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第17話

 鳩が平和の象徴だなんて、誰が決めたのだろう。撒かれた餌を目掛けて駆け寄っては、我先にと啄ばむ。お腹を空かせた仲間に譲ってやるといった気遣いもなく、ただ自分の欲望のためだけに突き進む。そこには他人を思いやるなんていう協調性などなく、他人を出し抜いてまで自分の得を求める、そんな利己性ばかりが目についた。


 そんな鳩に象徴されるぐらいだから、今ある平和なんてものもやはり、競争に満ちているのだろう。だからそこには格差があり、争いが生まれる。凸凹とした、平らではない歪な平和の中では、集団で武器を取り、殺しあわない限りは平和なのだろう。


 俺は暇過ぎて、窓の外に群がる鳩を見つめてそんなことを取りとめもなく考えていた。


 公園に併設された市民会館のロビーは、平日の昼間という割には賑わっていた。多分、普段から溜り場に使っているのであろう高齢の市民たちを除いても、スーツ姿の中年の男がコーヒーを飲んだり煙草を吸ったりする姿が目についたし、時折若い男が慌しく駆けて行くのも見られた。それでも、この空間を満たした時の流れを加速させるほどでもない。南向きに大きく取られた窓から差し込む光は洗い立てのタオルみたいに柔らかく、一人がけのソファーに深く腰掛ける俺の眠気を誘う。


 そんなときにふと、ジーンズのポケットの中で携帯電話が震動する。相手を確かめるまでもなく通話ボタンを押すと、泉さんの声が聞こえた。


「こちらα1。α2状況を報告せよ」

 どこかのスパイ映画みたいな喋り方に、俺は苦笑する。

「こちらα2。状況はオールグリーン、問題ない。狐は予定通り約三十分前に檻に入った。繰り返す。狐は檻に入った」


 市長の今日のスケジュールなら、一昨日グレイシスと四回目の交渉のために役所を訪れた際、調べはついていた。誰かを脅して訊き出すことも、執務室に忍び込んで隠されている秘密文書を漁る必要もなく、それは役所のロビーの掲示板に貼られていた。行政の見える化の一環らしい。そうして公務の内容を公にすることで、市長側もちゃんと仕事をしているのだというアピールに繋げたいのだろう。お陰で俺はありがたくメモを取るだけで、大まかな市長の足取りを知ることができた。それによると、今日の午後一から市長はこの市民会館の中ホールで開かれている市商工会定期大会に出席をし、約一時間の講演を果たした後、夕方の市役所での委員会に参加する予定だった。そこに記されていた時間通りに会場に現れたところを見ると、その予定に今のところ変更はなさそうだ。彼は俺の目の前を横切って控え室へ入っていった。公演はもう、間もなく始まる。


「こちらα1。了解した。それで、子狐の数は?」

「子狐は二匹。いつも通りのオスとメスの番が寄り添っている」

「そう。まぁ、予定通りね。それじゃあ、α2はフォーメーションZへ移行して監視を続行。狐から目を離すな。私はあと三十分ほどでそちらに着く」


 フォーメーションZなんて何か決めてましたっけ? と突っ込むと、雰囲気を読んでくれなきゃと諭された。ようは気ままに過ごしておけということか、と勝手に納得をする。


「それじゃあ、よろしくね」


 そう言い残して泉さんは電話を切った。彼女の気楽さに、少し不安になる。だけど今更どうこう言っても何も始まらないから、俺は仕方なく立ち上がると、背もたれにかけていたスーツのジャケットを羽織る。


 スーツというものは偉大だ。それだけでフリーターの俺は一端の社会人に見えたし、伊達眼鏡の一つでもかければ、真面目な銀行マンだといっても無理はなくなるのかもしれない。例えそこまで行かなかったとしても、堅そうな者たちばかりが集まるこの場に馴染むのには十分だった。


 そうして周りに同化したまま、定期大会の会場に潜り込む。

 会場内はすでに照明が落ちていて、薄暗くなっていた。その先で舞台の上だけが、まるで別世界のように明るい光に包まれている。舞台の上には二枚の旗が掲げられていた。向かって左が歯車をモチーフにした商工会シンボルであり、右の緑と青の幾何図形が入り組んだようなものが市の旗らしかった。この街にもう何年も住んでいるが、両方とも初めて見るものだった。そして、その前に来賓の席が四つ並んでいて、一番奥に市長の姿があった。向かいには商工会側の幹部と思しき面々が五人並んでおり、会長と書かれた席が一つ空いている。代わりに中央の演壇に一人、白髪の恰幅の良い男がいた。


 彼が定期大会の始まりを告げると、会場から拍手が湧いた。三百人収容の内の七割がたが埋まっている印象だった。ここにいるほぼ全員が、地元企業の有力者なのだろう。もしかしたら、俺が面接を受けたことのある会社もあるかもしれない。そう思うと、羨望と嫉妬と悔しさで、胸の奥の方が僅かに痛んだ。だけどそれも一瞬で、会場の後ろの方の席に何食わぬ顔で座る。そこから、舞台の上の市長を見張ることにした。彼がそこにいる間は、俺の出番はない。だから、舞台の上で動きがないことさえわかれば十分だった。お偉いさんたちが話す言葉は興味なく、耳を右から左へと流れていく。その間中、俺は眠気をこらえるのに必死だった。


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「ハニートラップを仕掛けましょう」

 泉さんから電話番号を渡されたその日、すぐに電話をかけた。悪の組織との協力の返事を告げると、今から会えないかと、アパートに呼び出された。そこで話を切り出すなり、泉さんはそう言った。十分に短くなってきた日は既に傾き、部屋は燃えるような赤が差し込んでいた。


「ハニートラップ?」


 俺がわけもなく聞き返すと、彼女は力強く頷いた。1LDKのアパートにはソファーとテーブルのセットとテレビラックくらいしか目立ったものはなく、綺麗に整頓されているせいか、俺のワンルームの数倍は広く感じた。薄いピンクのレース付きのカーテンや、ソファーに置かれたクマのクッション、テレビラックの脇を飾る動物のクリスタルなどといった小物が、そこが女性の部屋であることを思わせる。目を閉じれば、何かの花の香りで満ちていて、そこに微かに、テーブルに置かれた二つ分の紅茶の匂いが混じっていた。


「知らない? スパイなんかが良く使う手で、男の外交官なんかに美女を近づけて、メロメロにさせたところで情報を奪ったり、その関係をネタにして意のままに操るの」


 三時のおやつにはちょっと遅いけどと、泉さんはバームクーヘンを出してくれた。それを齧りながら彼女は、古今東西男は女で身を滅ぼすものなのよと、男にとってはあまり有難くもない格言を口にする。


「幸いなことに市長は結婚しているわ。だから、別の女と関係を結べば、それは不倫になる。所謂不適切な関係。君も知っているでしょ? 過去に国会議員とかが何人も、女性問題で立場を危うくしている。みんな彼らが私たちのためにどんなことをしてくれていたのか知らなくても、彼がいつ、どんなふうに女性と関係を結んでいたのかは、マスコミの人たちが親切に事細かに教えてくれる。みんな大好きなのよ、不適切な関係が」


 そういえばこの前もどこかの知事が不倫で告発されたニュースを見た。メディアが伝えるところによると、彼は女性秘書と不適切な関係にあったらしい。本人は否定していたけど、彼は公務の時間にもその愛人とラブホテルに通っていたとも報じられ、彼が送ったとされるメールの中身までもが情報の波の中で踊っていた。誰かが本当にそれを知りたいと望んだのか、本当にそれを報せる必要があったのかはわからない。だけど結局、不信任を議会から突きつけられた彼は、任期半ばにして公職から引き摺り下ろされた。彼が知事として有能であったかは知らない。だけど、スキャンダルにはそれだけの力があるということだけは確かだった。


「それで、泉さんが市長を誘惑しようってわけですか?」


 そう呟きながら、俺は喉の痞えを感じていた。誘惑するということは、泉さんはあの小太りな中年男に露出の高い格好を見せるということか。キスも、するのだろうか。それにホテルまで――。そんな色んな想像を働かせていると、胸の中にどんよりとした澱が溜まっていくようだった。だけど、彼女は俺の心配なんてわかっていると言わんばかりに笑った。


「大丈夫よ、自分を安く売る気はないわ。それに、もし無理矢理襲われるようなことになったとしても、ヒーローが守ってくれるでしょ? そのための君なんだから」


 信頼しているわと言われて、素直に嬉しくなるのが自分でも馬鹿みたいだった。男なんて単純なものだ。美人に優しい言葉をかけられれば嬉しくなるし、それだけで勘違いしていられる。だからきっと、ハニートラップなんてものが横行するのだろう。そうして男は手玉に取られる。それはもう、どうしようもないことなのかもしれない。


「一つ、質問があります」


 そう呟くと、泉さんは紅茶を啜る顔を上げた。何かと小首を傾げる仕草が綺麗で、ずるいと思った。そんな彼女の誘惑を断ち切れる男なんていないに決まっている。だからこそ、余計にこれから誘惑されるはずの市長が憎らしくも感じられた。


「どうしてあなたたちは、市長を引き摺り下ろそうとするのですか?」


 ヒーローを虐げる市長。だけどそれはつまり、悪の組織にとっては悪いことではないはずだ。


「納得のいく理由がないと、信用できない?」


 その訊き方もやっぱり、ずるいと思った。真直ぐに目を見つめられたままでは、確りと頷くこともできない。もしそうしたのなら、コンビニで肩を並べて喋る関係さえも崩れてしまいそうで、俺は曖昧に首を振るしかできなかった。


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 商工会の定期大会はつつがなく進行しているようで、舞台の上はいつの間にか市長の講演に変わっていた。壇上で彼は、市の発展は商工会とともにあるのだと説き、そのためのインフラ整備は何よりも優先すべき行政の課題だとまで言っていた。そうして湧き上がる拍手に熱を帯びたのか、気を良くしたらしい市長は流通の確保の必要性を叫び、持論の高瀬良川への橋建設による意義を語り出す。そんな話を誰もが真面目に聞いているところを見ると、彼の支持者というのはこんな人たちなのだろうと思った。


 そんな時に背後で扉が開き、誰かが入ってくる気配があった。その人物は悠々と会場内を歩くと、俺のすぐ後ろの席に座った。それが誰かは、振り向かなくてもわかった。むさ苦しい中年のオジサンが多くを占めるこの場所で、目を閉じれば微かに、香水の甘い香りがした。


「準備の方はどう?」


 後ろから泉さんに訊ねられて、俺は舞台上で熱弁を振るう市長に目を向けたまま、声を暗闇に溶け込ませるように答える。


「関係者出入り口の通路は配水管工事を装って塞ぐことにしました。そこで彼らにはロビーを抜けるように誘導します。接触のタイミングは俺が着替えて駆けつけるまでの時間を考えると、売店から喫煙所の辺りでお願いします」


「了解。証拠写真はやっぱり必要だから、抜かりなく頼むわよ。構図はできれば、二人きりの方がいいわね。秘書は何とかなりそう?」


「一人は多分まぁ、何とか……。もう一人は、泉さんの腕次第ですね」


 それなら何も問題はないわ、と彼女は笑った。特に何も考えていなさそうなのに、後ろの席で得意げに胸を張る姿が想像できた。その自信はどこからくるのか、羨ましくもある。何にせよ、能天気な人間は妙にツキがあったり、咄嗟の機転が利いたりすることが多い。例えピンチであっても、過去にそんなふうにのらりくらりと乗り越えられてきたのだろう。だからこそきっと、そんな性格になってきたはずだ。だから俺は、泉さんの根拠もない自信にかけることにした。


「失敗すれば泉さんの面が割れてしまうわけですから、接触のチャンスは一度きりです。いいですね?」

 念を押すと、それすら必要ないとばかりに答えが返ってきた。

「面倒だから、一度で十分よ」


 それよりも私の晴れ舞台ちゃんと逃さないでねと、ふと耳元で囁かれた。そのために気合入れてお化粧してきたのだから、と。耳にかけていた髪がほつれたのか、シャンプーと香水の入り混じった甘い香りがした。それだけでクラクラと目眩を起こしそうな感覚に襲われる。だけど、そんな俺を現実に踏み止まらせたのは、会場を包み込む満場の拍手だった。市長がそれに応えるように左手を上げる。


 司会の男が、ありがとうございましたと挨拶を述べたところで、講演の終わり気づいた。それでも拍手は暫く鳴り止まない。まるでそうしていることで、自分たちは一つの仲間同士であることを確認し合っているように感じた。


 ここにいる全ての者が市長に期待をし、支持をしている。その見返りとして市長は、彼らに発展を約束する。そうした協力関係の輪の中から、俺と泉さんだけが外れていた。


 ここは完全なる敵地なのだと、実感する。まるで東京に本拠地を置く野球チームのファンが、トラをマスコットにした縦縞のチームのファンの中に間違って紛れ込んでしまったかのような心境がした。


 そして、盛況のままで市長は下段する。彼はこのあとの市庁舎での委員会出席のために、あまり間をおかずに移動を開始するはずだ。


「そろそろ行動開始ね」


 泉さんに言われるまでもなく、俺は席を立ち上がった。関係者用の通路に出るには、西側の扉から出た方が早い。そそくさと目立たないように歩いて行こうとする俺の肩に、泉さんが確りねと声をかけてくる。一瞬振り返ると、彼女はどこで見つけてきたのか、大きく胸元の開けたピンク色のスーツ姿で、短いタイトスカートから伸びた足の白さが、照明の落ちた薄暗い会場内でも映えていた。彼女のそんな挑発的な格好がまた、俺の胸の内をチリチリと焦がすようだった。


 半ば乱暴にドアを開けると、気づけば走り出していた。上手くやれるのだろうかという不安は、確かにこの胸にある。だけど、先程の泉さんの格好を思い出すと、気持ちは奮い立った。市長に対するこの胸の想いがあれば俺はきっと、できると思った。

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