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第2話

 あの時ああしておけば良かったと後悔することなら、幾らでもある。小学生の時に悪ふざけをして母親の大事にしていた鏡を割ってしまったり、結局何も言い出せないまま突然連絡が取れなくなってしまった初恋だったり。


 人は瞬間ごとに人生の岐路に立たされている。そして意識的にしろ、無自覚にしろ、その都度一つの決断をする。だけどその選択がいかに重要なものかに気づけないから、それを自覚したときにきっと、もう一度やり直したいと願う。


 巻き戻しなんて、決してきかないのに。


 先日、トイレのドアを開けた男も間抜けな声を上げた。相手もそこに俺がいるなんて微塵も思っていなかっただろうし、ましてやヒーローの着替えシーンに遭遇するだなんて、想像すらしていなかっただろう。

 だけど振り向いた俺が見たものもまた、想像を超えていた。


 相手の男はなぜだか、海賊の船長が持っていそうな広鍔の帽子を被っていた。格好も白を基調にしたスーツに、執事が着ていそうなベストをもっと煌びやかにした感じのものを羽織っている。そして顔にはフランスのテクノデュオが付けているようなマスクがあった。相手も慌てていたのだろう、脱ごうと目元まで上げられていたそのマスクを、しかし俺と目が合うと顔を隠すように下げた。綺麗に整えられた顎鬚が妙に印象的だった。肩には多分、着替えが詰められたリュックサックがあって、それもやはりただの変態コスプレ野郎でなければ、戦闘帰りのヒーローなのだろう。


 お互いに同じ境遇にいて、見てはいけないものを見てしまったという気まずさが一瞬、二人の時間を凍結させた。何も考えられずに、ただそのままの格好で見詰め合う。金ピカのそのマスクの下には、俺と同じく引きつった顔があったことだろう。


「……どうも」


 反射的にそう呟くタイミングも同じで、まるで見なかったことにするみたいにいそいそとドアが閉められた。金ピカマスクはそのまま別の着替え場所を探しに行ったのだろう。足音が遠ざかっても、だけど俺はすぐに現実に立ち返ることができなかった。多分、一人で女装を楽しんでいるところを家族に見つかった心境と一緒だと思う。いい大人にもなって、こんな恥ずかしい格好をしているところを見られたという事実を、消してしまいたかった。

 いっそ、殺してくれと願うほどに――。


 結局、あまりのショックで着替えもろくに手につかず、面接には間に合わなかった。

 こうして不採用通知が届くよりも早く、俺に待ち受けていたはずの輝かしい未来がまた一つ、潰えたのだった。


--------------------


 暗澹たる気分でコンビニの自動ドアをくぐると、安っぽい電子音が聞こえた。俺にピアノが弾けたら五分で作れそうなメロディーで、その作曲者はどれだけ稼いだのだろう。これからの俺のバイト代が自給八七〇円であることを鑑みると、その想像は虚しさに拍車をかける。


 どうせ世の中なんてこんなものだ。その中で、自分がひどく底辺にいるような気がした。


「いらっしゃいませ」


 声のする方に目をやると、レジのところで泉さんが丁寧にお辞儀をしていた。肩甲骨を隠すくらいまで伸びた黒髪が前傾姿勢で垂れ下がり、横顔を隠す様が可憐で、深窓の令嬢を思わせる。だけど相手が俺だとわかると、途端に言って損したという顔をする。


 お疲れ様ですと声を掛けながら店の奥に進んでいく。それに返す言葉もない内にサラリーマンと思しき男がおにぎりと缶コーヒーをレジに差し出し、泉さんはその対応に当たる。真直ぐに背筋を伸ばした彼女の姿勢は綺麗で、青い縦縞の制服の歪みが、相変わらずその胸の大きさを強調していた。


 俺が着替えて出てくる頃には、店内に客の姿はなくなっていた。オフィス街の傍にあるため、朝の通勤ラッシュ以降は一旦客足が遠のく。この時間帯ともなると、次は昼時の賑わいまで暫く暇になる。お陰でやることがなくなった泉さんはレジのカウンターに肘をついた状態で、店内の有線放送をBGMにそれとは別の曲を歌っていた。器用なことが出来る人だなと思って眺めていると、少し釣り上がり気味の目が流れてくる。


「おはよう」まるで歌詞の一部みたいに泉さんは口ずさむと、意地悪そうに笑った。「何だか不景気な顔してるわね。不採用通知が二社くらい立て続けにきたみたい」

「そんなことは――ないですよ」

「そう?」

「まぁ、就職先が一つなくなったのは事実ですけど……」

「そう」


 溜息混じりに答えると、泉さんの隣に並んだ。誰もいない店内から、ガラス越しに外を眺める。時折、何かの営業っぽい人が携帯電話を片手に走っていたり、どこかのOLらしき三人組がお喋りをしながら歩いていくのが見えた。そんな人たちは一度、誰かに必要だと言われてそこにいるのだろう。一年半くらい就職活動をしてきて、両手両足の指では数え切れないくらいの会社を受けてきた。別に高望みしているつもりなんてなかった。にも関わらず誰からも選ばれることがない俺からしてみれば、窓の外を行交う人たちが堪らなく羨ましく思えた。


「でも、よかったじゃない」


 滑り台を転がり落ちていく俺の気持ちを察してか、泉さんが言う。だけどそこには、慰めなんて感じられなかった。心底よかったと感じているように、彼女はその立派な胸を張る。


「別に就職なんてする必要ないのよ。無理して会社に入ったところで待っているのは朝から晩まで働かされて、やれ会社のためだ、やれ上司のためだ、そんなストレスだけ。自分がやりたいことなんて何一つさせてもらえなくて、ただ僅かなお金と引き換えにして、自分の可能性を削って売り渡していくのよ。そこに何の魅力なんてないし、そうしなくていいって言われている分、それはきっと幸運なことだと思うわ」


 そうでしょ? と付け加えられる言葉に、俺は頷くことができなかった。俺にはまだ、経験できていないことだったから。


「泉さんは就職したことあるんですか?」


 訊ねると、嫌なことを思い出すように彼女は細く整えられた眉を寄せた。


「あの頃は何も知らなくて、そうするのが自然だって思ったのよ。だけどすぐに辞めちゃった。小学校から受験までしてずっと勉強してきたのは、こうして上司の機嫌を取るためだったのかって思ったら急に馬鹿らしくなっちゃって。私がもっと私らしくいられる場所が、他にあるんじゃないかって思って」


 だけど、コンビニ店員が今まで勉強してきたものを活かせる場とも思えなかったし、自分が自分らしくいられる場とも思えなかった。


 不本意だけどお金はやっぱり必要だから。そう割り切ってネオニートを目指した彼女は、株で失敗したらしい。自分には投資もギャンブルの才能もないことに気づいた先に辿り着いたのが、就職さえも禄にできない俺の、バイトの後輩という立場だったというわけだ。小学校から私立に通うエリートが落ち着く場所としては、あまりにも切な過ぎた。


 それなのに、暇そうに俺とお喋りをする泉さんは、現状に何も不満なんてないみたいに、満ち足りているように見えた。将来の不安なんかを、個の人は感じないのだろうか。


「フリーターっていうのはね、フリーファイターの略なのよ。だから私は、自由を求めて闘う戦士というわけね」


 いや、フリーアルバイターの略ですよとか、それじゃあ道端で突然乱闘を起こしそうな人たちみたいじゃないですかとかいった突っ込みは、自信満々に語る泉さんを前にして、あえて飲み込んだ。


 もちろん君もね――泉さんはそう付け加える。だけど俺はそんな格好いいものではない。俺は、ただのしがないヒーローでしかないのだから。


 そんな俺は一体、何のために闘っているのだろう。その疑問が浮かんでは消した。ヒーロー病が発症したというただそれだけで強制的にヒーローに登録された俺に、目的なんてあるはずがない。

 おまけに俺は、ヒーローの原則さえも一つ侵している。

 大学を卒業したのに社会の一員になりきれず、ヒーローになったにも関わらず本物の正義の味方にもなれない俺は、どこまでも中途半端な存在に思えた。


「モップかけてきますね」


 自己嫌悪のスパイラルに陥りそうになった俺は、先端が無数の黄色い触手状の毛で覆われた武器を手にすると、タイルの床に擦り付ける。掃除の効果はどれくらいのものかわからないけど、やっぱり体を動かすと楽になる。嫌なことだって少しだけ、忘れられる気がした。


 そうして陳列棚の谷を一周してくると、レジカウンターで泉さんはまた鼻歌を歌っていた。最近流行のアイドルの歌が流れる店内で、どれだけ遠くまでと口ずさむ彼女の声が、夏場に浴びる冷たい水みたいに澄んで感じられた。それは多分、今時の若者なんて殆ど知らないフォークソングなのだろう。どうしてそんな歌を歌っているのかと訊く。すると、本当はボブ・ディランが歌いたいのだけど英語が喋れないからと、少し意図から外れた答えをして、泉さんは恥ずかしそうに笑った。


 自由を求めて闘う戦士は気ままで、定職にも就かない境遇に何の焦りもなく、寧ろ幸福感に満ちているように思えた。今の姿が泉さんの望んだ終着地ではないとは思うけれど、自分が正しいと確信して選択したものだからなのだろう。そんなふうに割り切れる彼女が、俺には窓の外であくせくと走り回るサラリーマンと同じくらい羨ましかった。


 彼女はここを、何のしがらみにも束縛されず、自由に飛びまわれる空だと思っている。俺には鳥篭で、早く飛び立って行きたいとさえ願っているのに。


 床に突き立てたモップの先端に顎を乗せた格好で彼女を見つめていると、ポケットの中で携帯電話が震動した。それはメールの着信を示すもので、休憩時間に確認すると、この街のヒーロー本部からの出頭要請だった。




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