第1話
バーニングブレスト!
傍から見ればただの大振りなパンチの技名を、俺は赤面しながら叫んだ。別にそれによって何かが燃え上がるわけではない。強いていうのなら青色の戦闘スーツの奥に隠した、俺のちっぽけな羞恥心が爆発しそうなだけだ。
麗らかな陽射しが舞い込む午後の公園で、砂場デビューを果たしたばかりのような子供たちが見ている。それを連れて来て井戸端会議に興じる母親たちが見ている。一人でベンチを占領している老人は、あれは多分寝ている。そんなバラエティーに富んだ視線に晒されながら繰り出したパンチは、頭にハチだかトンボだかの昆虫の目みたいな飾りを付けたオッサンの汗ばんだ頬を捉えた。
その刹那、オッサンと目が合う。
あんたも大変だな――おう、お前もな。
そんな男同士の無言の言葉を交わしたかと思うと、瞬時に右腕にアドレナリンが駆け抜ける。あたかも限界まで圧縮された空気が一気に解放されるような衝撃を感じると、オッサンは文字通り飛んでいった。重力を無視して地表と平行に吹き飛ぶその姿を見つめながらふと、あのオッサンにも家族がいるのではないかという考えが過ぎった。
もしかしたら気立てのいい綺麗な奥さんがいるのかもしれない。その間には子供がいて、最近一緒にお風呂に入ってくれなくなった娘の成長を喜びながらも悩んでいるのかもしれない。お昼になればタコ足のウィンナーが入った愛妻弁当を照れながら頬張るのだろうか。朝はどんなふうに見送られて出てきたのだろう。
そんな家族が、今のハチとカマキリを混ぜ合わせたようなコスプレをするオッサンの姿を見て、何を思うのか。それはきっと、本人が望んだ姿というわけではないはずなのに。
善良な市民を哀れな怪人に仕立て上げる悪の組織の残酷さに、俺は身震いをした。
だけど、そんな同情に浸っている余裕はない。今しがた振り抜いた右手を引き戻しながらオッサンに背を向けると、水平に構えた左手を切って落とし、最後に天頂に輝く太陽を掴み取るように右手を掲げる。周りの冷めた視線は相変わらずで、いつの間に起きたのか、ベンチの老人が一人だけ拍手を送ってくる。派手な爆発も何もない絵面が、ひたすらシュールさを醸し出す。
ヒーローになって早一年。義務付けられたこの決めポーズを取る度に思う。顔を覆い隠すマスクがあって本当に良かった、と。それがなければ今頃はきっと、羞恥心で死んでいたことだろう。
溜息にも似た吐息を漏らすと、オッサンの消えていった背後で板金がひん曲がるような鈍い音がした。即座に頭の中でレジが打たれる。基本的にヒーローの業務中に物品等が破損した場合は、その担当ヒーローの報酬から賠償金が賄われる。屋外に設置されている信号機だとかガードレールだとか、そんなものに安いものなどない。だからその音の原因が俺でないことを、心の中で必死に祈る。
「クソッ! 憶えていなさい!」
決まりきった常套句を叫ぶと、怪人を繰り出してきた女幹部が、全身黒タイツの戦闘員を引き連れて身を翻していった。全体的に肌の露出が多いコスチュームを着た彼女の顔は羽を広げた鳥を象った黒いマスクで隠すだけで、赤いルージュが引かれた艶やかな唇が、不敵に笑ったように見えた。
そしてそのまま彼女は行ってしまう。ファッションモデル並みに綺麗なその後姿が消えるまで見送ると、園内の時計に目をやる。時刻はとっくに十一時を過ぎていた。
――ヤバイ!
思わず頭の中で叫んだ。一時から予定されている就職の面接に間に合うには、十五分後の電車に乗らなければならない。公園から駅までは歩いて十分程かかるから着替えを五分で終わらせて、後は全力で走って、あぁ、エントリーシートは電車内で見直すしかないな――そんなことを考えながら俺は、公衆トイレに駆け込んだ。
道路を挟んだ向うの駐車場で、車のオーナーらしき男が騒いでいるのは、あえて見なかったことにした。きっと、俺とは無関係なことだと信じたい。
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現代の三大奇病の一つに数えられる突発性筋力異常症候群、所謂ヒーロー病という、極めて迷惑な病気が初めて見つかってからまだ、十五年ほども経っていないらしい。発症率が五千人に一人とか、一万人に一人だとか言われるこの病気についてわかっていることといえば、精神が高揚した際瞬間的に筋肉が通常では考えられない力を発揮するということぐらいで、そのメカニズムも、有効な特効薬もまだ、解明されてはいない。そもそも一時的に力持ちになるだけの病で、日常生活には何ら支障をきたさないため、治療の研究は積極的に行われていないのが現状らしい。
放っておいても誰も困らない病気。それが世間一般の評判だった。だけどそこに目をつけた者たちがいた。ちょうど時を同じくして活動を活発にさせてきた、悪の組織に対抗する手段として――。
周囲に誰の目もないことを確認してからトイレに入る。二つある個室の内手前は使用中だったが、幸いなことに奥は空いていた。そこに気配を押し殺しながら滑り込むと、予め隠しておいたバッグを引っ張り出す。その中にはワイシャツやネクタイ、リクルートスーツや革靴といった面接に必要な着替えが押し込まれていた。そこから腕時計を取り出してもう一度時刻を確認する。一年前就活用になけなしの二万円をはたいて買ったそれもやはり、園内の時計と同じ時間を指していた。これでは一息つく余裕もない。そしてそそくさと戦闘で砂埃にまみれたライダーグローブを外し、コンビニのビニール袋に入れる。
ヒーローはその正体を秘匿しなければならない。着替えをしながら、その一文を苦々しく思い出す。ヒーロー三原則と呼ばれるもの一つで、新人ヒーロー向けに配られたパンフレットの一ページ目にも明記されていた。これは、いかなる理由であっても犯されざるべきものなのだと、そのときの講師はさも重要そうに言った。世間一般に対して、○○さん宅の××クンって、実はヒーローやってるんですって、などという噂の流布を防ぐのが目的らしい。それはヒーロー自身のプライバシーを守るためでもあり、その情報を聞きつけた悪の組織からの不意の襲撃を回避するためのものだという。大学の健康診断でヒーロー病が確認され、最初に受けさせられた講習会で、講師がそう熱弁を振るっていた。居眠りしそうなのを必死に堪えていた俺との温度差は、まさに竜巻でも発生するのではないかと恐れるくらいだった。
つまりそんな理由でヒーローは、業務中にフルフェイスのマスクと戦闘服の着用が義務付けられている。
本当はジャージとかスウェットのままふらっときて、ふらっと帰るくらいがちょうどいいんだけどな。薄暗い個室の中で一人ごちる。それが許されるのであれば、こんな面倒な着替えもなければ、変態じみた格好をして羞恥に打ちひしがれることもないのに。そもそも肌にピッタリとくっつく衣装は、汗をかいた後脱ぎ辛くてしかたがない。
髪を引っ張らないように気をつけながらマスクを脱いだ。内側にまだ黒々としたものが貼りついているのが切なかった。将来禿げたら絶対に訴えてやろうと心に誓う。だけどそんな惜別を振り切るように鏡を取り出した。それを覗き込み、髪型をチェックする。目だし帽にちょっとメタリックな加工をして作ったマスクだから、長時間着用していると髪が撫で付けられてみっともなくなる。実際のところ、ウルトラマンが三分しか戦闘できないのもきっと、そういった理由なんだろう。隊員がウルトラマンになって戦って帰って来る前後で、あのマスクを被りながらも完璧な髪型を維持するには、あれくらいの時間が限度なのだ。
今日の俺の場合は――少しばかり雑魚の戦闘員相手に時間を使い過ぎたのかもしれない。現に十五分ほどマスクで撫で付けられた俺の頭は、まるで寝癖の跡みたいに乱れていた。そこに素早く手櫛を通すと、匂いがきつくならないように気を使いながらスプレーで整えていく。後十分少々で電車が出る状況であっても、手を抜くわけにもいかない。人のイメージは第一印象で七割がた決まってしまうものらしい。そこにはどうしても視覚からの情報が大きく寄与するのだから、面接なんていう一発勝負の場面においては、この数分の手間がその後の人生を左右しかねない。
人間というのはなんて厄介な生き物なのだろう――。
そんな時にふと、トイレに駆け込んでくる足音がした。大方、我慢していたものの限界が近いのかもしれない。時間が差し迫っていることもあって、あまり気に留める余裕もなかった。再び時計を見ると、あれから三分ほど進んでいる。予定はやや遅れ気味だ。
バタバタとした足音はまだ続いていた。初め隣の個室の前に止まったようだったが、使用中で落胆したみたいだった。だけど、もう一つの個室も俺が使っている。残念ながらそこで我慢してもらうしかない。そんなことを想いながら戦闘服のファスナーに手をかける。そこで突然、背後でドアの開く音がした。
反射的に振り返る。そこには本来、壁で覆い隠されて見えないはずの光があった。それに目が眩まされるみたいに、頭が真っ白になった。
「あっ」
お互いに目が合って、お互いに素っ頓狂な声を上げる。どうやらあまりに慌てていたせいで、ドアの鍵を閉め忘れていたらしい。それに気づいたところで、今の自分の状況に思い当たる。青のタイツスーツをベースにパンク調の棘やら赤いラインをアクセントにした戦闘服を着たまま、素顔を晒している。これではどんな言い訳をしたところでただの変態コスプレ野郎か、――さもなければ着替え中のヒーローでしかない。
――ヒーローはその正体を秘匿しなければならない。
絶対不可侵と言われる、その条文が頭に浮かぶ。それを破った場合の罰則は……。あのときの講師は一体なんと言っていたっけ。闖入者の顔を漠然と見つめながら俺は、そんなことを必死に思い出そうとしていた。
初連載作品になります。
週1更新を目標にしたいですが、気長にやっていこうと思います。
もしよろしければお付き合いください。
よろしくお願いします。