目の光が、まだそこに未練を残していることを物語っていた。
「それなのに、何で辞めちゃったんですか?」
訊いていいのか躊躇いながらも、やはり訊かずにはいられなかった。就活中の身としてみれば、順風満帆な若手社員が悔いを残したままどうして去らなければいけなかったのか、気になって仕方がない。興味本位というよりは寧ろ、将来自分に降りかかるかもしれない不安の方が大きかった。
「四年前に会社の健康診断でコレが見つかったんだ」
親指で自分の胸の辺りを指す仕草で、コレというのがヒーロー病であることがわかった。俺はそっと唾を飲む。男は正面を向くと、相変わらずおばあちゃんが世間話を続ける窓口よりも遥かに遠い、記憶の海を見つめるように目を瞬かせた。
「基本的に俺たちの活動に拒否権はない。市民の安全を守ることが最優先事項だから。そこに個人の事情が入り込む余地なんてない。いつ何時、出動要請がかかったら、それに応じなければならない。だけど君が会社側の人間だったとして考えて見てくれよ。大事なときにいるかどうかわからない人間に、重要な仕事なんて任せようと思うか? 正体を隠す義務があるから、会社の連中は俺がこんなことをしているなんて知らない。だから何の理由もなしに、急にどっかにいなくなっちまうように見えるんだ。最初の二年間ぐらいは必死にやってたさ。なんとか両立させようって、まず重要な仕事を片付けてから駆けつける。でも奴らが俺の事情を慮ってくれるわけなんかないから、辿り着いた頃には好き勝手暴れまわったりされて、そのツケが俺に回ってくる。このままじゃ赤字だらけになるからってなるべく早く行こうとすると、どうしても仕事が疎かになる。当然、俺に任される仕事は見る見る内になくなっていったし、周りの目も変わっていったよ。だから――」
靴底でタイル張りの床を踏み鳴らすと、男は俺を見た。そこにはついさっきまでのような、浮ついた笑みは欠片もなかった。
ヒーローであるが故に、彼は全てを奪われた。自分の夢も希望も潰えて、それでも他の誰かの幸せのために闘い続けなければならないと知ったとき、彼は自分の運命を呪ったりしなかったのだろうか。
疑問を口にすることはできなかった。でも、男から送られてくる強い視線が、その答えを雄弁に語っているように思えた。
「まぁ、なってしまったものは仕方ないし、嫌だっていっても俺は、ヒーローであり続けるのだろう」
そう呟く男にはまだ未練もあるし、失望もしたのだろう。だけど彼はきっと、絶望なんてしていない。深く転がり落ちていったその先で、自分のやるべきことを見つけたみたいだった。
「――でも、だからこそ思うんだ」
そう呟いた髭面の男は、そして一人のヒーローとして俺に問う。
「君は、俺たちヒーローがヒーローであり続けるために、最低限必要なものとはなんだと思う?」
唐突な問いかけに、俺は男を見つめた。だけど、真直ぐと解き放たれた言葉に、俺は立ち向かえる答えを持っていなかった。
俺はただ、何も答えられずに、声を出す代わりに首を振った。