悪役令嬢人形譚〜偽りの令嬢とティアドロップス〜
『悪役令嬢人形譚』シリーズの新作です。
今回の主人公は、5歳で貴族の養女となり、「奇跡の人形」を巡る偽りの物語の中で育てられた少女、エヴァリーナ。
「助けたいと思っていること」と、「実際に助けること」は同じなのか。
善意があっても、ドアマットヒロイン的に誰かの都合のいい時まで待たされ続けた人にとって、それは本当に救いなのか。
そんなところから生まれたお話です。
シリーズものではありますが、本作単独でもお読みいただけます。
それでは、『偽りの令嬢とティアドロップス』をどうぞ。
悪役令嬢人形譚
〜偽りの令嬢とティアドロップス〜
リネットがエルベイン子爵夫妻に引き取られたのは、5歳の春だった。
孤児院の院長から「今日から貴族のお嬢様になるのよ」と言われても、何が変わるのか、幼い彼女にはよく分からなかった。
ただ、迎えに来た子爵夫人が自分の顎を持ち上げ、右を向かせ、左を向かせ、最後に髪を一房すくい上げたことだけは覚えている。
「本当に珍しい色ね」
白に近い淡い金髪だった。
瞳はオリーブグリーン。鼻から頬にかけて、薄いそばかすが散っている。
子爵夫人は、そのそばかすだけが気に入らなかったらしい。小さく眉をひそめ、指先で頬をなぞった。
「まあ、これは化粧で隠せるでしょう」
それから夫へ向かって、満足そうに言った。
「この子なら使えますわ」
何に使うのか。
リネットが知ったのは、エルベイン家へ連れて行かれた後だった。
「今日から、お前はエヴァリーナだ」
子爵が言った。
「リネットだよ?」
「その名は忘れなさい。お前はエヴァリーナ・エルベイン。私たちの娘だ」
新しい服を着せられ、新しい靴を履かされ、新しい部屋を与えられた。
けれど、与えられたものの中で、最も大切に扱うよう命じられたのは、部屋でも服でもなかった。
新しい名前と一緒に渡された、1体の人形だった。
淡い色のドレスを着た、美しい人形。
陶器のような肌に、金色の髪。胸元には、小さな青い石が縫い付けられている。
「この子を大切にするのよ」
子爵夫人はそう言って、エヴァリーナの腕に人形を抱かせた。
「この人形はね、あなたが悲しい時に一緒に泣いてくれるの。その涙は、美しい宝石になるのよ」
幼いエヴァリーナは、素直に人形の顔を見た。
「泣くの?」
「そうよ」
「今も?」
子爵夫人の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「余計なことを聞かないの」
人形が泣くところを、エヴァリーナは1度も見なかった。
けれど数か月後には、王都の宝石商で「奇跡の人形の涙」が売られていた。
美しい少女が大切にしている人形。
その人形は、少女の悲しみに心を寄せて涙を流す。
涙は地面へ落ちる前に宝石へ変わり、持つ者へ幸福を与える。
そんな話だった。
もちろん、嘘だった。
人形は泣かない。
涙が宝石になることもない。
エルベイン家が用意した価値の低い石を、それらしい物語と一緒に売っているだけだった。
ただし、石そのものが完全な偽物というわけではなかった。
子爵領の鉱山から採れる、色の薄い石英や長石。宝飾品としては価値が低くても、研磨すればそれなりに見栄えがする。
エルベイン家は、それらを安く仕入れ、磨き、物語で包み、高値で売った。
そして、その物語を本物らしく見せるために、孤児の少女を「奇跡の令嬢」へ仕立て上げた。
何より、エヴァリーナ自身が美しかった。
白に近い金髪の少女が人形を抱き、静かに微笑んでいる。それだけで、作り話は本当らしく見えた。
やがて石には、名前までついた。
ティアドロップス。
人形の涙。
エヴァリーナは、それを売るための顔になった。
その頃から、子爵夫人は人形を決して他人に触れさせなかった。
商人が鑑定を申し出ても、夫人は笑顔で断った。
「奇跡は、信じる心があってこそ起きるものですから」
エヴァリーナは、その言葉を覚えていた。
人形の胸元に縫い付けられた青い石も、夫人が人形を手放さない理由も、まだ知らなかった。
ただ、あの石だけは、ティアドロップスとして売られる石とは少し違う色をしていた。
◇ ◇ ◇
子爵夫妻が欲しかったのは娘ではなかった。
人形を抱いて微笑む、美しい少女だった。
だから、エヴァリーナがその役目を果たしている間は優しかった。
朝食の席では、彼女の好き嫌いを尋ねた。
客の前では、髪を撫で、頬へ口づけをした。
けれど、笑顔が崩れたり、決められた台詞を間違えたりすると、優しさはすぐに消えた。
「笑いなさいと言ったでしょう」
「ごめんなさい」
「そんな顔でティアドロップスが売れると思っているの?」
人目につく場所に傷を残されることは少なかった。
顔。
腕。
手。
ドレスから見える場所は商品だからだ。
鞭は主に、背中や腰へ振るわれた。
幸い、エヴァリーナにはわずかな治癒魔法の適性があった。
切り傷を塞ぐ。
腫れを引かせる。
痣を薄くする。
大きな怪我を治せるほどではないが、少女が自分の身を守るには十分だった。
最初の頃は、痛いところを全部治していた。
けれど、ある時からやめた。
きっかけは、子爵夫人が医師へ向かって言った言葉だった。
「この子は転んだだけです。余計なことはおっしゃらないで」
医師はエヴァリーナの背中を見なかった。
見ても、見なかったことにした。
その夜、エヴァリーナは初めて、傷を治さずに残した。
顔や手の傷だけを消し、服に隠れる背中や腰の傷は残すようになった。
いつか。
何かに使えるかもしれない。
5歳でリネットという名前を奪われた少女は、誰にも教えられないまま、少しずつ覚えていった。
言葉だけでは信じてもらえないことがある。
大人は、見えない傷をなかったことにする。
だから、証拠は残しておいた方がいい。
エヴァリーナは、傷の数と日付を小さな紙へ書き留めるようになった。
紙は人形のドレスの裏へ隠した。
人形は、誰も勝手に触らない。
それだけが、彼女にとって都合のいい秘密の場所だった。
◇ ◇ ◇
学院へ入ってからも、エヴァリーナは「奇跡の人形の令嬢」だった。
好奇の目で見られ、陰では嘘つきと呼ばれた。
人形の涙など信じていない者も、当然いた。
「ねえ、本当に人形が泣くところを見たことがあるの?」
「ティアドロップスって、ただの安い石じゃない?」
「奇跡の令嬢なんでしょう? 何か見せてよ」
エヴァリーナは、いつも人形を胸元へ抱いていた。
人形を手放せば、子爵夫人に叱られる。
人形を傷つけられれば、何をされるか分からない。
だから、からかわれても、奪われそうになっても、腕を離さなかった。
ある日、教室で数人の令嬢に囲まれていると、廊下を通りかかった教師が足を止めた。
けれど、その教師が中へ入るより先に、上級生の少年が声をかけた。
「先生」
レオニード・ド・ヴァルセイン。
公爵家の令息だった。
「今は、僕に任せていただけませんか」
レオニードは令嬢たちを追い払った。
その時、彼の視線が一瞬だけエヴァリーナの人形へ向いた。
胸元の青い石を見ていたのかもしれない。
けれど、エヴァリーナには分からなかった。
何を考えているのか。
なぜ助けたのか。
後になって知った。
レオニードは、学院で自分に何が起きているのかを記録していた。
ここで教師が叱れば、嫌がらせは表から消える。
けれど、なくなるとは限らない。
見えないところへ移るだけだ。
だから証拠が揃うまで待つ。
学院で起きていることだけではない。
エルベイン家が売るティアドロップスの仕入れ先。
子爵領の鉱山から運び出される石の量。
帳簿に記された生産量と、王都へ届く商品の数。
レオニードは、それらを別々の問題として記録していた。
理屈としては正しかったのだろう。
少なくとも、大人たちはそう考えた。
その「正しい時間」の中で傷つくのが誰なのかを除けば。
◇ ◇ ◇
エヴァリーナが学院で倒れた時、最初に怒ったのはエステラ・ヴァン・クレイヴェルだった。
「帰さない」
エステラはきっぱり言った。
「今日は絶対にエルベイン家へ帰さないから」
「でも……」
「でもじゃないの。立てないでしょう」
エステラは兄のライオネルを呼び、半ば強引にエヴァリーナをクレイヴェル伯爵家へ連れ帰った。
医師が呼ばれた。
診察のために服を脱がされ、背中に残る傷を見られた時、部屋の空気が変わった。
「これは……」
医師は傷を調べた後、エヴァリーナの魔力も確認した。
「お嬢様には治癒魔法の適性がありますね」
「少しだけです」
「ですが、これほど魔力があるなら、ご自分で多少は治せたでしょう」
エヴァリーナは黙った。
エステラが先に気づいた。
「まさか……わざと残したの?」
「全部治したら、何もなかったことになってしまうから」
エステラの顔が歪んだ。
「そんなことを考えなきゃいけなかったの?」
エヴァリーナには、質問の意味がよく分からなかった。
考えなければならなかったから、考えただけだ。
医師は傷の記録を取り、治療の経過を紙へ書き留めた。
エヴァリーナは、その紙を見ていた。
自分が残してきた記録と同じように、傷が数字と日付へ変わっていく。
けれど、医師の記録には、彼女が自分で書けなかったことまで書かれていた。
古い傷。
新しい傷。
繰り返された打撃。
長期間にわたる虐待の痕跡。
初めて、誰かが自分の傷を「なかったこと」にしなかった。
クレイヴェル家に滞在して数日が過ぎると、食欲も戻った。
夜中に空腹を感じ、厨房へパンをもらいに行ったことまで料理長からライオネルへ伝わってしまった。
「パンくらい、部屋へ運ばせればよかったのに」
「自分で行けますもの」
「そういう問題じゃないよ」
ライオネルは笑っていた。
彼は優しかった。
体調が悪ければ休ませてくれた。
本を持ってきてくれた。
庭を歩く時には付き添った。
厨房へ頼んで食べやすいものを用意させ、時には焼き菓子を持ってきた。
その焼き菓子には、いつも同じ香草が使われていた。
エヴァリーナは、その香りを覚えていた。
後に、ライオネルが持ってきた紅茶からも、同じ香りがした。
エステラはもっと遠慮がなかった。
回復して化粧を薄くしたエヴァリーナの顔を、じっと眺めた。
「今はちゃんと、あなたの顔が見える感じがする」
「どういう意味?」
「前はお人形みたいだったもの」
エヴァリーナは少しだけ眉を寄せた。
「そばかすが見えているでしょう」
「かわいいじゃない」
「お義母様は嫌うわ。奇跡の人形を抱く娘には、染みひとつない肌が必要だって」
「そばかすくらいあった方が人間らしいわよ」
エステラは本気でそう言った。
エヴァリーナは笑った。
その笑い方を、誰からも直されなかった。
その夜、エヴァリーナは人形をベッドの脇へ置いた。
初めて、自分から腕を離した。
けれど眠る前には、また胸元へ抱き寄せていた。
◇ ◇ ◇
けれど、結局エヴァリーナはエルベイン家へ戻された。
エステラは最後まで反対した。
「どうして帰すの? 傷を見たでしょう!」
伯爵は娘をたしなめた。
「子どもが口を挟むことではない」
「子どもだから何なのですか。あの子も子どもでしょう!」
エステラの声が廊下まで響いた。
エヴァリーナは聞かなかったふりをした。
その後、ライオネルから事情を聞いた。
問題はエヴァリーナ1人ではないのだという。
エルベイン子爵家の背後には寄親の侯爵家がいる。
さらに子爵領の鉱山を巡る権利や、土地の売買、物流にも不審な点がある。
ティアドロップスとして売られている石の多くは、鉱山から採れる低品質の石だった。
しかし、帳簿上の採掘量と、実際に王都へ運ばれる量には大きな差がある。
その差分がどこへ消えているのか。
誰が利益を得ているのか。
そして、なぜエルベイン家が孤児の少女をわざわざ「娘」として仕立てたのか。
学院での件についてはヴァルセイン公爵家も記録を取っており、レオニードも動いている。
今、エヴァリーナだけを強引に連れ出せば、エルベイン家は警戒する。
証拠を消すかもしれない。
侯爵家へ助けを求めるかもしれない。
鉱山の権利や、帳簿の改ざん、王都の商人との取引まで、すべて隠されるかもしれない。
もっと大きな問題を暴くためには、まだ動いてはいけない。
「もう少しだけ待ってほしい」
ライオネルは言った。
エヴァリーナは頷いた。
その言葉を、彼女は何度も聞いてきた。
子爵夫人からは、笑顔を作るまで。
医師からは、傷が治るまで。
学院の教師からは、騒ぎが収まるまで。
そして今、ライオネルからは、証拠が揃うまで。
待てば、誰かが何とかしてくれる。
そう言われるたび、エヴァリーナは頷いた。
それからも、待った。
◇ ◇ ◇
ライオネルから借りた本は役に立った。
領地経営。
鉱物。
交易。
外国の産物。
最初は暇を潰すためだった。
やがて、エヴァリーナは数字を見るのが好きになった。
鉱山から何が採れるのか。
どの程度の品質なら宝飾品に使えるのか。
研磨材や装飾材としてなら、どのくらいの価値になるのか。
何をどこへ運べば、どれだけ金になるのか。
そういうことを知るのは面白かった。
エルベイン家の鉱山から採れる石も、大半はティアドロップスとして高値で売れるようなものではない。
クズ石、と呼ぶ者さえいた。
けれど、鉱山そのものに価値がないとは限らない。
もっと奥に別の鉱床がある可能性もある。
古い採掘記録には、現在の坑道よりさらに深い場所で、青みを帯びた透明石が見つかったという記述があった。
その記録は、途中で不自然に途切れていた。
採掘を続けた形跡はある。
けれど、産出量の記録がない。
代わりに、鉱山の所有権と採掘権だけが何度も書き換えられていた。
そして、そのことに気づいているのはエルベイン家だけではないらしい。
ライオネルが持ってきた本の余白には、誰かが鉱山の位置を示す印をつけていた。
レオニードの筆跡かもしれない。
クレイヴェル家の誰かかもしれない。
エヴァリーナには分からなかった。
ただ、彼らが自分を助けたいと思う気持ちと、鉱山を欲しがる気持ちが、完全に別物ではないことだけは分かった。
16歳になった頃には、エヴァリーナにもそれくらいは分かるようになっていた。
ある日、ライオネルが会いに来た。
「父上たちは、かなり証拠を集めている。ヴァルセイン公爵家も動いている。だから、もう少しだと思う」
「もう少しって、どのくらい?」
ライオネルが言葉に詰まった。
「1か月?」
「エヴァリーナ」
「半年?」
「それは……」
「1年?」
答えはなかった。
エヴァリーナは、彼の沈黙を見つめた。
その沈黙の中に、彼自身の意思があるのかどうかを探した。
けれど、見つからなかった。
父上が。
公爵家が。
証拠が。
侯爵家が。
彼はいつも、誰かの決定を伝えているだけだった。
エヴァリーナは微笑んだ。
「分かりました」
その夜、彼女は人形のドレスをほどいた。
裏地に隠していた傷の記録を取り出す。
代わりに、別の紙を縫い込んだ。
鉱山の帳簿から読み取った数字。
ティアドロップスの販売記録。
王都へ運ばれた石の量。
そして、ライオネルが持ってきた本の余白にあった印。
人形の胸元に縫い付けられた青い石を、指先で撫でる。
この石が何なのか、まだ分からない。
けれど、子爵夫人が誰にも触らせなかった理由は、きっとある。
3日後。
エヴァリーナ・エルベインは死んだ。
◇ ◇ ◇
前夜から降り続いた雨で、川は大きく増水していた。
岸辺には、少女の靴がきれいに揃えて置かれていた。
その隣には、かつて奇跡を起こすと宣伝された人形。
そして1枚の紙。
『孤児の自分が生きていても、仕方がありません』
筆跡は、エヴァリーナが普段使っていたものに似せてあった。
けれど、紙の端には小さな染みが残っていた。
人形の胸元に縫い付けられていた青い石を、外す時についたものだった。
捜索が行われた。
川下まで人が出された。
けれど、遺体は見つからなかった。
新聞は大きく報じた。
奇跡の人形とともに育った美しい令嬢。
その裏で苦しんでいた孤児の少女。
華やかなティアドロップスの伝説と、悲劇的な最期。
記事としては申し分なかった。
エルベイン家は、悲劇の令嬢を演じた。
クレイヴェル家は、救えなかった少女を悼んだ。
ヴァルセイン公爵家は、捜索と調査を続けた。
誰もが、自分の役割を果たしていた。
遺体は、まだ見つかっていない。
それでも新聞は、エヴァリーナ・エルベイン子爵令嬢の死を、すでに過去形で書いていた。
◇ ◇ ◇
「エヴァリーナは死んだのよ」
数日後。
別の町の安宿で、少女は鏡の中の自分へ言った。
「だから私は、リネット」
5歳まで使っていた名前を、声に出す。
不思議な感じがした。
懐かしいというほど覚えていない。
それでも、自分で選んだ名前ではないエヴァリーナよりは、ずっとましだった。
逃亡の準備は以前からしていた。
ドレスや小物を少しずつ処分し、追跡されやすい高価な宝飾品には手をつけなかった。
ただし、人形だけは持ってきた。
人形の胸元から青い石を外し、代わりに安いガラス玉を縫い付けてある。
青い石は、別の布へ包んで靴底に隠した。
あれが鉱山の秘密と関係しているのか。
ティアドロップスの価値を支える本当の理由なのか。
それとも、ただの思い込みなのか。
まだ分からない。
けれど、分からないものを分からないまま持っていることも、時には必要だった。
冒険者ギルドには「エヴァ」という名前で口座を作ってある。本人確認は名前ではなく魔力の印で行われるため、偽名でも本人が使う限り問題はなかった。
髪には粉をつけ、白に近い金色をくすませた。
眼鏡をかけ、地味な服を着た。
背筋を伸ばしすぎない。
歩幅を少し広くする。
貴族令嬢らしい言葉遣いもしない。
そして、すぐには帝国へ向かわなかった。
国境へ急げば、かえって目立つ。
リネットは近くの町で商家の事務員になった。
帳簿をつけ、荷物を確認し、請求書を書く。
やってみると、驚くほど性に合った。
仕入れ値。
売値。
輸送費。
関税。
通行税。
同じ品物なのに、領地を1つ越えただけで値段が変わる。
逆に、帳簿に書かれた数字を追えば、誰がどこから何を運んでいるのかが見えてくる。
エルベイン家にいた頃には、誰も教えてくれなかった。
ライオネルから借りた本には書いてあった。
そして今、商家の帳簿には現実が書かれていた。
ある日、帳簿の中に見覚えのある記号を見つけた。
鉱山の古い記録にあったものと同じ印だった。
その荷は、王国から帝国へ向かう穀物と植物油の中に紛れていた。
鉱石ではない。
けれど、同じ商人が扱っている。
リネットは記号を写し取り、帳簿の該当箇所を記憶した。
それから、新聞社へ情報を売るようになった。
最初は小さなものだった。
ある道だけ、不自然に通行料が変わっている。
記録上の生産量と、実際に運ばれる荷の量が合わない。
ある地域から出るはずのない品物が、なぜか大量に市場へ流れている。
それが何を意味するのかまでは言わない。
証拠もないのに、決めつけることもしない。
ただ、調べる価値がある場所を教える。
新聞記者は、その先を自分で調べた。
その方がいい。
リネットは思った。
証明できないことを、証明できるふりはしない。
ただ、調べる価値がある場所を覚えておけばいい。
そして、誰かが調べ始めた時に、次の手がかりを渡せるようにしておけばいい。
◇ ◇ ◇
半年ほど経った頃。
「エヴァリーナ」
その名前で呼ばれて、リネットは足を止めた。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
「人違いです」
「待ってくれ」
「ですから、人違いです」
振り返る。
ライオネルだった。
以前より少し痩せたように見えた。
「君が生きていてよかった」
心からそう思っている顔だった。
だから、リネットは少し困った。
この人が最初から悪い人なら、どれほど楽だっただろう。
話をするため、2人は近くの屋外カフェへ入った。
ライオネルはクレイヴェル家へ来るように言った。
「今度こそ守る。父上も……」
「でもあなたの家は、あの子爵家が欲しかったのでしょう?」
ライオネルが黙った。
リネットは紅茶のカップを持ち上げた。
微かに、薬草の匂いがする。
焼き菓子に使われていたものと同じ香りだった。
唇の近くまで運び、そのまま皿へ戻した。
「あのクズ石ばかりの鉱山の奥の、鉱床が。研磨用や飾り用なら十分ですものね?」
「それだけじゃない」
「ええ。そうでしょうね」
リネットはフォークを持った。
目の前のケーキへ、
ぶすり。
と刺す。
「私を助けたい気持ちも、本当だったのでしょう?」
「だったら」
「でも、あなたは待っていたのですよね? 自分が一番ヒーローになれる瞬間を」
「違う!」
「孤児がどれだけ鞭打たれようが、痛くはないですものね?」
「エヴァリーナ!」
「リネットです」
ライオネルが言葉を失った。
「私の名前はリネット。エヴァリーナは死にました」
「……リネット」
「あなたが優しかったことくらい、知っていますわ」
だから。
余計に分からなかった。
「どうして、私が鞭で打たれている間は待てたの?」
ライオネルは何かを言おうとした。
父が。
公爵家が。
証拠が。
侯爵家が。
どれも、リネットにはもう必要のない言葉だった。
「あなた、自分で決めたことって何かあるの?」
ライオネルの顔から、言葉が消えた。
リネットはそれ以上追及しなかった。
「そうそう。発泡性の麦の酒って、帝国ではかなり細かく決まりがあるのですね」
唐突に話題を変える。
「何の話だ」
「クレイヴェル領の周辺で採れる穀物と植物。それから、国境を越えて入ってくる荷物の量。ちょっと面白いと思いません?」
「何を知っている?」
「何も」
リネットは笑った。
「だから新聞屋さんに、調べてみたらって売っただけ」
「リネット」
「証拠があるなんて言っていませんわ。調べる価値があると思っただけ」
それから、少し身を乗り出した。
「私、定期的に新聞社へ連絡しているんです」
「……何?」
「私から連絡がなくなったら、預けてあるものは好きに使っていいってことになっています」
ライオネルの顔色が変わった。
「そんな危険なことを」
「危険?」
リネットは首を傾げた。
「何もしなければ、何も起きませんわ」
席を立つ。
「あなたのボスの公爵令息にも、よろしくお伝えください。レオニード・ド・ヴァルセイン様に」
ライオネルは追ってこなかった。
リネットは店を出る直前、ケーキの欠片を小さく切り、ハンカチへ包んだ。
◇ ◇ ◇
下町を通る頃には、日が傾き始めていた。
いつもの犬がいた。
リネットを見るたび、なぜか猛烈に吠える犬だ。
あの犬はだれかれ構わず吠え、小さい子やお年寄りに噛み付くこともあるらしい。
最初は、髪の色や服装が変わっても同じ反応をすることを不思議に思った。
けれど、犬は人間より先に匂いを覚える。
リネットは、犬が自分をエヴァリーナとして覚えているのか、リネットとして覚えているのか、考えたことがあった。
「今日もうるさいわねえ」
ハンカチからケーキの欠片を取り出し、投げる。
犬は警戒することもなく食べた。
リネットは少し離れた場所から待った。
やがて犬の動きが鈍くなった。
座り込み。
伏せ。
そのまま目を閉じた。
近づいて見る。
胸は動いている。
眠っているだけだ。
リネットはしばらく犬を見下ろした。
「あーあ」
紅茶だけではなかった。
ライオネルが知っていたのかどうかは分からない。
知っていたのなら、最低だ。
知らなかったのなら。
また、知らなかった。
どちらでも大差ない気がした。
リネットはその足で、予定より早く新聞社への連絡を出した。
自分は生きている。今のところ問題はない。
そして、発泡性の麦の酒について、もう1つ調べてほしいことがある。
それから、王国から帝国へ運ばれる荷物に、鉱山の古い記号と同じ印がないか確認してほしい。
それだけ伝えた。
翌日、リネットは町から消えた。
◇ ◇ ◇
予定の日を過ぎても、リネットから連絡は来なかった。
新聞社は約束どおり、預かっていた資料を使い始めた。
最初の記事は、奇跡の人形についてだった。
人形は本当に泣いたのか。
ティアドロップスは、本当にその涙から生まれたのか。
次の記事では鉱山へ話が広がった。
その次は物流。
税。
土地。
クレイヴェル家。
さらに、その背後にいるヴァルセイン公爵家。
そして、発泡性の麦の酒。
新聞社が調べれば調べるほど、リネット自身も知らなかったものが出てきた。
ティアドロップスに使われていた石の一部は、エルベイン領の鉱山から採れたものではなかった。
王国の帳簿にない鉱石が、別の荷物に混ぜられて運ばれていた。
鉱山の古い記号は、王国と帝国をまたぐ商人たちの間で使われていた。
そして、発泡性の麦の酒に使われる原料の一部も、同じ経路を通っていた。
帝国も動いた。
原料。
製法。
流通経路。
帝国由来のものが王国内でどのように扱われているのか。
正式な照会が王国へ届いた。
小さな宝石詐欺から始まった話が、外交問題へ変わっていった。
その頃。
ライオネルもリネットを探していた。
彼女が消えた。
カフェで会った直後に。
ならば誰が?
父は何か知っているのか。
ヴァルセイン公爵家は?
レオニードは?
疑いは疑いを呼んだ。
王国では、あちらこちらで火が上がり始めた。
エルベイン家は、ティアドロップスの秘密を守ろうとした。
クレイヴェル家は、鉱山の権利を巡る疑いを否定した。
ヴァルセイン公爵家は、調査を続けながら、新聞社へ流れた情報の出所を探した。
誰もが、自分の利益と正義を掲げて動いた。
けれど。
その火種を置いた少女は。
もう、とっくに国境の向こうにいた。
◇ ◇ ◇
「リーネ! 今日もべっぴんだねぇ。俺と結婚してくれよ!」
帝国の、とある町。
夕方の酒場に男の声が響いた。
大きなジョッキをテーブルへ置いた女が、けらけら笑う。
白に近い明るい金髪。
オリーブグリーンの瞳。
鼻から頬にかけて散る、薄いそばかす。
もう隠していなかった。
人形も抱いていない。
胸元には、安いガラス玉を縫い付けた人形が、棚の上に飾られている。
その隣には、布に包まれた青い石が置かれていた。
「やだー。私、玉の輿がいいわ〜」
「毎回それじゃねぇか!」
「だって婚活中だもの。条件は下げないわよー」
「俺だって家持ちだぞ!」
「借金は?」
「……ちょっと」
「はい落選! エールでいい?」
「ひでぇ!」
「嫌なら水にする?」
「エール!」
「毎度ありー」
店中から笑い声が上がった。
リーネも笑った。
結婚はしたい。
できれば金持ちがいい。
優しくて、働き者で、借金がなくて、自分を大切にしてくれる男なら、なおいい。
貴族だって構わない。
商人でもいい。
条件は下げない。
だって今度は。
自分が選ぶのだから。
5歳のリネットは、美しいから選ばれた。
エヴァリーナは、ティアドロップスを売るために使われた。
助けられる時でさえ、大人たちが最も都合のいい時を選ぼうとした。
だから、死んだ。
エヴァリーナだけが。
「リーネ、エールもう1杯!」
「はいはい!」
返事をして、リーネは新しいジョッキを手に取った。
誰かに選んでもらう必要はない。
誰かが決めてくれるまで、待つ必要もない。
名前も。
仕事も。
住む国も。
これから誰と生きるのかも、全部自分で選べばいい。
リーネは泡の盛り上がったジョッキを客の前へ置いた。
「お待たせ!」
今度は誰にも待たされなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「誰かに選ばれる人生」と「自分で選ぶ人生」をテーマに、リネット、エヴァリーナ、そしてリーネへと名前を変えていく1人の少女を書きました。
ライオネルは彼女に優しくなかったわけではありません。
むしろ優しかったからこそ、「どうして私が傷ついている間は待てたの?」というリネットの問いが、物語では大切なものになっています。
そしてエステラは、実際に彼女を助けようとした人でした。
この2人にも、本編の後にそれぞれの人生があります。
もしおひとりでも「読んでみたい」と言っていただけるのなら、短編のままではなく中編程度の連載作品として短編で削った、間の物語を加筆し、本編終了後に番外編を2編書く予定です。
番外編1編は、エステラのその後。
もう1編は、ライオネルのその後。
リネットが去ったあと、彼女を助けようとしたエステラと、彼女を「待たせてしまった」ライオネルが、それぞれ何を選び、どんな人生を送ったのかまで描ければと思っています。
そして何より。
エヴァリーナはもういませんが、リーネの人生はこれからです。
条件は下げず、玉の輿を狙いながら、たくましく婚活してもらいます。




