第10話
ホームページ上の会員向け特別サイトのアンケートより――
Q あなたが日々ヒーローとして活動する上で、困っていること、心配に思っていることを教えてください。
A1 年金制度の導入っていうのを考えて頂きたいです。我々の業務というものは身体を張っている分、やはり怪我が多いものですし、それによって引退後の職業の選択肢が限られてしまう恐れがあります。仕事に復帰もしくは就けない可能性だってあるわけですから。そういったことも考えたとき、やはり引退後のことを考えたサポート体勢が必要なのだと考えます。
A2 託児所が欲しいわね。旦那や家の親とかがいる時ならいいんだけど、そうでないときはね。毎回ママ友に預けるっていうわけにはいかないし。緊急の呼び出しばっかりなんだから、その都度預かってくれる人を探すっていうのも結構大変なのよ。あぁ、あと時間帯によってはタイムサービスのお買い物を代行してくれるのなんかあったらいいなかぁ。
A3 出撃の声は声優の田坂結亜がやるべき。異論は認めない。だいたい家のババアよりも年食ってるようなおばちゃんの声で「出撃よ!」なんて言われたってやる気出ねーつーの!
A4 不満? バーカ、そんなんあるわけねーだろ。合法的に人ぶん殴って金もらえるんだぞ! サイコーじゃねーか!
A5 どうして巨大ロボが出てこないんだ! リモコンで操作できるヤツ。それがあればいちいち家から出ないでも済むのに。
ヒーローになるために必要な条件は、正義を貫こうとする強い心でも、勇気でもない。病の発症。ただそれだけだ。だからヒーローと一括りにされても、実際はそこには色んな年齢、性別、職業、宗教の人が入り混じっている。ヒーローはどこにいるのかわからない。それは裏を返せばどこにでもいて、その置かれている状況の多様さから、彼らの求めるものも千差万別だった。その中からグレイシスの提唱する最低賃金と、社会人ヒーローから圧倒的な支持を受けた、出動不可の日時を予め申請をして都合の悪いときの呼び出しを回避するというタイムシフト制の導入を目指して当面は活動していくことが決まった。
そして、それからのグレイシスの行動は早かった。
「市長はじきにみえますので、こちらでお待ちください」
三十代前半くらいの女性秘書官に通されたのは、五階建ての市役所の最上階にある応接間だった。いつも報酬の査定に使われる部屋なら二つくらい入りそうな大きさのそこには、柔らかそうな赤い絨毯の上に革張りのソファーが並べられ、窓際には高そうな花瓶に赤い花が生けられていた。なんという花なのかは知らないけれど、それもきっと高級なものなのだろう。天井からはシャンデリアが吊り下がっていて、壁にはこの街出身の著名な画家であろう人の油絵が飾られている。
「すげぇ」
普段とのあまりの待遇の違いに思わず溢すと、秘書官は哀れみとも侮蔑とも取れの視線を投げてきた。彼女はきっと、このヒーローのマスクに背広を着込んだ怪しげな二人組みを歓迎していないのだろう。あかるさまにインスタントだとわかる紙コップのコーヒーを二つテーブルに並べると、そそくさと出て行った。
「やっぱりこの姿がダメだったんですかね」
秘書官が消えて行ったドアを見つめながら呟くと、グレイシスは軽く肩を竦めた。
「こちらが何者か示すにはいいと思ったんだけどね」
取りあえず敵の登場を待とうじゃないか。そう言って彼はソファーに腰掛けるとコーヒーを手に取った。だが、それもマスクが邪魔で飲めないことに気づいたのか、口もつけずにテーブルに戻した。対して俺は窓際まで歩いていくと、その外の世界を眺める。
五階という高さは、街を一望するというには十分な高さではない。それでも視界を遮るものが殆どない景色は、市の境目である高瀬良川まで見通すことができる。嘗て度重なる氾濫でこの地に肥沃な土と災害をもたらしてきた一級河川は、今やコンクリートの枷に嵌められ、大人しそうな顔をしてこの街を外界から隔てている。川沿いに広がる田畑は夏も終わりに近づき、収穫を待っている頃なのか、青々と色づいていた。対して、そこから右手に歩いて三十分くらいのところには経済の中心ともいうべきオフィス街があり、そこにはここよりも背の高いビルがちらほら目についた。バイト先のコンビニを探すけれど、さすがにそれは他の建物に隠れて見えなかった。
その他には取り立てて見るべきものが何もないこの街の平和を守っているという実感は一切ない。けれど、これが俺の暮らしている街だ。
壁に掛けられていた柱時計が鳴る。俺はグレイシスの隣に座ったが、二時に約束をしていた市長は現れなかった。公務の間の十五分だけ時間が取れるという話だったのに、そのまま五分の時が流れた。グレイシスが頻繁に腕時計に目を落とすようになったのも、彼も苛立っているからだろう。待っている間の二人には会話はなく、時計の針が進む音だけがやたら耳についた。
「遅いですね」
痺れを切らしてそう漏らすと、グレイシスはただ言葉少なく頷いた。「そう、だな」
そしてまた時計を見る。折角直接交渉のできる貴重な時間が、もう半分も失われようとしていた。
「ちょっと俺、訊いてきてみますよ」
秘書官に文句の一言でも言ってやるつもりで席を立つと、まるでそのタイミングを見計らっていたように応接間のドアが開いた。
「待たせて悪かったね」
愛想を振りまくわけでもなく、小太りの男が入ってくるなり儀礼的に言った。それが市長なのだろう。ポスターで見た印象ではもう少し痩せていて、髪も豊かだった気がするが、そこには修正がかけられていたのかもしれない。彼はここの主だと主張するみたいに秘書官を伴って大儀そうに大股で歩き、それに従ってグレイシスもソファーから腰を上げた。そして市長はフルフェイスのマスクを被った俺たちを一瞥すると、大きく鼻を鳴らした。
「お時間を頂きありがとうございます。私は……」
グレイシスが握手をと手を差し出すのを無視して、市長はソファーにその重そうな体を沈める。
「下らん挨拶などどうでも良い。時間がないのだ。手短に頼むよ」
横柄な男の対応に俺は眉を顰めた。だが、顔に被ったマスクのせいでそれは誰にも伝わらない。グレイシスはどう感じているのだろうか。そう思って隣を見るものの、彼の顔にも金ぴかのマスクがあって表情は読み取れなかった。
「わかりました。では、早速本題に入らせて頂きます」
こんな状況にもグレイシスは慣れているのかもしれない。彼は声色一つ変えずに応えるとソファーに座り、ビジネス鞄から用意してきた資料を取り出した。そして、俺もそれに倣う。
「主な内容は先に送らせて頂いた資料の通りです。先日我々はN市のヒーロー業務従事者による組合を結成しました。これにより労働者の権利として認められる団体交渉権を行使し、使用者、つまりは行政側とより良い関係を築いていくことを目的として活動していきたいと考えております。つきましては先日総会を行いまして――」
グレイシスの説明は相変わらず流暢だった。わかり易く噛み砕かれている上に、程よく抑揚の利いた口調が聞く者を引き込んでいく。交渉に必要なものは全て彼の頭の中に揃っていて、だから俺はただ座っているだけで良かった。口を挟んだり、補足が必要なことなど何もない。大人しく前屈みに座ったままで、ソファーに踏ん反り返る市長を眺めていた。市長は市長で秘書官から受け取った資料を興味なさ気に見つめている。相槌の一つも返さない彼が、グレイシスの話を聞いているかは疑わしかった。話を聞くときはきちんと相手の目を見て聞きなさいという教育を、彼は受けてこなかったのだろう。
そして、グレイシスが一通り話を終えると、市長は手に持っていた資料をテーブルに放った。
「そちらの要求に関しては大方理解した。まずは一つ目の項目である継続的な交渉の実現という点に関してはこちらも望むところだ。すぐに担当の者を立て、対応に当たらせるとしよう。三つ目にあるタイムシフト制についても、そこで好きに話し合えば良かろう」
「ありがとうございます」
市長の横柄な態度とは裏腹な色よい返事に驚いて、俺は思わずグレイシスを見る。彼は手応えを感じているのか、小さく頷き返した。
だが――小さく咳払いをして、市長が続ける。
「この二つ目の最低賃金の保証というものに関してだが、これはヒーロー事業における予算の増額を求めるものという理解でよろしいのかな?」
「はい、最終的にはそうなるかと思います。基本報酬とは別に、被害の補償額により報酬が最低賃金に届かない場合、その分を補填する資金が必要となります。そのため、予算を増やして頂く必要が――」
「では、ダメだ」
グレイシスの言葉を遮って、市長はピシャリと言い切った。彼の鋭い眼差しが、絶対的な拒絶を物語っているように思えた。
「事業を行うには何かしら金がいる。では、その増額するための財源をどこに求めるつもりであるのかな? 周知の通り、我が市では高瀬良川につり橋の建設計画を進めている。これに対して、国からの補助金も含めて総額十二億円の特別予算を計上し、これの財源を確保すべく、各部署に五から十パーセントの合理化を推し進めているところだ。これ以上の出費となると、ない袖は振れんよ」
グレイシスは閉口した。正直なところ、財源問題については考えなかったわけではない。それでも有効な施策というのは思い浮かばず、痛いところを突かれたというのは事実だ。それを上手く切り返し、市長の頑なな態度を軟化させるための策を、グレイシスは頭の中で必死に考えているのかもしれない。
だが、市長が腕時計に目を落とす様を見て、俺は思わず口を開いていた。このまま話が打ち切られるのを恐れたのだ。
「橋は一度造ってしまえばお終いじゃないですか。それなら、橋ができた後で合理化して浮いた分の金を財源に充ててくれるよう検討してもらえればいいじゃないですか?」
初めて口を開いた俺にようやく気づいたというような視線を、市長は寄越してきた。そして、あかるさまに溜息をつく。
「そもそも私はこの、最低賃金の保証というもの自体がナンセンスだと考えている。ヒーローの業務というものに対して我々は明確であり、かつ十分な報酬を用意している。そこからいかに利益を生み出すかは本人の企業努力次第であって、我々の関与すべきところではない」
何の努力もしないで赤字を垂れ流し続ける会社を救うために、君の大事な税金が使われる。その状況に君は憤ったり、不満に思うことはないのかね。そう問われて、俺は返す言葉も見当たらなかった。市長が吐き出すのは正論だ。これがテレビの向うの話なら、経営破綻した企業に公的資金を注入するニュースを、俺も無責任に批判しながら眺めている姿なら想像に難くない。当事者でない者の反応なんてきっと、そんなものなのだろう。
どうだと言わんばかりに睨みつけてくる市長から、思わず俺は顔を背けた。すると、若造を言い負かしたことに満足したのだろう、市長のソファーが軋む音が聞こえた。
「お言葉ですが、我々の業務は工場でベルトコンベアを流れるものを相手にするわけでも、綿密に調査を重ねた場所で行われるわけでもありません。相手がいつ、どこで、どのような目的を持って現れるのか。またそのときの現場にはどのような人がいて、どのようなものがあって、どのような状況にあるのか。それら全てを事前に把握しきって対策を取るということは事実上不可能であるし、不確定要素が多すぎます。そもそもそちらから出動の要請を受けた時点で既に被害が出ている可能性もある。それなら我々がどんなに努力をしたところで、被害をゼロにすることはできない。それなのに、それら全ての責任を企業努力という言葉で個人に押し付けるのは、些か無責任というものではないでしょうか」
そこには資金的あるいは人的なバックアップが必要だと主張するグレイシスの助け舟に、俺は救われた気がした。窮地に陥ったときには必ず助けてくれる。まるでそんな理想のヒーローを体現しているようだった。その金ぴかのマスクが神々しく映える。対して市長は水を差された気分なのだろう。忌々しげに眉を寄せた。耳を澄ませば、舌打ちも聞こえてきそうだ。
「我々は飢えては戦えません。それでは、市民の平和を守れなくなる。どうか、ご一考のほど、よろしくお願いします」
グレイシスが軽く頭を下げたため、俺もそれに倣った。相変わらずソファーに踏ん反り返る相手に、下手に出続けないといけないことは癪に障る。就活の面接で慣れたつもりでいたけど、立場による越えられない壁の存在に歯痒さを感じずにはいられない。しかし、地方自治体の予算編成権はその首長にのみ与えられる。議員は差し戻すことはできても、最終的を決定する権利はない。つまり、ここで市長の感傷を悪くし、態度を頑なにさせてしまえば、目標達成への道は容易く絶たれてしまう。弱いものはただ、頭を下げるしかない。
そんな屈辱に耐え忍んでいるときでも、秘書官は平気で間に割ってきて、市長に耳打ちをした。市長は時計を見ると、要求に対する答えを残さないまま立ち上がる。
「申し訳ありませんが、次の予定が控えておりますので」
言葉だけは丁寧に秘書官が会見の打ち切りを告げる。約束の時間には遅れてきたくせに、終わりの時間だけは予定通りだった。
そんなの納得できるか! ――怒鳴りつけてやろうと思わず立ち上がる俺の右手を握って、グレイシスが制止する。それで結局何も言えなくて、市長と秘書の冷たい視線に晒されたまま、俺は再びソファーの上に落ちた。そして有無を言わさず、俺たちの前から冷め切ったコーヒーが片付けられていく。その間中、市長はスーツの襟首ばかりを直していた。まるでここにいる俺たちはもう、見えてはいないかのようだった。
グレイシスの歯を食いしばる音が聞こえてきそうで、俺は隣を見た。綿密に準備をしてきた結果がこれだ。その内の半分も出し切れずに、軽くあしらわれただけ。彼にはもっと言いたいことや、提案したいことが沢山あったに違いない。だけど最初から透けて見えた市長の拒絶の姿勢が、それを許さなかった。
金ぴかのマスクのせいで、表情を窺い知ることはできなかった。彼が泣いていても、笑っていても、それは全てを覆い隠してしまう。それでもグレイシスは大人であり続けようとしていたのかもしれない。俺の腹の底で不満ばかりが煮えたぎるこの場面で、彼は立ち上がり、市長に手を差し伸べた。
「今日は貴重なお時間を頂きありがとうございました。前向きな検討のほど、よろしくお願い致します」
市長はやはり、その手を受け取らなかった。一瞥をくれるだけで、軽く片づけをする秘書官を待ちながら、その時間さえも惜しいと言わんばかりに、苛立たしげに足を鳴らす。高そうな壷に絵画にシャンデリア。俺にはとても買えそうもない調度品の揃うこの赤い絨毯の応接間で、彼は絶対的な王様のつもりでいたのだろう。退出の間際、彼はまたも頭を下げる俺たちを横目にしたまま言った。
「先程君たちは、自分たちこそが市民の平和を守っているというようなことを言っていたが、私に言わせれば思い違いも甚だしい。市民の平和を守る、それは警察の仕事だよ。まぁ、百歩譲って君らの存在が全く不要だとは思わん。だが、逆に訊きたいものだね。世界制服などと標榜する連中のやっていることと言えば、悪ガキの悪戯の延長に過ぎん。あんなもので本当に世界が危機に瀕するのだと、君たちは本気で信じているのかね?」
それは質問なんかではなかったのだろう。言いたいことだけを言って、彼は部屋から出て行った。取り残されただだ広い部屋で、俺はグレイシスと顔を見合せる。ちょうどそのとき、歩み出したこの道の険しさを示すように、柱時計が重く厳かな鐘の音を鳴らした。