第13話
重低音が体の芯を揺さぶってくる。大人を二人並べてもまだ頭まで手が届かないくらいの大きさのスピーカーから溢れるメロディーは激しさを増し、テンポ良く響くバスドラの音が、空腹の俺にボディーブローを打ち込むように突き上げてくる。腹を空かせたときの飲酒は体に悪いというが、同じく空腹時のライブもまた、体にはあまり良くないのかもしれない。
そもそも、体調が万全でも楽しめたかと言われると微妙だが……。
煽るようなギターに対して、それに負けじとどこかのヴィジュアル系ロックバンドっぽい格好をした女性ボーカルがシャウトする。それに呼応するように観客からは喚声が上がり、いつもは商談とゴルフの話しか聞こえてこないようなビジネス街の路上は、興奮の坩堝と化していた。この観客の熱狂振りを見ていると最早、ステージの奥の方で縛り付けられている、本来の主役であるはずだった某男性アイドル歌手が可哀想で仕方がない。最早誰も彼のことなんて気にしていないだろうし、誰も彼なんて見えてはいないのだろう。それほどまでに主役に取って代わった彼女のパフォーマンスは圧倒的で、そして魅力的だった。
悪の組織が作戦行動に出たのは、今から一時間ほど前のことらしい。本部から大筋聞いた話はこうだ。何かを物色するように街を練り歩いていた黒い衣装の集団は、そのときたまたま突如として始まった路上ライブを見つけ、そちらの方が目立つと思ったに違いない、彼らはゲリラライブをゲリラ的に占拠した。そして、困惑する主役を縛って大人しくさせるまでは良かったが、そこで一つ誤算が生じた。観客がそれ自体を何かの演出として勘違いし、盛り上がってしまったのだ。それに当惑した悪の女幹部はついついマイクを握り、バックバンドに一曲注文を入れると歌いだした。某アイドル歌手の不幸は、バンドメンバーやスタッフのノリが良すぎたことだろう。その間誰も止めに入ることなく、今はもう五曲目らしい。ステージ上の彼は、自分が歌っているときよりも盛り上がっているこの光景を、どのように受け止めているのだろう。
黒いスーツを着た戦闘員たちが、戦いのときでもお目にかかれないくらい息の合ったダンスを披露する。もしかしたら、忘年会の余興を早めに用意していたのかもしれない。彼らはステージの上で余すことなく弾け、輝いていた。そして、観客たちもそれを受け入れている。
この熱狂の中、俺は途方に暮れていた。出撃の報を受けて駆けつけたのは良いが、飛び出していくタイミングがわからない。今ここで出て行ったところで、盛り上がりに水を差したと冷たい視線に晒されるか、はたまた次の出し物が始まったかと好奇な目で見られるか、そのどちらかだろう。だけどその両方とも嫌で、戦闘服はまだ鞄に詰められたまま重たく肩から下がっている。
そうこうしている内に、また一曲終わった。素人が全力で歌い続けるのは結構大変なのだろう。女幹部は僅かに息を乱したように肩を揺らすと、バンドメンバーと目配せをして笑った。目元を隠したマスクでその素顔をわからないけどその様はとても絵になっていて、誰もがまた、そういうグループもありなんじゃないかと思ったに違いない。
そして、ドラマーに促されてマイクをスタンドに戻すと、女幹部は興奮の面持ちで会場を眺めた。観客からは一つ、二つ、声援が飛ぶ。
「今日は、私たちのライブに来てくれてありがとう」
どこからも、お前たちを見に来たわけじゃねーよ、という突っ込みの声は上がらなかった。それどころか小さく拍手まで湧き起こる。それを聞いて、女幹部はもう一度ありがとうと呟いた。
「小さい頃からこうやって、皆の前で歌を歌うことが夢でした。それは大人になるに従って諦めかけたものだったけど、今ここで叶ったことが凄く嬉しいです。悪の組織やっていて本当に良かったって、そう思っています」
息を整えるように一旦間を取ると、女幹部は手を振り、小さく頭を下げた。それは悪の組織の幹部といういかにも傲慢なイメージとは裏腹に、ひどく謙虚に目に映った。
「夢は諦めなければいつか叶うって良く言われるけど、そんなのは嘘だって思っていた。そんなのは成功者だけが言える特権で、その他大多数の惨めさを知らないから、そう軽々しく言えるんだって。だけど、本当は夢に向かって自分のために努力し続けられれば、もしかしたら嘘なんかじゃなくなるのかもしれない。そう、思えています」
意外なことに、女幹部のMCに皆聞き入っているようだった。途中で群集を離れていく人影も見当たらない。そして彼女は、見渡す聴衆に向かって問いかける――あなたの夢はなんですか?
「あなたは今、その夢に向かって歩けていますか? あなたは自分の思うように生きていられていますか? 日々を楽しんでいますか? ……幸せですか? もしそうじゃないっていう人がいるのなら、私たちを見てください。いい歳をしてこんな格好をしているけれど、結構楽しく生きているんですよ、私たちは」
はにかむように笑うと、それにつられたかのような笑い声が会場から僅かに漏れた。それが嬉しかったのか、女幹部は満足そうに頷くと、スタンドに置いたマイクを再び取り上げた。
「皆がこの瞬間を思いっきり楽しんで、私たちのことが忘れられなくなればいいなって、そう思います」
――今日最後の曲です。聞いてください。
曲名を告げると、それまでの激しいリズムとは打って変わり、切ないピアノの音が響いた。ここにきて繰り出されるバラードに彼女の高音で伸び上がる声は似合い過ぎるほどに合っていて、興奮に湧き立っていた会場は途端に、感涙に満たされていくような気がした。
それなのに、空気を読まずに俺の携帯電話が鳴る。相手を見てみるとヒーロー本部からで、早くやれという催促らしかった。俺は溜息を吐きつつ人目のない裏路地へ飛び込む。俺としてはもっと人がいなくなったところで行きたかったのに、そこまでは待ってもらえないらしい。
着替えを終えて戻ってくると、悪の組織の面々はまだステージ上にいて、アンコールの二曲目を歌っているところらしかった。みんなの意識はマイクを握って輝く女幹部のもとへ向かい、ファンシーな青スーツ姿の俺の存在には気づきもしない。そのまま人の群れをかき分けて前へ歩いていくと、曲が終わるタイミングを見計らってステージに上る。止めに入る者はやはり誰もいない。警備スタッフ仕事しろよ――そう心の中で独りごちる。そうであれば、こんな面倒なことにはならなかったのに。
「……お前たちの悪事もそこまでだ!」
なんと叫べば良いのかを少し考えてから、取りあえずそう言ってみた。スタッフや聴衆が喜んでいるのだから悪いことではないのかもしれないが、少なくともステージ奥で拘束されている某アイドルは困っているのだからきっと、悪事なのだろう。突如現れた新しい登場人物に観客の目は引きつけられていく。恥ずかしいから絶対に振り向かないでおこうと、俺は心に決める。
「おのれ何ヤツ!」
いつも通のセリフを女幹部は返してくる。だけどこのステージ上で、マイクを通して喋られるのは、いつも以上に茶番じみていて止めて欲しい。これではデパートの屋上なんかでやっている戦隊もののショーぽいではないか。そして、見ている側もそう思っているのだろう。俺にまで冷やかし半分の、ちゃちな声援を投げかけてくる。
本来ならここで俺が名乗りを上げる流れのはずなのに、俺はそれができなかった。こんな大勢の前で高らかに自分の名前を叫んで、そしてあいつのネーミングセンスがダサいなどとネットで書き込まれたなら、俺のガラスのハートなんてたちどころに砕けてしまう。だから、女幹部に向かって必死に全身から早く次に進んでくれというオーラを出そうとする。それが伝わったのか、彼女は戦闘員たちをけしかけてくる。
「ふん、いつもいつも余計なところで邪魔してくれるじゃないの。お前たち、やっておしまい!」
――だからいちいちマイクを通すのは止めて欲しい。そう切実に願う俺の祈りを無視して、戦闘員たちは飛び掛ってくる。途端にギターが唸りを上げ、それにドラムとベースがついていく。このバックバンドの連中はどこまでノリがいいのだろう。俺たちの戦いに即興でBGMまでつけてくる。
最初の攻撃をいなして横顔にパンチを入れると、心配していた効果音は入らなかった。さすがにスタッフもそこまで想定して用意もできなかったらしい。これ以上安っぽい猿芝居みたいにならなくて、俺は秘かに安堵した。
戦闘員たちの動きは、心なしかいつもよりも鈍かった。狭いステージ上で戦い慣れていないというのもあるだろう。だけど、先程までで踊り疲れて、息が上がっているようにも思えた。かかってくる際に足をもつれさせるような相手には、最早攻撃の必要もない。
これは案外楽勝かと思われた。さっさと片をつけて、早急にこの場から立ち去ってしまおう、と。だが、敵は黒いスーツの戦闘員だけではなかった。
気分が高揚してきたのか、バックバンドの演奏は更に激しさを増していく。馬鹿でかいスピーカーから溢れるのは距離が近いせいか、音というよりは寧ろ震動だった。それがボディーブローのように、俺の空腹に突き刺さってくる。ボクシングではよく、ボディーは地獄の苦しみだとか、ボディーで倒れたら二度と立てないなどと言われるけど、それを体感しているようだった。少しずつ腹が削られて、そこに意識を集中していないと折れて倒れてしまいそうだった。
そのせいなのだろう。一瞬気が逸れたタイミングで後ろから羽交い絞めにされ、別の戦闘員からは腹に蹴りをくらった。あまり強い力ではなかったけど、俺の悶絶ぶりは相手の想像以上だったみたいだ。攻撃を加えた戦闘員は戸惑うように仲間と視線を交わしていた。無責任な観客は、それを窮地に陥った演出だと思ったのだろう。頑張ってーなどと白々しい声援が飛ぶ。そんなどこまで本気かわからない歓声なんかよりも、おにぎりが欲しかった。
どうして俺はここまで頑張っているのだろう。いっそのこと倒れてしまえば楽なのに、何のために俺は歯を食いしばって立ち続けているのだろう。気づけばそんな自問自答をしていた。正義のため? 答えはノーだ。ここに正義があるなんて、これっぽっちも思っていない。金のため? それは多分イエスだ。そうでなければ誰がこんなことをやる。例えこれが強制されたことであったとしても、それは否定できない。プライドのため? それはよくわからなかった。一瞬なぜだか和葉の顔を思い出しそうになって、首を振って打ち消した。その反動を使って敵の拘束から抜け出すと、勢いそのままにドロップキックを食らわせる。それで大技が入ったと判断したのだろう。戦闘員たちは一旦引き、女幹部の周りに集まった。
「相変わらず邪魔ばかりしてくれるじゃないの。でも、今日のは一味違うわ」
そう言われて出てきた怪人は頭髪をリーゼントに整え、エルビス・プレスリーを彷彿させる純白で、両腕には空が飛べそうな感じに細く長いひも状の襞が生えたスーツを着ていた。外見だけでは、売れないモノマネ芸人のようにも思える。それの何がスペシャルなのかはわからないが、インパクトだけでは彼の隣で長髪を振り乱しながらギターをかき鳴らすギターリストの方が、よっぽど勝っていた。
その秘密を曝け出すまで待ってやる義理もなく、俺は駆け出した。俺の体は空腹と重低音でもう、十二ラウンド戦い抜いたボクサーのようにボロボロで、早く決めてしまわないとこれ以上立っていられないような気がした。
それはルール違反だと訴えるような視線を寄越す怪人の戸惑いを無視して、観客まで聞こえないギリギリの声の大きさで叫ぶ。
――バーニングクラッシャーアタック!
大きく振りかぶって繰り出したパンチは無防備だった怪人の右頬を捉えると、彼は大きく吹き飛んでステージ上から消えた。哀れな怪人の出演時間は恐らく、三十秒にも満たなかったのだろう。不意打ちとか正義の味方としてどうよ、という揶揄の声も聞かれたが、そんなことは関係ない。要は勝てばいいのだ、勝てば。
「クソ! 憶えていないさい!」
いつも通りの恨み言を吐き出し、女幹部は後ずさった。ステージの奥に目をやると、縛り付けられたままの男性アイドルがようやくこれで解放されるのだという、安堵の表情を浮かべていた。取りあえずここで恩を売っておいたのだから、あとでサインを貰っておくのも悪くはない。別に彼のファンだということは全くないが、野球選手のサイン入りバットなんかが高値で取引される時代だ。いざというときに役に立ってくれるに違いない。それで久しぶりに少しは豪勢な食事でも――。
そんな妄想を浮かべる俺を余所に、女幹部は颯爽と退場するために身を翻す。バックバンドは勝利を讃えるように激しいリズムで沸き立てる。ショーの締めくくりを悟った観客は一際盛り上がり、俺は最後の力を振り絞って決めポーズをとろうと右の拳を天に掲げる。
だけど、そんな渾身の作業も実を結ぶことはなかった。この数ヶ月間空腹に蝕まれた肉体は、思っていた以上に疲弊していたらしい。
膝が折れたかと思うと、意識は急速に堅いステージに向かって落下していく。体勢を立て直さなければと思っても、思うように足は動かない。そのまま重力によって全身を打ち付けられる痛みに耐えるように目が閉じると、感覚は最後まで持たなかったのかもしれない。その先に待ち受けていたのは痛みとは程遠い、それこそ夢にでも包まれたかのような温もりだった。
そして、その心地よさに抗うこともできずに俺は、辛うじて握り締めていた意識を、あっさりと手放した。