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九話 分家

「雪那っ!!」

思えば、彼女と出会ってからというもの走るきっかけは彼女であることが増えたように感じる。

切羽詰まったように庭伝いに渡り廊下へと土足のまま乗り上がれば、廊下を走り抜けて東の離れの、彼女の私室の襖を開け放った。

しかしそこには誰もいない。

若干乱れた痕跡のある布団が一組、敷かれたままだ。

部屋の中をぐるりと見渡した所で、影一つありはしない。

稲光が瞬き、障子越しに部屋を照らすがやはりそこに彼女の姿がなく。

離れの構造を理解している弥代は慌てて、従者の氷室が使う部屋へと向かった。

雷の存在に怯えて彼の元へ泣きつきに行っているだけかもしれない、なんて考えは都合が良すぎるだろうか。

「氷室さんっ!」

離れの更に奥まった位置にある彼の部屋はある。

勢いよく襖を滑らせるも、都合よくいくわけもなく、もぬけの殻であった。

彼の部屋の近くには衣装部屋や物置として使われている狭い空間に、奥には書庫が併設されていた。

書庫へは離れの廊下を経由して行く以外にまともな道はなく、弥代は手当たり次第に部屋を隈なく探し駆け回るが、離れ自体に誰一人としていないことを知った。。

「どこにいったんだよ…!」

離れを出て渡り廊下に立てば、稲妻に覆われた夜空が広がる。

家を出た直後よりも屋敷へと近づいているように見えるそれに、弥代は焦るばかりだ。

渡り廊下を進む。

自分が来るよりも前に屋敷の誰かが異変に気付き、二人を離れから本堂へと既に移動させているかもしれない。

そもそも先ほど自分が目を覚ますに至った巨大な地響きよりも、石蕗青年は半刻以上前からこの異変は起きていたと話していた。屋敷の前の門番は交代制とは言え一晩中門の警護を行っている。彼らが既に屋敷の中に報告をしていて対処が行われている可能性を考えるだけの余裕はなかった。

冷静さがあまりに欠けている。落ち着け。一旦冷静になれ。

息を整え、逸る思考を落ち着かせようとする弥代だったが、そうも上手くいかない。

「—————」

微かに聞こえたのは、悲鳴だ。

本堂の高い位置から聞こえたような気がする。

弥代はそれが誰の声かなど知ることなく、駆け出した。

あまりにも届いた声が小さくて、誰のものかなど分かりはしない。それでもそれが雪那のものでないという確証はない。それなら向かうだけだ。今の弥代にとって、理由なんてそれだけで十分だった。

渡り廊下を駆け抜ける。中庭より覗く中庭の花々に目を向ける事もなく、弥代は屋敷の本堂へと踏み入った。






悲鳴の出所は本堂の高所より響いた。

高所より響くなど、弥代には心当たりが一つしかなかった。

少々入り組んだ造りをしている本堂の廊下ではなく、渡り廊下の右手に聳え立っていた太い木を土台変わりにし、本堂の屋根へと飛び移る。

勢いをつけて瓦屋根を駆けのぼり、棟板金の上を器用にも走り出した。

扇堂家の屋敷の本堂は東の離れとは造りが違い、大山の傾斜面帯に沿うかのように、段差を段差を付けて建てられていた。

本堂自体にも屋根のない部分はいくつかある。あの晩雪那が身を乗り出そうとしたのは正にその場所だ。強く踏み込み飛躍する。若干着地点がズレて、瓦を滑りそうになるが踏みとどまりまた駆け上る。そうして見えてきたのは、勾欄のあるその広間だった。



人の気配を多く感じるその広間には弥代が今まさに探している雪那の姿はなかった。

しかしその中に見知った顔があり、勾欄に足を掛けたままの体制で弥代は声を張り上げた。

「婆さん!雪那見てねぇか!?」

その場にいたのは扇堂家の統率者・扇堂杷勿だった。

腰の曲がったその背は自分よりも僅かばかり小さい。歩を進め目の前まで近づけばそれを制する者が現れる。

「その方に近付くな!!」

右手から伸びてきた腕に肩を押され詰めた距離が開く。

「何すんだよっ!?」

押された腕を掴み吠えれば、弥代はこの姿を見た。

それは杷勿の傍に常に控えていたでこの広い男・佐脇だった。

声をよく張る男であったがとても力のあるようには見えなかった為、まさか突き放されるだけの力を持っているとは意外であった。

意外なのはその眼付もだ。

どちらかと言えば下がり気味の目尻と柔らかい印象の眉尻は共に鋭く、主に牙を向く敵を食い殺さんばかりの、殺意に匹敵しそうな何かを宿していた。

「また貴様か!また貴様は私たちから奪うというのか!?」

「ちょっ、待てよ!!何の話をしてんだアンタは!?奪う?また?…いいから離し「お止めなさい佐脇。それは敵ではありません。」

視界を遮る腕が一つ。

自分の肩ぐらを掴んだまま離さない、その気迫に乱されていた思考が晴れるのを感じる。

広間に木霊するような、耳障りの良い高音の声の主は一人の女だった。

「弥代、様でお間違いないでしょうか。先ほど、雪那様の姿が見えないと、そう仰られましたわね。詳しく、お話いただけないでしょうか。」

女は、佐脇の腕を静かに下ろしながら、間に割り込むように立ち弥代の目をじっと見つめながらそう口を開いた。

「なんだ、アンタ…」

「申し遅れました。私は扇堂美琴。分家の血筋の者でございます。」

扇堂家には本家とは異なり二つの分家が存在するのだと雪那が以前話していた事を思い出す。

自分と歳の近い子息子女とは別に十つ程年の離れた伯母上にあたる存在がいるのだと、そう話していた。幼少期、事故が起きるよりも昔はよく顔を合わせ世話を焼いてもらっていたのいう。恐らくは、彼女・扇堂美琴が雪那の話していた伯母上なのだろう。

あまりにも落ち着きを払った、冷え切った目線からは年若さを感じることはない。

佐脇の腕を止めた際に見えた肌に張りはなく、骨ばった節々ばかりが目についた。

「大主様は今、水虎様を食い止める事に専念されております。

お話は、この私が変わりにお聞きいたしましょう。」

「水虎?」

その名を口にして、漸く弥代はその存在を認知した。



「ああ、…ぁああ、あっ…あぁぁっ!!」

「水虎、さん?」

神仏・水虎の姿がそこにあった。






その姿はあまりにも弥代の知る姿からかけ離れていた。

先の佐脇もそうだが、弥代は何もそこまで長い期間この屋敷に厄介になっていたわけではない。多少の期間ではあったが、それでも顔を何度も合わせた仲の筈だ。

振り乱した髪が散らばる。床に付きたてられた長い爪先が所々折れたようにぼろぼろと。身を屈め、まるで獣のように見たこともない鋭利な牙を覗かせて声にならない声を振り絞る様は、到底神とは思えなかった。それこそ手負いの獣だ。

弥代は、視線を水虎から扇堂杷勿へと逸らす。

先程この場へ降り立った際、彼女から何も反応がなかったのはそのためだろうか。

まるで祈りを捧げるように、念仏を唱えるように手を合わせる姿。

弥代は、息を飲む。

雪那の事があったとはいえ、この空間に足を踏み入れてから扇堂美琴がその名を口にするまで自分が気付かなかった。それほど迄に自分は冷静さを欠けていたのかと。

「水虎様の存在を常に知覚できるのは扇の血筋の者だけでございます。」

まるで心を読まれたかのように、そう目の前の彼女が言葉を並べる。

「疑問にはお答えしました。ですから、どうか、私の質問にもお答えください。」

「雪那様が、どうされたのですか?」

勾欄から見える夜空が瞬いた。











雪那は一人、冷たい離れの廊下を歩いていた。

衣装部屋の箪笥の中に変わりの夜着があることを知っていたし、何よりも産まれてから勝手知ったる離れだ。それぐらいの身の回りの小さな事は自分で熟すことだって出来る。

いつの間にか前任がいなくなってしまった為、新しく自分付きとなった下女には一通りどこに何があるかなどを教えたのも雪那自身だ。

汗だくになった夜着を畳む。洗い物を入れる用の桶に静かに入れれば、また廊下へと出たばかりだ。

ふと、奥まった場所に位置する従者の氷室の部屋の襖が微かに空いていることに気付いた。

もしかしてこんな夜更けに起きているのかしら?と近づく。が、誰もいなかった。

たまたまいないだけ。厠にでも行ったのかとも思ったが、六畳程の部屋の中央には綺麗に折りたたまれた布団が一組置かれているだけで人影はない。

「いないのですか?」

いなければ返事など返ってくるわけもないのに、雪那は零す。

足を踏み入れるのは、それこそ初めて立ち入る部屋だ。

従者の氷室とは八年かそこらの付き合いになるが、常日頃世話を焼いてくれる以外の時間も私室に籠るのではなく日の当たる場所で過ごしていることが多い為、近寄ること自体が殆どなかった。

正体も分からぬ何かで目が覚めて気分は優れなかった筈なのに、初めて入ったその空間に何となく、ほんの少しだけ気分が高揚してしまう。

「そもそも私、殿方の私室など入るのはこれが初めてなのではないでしょうか…」

そわそわと胸元で指を組むその様は子どものようで。

扇堂雪那という女は確かに今年で齢二十一を迎える、当の昔に成人を迎えた扇堂家の娘であるが幼少期の事故以降長年離れに引きこもっていた、精神的にまだ幼い面があった。

それは今は亡きかの両替商の男が感じていたように、雪那の身の回りにいる大人たちは理解していたが、当の本人はその自覚がかなり欠如していた。

「勝手に机を覗いたりしたら怒られてしまいますでしょうか…、でも気になります。気になります…だって、普段何を考えているか分からない、氷室の机の中…、気にならないわけがないでしょう…!」

手を掛けたまま、そんな事を誰に言うでもなく口走るあたりがなんとも。

少し固い引き出しを引いた。












「雪那様が離れにいらっしゃない、ですか。」

「それだけじゃねぇ。気付いてるかもしんねぇけど、あの雷。」

指さされたそれを美琴の視線が追う。

「屋敷に少しずつ近づいてる。もしかしたら最悪、この屋敷に落ちるぞ。」

弥代の言葉をそのまま受け止めた美琴はすぐさま動いた。

この場に自分の従者は一人としていないが、同席をしていた本家の遣いに指示を飛ばす。

「まだ寝ている方々を起こしてください。今から屋敷の外への避難は難しいでしょう。最悪の事態に備え、西の地下牢への誘導をお願いします。各部屋の責任者にのみ事情をお伝えください。必要以上に話が広がっては混乱を招く可能性がございます。あくまで屋敷に落ちる可能性があるという話はせぬよう。動ける方は今すぐ移動をしてください。この場は私が任されましょう。」

美琴の言葉を受け、控えていた遣い達は広間を後にする。

その指示の的確さを目の当たりにした弥代はどこかで納得する。この女が扇堂家という一族の中でどのような立ち位置に属するのかを。

「美琴さんつった、アンタ。」

「私は、雪那様の代わりにも満たない存在。ただ、それだけです。」











引き出しの中には何やら埃をかぶった簪が一つ置かれていた。

開けた途端に舞い上がる埃に、これ自体が長い間開けられたことがないことは容易に想像がつく。古びた簪を手に取れば、それは軽く。細い柄の部分になにやら花のような彫り物がされているようだが暗くてよく見えない。

その時だった。微かに地面が揺れたように感じたのは。


揺れを感じた雪那は慌てて外へと飛び出した。

東の離れは本堂から距離がある。

渡り廊下の方まで駆け寄れば、夜空には稲光が瞬く。

「雷…?」

雪那は、歩き出した。

それはふらりと、自分の意志とは、裏腹に。






雪那の意識がはっきりとしたのは、それから暫く経ってからの事だった。

気付けば屋敷の堀沿いに歩いていたのか、冷たい壁に手を付いていた。

自分は東の離れを出たばかりの場所にいた筈なのに、と思う間もなく何か固いもので殴られたような音が響く。

そっと歩を進めると、それは屋敷の正門だった。

木で出来た扉越しに外を覗く。

すると、そこには見知った顔の男の姿があった。

「退いてはくれないか。」

その言葉を前に雪那が思い出したのは、男との出会いだ。

わりと悪い印象が残るその出会いは、小仏を南下した森での事。

弥代の服の裾を握ったまま、大きな身の丈からは想像が出来ないぐらいに薄い覇気を纏った男。

あれから早いもので半年程の月日が経つが、暫くの間屋敷で療養に留まっていた期間以外、こうして面と向かって二人きりで顔を合わせるのは恐らく初めてではなかろうか。

春原千方・彼は妖怪退治を生業とする討伐屋の統率者だ。

祖母である扇堂杷勿からの誘いを受け、この里で討伐屋の看板を掲げだしたのだと、弥代が話していたのは記憶にまだ新しい。

重たい前髪に隠れておりそれはあまり目立つ事がないが、雪那と同じく色を持つ、“色持ち”の青年。

何度か弥代に会いに行く際に、弥代の傍に彼が居合わせる姿を目にしたことはあるが、言ってしまえば顔を知った仲程度。特別親しくなるきっかけなど一度たりともこれまでなかった。

そんな彼は今、屋敷の門前にて門番の男二人を意図も容易くのして見せた。

大の男二人軽々と薙ぎ払うそれは決して刀を抜いていないが鮮やかなもので、既視感といえば良いのか、どの光景はどこか弥代との出会いを彷彿させる。

刀を抜くことなく相手に向ける辺りなども、どこか似ている。

「春原さん…?」

雪那の呼びかけに春原の肩が小さく揺れる。彼の、その暗い海の様な視線が雪那に向けられた。

「扇堂か。」

淡泊なものだ。

彼が自分をそのように呼ぶ事さえ初めて知る。

この里は扇堂家の者が多い為、里に住む者の多くには雪那様と呼ばれることが多かった雪那からすれば意外なもので少しだけ驚かされた。

しかし今はそんな事関係ない。

彼の足元で伸びている門番を指さしながら訊ねる。

「その、彼等は?」

彼は一息付いてから握っていた刀を腰に差しなおし口を開く。

「息はある。殺しはしない。」

気迫の薄さはあの頃と何も変わりはしない。

それでも弥代を前にした時は僅かにまだ口数が多い印象さえ残り、雪那は自分が春原にとって関心を抱くに値しない相手なのだと理解する。

が、何を思ったのか春原の視線が自分に向くのを雪那は感じた。

「どうか、されましたか?」

雪那が問う。

「弥代が…、弥代がお前を探して、屋敷に入った。弥代と、すれ違わなかったか?」

あくまでその口が発するのはやはりというべきか、弥代の名前だった。

「弥代ちゃんが?いいえ、すれ違っていません。」

「そうか。」

そう返せば早いもので視線は逸れる。

春原は足早に、雪那の方へと歩みを進め門を潜ったが、何を思ったのか歩みを止めて雪那の方をまた向き直った。

「お前と一緒なら弥代に会える気がする。」

「今なんと?」











扇堂美琴の指揮を前に自分が出る幕がない事を知った弥代は、自分が入ってきた勾欄へと駆け寄る。夜空を見上げればはっきりと、あの雷がこの屋敷に近づいている事が分かる。何度も目にしたそれに間違いなどない。何をもってこの屋敷を狙わんとするのか分かりはしないが、基本的にこの屋敷の東側を使うのは雪那が中心となっており、西区画の者達が移動をする中に雪那が紛れているとは到底思えなかった。

そもそも雪那自身はあまり西区画へ自ら足を運ぶ事はあまりなかった筈だ。

「どこにいるってんだ。」

手すりに手を掛け、下を覗く。

ふと、何かが頬を掠めた。

小さな痛みがなければ気付く事も難しいような速さで、それは弥代の真横を過ぎ去り、空へと一直線に駆ける。

それは夜空で何かに衝突したのか爆ぜる。水飛沫のようなものが四散し掠めた頬の熱を冷やすかのように降り注ぐ。

この場において水を使役する者など一人しかいないだろう。

肩口越しに視るそれは、先ほどまで神の称号を疑うような姿をしていた神仏・水虎だった。

「水虎さん…?」

しかしやはりその姿は弥代の知る姿よりもどこか弱々しく。

彼女の奥では先ほどまで自分の足で立っていた、祈りを捧げていたであろう扇堂杷勿が佐脇の腕によって支えられている様子が窺える。

なりを潜めたであろう牙が、乱れた長い夜空のような髪が、皺くちゃになったその独特な衣が、折れた長い爪先が、今の神仏・水虎を表す。

「耳障りで仕方がないのよ…っ!貴女のその声がっ!!」

気丈にも、彼女は自分が弱っている事など口にはしない。

それどころか虚勢を吐き捨てるかのように、伸ばされた腕の先には見覚えのある水を生み出す。

「この屋敷に、私の可愛い娘等に、指一本触れさせてなるものですか…!!」

咆哮にも似たそれは、まるで呪いのようだ。

娘等という言葉に違和感を覚える。

つい先ほどこの広間に足を踏み入れた際、扇堂美琴や大主・扇堂杷勿と似た装いをしていた者達の中には男の姿がなかった。

思えばこの屋敷にはあまりにも男が少ない。

いや、今そんなことは気に留められるだけの余裕などはありはしないが、それでもその疑問は弥代の中に残された。

それは自らにそう言い聞かせるように、強く、強く圧し掛かる。

場の空気が変わるのは誰もが肌に感じるだろう。


また、空が瞬く。

そしてその瞬間、光を受け焼き付く藤色を、弥代の目が捉えた。











秋滿は走った。

本来であれば数日の間をあけて、本家から一番遠い血筋の薄い五鈴を遣いに、里へと入った和馬と合流させ、国へと帰る筈だった。

しかし一向に里の門番達に下がり藤を入れるわけにはいかないと止められ、許可を得られるまでの間待つしかなかった。

里に一歩踏み入れた時から、秋滿は五鈴にその役目をさせなくて済んでよかったと感じた。

それは呪い。藤の一族そのものに掛けられた血の呪い。たとえ血が薄いといえど、今まさに自分の身に感じる痛みよりも弱かろうとも、このような痛みを彼女に味わってほしくないと、そう思えたのだ。

踏み出す足は真っすぐに。

泥濘に踏み込もうと最早自分の意志でそれを止めようとは思わない。

稲妻がごろごろと降り注ぐ里を、男が走る。

その整った装いを振り乱し、いくら汚れようとも守るべき子どもを、愛すべきあの人の忘れ形見をこの腕で抱きしめんとばかりに。

「和馬…!和馬…っ!!」

男にとって、藤原秋滿にとってここまで感情的に行動に移る事は正に初めてだったかもしれない。若かりし頃は若干反抗的な態度を周囲の人間に取ることはあったが、こうまで自分を衝動的に突き動かすということはなかった。なかったのだ。

だから、それがこんなにも。こんなにも胸が苦しくなることなんて知らなかった。

堪えてきた。あの日、あの時、地に伏した、愛した女一人満足に守れずに、無様に、無力さに打ちひしがれる、長年自分が尊敬してやまなかった師として、兄の様に慕うあの人の姿を前にした時から。

違う。私が憧れていた貴方はこんな、こんなことで挫けたりしない。

立ってください兄上。どうかお立ちください。

貴方はこんな場所で野垂れ死んでいいような方ではない。

貴方は私たちの前に立ち、私たちを導いてくださる、貴き御方になるべきなのです。

どうして立ってくれないのですか。どうして吠えるばかりなのですか。

立てますでしょう。どうして、どうして追いかけてくれないのですか。


それは、失望。

兄と、師として尊敬してやまなかった存在に、秋滿は失望してしまった。

勝手に希望を抱いて、勝手に失望してしまっただけの話。

でも、それでも秋滿にとってはそれが何よりも心の支えだった。

本家の血筋にも関わらず才覚に恵まれなかった自分に寄り添って、実の兄のように優しく気遣ってくれるその存在が。

彼も、きっとそうだったのかもしれない。

『ごめんな、秋。でも儂、日和がええねん。』

(貴方も、あの時の貴方も、苦しかったのですか…。)











『ごめんなさいね水虎。突然お話がしたいなんて呼び止めてしまって。』

その娘は、生まれながらにして、“目”を患っていた。

『良いのよ春奈。私、貴女とお話をするのは嫌じゃないから。』

その娘は、生まれながらにして、“色”を持たなかった。

『所でまたその子ったらくっついてばかりね。春奈は貴女の母親じゃないのよ。』

その娘は、生まれながらにして、“親”を恨んでいた。


膝の上で寝入ってしまってまるで猫みたいに体をまるめる背中に、そんな言葉を投げかけたところで意味などない。聞こえていないのだから。

しかしその娘は、それだけでおもしろおかしそうに笑い声を漏らすものだから、貴女が笑ってくれるから私は口にした事を後悔してはいなかった。

『それで、突然どうしたのかしら。何?また三一が氷室の頬でも叩いたの?私も思うのよ。基本的にあれに関しては氷室の方に非があるわ。だってあの子反応が鈍いんですもの。三一は気が短いから相性が悪いのね、相性が。』

『それは水虎が話したかっただけじゃないの?そうね、でも私もあれは氷室が良くないと私も思うわ。』

他愛もない会話。本当はその娘が何を切り出そうとしているかなんて、私は分かっている。

先日の出来事を、思い返せば貴女が何を私に話したいかなんて容易に想像がつくの。

でも私は、私はそんな事話したくないから。私は、ずるいから。

『嫌になるわ杷勿ったら、最近は私が食べたいって言っても手が離せないから後にしてくれって、私の事を蔑ろにするのよ。信じられない。誰のおかげでこの里が平和でいられると思っているのかしら。』

『母さんは、忙しいから。』

話題を間違えたと、理解したときには遅い。

『母さんは、忙しいでしょ。仕方ないわよ。たった一人の娘の顔一つ身に来れないぐらいには、多忙なのでしょう。』

『春奈』

それは違うと、言えたらいいのだろう。

貴女が気付いていないだけで、遠目でも杷勿は貴女を気に掛けていると。

例えこの離れから出る事がなくとも、貴女を守る為に、貴女の将来の為にあの娘は身を粉にしていると。

目の見えない貴女は直接触れられるそれしか信じることはないから。言うだけ無駄なのだと、私は知っている。

『でもね、そんな事は今更どうでも良いの。ねぇ水虎、あの御方。藤原の御人は、貴女から見てどうだったかしら?』

『どうだったって、そうね…、私から見たら、』



「雪那!!」

水流がまるで受け皿のようにそれを受け止めた。

弥代の横から手摺を乗り越えて空へと駆け出したその髪が本来の夜の色を思い出させるように広がる。以前目にした時は宙に浮いていたその存在は、やはり万全ではないのか重力に抗う術もなく本堂の屋根の上に体を打ち付け、暫く転がる。

「水虎さん…!」

続いて弥代が飛び出すまではあまりに早く。

広間の奥から扇堂美琴の張り上げた声が聞こえるが、瓦屋根の上で打ち震える体を抱き上げようとする。しかし伸ばした手は払われ、そのまま眼前には水球が現れる。

「私は、守らなくちゃいけないの…!」











眩い光を前にして、雪那は動くことはなかった。

見上げた夜空は、離れから飛び出した時よりもどこか雷自体が屋敷の目の前迄来ていた。

正門の土壁に手を付いて茫然と、それを見ていると突然体が後ろに引かれた。

「あっ、えっ!?春原さん…!?」

「同じ場所にいるのは得策ではない。先も言ったが俺は弥代に会いたい。一緒に来い扇堂。」

「いえっ、あのそれは分かりました。分かりましたけど帯紐を掴みのは止めてくださいっ!あの肌蹴ちゃいます!!」

素知らぬ表情。肌蹴るから何だというのだと言わんばかりに離しそうにない手をそれでも抵抗を示すように上から抑えれば、首を傾げる。

「肌蹴たら何か困るのか。」

「困りますでしょう!私一応立場とかもありますし!!」

「弥代はいつも肌蹴ている。」

「弥代ちゃんはそういう服と言いますか!?」

「ごちゃごちゃと煩い。」

「煩くさせる原因のご自覚はありますか!?」

心のこもっていない言葉の羅列だ。

その関心が傾くのはやはり弥代のみなのかもしれないが、もう少し柔らかい言い方や、相手の言葉に耳を傾けようという意志はないのだろうか。

合わせ目を必死に掴みながら転ばない様に春原の腕を支えに、掴まれた帯紐をそのまま引きずられる。

「もう少し、ゆっくり歩いていただけませんか…早いです。」

「弥代に早く会いたい。」

「どこにいるか分かっているんですか?」

「屋敷に入った。屋敷の中にいる。」

「敷地かなり広いですが!?」

どこまで連れまわされるのかと雪那が心配になる一方で、春原はふと、空を見上げた。

途端それまで引きずられる事で圧迫されていた腹回りの感覚が薄れ、何事かと春原の視線を追えば、二人の頭上に迫る稲妻があった。

逃げようがどこにあろうか。

人の足で、速さで、その脅威から逃れられる術がある筈がなく。

茫然と、二人ただそれを見上げるしか出来ない。

雪那の脳裏には、あの晩の三ツ江が過る。

(死んじゃう。)

まるで地面へと稲妻を奔らせる為の避雷針にでもなってしまいそうな寸前の事。どこからともなく現れた水が二人の頭上に傘の様に広がる。瞬き一つする間もなく、それは、稲妻と衝突した。

一線。尾を失い際限のない稲妻は、姿を自在に変える水によって全てを飲み込まれるが、数回瞬いた後、その勢いを失い消失した。

死は免れた。

このような事が出来る存在を、雪那は一人しか知らない。

姿を見ることが出来ない、あの神仏だ。











「しつこいのよ!!」

二度、振り下ろされるそれに彼女はまた腕を振るった。

先の乱れようがどういうものかを弥代は知らないが、明らかに今の彼女に悪い影響を及ぼしていることは分かった。

息も絶え絶えに、震える体を抱きしめる様を前に手を貸さないという選択肢はない。だが、それを彼女は受け入れない。

緩やかな斜面になった屋根伝いの先、屋敷の正門の前にはつい先ほど別れた筈の春原と、その傍に立つ雪那の姿があった。

先に放たれた水は二人に稲妻が直撃しそうになる寸前を、間に割りいるようにして防いでみせたが、二度目も上手く行く保証などどこにもない。

友達を守る為にここまで来た。雪那の元に早く駆け寄って、そうして彼女を危険から退ければそれで済む話なのだ。が、そんなはっきりと切り捨てることが出来るのなら弥代は今戸惑わない。迷いなく駆け出す。神仏・水虎を気遣いことなど端からない。

「…あっ、」

声が漏れた。

彼女の水は、再び二人を守るかのように思われた。

しかしそれは、途中で勢いを失う。

間に合わない。頭でそう理解した瞬間弥代の体が傾いた。倒れるように、それでもその足は強く屋根を踏む。さながら弾丸のように飛び出す。たった一歩で一寸以上の距離を飛ぶ。二歩目を踏み込む時には、また空からそれが放たれる。天と地を一時的に繋ぐ橋のように、ほんの刹那の繋がりに、一縷に想いを託すかのように。

「雪那っ!!」

弥代は、ただ、踏み込むことしかできなかった。






「お下がりください。」

その声に聞き覚えがないわけがない。

目の前で腰を屈める、それはまるで居合切りのような姿勢を、一寸の狂いもなく瞬時に取ってみせた男が一人。

芒色の短い髪が宙を舞う。

「貴女は、こんな場所で死んではならない。」

その言葉は、どこかあの山道で聞いたそれに似ていた。






『氷室』

貴女が、私をそう呼ぶ。

氷のように冷え切った地下牢で勝手に暮らしていた私を、そんな風に呼んで見せるのだから、彼女の名付けの感性というものは少々理解に苦しむ。

『氷室』

貴女が私の事をその様に、短く口にする時は、決まって機嫌の悪い時だ。

『ねぇ、氷室。』

『何でしょうか、春奈。』

『そう肩を張らないで。何も取って食おうなどというつもりはありませんのよ。』

どこか柔らかい。

伸ばされた手は、たとえ貴女の瞳に光が灯ることがなくとも、真っすぐに私の元へと辿り着く。そこに、私が貴女を突き放すという考えはないのだろう。貴女は、あまりにも私を信頼している。

『貴方にこんな事話してもきっと意味はないでしょう。えぇ、意味なんてないわ。分かっているの。でも、でもね、誰かに話さなくちゃ気が済まない、そんな事もあるのよ。貴方にはきっと、理解できないでしょうけどね。』

まるで睦言を交わすかのように。頬に触れる貴女の指先は愛おしい。

『昼間、水虎様とお話をされていた件でしょうか。』

『聞き耳でも立てていたの?失礼ね。そういう事は知っていても知らない振りをしなさい。』

『肝に銘じておきます。』

輪郭を辿るその温もりは、まるで私がここにいる証明を立てるかのように。ゆっくり、ゆっくりと冷えた肌に伝う。

『藤原の御方。貴方はどう思われました?』

『どう、と言うのは。』

『嫌では、ありませんか?』

『……』

『貴方を傍に置き続けてあげたこの私が、どこの誰かも知らない殿方の子を孕むかもしれない事を、貴方は嫌と、そう感じませんか。』

静かな怒りだ。

そう言葉を並べる貴女は普段と何ら変わった様子はなく。

ここ数日、腹の中に居座り続けていただろうそれは、漸く吐き出す相手を見つけたかのように、ぽつりぽつりと、溢れ出る。

『今更と思いませんか。』

『今まで私の事なんて目も向けなかったのに。』

『そんなものに何の意味があるというのでしょうか。』

『価値などどこにあるでしょう。』

『やっと見つけた使い道ですか。』

『そこに私の意志は要らないのでしょう。』

『どうして』

『勝手な幸せを望まれる。』

『望んでいない。私の幸せは、私自身が選ぶのに。』

『望まなかったのでしょう。だから、だから私はこんな、』

『惨めと、そう言う以外になんと言いましょうか?』

『愛してくれなかったくせに、私なんて要らなかったくせに、』

『なんで、どうして、どうして』

その肩は、震えている。

腕を回した所で、彼女に意味はない。

自分から触れてくるわりに、貴女は私が貴女に触れる事を、甚く嫌うからだ。

行き場のない腕は、ただ貴女の涙が落ちる受け皿にすらまともになれやしない。

なれや、しないのだ。






「私には、貴女を守る義務がある。」

全く馴染みのない柄に手を掛ける。

落とした腰は、深く。本来の居合であるのならば、それは正面へと向けられる。見据えるは上空。迫りくるその動きをしかと捉えた後、刀を抜ききる。

呼吸さえ整える間もなかったが、神髄を捉えたかのような手ごたえに強く、振り切る。

蒸散したといっていた彼女の言葉通りにはなりはせずとも、跳ね返されたそれは高く、高く空へと舞い戻る。

それはこの地で信仰される神ではないだろうに、土地を離れて尚ここまでの力を有するなど、例え同じ神であろうとも、神無月を含め弱り切った水虎様では歯が立たぬと理解できた。

流れるような動作で刀を鞘に納めれば即座に振り返り、彼女の腕を掴む。傍らの男に言葉は掛ける事なく、歩を進めた。

水虎様の力だが弱り切るこの時期。少しでも雪那を加護下に置こうという考えそのものが間違えだった。まさかこのように屋敷自体が狙われるようになるなどと、氷室は予想もしていなかった。しかし念のために備えておいた、刀のおかげで一時を凌ぐことは出来た。

二度目はない。

刀自身があの稲妻に耐えうることは、跳ね返すことはもう出来ないと理解できた。






正門まで降り立つ頃には、雪那が氷室に腕を引かれてその場を後にする光景があった。

彼であれば心配も杞憂になるだろうか。

雪那の身の保障がされたと分かるや否や、弥代はその場に居合わせた男・春原の胸倉を掴んだ。

「帰れって言っただろ!!」

「違う。」

上背のあるその胸倉は、掴むだけで腕が疲れる。

そう吠えるも、春原は微動だにすることなく否定を述べた。

「帰れとは一言も言われていない。無事でいろと言われた。」

「んなもん同義だろ!?」

春原は、不思議そうな表情を浮かべて弥代を見る。

「言われてはいない。」

「餓鬼の屁理屈みてぇに言うな!」

埒が明かない。掴んでいた手を放し背を向けるも、向けた矢先に背に引かれる。

この場で引く相手など一人しかいない。そう、春原以外。

「んだよ!?」

「一緒にいよう。危ない。」

「危ない!?危ない目に合ってたのは、お前………あっ、あ、いや…あーー、分かった一緒にいた方がいい。そうだな。あ?あぁ、そうだな一緒に動くぞ。」

そうだ。彼は今しがた一歩間違えれば命を落としかねない状況下にいたのだ。

神仏・水虎と氷室の働きにより死ぬことはなかったものの、遠目からでも避けようとも逃げようともしない光景は大変心臓に悪かった。雪那に至っては、やはりあの時の告白を含め、根底に死にたいと微かに望む気持ちがあったのかもしれないが、春原がなぜ動かなかったのか弥代には分からない。が、自分が傍にいて、彼に指示を飛ばせばいざという時に命を優先させる事が出来るのではないかと、そう考えた。

今この場で改めて帰れと言う事も出来たが、一人で帰してその道中に避けずに死なれたなんて事があったら目覚めが悪いに決まっている。

『弥代も危ない。』

彼自身が望んでいるのはきっと弥代が怪我をしないことで。

弥代は春原が目の届く範囲にいて、死なないでくれたらそれでいいのであって。

だから、

「離れるんじゃねぇぞ春原!」

「大丈夫だ。傍にいよう。」

今はこれでいいのだ。

弥代は春原を連れて先ほどまでいた本堂の広間へと足を進めた。

屋敷に住まう者達に被害に遭わぬように、屋根伝いに西の地下牢への移動を始めた。

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