第六十四話 力と正義
近衛前久は、考え始めていた。
義経なき源氏――
時勢は、毛利に傾くのか。
だが、突然の義経の登場が、その打算を一変させる。
正義のための、力なのか。
力をもって、正義を唱えるのか。
義経には、秘めた覚悟があった。
「さて、前久様……」
義経は近衛前久の前へ進み、薄く笑みを浮かべた。
梓と初も、その傍らへ腰を下ろす。
「帝との約定は――
この義経が、必ず果たしましょう」
前久は、呼吸の乱れを悟られぬよう努めていた。
「それは、心強いお言葉でございますな」
低い声を、作っている。
「しかし……根も葉もない噂話の多いのが、御所という場所でございまして。
この前久、義経様のことを案じておりました。
ご無事で、何よりでございます」
あらためて、丁寧に頭を下げる。
義経は、前久が顔を上げるまで待った。
顔を上げた前久は、己をじっと見据える義経の眼差しに気づく。
思わず、その視線を逸らした。
「まさか関白様ともあろう御方が、そのような魑魅魍魎めいた噂を、信じておられるわけではございますまいな」
「いや、とんでもござらぬ、義経様。
こうして二条城まで足を運んだのは、まさにこの目で真実を確かめるためでもござった」
義経が、ふっと笑う。
そして、さらに前久へ近づいた。
「帝に、ご伝言を。
逆賊・毛利は、この義経が成敗いたす。
その上で、日ノ本の半分を帝にお納めいたす、と」
毛利を、成敗する――。
梓も、思わず義経の顔を覗き込んだ。
だが、その驚きは、すぐに和らいでいく。
他の武家へ侵攻することは、兄・頼朝が築いてきた源氏の名を傷つける。
なれど、何もせずに惣無事令への道を閉ざせば、それもまた頼朝の志を潰えさせる。
この下ろすことのできぬ重荷を、梓は義経とともに背負ってきた。
もう、良いか悪いかだけではなかった。
少なくとも――
義経は、決断した。
「しかし……義経様。
毛利の話も聞かねば、分からぬこともございましょう。
毛利と源氏に諍いがあったことは、誰もが存じております。
なれど、源氏も毛利も、朝廷にとっては大切な武家。
その諍いを止めるのも、朝廷の役割かと存ずる」
「これは、異なことを承る」
義経の笑みが、消えた。
「拙者は間もなく太政大臣となる、帝の忠臣。
その拙者に弓を引くことは、御所に弓を引くも同じ。
……そうではござらぬか、関白様」
「いやいや。
毛利は、御所には手を出しておりませぬ……」
義経が、立ち上がった。
二条城から見える京の街を背にし、前久へ言葉を投げる。
「御所とは、民のためにあるのではござらぬか。
罪なき民を焼き、帝の忠臣とその家族を亡き者にしようとした。
その毛利を成敗すること、当然のことと存ずるが」
再び、義経は前久へ歩み寄った。
「そこで――
関白様にも、お願いしたき儀がござる」
この場でこれ以上、義経に異を唱えるは愚策――
そう判断したのであろう。
前久は、おとなしく頭を下げた。
「伺いましょう、義経様」
義経は前久から離れ、梓の横へ腰を下ろす。
「毛利追討令の発布を、帝にお願いしたい。
関白様の、お力添えを」
前久は、張り詰めていたものをすべて吐き出すように、ふっと息をついた。
「かしこまりました。
この前久、帝に毛利追討令を奏上いたしましょう」
「感謝申し上げる。
この義経、天下万民のため、逆賊を討ち果たして参りまする」
義経は、丁寧に頭を下げた。
それを見た一同も、前久へ頭を下げる。
「いやいや、頭をお上げくだされ、義経様。
良い機会じゃ。
義経様の太政大臣任官も、私が責任をもって進めましょう」
前久は立ち上がり、部屋を出ようとする。
襖の前で再び義経へ身体を向けると、深々と頭を下げた。
***
前久が去って間もなく。
梓が目を閉じ、傍らの初にもたれかかった。
「梓!」
義経も、慌ててその身を支える。
「……大丈夫でございます、義経様」
義経は、梓の手を取った。
「大変な思いをさせてしもうたな、梓。
拙者の不徳の致すところじゃ。許せ」
梓は、首を横に振る。
「私など、どうということはございませぬ。
皆が私や義経様をお守りするために、どれほど力を尽くされたことか……」
言い終わらぬうちに、その目が潤み始めた。
「でも……ご無事に戻られて。
何よりでございます……」
義経が握る手にも、力がこもる。
だが梓は涙を堪え、表情を引き締めた。
「義経様がご不在の間、実朝様が……」
梓は、静かに控えている実朝へ目を向けた。
義経はその手をそっと放し、実朝のもとへ進む。
「そなたが、実朝か」
「は……」
「兄上の最期に立ち会うたのち、但馬にて御台所と過ごしておると聞いてはおったが。
……ようやく、会えたの」
「叔父上。
私ごときがしゃしゃり出たものの、何の力にもなれず……
申し訳ございませんでした」
頭を下げる実朝の横で、前田玄以が笑みを浮かべたまま、義経に向かって静かに首を横に振っていた。
義経は、その意をすぐに汲む。
「戦がのうても、拙者は政には辟易しておったのじゃ。
これほどの大乱がありながら、こうして皆が無事でおる。
……そなたがあってこそじゃ、実朝」
義経は、実朝の肩を叩いた。
この時、義経はまだ知らない。
太田牛一も、羽柴秀長も、すでにこの世にいないことを。
実朝は、己の力不足を恥じていた。
それだけではない。
二人の死を言い出せぬまま、義経から称えられることが、かえって息苦しかった。
実朝は、頭を下げたまま口を開く。
「義経様……」
「どうした、実朝」
「会っていただきたい方が、おりまする」
「ほう。申してみよ」
実朝は、ゆっくりと頭を上げた。
「罪人として、牢につながれている者にございます」
大きく、息を吸い込む。
「……織田信長で、ございます」
お読みいただきありがとうございました。
詭弁にも近い理屈を押し通し、義経は毛利討伐を決めました。
武家を守るための源氏――
戦国の世に来た頼朝が、新たに掲げたあり方です。
義経はその志を守ろうと模索し、進むべき道を見つけられずに苦しんできました。
一度は、自らの命と源氏の看板を差し出す覚悟もしました。
家臣たちの命と、引き換えに。
そしていま。
義経なりに、まっすぐ向かう決意をしました。
兄とは異なる形で、罪を引き受ける覚悟とともに。
物語は、これよりクライマックスへ向かいます。
引き続き、お付き合いいただけたら幸いです。




