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第11話

「泉さんって、選挙に行ったことありますか?」


 一旦客のはけたコンビニで、届いたばかりのおにぎりを陳列ケースに並べながら俺は呟く。ふっくらとした米粒が美味しそうで、最近そんな上等なものを食べていない胃袋が、腹の底から締め上げてくる。そのせいか、口の中は涎で溢れてきそうだった。


 そんな物欲しそうな顔で商品を並べる俺の横で、モップがけをしていた泉さんは手入れの行き届いた形の良い眉を寄せた。少し、意外だった。


「何? 君は遂にそんなものに興味を持っちゃったの?」


 いつも回りくどい反戦の歌だとか、説教じみた人としての生き方の歌だとかを歌っている泉さんだから、てっきりそういうものに興味があるのかと思いきやそうでもないらしい。


「いや、どうしてあんな市長が当選しちゃったんだろうなって、俺が別の候補者に入れておけば別の人になっていたのかなって、ちょっと考えちゃっただけですよ」


 グレイシスと市長に会見に行ってから三日が経っていた。その間の市長の対応は早かった。交渉役にすぐに担当者を立てると言った彼は、その次の日には決め、次回の会合の予定を通知してきた。そして、担当者と顔合わせを行ったのが昨日のことだ。呼ばれてグレイシスとともに出向いた先はいつもの狭い会議室で、そこには眼鏡をかけた神経質そうな男がいた。彼は名刺を配って早々に挨拶を済ますと、市側の提案というものを突きつけてきた。報酬の見直しによる人件費の五パーセント削減案。つまりは、それが市長の考えであり、答えだった。


 三日前は地道にやっていくさと笑顔を見せたグレイシスも、さすがにそれは笑えなかったらしい。俺たちの望むものとは真逆の提案に、彼は頭を抱えるように俯くと、溜息を一つ漏らした。


 市長はサディストに違いない。どうして市民はあんなのを選んだのだろう。もっと別の誰かであれば――。そんな想いはまだ、一晩眠っても消えなかった。


「当選者と次点の得票数の差って、どれくらいあるか知っている?」


 後悔を滲ませる俺に、泉さんは諭すように言った。モップを後ろ手に持って胸を張り、陳列ケース前にしゃがむ俺を見下ろす様は、さながらお姉さんっぽかった。本人もそのシチュエーションに満更でもないのだろう。自信満々の笑みを溢す。対して俺は、知らないと首を振った。


「泉さんは知っているんですか?」


 問い返す俺の言葉に、彼女は瞬きする間もなく答えた。


「そんなの知るわけないじゃない」


 知らないのかい! そんなツッコミが表情に表れる前に、彼女は次の言葉を吐き出す。


「だけど、少なくとも何百とか何千とか、それくらの差はあったはずよ。そこで例えば君が別の候補者に入れたとしても、たった何千分の一の差が埋まるだけ。結果はまるで変わらないわ」


 選挙で私たちが持てる力なんて、所詮その程度なのよ。溜息をつくみたいに、泉さんは呟いた。多数決で決まる社会において、少数の意見はどうすれば日の目を見るのだろう。


「選挙で世の中の流れを変えられるのは、一部の影響力のある人たちだけなのよ」


 悟りきったみたいにそう言う彼女は、昔その壁にぶつかって砕け散ったことがあるのかもしれない。いつになく引き締められた口元は、怒りなのか悔しさなのか、微かにわなないているように見えた。いつものおどけたように笑う泉さんも綺麗だけれど、真顔で立ち尽くす彼女もどうしようもなく美人で、俺は呆然と見上げていた。


「だけど、何もしないよりはずっといいんじゃないですか」


 自分の入れた一票が励みになって、その人は次もまた頑張るかもしれない。それがダメでもまた次も、その次も。そうしていつか俺の蒔き続けた種が根を張り、芽を出して世の中を少しずつ良い方向へ動かしていけるのかもしれない。

 その考えを、泉さんは否定しなかった。だけど――。


「それじゃあ、世の中が少しずつ良くなっていく頃には、君はおじいちゃんになっているわね」


 君の情熱はそんなになるまで続くのかな? そう指摘されて、俺ははたと気がついた。そうだ、俺は何も今の子供たちのために百年後の未来を良くしようとか、そんな大それたことを考えていたわけではなかった。明日の食事をも思い悩む生活から脱出したいと願うだけで、そこに辿り着けるかどうかもわからない先を見ても、おかずが一品増えるわけでもない。


 手、止まっているよ。注意されて、俺は慌てて作業に戻る。あと三十分もすればお腹を空かせたサラリーマンが押し寄せてくることを思えば、そう悠長にもしていられない。輸送用のトレイに敷き詰められた弁当を引っつかみ、それを陳列棚に並べていく。ついさっき食べ物のことを考えていたせいか手を離す瞬間、切なさに胃袋が軋んだ。


「そもそもさ、今更なんでそんなに市長が嫌いになったの?」


 自分の仕事は終わったと言わんばかりにモップを片付けてきた泉さんが、俺の隣にしゃがみ込む。彼女の肩までかかる長い髪の間からシャンプーの香りが漂ってきて、鼻腔をくすぐった。その感覚にドキリとして隣を振り向くと、俺と同じ目線にある彼女の顔は可笑しそうに笑い、嗜める。ほら、手――。これじゃ、どっちが先輩なのかわからない。彼女は手を貸してくれるわけでもなく、俺の作業を眺めていた。


「泉さんは、今の市長に満足しているんですか?」


 さすがに、市長はヒーローの待遇改善に否定的だからという本当の理由は答えられず、俺は質問で返す。泉さんは恨めしそうに肉汁の滴る生姜焼き弁当と睨めっこをする俺を見て、可笑しそうに笑った。


「満足も不満足もないのよ。だって市長が変わったところで、急に私たちの生活が良くなったりする? 不幸だった人が幸せになったりする? 私はもっと、私の望むままに生きられたりする? それは多分、社会というシステムの中で枠組みが決められていて、市長なんてものはただのそのシステムの中にある機能の一つでしかないのよ」


 ポスターが剥がれてくれば、また糊でとめればいい。その糊の種類で接着力に多少差があるかもしれないけど、そこにくっつけておくという要件を満たすためには、どれでも別に変わりはない。それと同じなのだと、泉さんは言う。


 それは多分、嘗ての俺自身を含んだ、選挙へ行かない人の考えだ。誰が市長になろうが、誰が議員になろうが、別に自分とは直接関係のないことだから、投票なんてしたところで意味がない。だけど、実際今の立場になってみるとどうだろう。地方自治体の予算編成権はその首長によってのみ認められている。ならばもし現職の市長が俺たちに理解のある者だったなら、来年からはもうお腹を空かせて夜起きなくても良いのだと約束してくれていたのかもしれない。


 そう考えるともう、誰でも一緒だとは思えなかった。


「そんなことで思い悩むくらいだったらさ、いっそのこと今の市長をクビにして、君が市長になっちゃえばいいじゃない」


 茶化すような泉さんの言葉に、俺は思わず振り向いた。そんなこと、できるわけがない。頭ではそう言って笑っているのに、心のどこかで引っかかっていて、釣上げられるような感じがした。


「もう持っているんでしょ? 被選挙権」


 心の奥まで吸われてしまいそうな瞳で、彼女は媚びるように小首を傾げた。ミートスパゲティを掴んだ手は宙で止まっていたけど、何も言われなかった。甘い吐息のかかりそうな距離で見つめられながら、市長は何歳から立候補できるのだったかを思い出す。小学生か中学生の頃に習った知識だからうろ覚えだけれど、なんとなくできるような気がした。


「ほら、ああいう立場の人って何かしら叩けばホコリが出てくるものじゃない。不倫とか賄賂とか、選挙違反とか。それをリークして上手く有権者を焚き付けてやれば……。ね? 案外いけそうでしょ?」


 それは酷い偏見だと思った。世の中にはきっと全うでクリーンな政治家だって幾らでもいるはずだ。だけど、女性問題や汚職をマスコミにつけ込まれて身を滅ぼす人も少なくはない。疑惑さえあれば、あとはなんとかのるものなのよ。浮世離れした無垢なお嬢さんのような顔をしながら、泉さんは恐ろしいことを口ずさむ。


「もしそれで上手くいったら、私の願いもちゃんと叶えてよね」

「いいですよ。ちなみに、泉さんの願いってどんなことなんですか?」


 どうせそれが現実になることはない。これはただの冗談の話だ。例え本当に市長を解職できたとしても、無名で無職の俺がいきなり当選するとは思えない。だから泉さんの頼みにも軽く頷いた。

 そんな現実、来るはずない。


「そうね……私はもっと、自分のために生きられる世の中になって欲しいって、そう思っている」

 目を瞬かせたあとで、笑うでもなく泉さんはそう言った。


 国を成り立たせるために税金を払わなければならない。経済を発展させるために、就職をしなければならない。会社に入ったら誰かのためにお茶を汲んであげなければならない。会社のために残業をしなければならない。上司の機嫌を取るためにしたくもない愛想笑いをして、仲間同士の結束を深めるために、したくもない上司の悪口を言わなければならない。結婚をして、子供を産まなければならない。家に入れば旦那のためにお風呂を沸かし、ご飯を作り、そして子供のためにお弁当を作らなければならない。人という字の通り、今の世の中は誰かと関係することを求め、強いている。勿論、それが悪いことだとは思っていないし、誰かのために何かができるというのは素晴らしいことだと思う。だけど――。


「こんなのは私の身勝手な願いだっていうのはわかっている。だけど私はもっと、私のためだけに生きたいのよ」


 他の誰でもなく、もっと自分の幸せのためだけに生きられることが許される社会にしたい。それが私の願いなのだと呟いて、泉さんは確りと口を結んだ。それが具体的にどういうもので、どうすればそれが実現できるのか、俺にはわからなかった。だけど、真直ぐに見つめ返してくる彼女の眼差しに、何も訊けなかった。そして、その間を埋めるように、来客を告げるメロディーが鳴った。


 物音を聞きつけた猫みたいに泉さんは顔を上げると、いらっしゃいませと声をかけ、レジまで駆けて行く。入り口を見ると、若いOL風の三人組がお喋りに花を咲かせながらドアを潜るところだった。最新のヒットチャートを流すBGMと冷房装置の低い唸りで溢れていた店内が、すぐにその黄色い声で満たされていく。俺は急いで残りの弁当類を陳列棚に並べると、トレイを片付けてレジに入る。スーツを着崩したサラリーマンがまた一人、店に入ってくるところだった。


 そこからの約一時間半が忙しさのピークだった。その間俺は何度もレジを叩きながら、しかしさっきの泉さんの言葉が頭から離れなかった、

 今の市長を辞めさせて、俺たちにもっと好意的な別の市長を立てる。それは荒唐無稽に思えながらも、案外良い考えなのではないかと思えてくる。だけど実際にそれを誰に相談するかを考えて、そこで行き止まった。真っ先に思い浮かんだグレイシスは、こんな方法正しくはないと言って受け入れないに決まっている。和葉に話したところできっと、正義の味方はそんな卑劣なことはしないのだと諭されるのがオチだろう。誰の協力も得られないのであれば、ただ胸の中にしまっておくしかない。


 人の波が去って、隣からはいつものように泉さんのフォークソングが聞こえてくる。俺は時計を眺めながら、本日のバイト終了のカウントダウンを始めていた。このあとは近くの喫茶店で組合の会合がある。今日のお店はクリームと生地を三層に塗り重ねたレモンタルトが人気らしい。俺としては寧ろ、ステーキの美味しい店に連れて行ってもらい、またグレイシスのおこぼれを頂きたいものだと願っているのに、それが叶えられることは多分、ないのだろう。そんなことを考えていると、また来客を報せるメロディーがなった。


 俺は反射的に挨拶を口ずさむ。別に儀礼的なもので、相手の反応なんて一切求めてはいない。それなのに、その客は間抜けな声を上げた。


「お兄さん、何しているんですか?」


 良く見ると和葉だった。学校帰りなのだろう、制服姿の少女は今まで弄っていた携帯電話を片手に間抜けな顔をしている。夏服の薄手のブラウスからはピンクのブラが透けているのに、色気では全てを覆い隠している泉さんに負けているのが悲しかった。投げかけてきた質問まで間抜けで、こんなところで店員の格好をしてレジにいれば、コンビニのバイトしかない。


「お前こそ、どうしてこんなところにいるんだよ」


 訊きながら、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。こいつに俺の生態がまた一つ解明されてしまったことが面白くない。


「待ち合わせの時間までまだ少しあるから、コンビニで立ち読みでもと思ったんですけど――」

「立ち読みはご遠慮くださいって、そこに書いてあるだろ」

 俺の嫌味を無視して、和葉は携帯電話で時間を確認する。

「もう終わりですよね? 待ってますよ」


 次に向かう先が一緒なのだから、それは否定しようがなかった。そして返事も聞かないまま、和葉は勝手に勝手に雑誌コーナーへ行くと、今日発売のファッション雑誌を摘み上げる。お店のささやかなお願いも聞いてくれない正義の味方とは、いかがなものか。そう思って落とす肩を、泉さんが叩いた。


「可愛い子ね。君の彼女なの? このあとデートの約束だった?」


 どうして女性はこの手の話題が好きなのだろう。俺たちのやり取りを見ていた泉さんも例には漏れず、下世話な母親みたいなことを訊いてくる。隣に擦り寄ってきて上目遣いに俺を見つめてくる彼女の顔には、覆い隠せない好奇心が貼りついていた。


「そんなんじゃないですよ」


 そう呟くのと同時に、和葉から視線を向けられた気がした。だけどそれは俺へではなく、隣の泉さんを睨みつけているようだった。泉さんはそれに気づいていないのか、鷹揚に笑う。


「なんだったらさ、もう上がってもいいわよ。五分か十分くらい一人にされたところで、店長に言ったりなんかしないから」

「五分か十分くらいなら、待たせておけばいいんですよ」

「あら、随分酷いこと言うのね」


 女の子には優しくしないとダメよ、と窘められるのを聞いていたのか、和葉は雑誌を手にしたままこちらへ来て、それをレジに突き出す。俺がマニュアル的にレジを打ってレシートを渡すと、和葉はそれを丸めてくず受けに返した。そして、それと同時に突き出した俺の手首の袖を掴む。


「ああ言ってくれていることだし、ちょっと早いですけど行きませんか?」


 袖を引っ張りながら口にするそれは、提案というよりも命令に近い気がした。いいですよねと和葉が訊ねると、泉さんは頷き、楽しんでいらっしゃいという、勘違いしたコメントまで添えてくる。それを大人の余裕として捉えたのかもしれない。和葉は少しムキになったように、ありがとうございますと答えた。そのまま俺を連れ出そうと、更に強く袖口を引いてくる。どうでもいいが、着替えくらいさせて欲しい。


 俺がロッカーから荷物を取って店から出てくると、和葉はガラス越しに泉さんを見つめた。その視線の先で、泉さんは手を振っている。和葉は目を瞬かせたあとで、歩き出した。


「私、なんとなくあの人、好きになれません」

「美人だからか?」


 なんとなくというのに理由を訊ねるのもおかしな話だと思った。それが面白くなかったのだろう。軽く睨み返してくる。それから何かを言いあぐねるように視線を散し、そして最後にピンクの透けた自分の胸元を見つめると、取り繕うように答えた。


「胸が、大きいからです……」

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