離縁は承知しました旦那様——ですが看板の銘は作った私が連れて帰ります、その窯はどうぞ空のままで
「お前は何も生んでいない。菓子など誰が焼いても同じだ」
藤崎壮一郎の声はよく通った。御用達の審査役、大口の客、番頭、その全員へ聞かせるために磨いた声である。夫として妻へ告げる離縁まで、ずいぶん立派な売り口上になったものだ。九十点。中身が嘘なので残り十点は差し上げられない。
小春が見ていたのは夫の顔ではなく、献上台の皿だった。薄く焼き上げた丸い菓子が、白磁の上で朝の月のように重なっている。看板銘菓「朝月」。いちばん上の一枚だけ、運ぶときに当てたのか、耳がほんの少し欠けていた。
ああ、そこを食べたい。
晴れの席で離縁を言い渡されながら、まず浮かんだのが味見欲とは、我ながら見上げた職人根性である。
「この朝月は、主人と私で考えた新しい味です」
献上皿の横で綾乃が微笑んだ。白く細い指は、粉袋にも薪にも触れたことのない爪をしている。火傷なし、粉の筋なし、蜜の匂いもなし。考案者の手としては実に清潔、つまり零点だ。
「従来より口溶けを軽くいたしましたの。ねえ、壮一郎様」
「ああ。綾乃の感覚は客の好みをよく捉えている」
壮一郎は審査役へ自分の名を先に告げ、綾乃を半歩前へ出した。小春の椅子は献上台から外され、壁際へ寄せられている。仕事を消すには、まず椅子を消せ。嘉平の細やかな心配りだった。
大口客が一枚を割った。ぱり、と薄い皮が鳴り、中の白餡から柚子の香りが立つ。
「次も、同じものが届くのだろうな」
「もちろんでございます」
壮一郎が即座に答えた。小春は皿の縁に残った粉を見た。今朝の湿り気なら、焼き時間をあと五つ数えてもよかった。次も同じものを、と言われて答えるべき者は、どうやら菓子より先に口を焼き上げるらしい。
「小春。離縁状はすでに整えてある」
嘉平が差し出した紙には、壮一郎の署名があった。製法帳なら毎日見るが、夫の字をこんなに丁寧に眺めたのは初めてかもしれない。払いの長い、よく威張る字だった。
「お前は藤崎商会へ嫁いで以来、工房に籠もっていただけだ。客を呼び、店を広げ、朝月を看板にしたのは俺だ」
「はい」
「財も店も窯も、すべて藤崎のものだ。異存はないな」
「明日の仕込みは」
壮一郎の眉が寄った。小春の口は、こういうときも勝手に工房へ帰る。困った職業病だが、夫婦の情よりよほど長持ちした。
「何の話だ」
「職人たちの賃金は月末まで支払われますか。白餡は今夜、水へ浸ける分まで届いております。明朝の薪は裏口に積ませてありますので」
「お前は退く身だ。余計な差配をするな」
言葉を重ねるほど、壮一郎の胸はよく膨らんだ。朝月の皮なら膨らみすぎは減点だが、こちらは商品ではない。幸い売り物にする必要もない。
「承知しました、壮一郎様」
小春は離縁状を受け取った。一人で出よう。職人の暮らしまで道連れにはできない。そう決めた指先に、白磁の皿から落ちた粉が一粒ついた。
同じ日の朝、小春は焼き上がった朝月の皮から、はみ出した耳をつまんでいた。
焼き台は熱く、窓硝子は白く曇り、工房中に柚子蜜と炒った米粉の匂いが満ちている。腹が鳴るには申し分のない朝だった。もっとも小春の腹は、朝でなくても職務に忠実である。
「うん。今日の皮は機嫌よく割れました」
口に入れれば、ぱり、と歯へ軽く当たり、すぐにほどける。あとから米の甘みが追いついてきた。よし、献上に耐える。ついでにもう一つ確認を——と指を伸ばしたところで、耳が半分消えた。
「そこで吉太、なぜ私の味見まで半分になっているのです」
「親方だけでは判定が偏るかと」
食べ物の話になると返事だけは一人前より速い。吉太の頬がもう動いているので、現行犯に弁明の余地はなかった。
「ほう。では判定を」
「うまいです」
「語彙が三歳!」
「三歳児にも売れます」
「商才まで生やさなくてよろしい!」
源蔵が窯口へ顔を寄せたまま鼻を鳴らした。焼ける音を聞く老人は、耳だけで火の具合を当てる。背を向けていても、吉太のつまみ食いだけはなぜか外さない。
「若が売り方を覚える暇に、生地は正直に膨らみますわ」
「俺のことですか」
「若、と呼ばれる者がほかにおりますかい」
「源蔵さん、今のは壮一郎様に聞かせないでくださいね」
「へえ。では窯にだけ申しておきましょう。窯は口が堅い」
言いながら源蔵は焼き網を引いた。小春が一枚ずつ反りを確かめ、吉太が餡を挟む。丸い皮の端へ、朝雲を彫った小さな焼き印を当てれば、薄茶の銘が浮いた。
それは祖父が一本だけ彫った焼き印だった。幼い小春の手を上から包み、焦がすな、怖がるな、と言いながら押させたものだ。
「銘は、作った者に付くのです」
祖父はそう言って、小春の鼻についた粉を太い指で払った。幼い小春には難しくて、菓子に焼き印を押せば銘が付くのだと思った。だから何度も押した。祖父の分まで焦がした。あれは本当に申し訳ない。
源蔵が窯の前で、低く節をつけた。
「ひとつ、火を見て」
吉太が餡を挟みながら続ける。
「ふたつ、耳澄まし」
「みっつ、月待つ」
焼き時間を数える歌だ。時計より耳と鼻が頼りだった祖父の代から、誰かが歌えば誰かが拾った。調子外れも混じるが、菓子は音程を審査しない。ありがたい客である。
嘉平の杓子が、作業台をばん、と打った。
「やめろ。御用達へ出す品を、下働きの遊びで汚すな」
吉太が驚いて取り落とした味見の欠片を、嘉平の杓子が床へ叩き落とした。拾おうとした手の前へ、履物の先が出る。
「次に無駄食いをすれば、その分は賃金から引く。商会の秩序を覚えろ」
「これは焼き具合を確かめるための——」
「親方」
小春が口を挟むと、嘉平は製法帳へ手を載せた。毎日の気温、粉の湿り、蜜の煮詰まり、焼き台ごとの癖を小春が書き足してきた帳面だ。その表紙は、すでに壮一郎が読む向きへ回されている。
「晴れの席では、奥方は口をお控えください。若旦那様がお話しになります」
「では、この帳面も黙らせますか」
「商会の帳面です。扱いはこちらで決めます」
嘉平はそう言って閉じた。綾乃が朝月の考案者として紹介されることも知っていたのだろう。指一本で蓋をしてしまえば、今日までの朝が全部なかったことになるらしい。なるほど便利。小春は心の中で、その指を焼き台へ三秒ほど載せた。心の中だけなら火傷もしない。
「親方、これ」
吉太が嘉平の背へ隠すように、割れた朝月を一枚よこした。いちばんよく焼けたものだった。
「献上分です」
「欠けました」
「誰のせいでしょう」
「窯のせいです」
平然と言うので、小春は半分だけ食べた。残りを吉太の口へ押し込む。賃金から引かれる前に証拠隠滅。職人の連携とは、時にこうして育つ。
献上の席へ戻った小春は、離縁状を袖へ収めた。嘉平がほっと息を吐き、壮一郎は勝者らしく顎を上げる。綾乃は朝月へ手を添えていたが、皿の冷たさしか知らない指先だった。
「それでは、席を外せ」
「その前に、一枚よろしいですか」
「何だと」
「出来を確かめます。作った者の最後の務めとして」
返事を待たず、小春は献上皿のいちばん上を取った。欠けた耳を折り、口へ運ぶ。朝より皮が落ち着き、白餡の柚子が丸くなっていた。少し置いたほうが香りは上品になる。綾乃の感覚とやらも、今ごろ皿の上で初対面を済ませていることだろう。
「うん」
小春は頷いた。
それから懐紙で指を拭き、献上台の脇に置かれていた焼き印を取った。祖父の彫り跡を親指でなぞり、懐へ収める。嘉平が製法帳へ手を伸ばすより先に、小春はそれも抱えた。
「待て。それは藤崎商会のものだ」
「窯には触れません。店の金も、材料も、売り台も持ちません」
小春は一つずつ指した。大窯。銭箱。積まれた粉袋。漆塗りの献上台。どれも藤崎商会のもので、欲しいとも思わない。大窯は口ばかり広くて下火が弱いし、売り台は菓子より壮一郎の顔がよく映る。
「私が持って出るのは、祖父から継いだ一点物の焼き印と、私の家から続く屋号、それから私が毎日記した製法帳です」
「型なら作り直せる」
壮一郎は笑った。綾乃も口元を袖で隠す。二人で何がおかしいのか分かち合えるとは、仲がよろしくて結構。どうぞ焼き印同士で朝月を焼いていただきたい。
「菓子は人足に焼かせればいい。売る者がいなければ、菓子など一文にもならん」
小春の指が止まった。
自分の仕事を軽く言われることには、もう慣れていた。慣れは強い。味見を一枚減らされても我慢できるし、献上台から椅子を消されても立っていられる。けれど窯の前で皮膚を焼き、夜明け前から粉を挽く手まで、人足の二字へ押し込ませるつもりはない。
「そうですか」
小春は製法帳を抱え直した。声は平らだった。こういうとき腹から出した大声は負けである。壮一郎は大声が得意なので、得意分野を譲って差し上げよう。
「では、離縁を承ります」
「初めからそう言っている」
「はい。ですので、片付けをいたします」
その片付けには、焼き印と製法帳を抱えて背を向ける前に、壮一郎の顔を一度だけ見ておく作業も含まれていた。私利である。荷造りの端へ入る程度の私利なら、持ち出し品に数えなくてもよいだろう。
嘉平が工房の戸口を開けた。呼ばれていた職人たちは、晴れの席へ入るにも作業着のままだった。袖には粉、前掛けには蜜、指には細かな火傷。綾乃の白い手の隣へ並べると、答え合わせがずいぶん親切になる。
「奥方は本日限りで藤崎商会をお出になる」
嘉平が告げた。
「以後、工房の指図は若旦那様と私から出す。窯も材料もここにある。賃金も従来どおり商会が払う。軽挙は慎め」
吉太が小春を見た。源蔵は見なかった。窯口をうかがうときと同じ横顔で、献上皿から立つ香りだけを嗅いでいる。
「親方」
「吉太。私のことは、もう親方と呼んではいけません」
言ってから、胸の内側を生地べらで削られたような気がした。実際に削られれば、たぶんもう少し痛くない。
「皆はここへ残ってください。窯があります。仕事も、お給金も——」
「聞いたか」
壮一郎が言葉をかぶせた。小春へ向けた声だけが、急に厚くなる。
「お前にも分かっただろう。職人は商会が食わせている。お前が勝手に連れ出せる者ではない」
「連れ出すつもりはありません」
「ならば製法帳を置いていけ。代わりの職人を集めれば済む話だ。お前が教えた程度のことなど、また覚えさせればいい」
職人たちの目が、いっせいに壮一郎へ向いた。本人はそれを服従と受け取ったらしい。立派な胸がさらに膨らむ。もう焼きすぎだ。針を刺したら、よい音を立ててしぼみそうだった。
嘉平が吉太へ目を据えた。
「若い者ほど先を考えろ。ここを出れば、明日の飯もないぞ」
「親方は、どこへ行くんです」
「吉太」
「親方に聞いてます」
吉太が嘉平へ返した声は、食べ物の返事ほど速くなかった。けれど逃げなかった。
「祖父の屋号が使える、小さな場所を探します。窯は……借りられるものがあれば。しばらく朝月を焼けないかもしれません」
「なら、残る理由がありません」
「あります。賃金です。明日の飯です。あなた一人の話では——」
ことん、と音がした。
吉太の木べらが、床へ置かれていた。
彼はそれをまたがず、小春の後ろへ回った。いつもなら何か一言、殊勝な顔を台無しにするのに、今日は口を閉じている。前掛けの端だけを、粉のついた拳が握っていた。
「吉太。拾いなさい」
小春は言った。
吉太は拾わなかった。
「賃金を止めるぞ」
「止められる前に辞めます」
「お前は何も分かっていない!」
「味なら分かります」
そこだけ返事が速かった。
源蔵が一歩、前へ出た。嘉平が何か言いかけたが、老人は袖を肘までまくった。古い火傷、新しい火傷、白く引きつれた跡。曲がりきらない指を、壮一郎の前へ差し出す。
小春は何度もその手に助けられた。割れた皮を選り、火の機嫌を聞き、失敗した日の帳尻を翌朝の一窯で合わせてきた手だった。壮一郎は初めて見るもののように、わずかに顎を引いた。
源蔵が火掻き棒を床へ置いた。
「ひとつ、火を見て」
低い声だった。
吉太が続ける。
「ふたつ、耳澄まし」
別の手から、焼き網が落ちた。からん、と木べらより高い音がした。
「みっつ、月待つ」
餡べらが置かれた。粉ふるいが置かれた。誰も一度に投げ出さず、一人が一つを置いてから、小春の後ろへ回る。歌声は一つずつ増え、禁じた嘉平の杓子だけが行き場をなくした。
「待て」
壮一郎の声から、客へ向けた艶が剥がれた。
「お前たちを雇っているのは藤崎商会だぞ。窯を捨てるのか。住み込みの部屋も、月々の給金も——」
「若旦那様」
源蔵は袖を戻さなかった。火傷の手を出したまま、敬語だけを残した。
「窯は火を入れにゃ、ただの大きな穴ですわ」
最後に、源蔵の後ろにいた職人が刷毛を置いた。軽いはずのそれが、妙に大きな音を立てた。
工房一党は全員、小春の後ろにいた。
——まずい。あれが全員いなくなれば、朝月は焼けない。
壮一郎の顔から、きれいに笑いが消えた。
小春は振り返らなかった。ありがとうも、どうしても、今は喉を通らない。
だから製法帳を強く抱いた。吉太の袖が隣へ来た。源蔵の火傷の手が、その帳面の下へそっと添えられた。
胸の中で、何かがようやく焼き上がった。
上出来。今日いちばんの窯だ。
「職人が誰につこうと、朝月は藤崎商会の銘だ!」
壮一郎が献上台を叩いた。白磁の皿が跳ね、朝月が一枚ずれた。菓子に罪はない。小春は反射的に皿を押さえた。離縁直後まで商品を救うとは、我ながら働き者すぎて腹が立つ。
「藤崎の名で売り出し、藤崎の店で名を上げた。勝手に持ち去れば盗みだ」
審査役が壮一郎を見た。
「屋号の登録者は」
「それは、確認に少々お時間を」
先ほどまで小春の言葉を遮っていた口が、今度は嘉平へ返事を押しつけた。腰まで丁寧に折れる。相手で声を使い分ける技だけなら百点満点だった。
嘉平が進み出た。
「古い登録でございますので、実際の営業者とは名義が——」
「登録時の立会人なら、わしの名も残っておりますがな」
源蔵が言うと、嘉平の手が止まった。製法帳を閉じようとしていた指が、表紙から離れる。
小春は懐から焼き印を出し、献上台へ置いた。朝雲の彫りに蜜色の焦げが染み、祖父の手入れ跡まで残っている。
「祖父から継いだ屋号は、私の家の名で株仲間の帳にあります。この焼き印も、祖父が彫った一点物です」
「そんな古い型が何だ。味を考えたのは俺と綾乃だ」
「でしたら、一つだけ確かめましょう」
小春は製法帳を開いた。嘉平が息を呑んだが、開いたのは今日の日付の一頁だけである。全件読み上げるほど暇ではない。こちらは離縁の片付けで忙しいのだ。
「本日の粉は、昨夜の雨でいつもより水を含みました。ですので米粉の割りを一つ減らし、焼き台の右奥だけ火から早く外しています。綾乃様」
綾乃の笑みが固まった。
「右奥の皮へ、柚子蜜をいつ入れましたか」
「それは……主人と相談して」
「練る前ですか。練った後ですか」
「細かな作業は職人へ任せておりますの」
「考案なさったのに?」
綾乃は壮一郎の袖を見た。壮一郎は答えない。売る口はあっても、蜜を入れる手順までは生えてこなかったらしい。人体とは不便である。
審査役が源蔵へ向いた。
「右奥だけ早く外した理由は」
「火床の煉瓦が一枚、痩せております。親方は、朝一番の音で見抜きなさった」
「音で?」
「皮が浮く音が、そこだけ半息早かったんです」
吉太が言った。
「俺が最初の一枚を割りました。内側に小さい気泡が寄ったから、親方が粉を直しました。味見もしました」
「余計な一言が混じりましたね」
「大事な証言です」
「一口多かった件まで証言しましょうか」
「そこは審査外でお願いします」
大口客の口元がわずかに動いた。笑ったのか、次の朝月を噛んだのか、小春は判定を保留した。客の顔より菓子を見るほうが得意である。
「綾乃殿」
審査役が尋ねた。
「白餡に柚子蜜を入れるのは、練る前か、後か」
綾乃はまた壮一郎の袖を見た。袖はよく仕立てられていたが、答えまでは縫い込まれていない。壮一郎の口だけが動き、音が出なかった。
小春は焼き印を取り上げた。
「銘は、作った者に付くのです」
祖父へ返すつもりで言った。けれど言葉はまっすぐ壮一郎へ届き、その胸の前でぴたりと止まった。
大口客が壮一郎への挨拶を打ち切った。身体ごと小春へ向き直る。
「次の窯は、どちらへ頼めば同じものが届く?」
同じ問いだった。
今度は壮一郎が答える前に、客の目が小春だけを見ていた。
「まだ窯が決まっておりません」
「決まれば知らせてくれ。祝いの注文も合わせよう」
「店もございません」
「なら、のれんを掛けた日に届け先を教えてもらう」
別の客が注文札を小春へ差し出した。嘉平が横から受け取ろうとしたが、札はその手を避けた。先ほどまで商会の横へ並んでいた客たちが、一人ずつ小春へ次の数を告げていく。
「職人の自主判断で、このような混乱を招きまして」
嘉平が大口客へ頭を下げた。
「自主判断なら、なお結構。作る場所を選べる者へ頼む」
嘉平の背が、そのまま固まった。
審査役は献上皿を見下ろした。残っている朝月は、すべて小春たちが今朝焼いたものだ。
「藤崎商会の御用達審査は、ここで打ち切る。次回は、同じ品を作れる者の屋号で申し込まれたい」
「お待ちください。販売の段取りはすべて俺が——」
「品はどこにある」
壮一郎が献上台を見た。
客へ出された分を除けば、皿は空だった。
それから工房のほうを見た。大窯は残っている。薪も、粉袋も、銭箱もある。けれど窯の前に立つ者は一人もいない。木べらも焼き網も火掻き棒も、床へ置かれたままだ。
立派な看板だけが、売るものもなく掲げられていた。
小春は壮一郎の顔を一度だけ見た。笑いは戻っていない。これで片付けは済んだ。
「離縁は承知しました、壮一郎様。藤崎商会の窯は、どうぞそのままお使いください」
小春は焼き印を懐へ戻した。
「私の手は、私が連れて帰ります」
後ろで吉太が木べらを拾った。藤崎商会の仕事へ戻るためではない。自分の道具として肩へ担ぐためだった。源蔵も火掻き棒を取り、ほかの職人たちも一つずつ持つ。
小春は誰も急かさなかった。
それでも一党は、一人も残らなかった。
借りられたのは、藤崎商会の大窯なら三つ並べてもまだ小さい窯だった。最初に火を入れた朝、源蔵は「穴は小さくても、働く手が多すぎますな」と毒づき、吉太は生地桶を抱えたまま壁へ挟まった。狭い。暑い。けれど誰の椅子も消されなかった。
小春は祖父の焼き印を朝月へ押した。自分の屋号を書いたのれんが戸口に揺れ、その下からすでに客の足が見えている。開業刻限より前だというのに、行列は隣の壁まで伸びていた。
「親方、白餡が足りません!」
「二鍋目を開けます。吉太、皮は」
「足りません!」
「焼きなさい!」
「窯が足りません!」
「増やせるものから増やしなさい。まず手!」
吉太が両手を上げた。
「二本しかありません!」
「では口を止めて、その二本を三本分動かす!」
「無茶です!」
「味見する口は動いていました!」
源蔵が焼き網を引き、朝月を並べた。ぱり、ぱり、と薄い皮が鳴る。職人たちの道具が、新しい窯の前へ隙間なく並んでいた。
藤崎商会の御用達の話が流れたという噂は、行列の後ろから一度だけ聞こえた。小春は二鍋目の白餡へ柚子蜜を入れた。よその空の窯より、こちらの満杯の腹をどうするかで忙しい。
開店一番によく焼けた朝月を、小春は皿へ取った。皮の浮きも、餡の柔らかさも申し分ない。嫁いでからは、最上の一枚は献上用、客用、夫の試食用と決まっていた。自分の口へ入るのは、欠けたものと生地の耳ばかりだった。
「親方、これは売らないんですか」
「開店一番の一枚くらい、親方が食べても罰は当たりません」
源蔵が言った。
「では、遠慮なく」
小春は朝月を丸ごと頬張ろうとした。
横から吉太が一口くすねた。
「吉太!」
「開店一番の味見です!」
「私の一枚です!」
「判定が偏ります!」
「その理屈、まだ生きていたのですか!」
源蔵が窯の前で節をつける。
「ひとつ、火を見て」
職人たちが笑いながら拾った。
「ふたつ、耳澄まし」
小春も、残った大きな半分を口へ入れた。ぱり、と割れた皮の向こうから、柚子の香りと米の甘みが一緒に広がる。誰にも遠慮せず選んだ一枚は、今日の窯でいちばんよく焼けていた。
「みっつ、月待つ」
吉太の歯形まで付くとは聞いていない。けれど次の一枚は、もう窯の中で機嫌よく膨らんでいた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




