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第二十六話 信の置けるもの

梓の問いに、すぐには答えようとしない家康。

「此度参ったのは、もう一つお話ししたきことがあったゆえ」


なぜ、自分は義経を裏切れないのか――

家康は、静かに、そのことわりを語りはじめる。

「梓、何も今そのようなことを……」


義経は梓を制止しようとした。


家康との再会で、和やかな雰囲気であった。

梓に、つらい思いをさせたくもなかった。


しかし、家康の方から義経と梓に近づいた。


「義経様。

その件、某より話をせねばと、考えておりました……」


家康が静かに口を開いた。


「此度参ったのは、もう一つお話ししたきことがあったゆえ」


義経と梓を、家康は交互に見つめた。


「頼朝殿が亡くなられたのは、徳川が臣従して間もなく。

そして――

義経様と某が、ともに軍団を継ぐ。

それを、遺言に残された」


家康は義経の反応を確認するように、わずかな間、口を閉じた。


「それは、そうだが……

それが、家康殿の伝えたいことではあるまい」


家康は義経の言葉に、軽くうなずく。


「今、我らの軍団では――

義経様と某をめぐり、二つのことが起きておりまする。


一つ目。

頼朝殿の頃からの忠臣たちが、某を信じておらぬ。


例えば――太田道灌殿と、その将兵たち。

某に良き思いを持たぬのは、当然のこと。

先の戦で……大切なものの命を、某に奪われたようなものゆえ」


徳川との戦で、道灌の副将であった坂田金時が、命を落としていた。

しかし、一方的に攻め込んだのは義経たち。

義経も梓も、すぐには言葉が見つからなかった。


家康は続けた。


「そして、二つ目。

こちらは、逆でござる。


旧徳川の家臣にも、義経様を信じておらぬものが少なくない。

……万を超える将兵が、命を落とし申したゆえ」


家康は、一息ついた。


「義経様のおひざ元でも、旧徳川の家臣の間でも、心は割れておりまする。


為政者は……我らのように、手を携えることができ申す。

なれど、血を流したものは、一生、その痛みを忘れることはござらぬ」


「それが、忍びの件と、どのような……」


家康から目を離さぬ梓の横で、義経が身を乗り出した。


「その前に、ひとつ。

義経様――


頼朝殿の志とは、世の者が語るような、綺麗ごとではござらぬ」


「何を申されたい、家康殿……」


「頼朝殿は、避けられぬ血を流す役を、自ら引き受けようとされた。

それがかなわぬと悟られ……義経様に、その鬼の役を託された。


某は、それを義経様お一人に背負わせるわけには参らぬ。

ともに血を流す。


……そう誓い申した」


梓は身動きひとつせず、家康の言葉に耳を向けている。

家康は、顔を上げ、梓に目線をあわせた。


「じゃが……誓いなど、今の世では、何の力にもならぬ。

某の忠義を疑うものも、後を絶ちますまい」


しばらく口を閉じていた梓が、静かに言葉を発する。


「それが、忍びのことと、どう関わるのです。

何があろうと、家康様を信じよ……

そう、おっしゃりたいのですか」


挿絵(By みてみん)


梓の言葉に、苦笑いをした家康。

力が抜けたように、大きく息を吐く。


「そうでござる。

信じていただきたい。

それが、某の願いでござる。


なれど――お忘れなきよう。

某は、敗軍の将。


ここで謀反を起こそうとも、何もせず義経様が血を流すのを見ているのみであっても――

頼朝殿の志を受け継いだ家臣の多くは、某については参りませぬ」


家康は、困り果てた、という面持ちを浮かべた。


「たくらみがあったとて……この某に、いったい何ができ申す」


再び、力なく息を吐く。

梓は、家康から目を離さなかった。


やがて、梓もふっと息を吐き、部屋から見える空に目を移した。


「……よく分かりました。

家康様の忠義を疑ったこと、お詫びいたします。


わが身内のことゆえ、真相を確かめずには……

失礼の段は、お許しを」


梓は、家康に軽く頭を下げた。

しかし、そのまま言葉を続ける。


「でも、家康様。

忍びの件は、ご説明を」


家康は着物の襟を正し、梓に一礼しながら、口を開く。


「徳川では、服部半蔵率いる、かつての伊賀の忍びを使うておりまする。

此度殺された忍びは……義経様をよく思わぬ、徳川の家臣を見張っていたもの」


「……本多正信、様……」


その名を口にしたのは、梓だった。

家康は、神妙に、梓へ頷く。


「まさに。

義経様への使者として正信を遣わした折、念のため、見張りをつけておきました。

その忍びが――あの骸となったものでござる」


梓の眼差しが、厳しくなった。

家康は続けた。


「本多正信は……某への、絶対の忠義を持つもの。

されど、義経様への忠義は、ござらぬ。


正信が、我らの忍びを殺したのかどうか……それは、わかりませぬ。

内密に見張らせていたゆえ、正信を問い詰めることも、できませぬ」


義経が、声を上げた。


「では、その正信に、怪しきところは無いのか、家康殿!」


「義経様……

義経様への言動が度を越えておりますゆえ、考えをあらためるまでは、牢に入れておりまする」


家康は、義経と梓に、深く頭を下げた。


義経の顔が、紅潮していた。


「家康殿。

その正信を、こちらに引き渡してもらえぬか。

拙者自ら、問い詰めたい……!」


家康は、頭を下げたまま、しばらく無言であった。

そこに、梓が言葉を発した。


「いえ。

良いのです、義経様……」


「いや、梓。

ここに参った時の、あの正信の言動――

家康殿にも、わからぬところがあるのだ。


家康殿に忠義を尽くすものであればこそ、拙者が問い詰めるが良かろう」


しかし、梓は首を横に振る。


「義経様……

父の死は……私にも、責めがございます」


梓の声が、わずかに震えた。


「かつて――徳川との戦の最中。

私が、単身、武田の陣に乗り込んだ時……

家臣たちを煽り、父に、覚悟を迫ったのです。


父は、私を守るために、家臣たちを抑え込みました。

……それが、武田の家中に、ひびを入れてしまったのかもしれませぬ。


その亀裂が、巡り巡って、此度のことに……」


先ほどまで冷静だった梓の目は、潤んでいた。


「家康様のお覚悟は……今日、よく分かりました。

今の義経様に必要なのは、心より信の置ける方。

……家康様のような、お方なのです」


「それは、拙者も良く分かっておる。

じゃが、それとこれとは……」


「いえ、義経様。

もし、家康様のご家臣が、此度の黒幕であったなら……

それこそ、頼朝様の股肱の家臣たちは、家康様をお疑いになりまする。


それでは――何のために、多くの血を流して、家康様にお越しいただいたのか……」


義経の袖をつかむ梓の手に、力がこもる。


「それに……

仮に本多様の陰謀だったとして……


あれしきのものに翻弄される、武田が悪いのです。

父が……父が、悪いのです……

そして、この、私が……」


梓は、そこまで言葉を絞り出すと、その場で崩れた。

体を震わせながら、義経に向けて声を振り絞る。


「どうか……この件は、これにて……」


義経は、梓の言葉に、あっけにとられていた。

そして、突っ伏す梓の手を取り、抱き寄せる。


挿絵(By みてみん)


その様子を見て取った家康は、あらためて一礼し、退出した。



日も沈み、山の頂が、わずかに赤く染まるのみとなっていた。

かがり火の点きはじめた二条城の廊下を歩きながら、家康はつぶやいた。


「正信……

貴様の踏み絵は、難しいではないか……


義経様は、信に足る君主か。

それとも――貴様の申すように……」


家康の眼差しは、暗い廊下の闇に沈んでいった。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


梓の”源氏の妻”としての決意は、家康を追及から解放しました。

しかし、家康の心の中には、本多正信の言葉が繰り返されていました。


「……義経が信に足る君主か、見極められるが良かろう」


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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