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第16話

 朝起きてテレビをつけると、画面の中にはグレイシスがいた。金ぴかのマスクに白いスーツ、そして青のベストを羽織ったいつものヒーローの姿で一人がけのソファーに座っている。向かいのスーツ姿の女性インタビュアーとは対照的な構図で、真面目な政策論議をする姿はなかなか異様な光景だった。


 内容は一週間前に収録されたものだった。グレイシスの粘り強いオファーによって、朝の情報番組の特集での放送が叶ったわけだ。こうやって全国放送で多くの耳目に触れることで俺たちの向き合っている課題は認知され、そして世論を育んでいく。当初は税金で支払われている俺たちの報酬アップの要求を公にすることは、大多数の無関係を決め込む者たちの反発を招くのではないかという危惧が根強くあった。誰だってきっと、自分から搾り取られた金で他人が潤うのは面白くない。その反応は、年金や生活保護の需給に対汁批判を見れば、容易に想像できる。


 だけど、一向に態度を軟化させない行政との交渉は膠着状態に陥っていた。双方の納得する着地点を模索しようとするグレイシスに対して、役所側は公共の利益のためという一言で一蹴する。目の前には計り知れないほど大きな岩があって、一人で押しても動かないものを動かすには、多くの人の力が必要だった。


 そんな力を、良くも悪くも転がりだすきっかけとなることを、皆が期待していた。


 それなのに――。


 現在の制度の不備を一つひとつ指摘していくグレイシスの顔の上には、『世界初! ヒーローによる労働組合の結成!』というテロップが赤字で目立つように掲げられている。テレビ局としては、その話題性で視聴者の目を釣りたいのだろう。編集された映像からは俺たちの訴えそのものよりも、グレイシスの格好の奇抜さを浮き上がらせようとしているように見えた。これを見た人は、一体どう思うのだろう。ちょっと風変わりの連中が、何か変なことを騒いでいる。そんな程度の印象になってしまわないだろうか。恐らく、動物園にパンダが来たのを報せるニュースと一緒だ。今日パンダの○○は笹の葉を食べてました。今日は日向ぼっこをしていました。仲間の○○とじゃれていました。微笑ましいですね。終止そんな目線で見られているように思う。そこにはパンダがどんな悩みを抱えているかなんて問題ではない。パンダという動物の珍妙さだけで人々の歓心を買おうとしているみたいだった。


「この発症の条件自体未だ解明されていません。だから決して他人事とは受け取らないで頂きたい。あなたも明日には私たちの仲間入りをする可能性だって、十分にあるのですから」


 コーナーの最後にグレイシスはそう締め括った。だけど、それを本当に自分のこととして受け止める人間が一体、どれくらいいるのだろう。

 スタジオに戻った画面の中で、どこかの大学教授の肩書きを背負ったコメンテーターが訳知り顔で的の外れたことを言っている。歪な社会構造だとか、イデオロギーだとか、そんな言葉で着飾る彼らには、俺たちのもっと根源的で単純な真理までは辿り着けないような気がした。


 俺はこの結果をどう受け止めていいのか考えあぐねて、テレビを消した。そして和葉が差し入れだといってくれたメロンパンを齧ると、バイトへ出かける。


----------------------------------------


 愛用の自転車を漕いでいる間、気持ちは晴れなかった。先程見たニュースの作りに不満があったこともある。だけどそれに加えてもう一つ、泉さんのことがあった。


 あのライブ会場の一件から一週間くらい経つが、泉さんと顔を合わせるのは、それ以来初めてだった。俺は彼女の正体に気づきかけている。でも、それを胸に秘めたままで、どんな顔をして会えばいいのだろう。


 踏み込む度に、ペダルが重くなっていくように感じられる。その抵抗感にタイヤが回転する勢いが殺がれて、自転車はノロノロと進んでいく。意識をするなといわれても無理がある。でもどうせ、なるようにしかならないことだ、とはなかなか吹っ切れないでいた。


 いつものように店の裏側に自転車を止めると、入店時間ギリギリだった。それに気づいて、慌ててガラス張りの自動ドアを潜る。チャチな入店を知らせるアラームが鳴ると、レジにいる彼女が反射的に振り返った。どんな顔して、なんて散々考えていた割には、俺はやはりいつも通りの、間抜けな顔しかできなかった。


 いらっしゃいませと言いかけた口が、相手が俺だと気づいた瞬間、途中で止まる。そして、言って損したみたいな顔をする。おはようございますと返して通り過ぎ、急いで着替えを済ませて戻ってくると、泉さんは暇そうにレジのカウンターに寄りかかりながら歌を口ずさんでいた。


 そんな彼女は普段と変わらず、平常運転だった。あのときの女幹部は俺の素顔を見ていないはずだ。だから、例え女幹部が泉さんだったとしても、俺を意識することなんて、まるでないのかもしれない。でも俺は平常であろうとするほどぎこちなくなり、気づけば彼女をずっと、目で追っていた。


「どうしたの? じっと見つめちゃってさ」


 俺の視線に気づいて、振り返って笑う。君もついに私の魅力に参っちゃったか。ふざけてそんなことを言う背中で、三十代くらいの男が缶コーヒーを選んでいる。


「泉さんって昔の歌ばかり歌っているけど、最近の曲には興味ないのかなって思って」


 見つめていたのは事実で、否定するのもおかしく思って、俺はついそんなことを訊く。それに泉さんは小首を傾げた。


「最近のって、例えばどんな?」


 今店内で流れているものがそうなのだろう。名前も良く知らない歌手が、キラキラの電子音に乗っかって歌うポップス。だけど、俺は探るようにあの日、ライブ会場で女幹部が歌った曲名を挙げた。それを聞いた泉さんがどんな顔をするのか、どんなふうに答えるのか、そんな反応が知りたかった。


「それだって十分昔じゃない。私がまだ会社に入りたてのときぐらいだったから、五年くらい前になるのかな。凄く流行っていたよね」


 昔を懐かしむように泉さんは目を細めた。でも、大事な答えを聞く前に黒縁眼鏡の男が缶コーヒーを差し出し、煙草を注文する。マイルドセブンじゃないよ、と毒づきながら話を邪魔された俺は、胸のバーコードを読み取らせ、レジを打つ泉さんを眺めていた。


 そうこうしている内に商品を載せたトラックが到着し、俺はその対応にあたる。会計を終えた男性客と入れ違いにやってきたOLの相手を泉さんに任せると、トラックから荷物を受け取り、それを店内へ運ぶ。結局質問の答えを機会を逃してしまったようだった。


 その後も客足はじれったくなるほどに細く続いた。一人が帰ったかと思うと二人来て、それが一人ずつ順番に出て行くと、溜息を吐く間もなくまた別の客が現れる。そんな感じに。珍しく二人きりで暇を持余す時間もなく、俺はただ仕事の合間に泉さんを盗み見るだけだった。彼女は相変わらず男の客に人気で、その都度営業スマイルを絶やさない。まるで握手会に訪れたファンを相手にするアイドルみたいだった。そんなふうに健気に働く人間が悪の組織の一員であるはずがない。そう信じられるほど泉さんのことを知るわけでもなく、それよりも寧ろ、立ち振る舞いや雰囲気の中に女幹部との類似点を見つける度に確信を深めていた。


 そうして疑惑を一つひとつ当てはめていくことで、俺は彼女を女幹部と同一人物にしようとしているのかもしれない。


「私もね、好きだったわよ」


 オフィス街の昼休みの時間が終わり、最後の客が出て行ったあとで、泉さんはぽつりと呟いた。不意の告白。それに一つ、大きく胸が跳ねた。


 誤解だって、わかっている。それでも男ならきっと、期待せずにはいられない。気づけば俺は、じっと泉さんを見つめていた。彼女の整った顔を、少し切れ上がった目を、魅力的で柔らかそうな唇を。


 そんな俺をからかうように泉さんは意味深な視線を送ってきて、そしてまた歌い出す。それは先程俺が興味あるかと訊いた曲だった。まるで、俺の抱いている疑惑の答え合わせをするみたいに。そこでようやく、さっきのは質問に対する答えなのだと気づいた。


 歌い出しで溜めるブレスの感じが、ステージの上の女幹部とそっくりだった。高音での伸びも、少し鼻にかかったビブラートも。何から何まで泉さんの歌い方は、あの時の女幹部のままだった。最後に観客に向かって微笑む仕草まで。


 それは最早、疑う余地なんてなかった。


「この曲の歌詞が好き。君が感じていることは、君だけが感じているわけじゃないよ、僕もそうなんだよって、そう言ってくれているようなところがね、凄くいいって思った。本当は恋人に宛てたものなんだろうけど、あの時の私は、一人じゃないんだよって、そう言ってもらえたような気がしたの」


 まるで救われた気がしたのだと、そういうみたいに泉さんは微かに笑った。会社で仕事をしていた頃というと、彼女が一番理想と現実のギャップに悩んでいた時期だった。もしかしたらそんなときに、そんなふうに悪の組織の連中にも言われたのかもしれない。この世の中が生き苦しく感じているのは、君だけじゃないと。世界が変わってしまえばいいのにと願っているのは、君だけじゃないと。


 俺がどこにも辿り着けずに迷っているときグレイシスと会ったように、泉さんは悪の組織と出会った。ただ、それだけのことだったのかもしれない。彼女はきっとそこに、自分の居場所を見つけたのだ。安心して自分が自分でいられる場所を。


 あ、もう上がりの時間だ、と泉さんは呟いた。時計を見ると針はちょうど三時を指している。ガラス窓の外には次のシフトに入る大学生の姿があって、泉さんは彼を見て気づいたのだろう。泉さんが奥に引っ込むのと同時くらいに大学生が店内に入ってきて、右手で携帯電話を操作したまま、聞き取れないくらいの早口でおざなりに挨拶を言う。更衣室の前で泉さんが着替え終わるのを待っている間も、彼はディスプレイから目を離さなかった。彼はそうしている間孤独ではなく、誰かと繋がっているのかもしれない。


 泉さんがいなくなってレジに一人になると、緊張の糸が緩んだ気がした。そうして思わず欠伸が零れそうになった頃に女性客が現れ、シュークリームとエクレアとカフェオレを買っていく。三時のおやつにでもするつもりなのだろう。有難うございましたと呟いて女性客を見送ると、お疲れ様と泉さんに肩を叩かれた。だけど振り向く間もなく、新たな来客を告げるメロディが鳴る。


「じゃ、頑張ってね」


 いらっしゃいませと口にする俺に泉さんがそう言ったかと思うと、首筋にふわりとした感触がした。泉さんの長い髪が触れたのだ。気配をそこに感じるだけで、心拍数が上がる。それは全くの不意打ちだった。変な汗が滲み出てくるのを悟られないかと気を揉む俺の耳元に、彼女は吐息がかかるくらいまで顔を近づけてきた。そしてそっと、囁きかけてくる。


「それからあのときの答え、そろそろ教えて欲しいな」


 驚いて振り返ろうとする俺の体を泉さんが押し止めると、手の中に小さく畳まれた紙切れを滑り込ませてきた。泉さんとそんなに近づいたのも、手と手がそんなにまざまざと触れ合ったのも、多分初めてのことだった。何かを確認しようとすると、勢い良く肩を突き飛ばされる。よろけながらもようやく泉さんを見やる頃にはもう、彼女はいつも通りの悪戯な笑みを浮かべていた。それでもまだ、俺の鼓動はすぐにも治まってくれそうになかった。


「それじゃ、お疲れ様」


 颯爽と去っていく後姿を、俺とレジに来たサラリーマンとで見送る。彼はバイト同士で戯れるのを非難するような目をしていたけど、無言で商品を差し出し、無言で受け取って帰っていった。


 ありがとうございましたと頭を下げながら、俺はサラリーマンの姿が視界から消えるのを待っていた。そして店の奥を覗く。大学生のバイトはまだ携帯電話を弄くるのに夢中なのか、更衣室の中だった。それを確認して、先程泉さんから受け取った紙切れを取り出す。それは心なしか彼女の、いい匂いがするような気がした。


 あのときの答えを、と泉さんは言った。だけど、俺が答えを保留していることなんて、思い浮かばなかった。彼女から愛の告白を受けた憶えさえもないのだから、それが意味するところはやはり一つしかない。


 ヒーローとしての俺が、悪の組織の一員となるか、否か。


 だとしたらあのとき、俺が泉さんの正体に気づいたように、泉さんも川原で肩を並べていたヒーローの正体に気づいていたことになる。幾つかの言葉を交わしながら、彼女もそこに俺の存在を見ていたのだろうか。でも、そうであれば納得できる気がする。泉さんの思わせぶりの態度も、敵であるはずのヒーローをいきなり誘ったわけも。そうとしか、考えられなかった。


 小さく折り畳まれた紙切れを開くと案の定、手書きで一つ、電話番号が記されていた。そこにかけると、泉さんの携帯電話に繋がるのだろう。彼女の望む答えがどんなものかなんて関係なかった。ただその予感だけで、頬が自然に緩むのを感じた。


 完全に無防備になっていたところに、不意に自動ドアが開く。俺はバイト中であることを思い出し、電話番号の書かれた紙を慌てて畳むと掌に握った。


 現れたのは、以前連休中に家族サービスを投げ打ってまで働いている愚か者だと泉さんに睨まれた男で、相変わらず上等そうな紺のスーツを上品に着こなしていた。あれ以来彼は何度かここに来ては煙草を買っていった。今日も彼は店内を見回すと、そのままレジのところまで歩いてくる。


「煙草ですか?」


 気をきかせたつもりでそう訊ねると、まだ体内に先程の興奮が残っていたみたいで、声が上ずっていた。だけど彼はそれを気にするふうでもなく、曖昧に唸るだけだった。彼の高い視点から見下ろせばどこにも死角なんてないだろうけど、それでもまだ、彼の目は店内を彷徨っていた。


「今日はあの娘、いないんだね」


 やがて諦めたように向き直ると、愛想良く笑い、そう呟いた。そういえば、彼はいつも泉さんから煙草を買っていた。そう思い返してみれば、彼もただの泉さんのファンだったのかもしれない。


「次の彼女のシフトがいつかって君、知っている?」

「さあ。そういうのは店長が管理しているものですから……」


 本当は知っていたけど、首を振った。濫りに教えられることじゃないという倫理観が働いたというよりは、人の知りたがる彼女の情報を握っているという優越感の方が強かったのかも知れない。


「それじゃあさ、彼女の連絡先知っている?」


 そう訊かれて、俺ははっとした。今手の中で握っているものを見透かされているような気がして、それをポケットの奥に突っ込んだ。知らないですと呟く。だけど、そんな俺のことなんてお見通しだと言わんばかりに愛想良く、男は笑った。




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