第14話
歌が聞こえる。知らない歌だ。だけどそれは子守唄のように優しくて、そしてひどく懐かしい気がした。
虚ろな夢から醒めるように目を開くと、その先には女の人がいた。どうやら歌っているのは彼女らしい。体育座りのような格好で腰を下ろしながら、背中まで伸びる髪を風に遊ばせている。背景が輝いて見えるのは川の水面に光が弾かれているせいで、それよりも更に向う側には背の高い、見慣れたビルがあった。
それでここが高瀬良川の畔であることに気づく。そこで寝かされたまま、まだ青さの残る草が俺の頬を撫でていた。
女の人の顔は見えなかった。長く揺らめく髪にその大半は隠されていて、だけど小さくメロディーを口ずさむ唇だけが覗いている。その見えもしない横顔は誰かに似ている気がしたけど、まだ朧な頭は答えまで辿り着けない。小さく囀りを奏でる唇を見つめながら、途切れた記憶を蘇らせようとするけどそれさえも上手く繋がらず、なぜか昔、実家の窓際で母に寝かしつけられた記憶が呼び起こされる。それに安心したのか、目蓋はもう一度閉じようとする。
だけど、そこで突然歌が止んだ。訝しげにもう一度目を開けると、彼女は何かを目で追いかけるように、細い顎を空に向かって上げていた。流れるような項が綺麗だった。
歌が途絶えたことで、俺は母親を見失った子供のような気持ちになったのかもしれない。
――もっと歌って……。
気づけばそんなことを、声にもならない声で呟いていた。
それが彼女に届いたのかもしれない。横顔だけだった彼女が振り返った。
「やっと目が醒めたみたいね。あんまり気持ち良さそうに眠っているから、私まで一緒に眠っちゃおうかなって思ったくらいよ」
そう言って笑う彼女の目元には、黒い変なマスクがあった。よくよく見てみれば黒を貴重にした露出の多い彼女の格好も変で、なんのことはない、それは悪の女幹部だった。
そのことに気づくと、慌てて上半身を起こした。思わず顔に手をやるとマスクはまだ被ったままだった。体も戦闘用のスーツを着たままで、手であちらこちらを確認しても、どこにも改造された形跡はない。取りあえず安堵すると、女幹部はその様を見てさも可笑しそうに笑う。
「大丈夫よ。別に何もしていないわ」
その言葉を鵜呑みにするわけにもいかず、俺は怪訝な視線を返す。相手は何が目的で、どういうつもりなのか、さっぱりわからない。
「ほら、憶えている? 君はあのライブ会場で急に倒れて、それで……。少しは感謝して欲しいくらいだわ。ここまで運んでくるの、結構大変だったんだから。あのまま放っておけば良かったかなって思ったりもしたんだけど――」
やっぱりそんなわけにはいかないでしょ? そう同意を求める彼女はいつも対峙しているときみたいな、気取ったような、少し演技がかったような様子はなかった。それが素の彼女なのだろう。
ほら、食べなよ――そうして差し出されたコンビニのビニール袋には、おにぎりが五つ入っていた。どういうことなのかと彼女を見返すと、俺の腹の底から音が鳴った。青いマスクの内側で、俺は顔を引き攣らせる。
「よっぽどお腹が減っていたみたいね。さっきから鳴りっぱなしだったから買ってきたのよ」
そう説明する女幹部を、俺は驚嘆の眼差しで見つめた。彼女もライブ会場を襲撃したときから衣装が変わっていない。ということは彼女は顔にマスクをつけたまま、比較的露出度の高い、一般人ではあり得ないような格好のままでコンビニで買い物をしてきたということか。その羞恥に、多分俺なら耐えられない。
「どうして……」
「どうして助けたかって? 敵同士なのに?」
俺の疑問を先回りして答えると、彼女は意味ありげな視線を送ってきた。敵同士なんていうと、なんだかロミオとジュリエットみたいだね。そんな夢見がちなことを口にする。それに笑わなかった俺を見て、女幹部は一つ息を吐いた。俺としてはそんなことで笑っている暇があったら早く疑問を解消し、安心して目の前のおにぎりに齧り付きたかった。
「どうしてって、それほど不思議なことではないと思うんだけどな。例えば目の前で誰か知らない人が急に倒れて、そのとき君はどうする?」
無視をするかもしれない。そのとき周りに他に誰かいて、自分が関わる必要もないのなら、その誰かに任せてしまうかもしれない。でも、そうでなく、他に任せられる人がいないのならやっぱりそのときは――。
「それは社会通念上植えつけられた単なる義務感なのかもしれない。だけど、それでも助けてあげなくちゃ、助けてあげたい、そんな気持ちが湧き上がるのは自分自身からだから、それに従うのは少しもおかしなことではないでしょ?」
それに敵同士だからといって、恨み合っているわけではないから。そう彼女は言った。自分たちの関係はスポーツの試合で、対戦する別々のチームにいるだけなのだ、と。ラグビーのように笛が鳴った瞬間敵味方がなくなるように、自分たちも戦いの舞台から降りた瞬間、互いに抱き合うことだってできるはず。女幹部はそれを本気で信じているみたいに俺の目を見つめ、そうでしょ? と小首を傾げる。
「君が私の両親を殺した憎い仇だっていうのなら話は別だけど、残念ながらまだ二人とも生きているから」
最近二人揃ってランニングを始めたくらいピンピンしているのだと歌うように呟かれた彼女のセリフに、俺は笑うべきだったのかもしれない。だけど、俺はただ彼女を見つめ返していた。
「スポーツと同じだって?」そう呟いた俺に、女幹部は事も無げに頷く。
「ええ、そうよ」
それは初めて聞く異国の言葉みたいに、まるで頭へは入ってこなかった。なのになぜだか奥歯は痛いほどにかみ締められ、握り締めた拳は手元の青草を引き千切っていた。思考よりも寧ろ感情が拒絶する。女幹部が語ったあり様は、とても受け入れられるものなんかではない。
今まで俺は、ただ本部からやれと言われたからやっているだけで、彼女たちがどんな想いを抱いているかなんて、想像すらしたこともなかった。だけど少なくとも、俺たちに向けられる敵意は本物である。そう、思っていた。そうでなければ、悪の組織が現れてヒーローが闘う、それ自体が茶番でしかなくなってしまう。そんなもので、敵に施しを受けるほど貧しさに苦しめられる俺は、一体なんなのだろう。
「行動することに意義がある。勿論それが全てだなんて思っていない。その背後には色んな意図であるとか目的だとかがあるのだから、それが遂げられるのに越したことはない。だけど私にしてみれば、行動した時点で私の目的の半分は達せられているのよ」
「それはどういうことだ。あんたたちはそんなんで本当に世界が征服できると思っているのか? それともそれ自体が嘘だっていうのか?」
いつか市長が吐き捨てた疑問を口にすると、女幹部は頷くでもなく曖昧に首を揺らした。背中まで伸びる長い髪が小さく風に掬われると、甘いシャンプーの香りがした。
「世界を征服するって、どういうことなのだろう? 辞書を引けば、それは武力でもって相手を打ち負かし、支配することだって書いてある。私たちの仲間にも色んな人がいて、中には本気で政府転覆なんて狙っている人もいるし、私たちの目的を遂げるための方法論としては決して間違ってはいないのかもしれない」
だけどそれだと反発を招くのだと呟く彼女は、そのやり方に全面的に賛成しているわけではなさそうだった。民衆の反感を買った支配者は長続きしない。それは歴史が証明していることだ。そんなふうに時々不穏分子が現れて、それが自浄作用ともいえる原理で消されていく。社会はそうして自分の体質に合わない異分子を矯正しているのかもしれない。
私は世界を変えたいのだと、女幹部は眼前に広がる街に宣言するみたいに口ずさむ。コンクリートで塗り固められたそれは揺らぐことなく立ちはだかっているのに、彼女の言葉はただ確信に満ちていて、俺はその目元をマスクで覆われた横顔を見つめた。
「例えば好き勝手行動をしている私たちを見て誰かが思うのよ。自分もそんなふうに、もう少し自由に生きられたらいいなって。そしてそんな誰かを見て、また別の誰かも思う。それが少しずつ自然に広がっていき、やがて世界を包み込む。そうやってみんなの思想が変われば、世の中も変わるはずでしょ?」
言ってしまえばそれが、私にとっての世界征服なのかもしれない。
そう告げる彼女の望む自由がどんなものなのか、俺にはわからなかった。今ある自由だけではどうして満足できないのか、彼女の望む世界がいいものなのか悪いものなのか、そんなことはわからない。だけど今ある社会に閉塞感を感じていて、それを打破しようとしている想いなら理解できた。それは多分、俺たちも同じだから。
社会的に虐げられている自分たちの境遇に嘆き、それを変えていこうとしている俺たちと悪の組織は、実のところ同じ目線にいるのかもしれない。
それだったら、尚のこと思う。
「だったら別にもっとやり方があるはずだ。マスコミやネットを通じて自分たちの考えを訴えたり、議会に人を送り込んで内側から変革を促したり」
それが正しい方法なのだと、グレイシスならきっと言うだろう。正しい方法、やり方こそが人々の支持を集め、それ故に社会という大地に確りとした根を張ることができる。少なくとも彼はそう信じている。誰にも迷惑をかけることなく、誰も傷つけずに世界を変えられるのだと。
だけど、女幹部は首を振った。なぜだか俺はそれに、ひどく安心していたのかもしれない。
「正しいことをして変えられるのは、この社会が正しいと認めている範囲内でしかないのよ」そこには根底を支えている価値観を覆す力もなければ、早急な変化を促す力もない。つまりそれは、何も変えられないのと同じことなのかもしれない。社会が変わる変化点には必ず何かしらの理不尽な暴力があり、血が流れる。革命であったり、クーデターであったり、暗殺であったり。それもまた、歴史が繰り返し証明してきたことだ。「だから私は悪でいようって決めたの。誰かを悲しませても、誰かを傷つけても、私は私の望む世界を見てみたいから」
非難されるのを恐れていない、強い力の籠もった瞳に、気づけば惹かれていた。それは多分、ルールを無視できるからこそ持ちうる力だ。そんな強い力を持っていれば、市長に阻まれて先へ進めないじれったささえも感じないで済むのにと思った。今すぐ市長を打ち倒して、引き摺り下ろして、そして――。
そう考えたところで、それが自分の本心であると気づく。そんな乱暴な考えを抱くほどに、俺は現状からの変化を望んでいた。心から、本気で。
それを見透かしたように、女幹部は笑った。結局のところ、お前も自分たちと同じなのだと言われた気がした。表向きはどんなに体裁良く繕ったところで、その中に潜む黒い塊はないものにできるわけではない。どれだけ面接を受けても自分を受け入れてくれない社会は嫌いだ。たかだか病が一つ発症しただけなのに、世の中の安全を守る義務と責任を押し付けてくる社会は嫌いだ。明日の食事のあてさえもないくらい空腹で喘いでいるのに、それを見て見ぬフリをする社会は嫌いだ。こんなにも優しくない世界なら、いっそのこと変わってしまえばいいのに。
そう思う俺は、確かにそこにいた。それを自覚しながらもまだ、目を逸らそうとする言葉を吐く俺は一体、何に対して取り繕おうとしているのだろう。顔をマスクで隠しているのをいいことに、俺は心にもない疑問を口にする。
「あんたの望む自由というのが、俺にはわからない。誰かを悲しませて、傷つけて、それでも求めるほどのものなのか。なぜあんたはそうまでしてその、自由ってヤツを求めるんだよ」
「籠の中に閉じ込められた鳥が、もっと広い空を飛んでみたいと思うのは当然のことだと思わない?」
答えを求めるようにではなく彼女は呟くと、足元の小石を一つ拾い上げ、川に向かって投げた。それは羽ばたくこともできずに放物線を描くと、やがて水柱を立てて川底へ沈んでいく。
「労働は富を生むための道具で、私はずっとその誰かのための道具だった。物心ついたときから、ずっと。私の自我はね、暗くて狭い部屋の中で生まれて、そのときからもう、鎖で繋がれていたのよ。比喩なんかじゃなくて、現実的に。そこには私と同じ様な人がたくさん押し込まれていて、身動き一つできなかったのに、その上更に手足の自由さえも奪わていれた。そんな環境だったから、その部屋全体が揺れていて、時々大きくうねると、人が折り重なってその下敷きになって、人が死んでいた。それが船の上だったなんて、初めてのことだったから気づかなかった。私はいつ訪れるかもわからない死の恐怖に泣きじゃくっていたけど、それを聞きつけて守ってくれる両親もいなかった。もっとも、物心つく前に別れたせいで、私は両親の顔さえも知らない。誰もが疲れ切っていて、誰もがきっと、孤独だった」
そんな環境にずっといると、ただ生きていることだけが目的になるのだと、彼女は言った。笑うことも、喜びを感じることもなく、今日も明日も明後日も、ただそこに在り続けることだけが全てになっていった。だからこそ、その後に待ち受けていた過酷な労働も受け入れられたのだろう、と。
女幹部の顔立ちも、肩甲骨を隠すまで伸びた黒髪も、それは俺と同じ日本人であることを特徴づかせているように思えた。だけど、彼女の語る生い立ちは、親に手を引かれながらぬくぬくと幼稚園に通っていた俺とは、とても同じ国の出来事だとは思えなかった。現実離れし過ぎていて、絵空事のようだ。そもそも、俺はある違和感を覚えて彼女を見つめた。
「ちょっと待った。さっき両親はピンピンしていると言っていた割には親の顔を知らないというのは、ちょっと矛盾していないか?」
思わずそう指摘をすると彼女は考え込むように顔を伏せ、やがて一人で手を打った。
「あ、ごめん。その部分はやっぱりなかったことに……」
いや、なるわけがない!
頭の中でそうツッコミを入れたところで、俺はふとある既視感に襲われた。いつだったかのバイトのときだ。幼いときに両親のもとから誰かに攫われて、小さな貨物船で海の向うまで運ばれて、狭い部屋に監禁されながら強制労働をさせられたのかと話していたのは俺の方で、あのときも泉さんは一人小さく手を叩き、俺はそれに呆れていた。まるで今、女幹部がしたように。そしてやっぱりあのときも、俺は泉さんに訊いたのだ。自由というやつを渇望する理由を。
そう思い出すと、女幹部がもう泉さんにしか見えなかった。どうして今まで気づかなかったのだろう。背格好も、俯くと顔が隠れるくらいの髪の長さも、歌が上手いところも、少し抜けているところも、自分は自由を求めて闘うのだと言い張るところも、胸が大きいところも、全部が全部泉さんそのままじゃないか。
フリーターという名の自由への戦士が、その言葉通りに実際に闘っている。その事実に本当は俺は、少なからず感動していたのかもしれない。
「まぁ、細かいディテールはいいや」
取り繕うように呟くと、彼女はあっさりとその壮大な嘘を捨てた。
「だけど、誰かのためにこうでなければいけないという観念的な縛りから抜け出したいからというのは本当。一人っ子だから親の家業を継がなくちゃいけない。もしくは優秀な後継者を迎え入れるために婚約をしなければいけない。大学を出たら就職をしなければいけない。みんなそういうものだって思い込んで、そのレールに乗っている。誰もがフラミンゴみたいに、誰かが良いと決めたことを、何の疑いもなく守ろうとしている。だけど、本当にそうしたいって願っている人は一体、どれだけいるのだろう」
君はどうなのかな。真直ぐな目が向けられて、そう訊ねられた。俺は思わず視線を逸らす。
就職活動を始めたのも、今こうてしヒーローとして戦っているのも、何一つ俺の望んでいたものなんかではない。別にやりたい仕事があったわけでも働きたかったわけでもなく、ましてやみんなのために戦いたいと願ったわけでもない。ただ金を稼ぎたいというものだけはあって、だけどそれも今にして思えば、人はある年齢になったら経済活動に従事しなければならないという、誰かが決めた良いことを守ろうとしていただけなのかもしれない。結局は俺も、フラミンゴの中の一羽でしかない。
俺が即座に否定しなかったことを、女幹部は良しとしたのだろう。彼女は同胞に接するみたいに優しい声を上げた。まるで、いつもコンビニで聞くような、そんな声。
「きっと誰もが今の世の中に対して少しだけ満足していて、でもそれよりも大きな不満を抱えているのよ。ここがこうなればもっといいのにとか、何でここがこうなっているんだろうとか。小さな満足で妥協した裏には、数え切れないほど多くの変革を望む声がある」
君たちだってやっぱりそうでしょ? 彼女はそう言う。組合を結成して市政を揺るがそうとしているのはつまり、そういうことなのだと。
「君たちは本当はそちら側にいるべきじゃないのよ」
――少なくとも君は、ね。
確信に満ちた彼女の笑顔から目を離すことができなかった。その時点でもう、俺は心のどこかで彼女の言葉を受け入れていたのかもしれない。次に彼女の口から出る言葉をわかっていながら、それを遮ることさえしようとしなかった。
そして悪の女幹部は、俺の目を見つめながら言う。その姿はやはりもう、泉さんにしか見えなかった。
「市長を引き摺り下ろしたいのなら手を貸してもいい。だからどう? 私たちのもとへ来てみない?」
彼女も彼女で、俺が拒否するとは思っていないのだろう。差し出された手は、今にも俺の手を取りそうだった。そうして彼女の手を握れば、契約が成立する。俺にとってすれば、ヒーローを裏切る契約が。
無意識に伸ばしかけた手が、しかしふと止まる。
「少し、考えさせてください」
口をついたのはそんな言葉だった。そのとき思い浮かんだのはグレイシスの悲しむ顔でも、和葉の怒った顔でもなかった。心は決まっていたはず。なのにそれを揺らしたのは、怪人のように変な格好をさせられたり、戦闘員みたいに全身黒タイツを履かされたりするのは嫌だなとか、そんなことだった。