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八話 鵺

「ヒョー、ヒョー、と不気味に啼く声一つ。」

天窓から滑り込んだ月明りが、その部屋を照らしている。

「その啼き声は、虎鶫と呼ばれる鳥類のそれにとても酷使している全く別の生き物だ。」

部屋の中には、書物らしき束が山積みになっている。

そのどれもが古く、分厚い埃が被さっていた。

「其れの名は、鵺。妖怪の類さ。」

青年が一人、手元に一冊の本を広げ立っている。

「鵺が啼くと、死者が出る。一般的に鵺という妖怪は災いを呼び寄せる存在として古くからこの島国には知れ渡っている。」

どこか芝居がかったような口調で、身振り手振り大袈裟に話すものでその場に青年の他に誰かがいて、その誰かに説明をしているようにも捉えられるその光景は。しかし、そこには誰もいない。

「鵺とはそもそも虎鶫の別称として使われる機会も少なくはないだろうが、この島国において。特に神などと信仰心の強い者達の間では前者の認識が強いだろう。」

誰もいない。

自分一人しかいない事など、青年は分かりきっていた。

「土地によってはまた解釈も異なってくる。どこぞの土地では鵺は雷神の一種であると、やはり神の類ではないかとまことしやかに語り継がれる事も屡々。例えばそうだね、下野国のように。」

誰がいようといなかろうと、青年は口を開くのを止めない。

「其れが産まれたのは凡そ半世紀前の事。

この国において古くから高貴なる者のみが身に着ける事を許された“色”を持ち合わせた、その一族・鴉天狗の族長の第一子に恥じる事のない存在が産まれた。」

「彼は生まれながらにして、あまりにも祝福された。

当時の族長の念願の第一子であった事も大きいが、彼が産まれるその瞬間まで、天は稲妻の嵐だったそうだ。彼が産声を上げると、それはぴたりと止んだ。それが偶然にしろ必然にしろ、産声一つでその地を襲う天災を食い止めてしまったのだ。その地に住む人間達の信仰を、彼は一身に受け止めすぎた。」

「彼の父は傲慢で、人間たちに畏れ多くも、自身の息子が雷神様の生まれ変わりであると、雷さえも自在に操ることが出来る強大な神通力の使い手であると、そう触れ回ったそうだ。」

「すると、どうにかなってしまうのがこの世の理とでも言うか。彼は人間達の間で語られる通り、雷神の如き力を手に入れてしまった。」

「父は愚かにも再び罪を侵す。なんと、彼に“神”の名を与えてしまったのだ。」

「“神鳴”。彼の一声により、其れは彼の意のままになるだろう。実に、恐ろしい名だ。」

「天罰だろうか。それこそ神がいるというのなら其れの仕業だろう。彼の次に産まれた子どもは、本来吉兆を齎すとされる白い鴉、しかしその地においてその色は災いの象徴。後にその地で鵺と呼ばれるようになる少女が産まれてしまったのだよ。」

青年は、一人語る。

まるでそれが自分に与えられた役目であるかのように。

誰も望みはしない。誰も、そんな事を彼に望んだりしていないというのに。

彼は。

彼は一人。

この本が山積みになった部屋に、一人。











「まぁ、太ましい腕。」

ぺたりぺたりと、無遠慮に腕に触れてくる彼女の瞳はどこか眠たげだ。

おっとりとした表情とは裏腹に、子供さながらに好奇心に満ちた手元が、自身の胸元や腕に服越しとはいえども触れてくるのが、禎一郎は擽ったくて仕方がなかった。

しかし眼下の彼女の細腕など、ほんの少し自分が力を入れてしまったら、それこそ小枝みたいにぽっきりと折れてしまそうだ。自ら彼女に触れることなど無理がある。

向けられるその透き通った、それこそ澄んだ青空のような色素の薄い瞳には曇り一つなく。ただ純粋に。

助けを求めるように、そのあまりにも真っ直ぐな瞳から逃れるように視線を泳がせれば少し離れた場所で壁に寄りかかる弟分を見つけ、禎一郎は彼の名を呼んだ。

「秋!なぁ秋!!助けてぇな!!」

神経質そうに襟元を正してから体を起こすと、彼・秋滿は距離を詰めてくるもその口から出るのはお小言だ。

「そもそも貴方がその御方にぶつからなければ良かっただけの話です兄上。温情に肖って暇つぶしに話に付き合えば怪我もなく気にしないでくださるというその優しさに対して、何が助けてですか。助けてほしいのはこちらです。日が暮れる前に里を出たいと、野宿は二度とごめんであると、私を含め鈴も嗣も意を唱えていましたでしょう。だというのに貴方という方は…!」

「母ちゃんでももうちょいマシな怒り方するわ!やっぱりええ!助けんでええからどっか行った二人探してきぃ!戻ってきたらはよお暇させてもらうからのぉ!!」

そう告げればぴたりと足を止め、秋滿は綺麗に背を向けると生垣の間から庭園を出ていく。

「なんやねん、反抗期か?いやにしてはあの歳でようやっと反抗期って、遅すぎやろ。子供かいな。」

ブツブツと独り言を零していると、冷たいものが頬を掠める。

「…」

「傷が、ありますね。」

彼女の指先が、左頬にある古傷をそっと撫でた。

これが美人でなければ遠巻きに腕を払って早々に立ち去りたいものだが、弟分が言った通りこの状況は自分が撒いた種であり、何よりも彼女は控えめに言ってもそこそこ綺麗な顔立ちをしていた為無下にできなかった。

何も美人以外は一切駄目だなんて事はないが、やはりこういった風に触れるのも接するのも別嬪である方が役得と思える事があるだろうと、そう禎一郎は考えていた。

「痛み、ますか?」

「痛み?あー、いや随分と昔やさかい、今更痛くなるいうことは…」

「どうして?こんな怪我を?」

表情からだけでは全てをくみ取ることは到底不可能だが、質問の多い女性だ。

若干青みを帯びた黒髪を、緩く編んで左肩に垂らしている。

身なりは整っているし、髪艶もあり手入れが行き届いており綺麗だ。その言葉遣いも粗暴さは感じられず、そこそこに彼女が良い所の産まれであることは明白だった。

帯飾りはこの里ではよく見かける編まれ方がされており、先ず間違いなく彼女が、この里の良家の娘であることが分かった。

が、たとえ良家の娘であろうともやはり時間をこれ以上奪われるのは後の予定が崩れてしまう恐れがあった。

今後の為にここで面識を深めておくのも手であろうが、里を出てから野宿だけは子どもらが意を唱えた通り、自身も避けたいと考えていた。

なんといってもこの里は、里の中は安全ではあるが一歩外に出てしまえば野山が広がっている。

未開拓の土地はそのまま獣道に。

本来であれば東海道沿いに武蔵国へ戻ればいいのだろうが、その東海道まで出るには里の南部を経由する必要があり、それでは大回りになってしまい東門から出るのとでは丸一日以上時間が掛かってしまうことがあるのだ。

出来るだけ早急に、国へと帰り此度の謁見が好感触であった事を、漸くかの一族の娘と顔を合わせる事が出来た事を禎一郎は報告する義務があった。

里にやってきた時に使用した道を再び登っていけば三日四日程で国に帰ることができる。

一刻も早く、この里の生半可な空気から禎一郎は抜け出したかったのだ。

だというのに、まさか子どもらが口論をするのを(元を辿ればその口論の原因は禎一郎にあった。)止めるのに振り返った際、視界が捉えるのが難しい程の背丈の彼女の体を吹き飛ばしてしまった。

目立った怪我はなかったものの、なにか詫びをと申し出た所、どこぞとも知らぬ茶屋の中庭で話をする次第となってしまったのだ。なんともツいていない。

子どもらが急かしてくれればこの子供じみた茶番も早く幕を閉じないものかと思っていたが、あまりにも質問攻めを受けるのに、一つまぁこちらから訊ねるぐらいは話の流れを崩せないものかと、意識を逸らすように問うてみる。

「随分とまぁ、元気なお嬢さんやね。名前、教えてくれへん?」

女性というのはこういう突然話を振られるのに慣れていない。自分から話を持ち出す事が多いくせして、いざ別の話題を振られるとは考えていないことが多いのだ。少なくとも、禎一郎がこれまで接してきた女性という生き物は、どれも、そうだった。

女性慣れしていないわけがない。

どちらかといえば女性の扱いには自信があるが、目の前の彼女はどこか子供じみた行動をするもので、普段の調子が崩されてしまった。一息吐き出して頭の中を空にしてしまえば、この地方では聞きなれない、正しい発音でもない抑揚に、意識は傾いてしまう。そういうものだ。女など。禎一郎にとっては、その程度の扱いやすい、生き物なのだ。

「日和」

「ひより?お天道様みたいに明るいお着物着て、偉い似合っとるな。」

何とも軽い。

思ってもない言葉だ。

所詮あの一族の息がかかったこの里の娘だ。

罪悪感というものがもしあるなら、それはどんな感触なのか教えてほしいものだと。そう、考える。

「初めて、そんな事言われました。私、そうです、春先の蒲公英みたいな色が、とても好きなんです。」

「蒲公英ええなぁ。ワシはね、綿毛になったの吹くのが好きやで。」

風に乗って、どこかへ行けるのが羨ましい。こことは違うどこかへ遠く、遠い風に乗って、見知らぬ土地へ行けるのだろうか。家に縛られてばかりで外へ逃げ出す勇気もない自分とは程遠い。多分、それは嘘じゃなかった。

どこか、遠くへ。

家という柵から解放されて、どこかへ知らない場所へ行ってみたいと、そういう想いが禎一郎にはあった。

何故、今そのようなことを初めて顔を合わせた彼女・日和を相手に話してていて思い浮かべてしまったのかは知らない。強いてあげるのなら、それは彼女の瞳の“色”だろうか。その“色”が自分にそう思い立たせる。

彼女の瞳は澄んだ空のようで、どこまでも続くその青空を連想させたのかもしれない。定かではない。

ただ、そう思ってしまっただけの、そんな話。

それから暫く、子どもらが三人戻ってくるまでの間他愛もない話を広げた。

自分が今まで接してきた女性とは違い、やはり子供ぽさをにじませながらも、それでもしっかりと向き合って会話をするのが、嫌ではなかった。

物惜しい。もう少しだけ、もう少しだけこうして彼女と二人言葉を交わせないものかと、自らの血族が決して持ちえなかった“色”を有した彼女に惹かれるように。

足元を泥濘に取られるように。早く自重で沈んでしまう前に抜け出せと吠える裏腹、この、正に彼女の名前のように日和、陽だまりの中にいたいと、そう感じてしまう。

心と体が全く別物になったような感覚だ。

どうしたものかと、照れ隠すように頭を掻いていると、微睡みに終わりを告げるようにそれは訪れた。

「日和様!日和様はいらっしゃいますか!?」

彼女の名を呼ぶ声だ。

あら、と一つ零した後彼女は軽々と、自分とは違いこの一時に何の未練もないかのように腰を持ち上げる。

自分だけがいつの間にか浸かっていただけなのかもしれないと自覚した瞬間、無性に腹が立った。お門違いなのは百も承知だが。

「お名前を、お聞きしておりませんでした。」

つま先をジッと見つめていると、席を立ったはずの彼女の声がする。

「差し支えなければ、どうか、お名前を教えてはくださいませんか?」

告げていいものか。そんな考えは一切浮かばなかった。

「藤原!」

年甲斐もなく、

「藤原禎一郎言います!藤原の禎一郎!禎一郎って呼んでな!」

女を知らぬ小童のようにどもり詰まりながらも、禎一郎は己の名を口にした。

藤原なんて、長年この里にとって敵視すべき一族の名だ。

言ってから後悔する。もし、もしその家名が原因で彼女に嫌われてしまったらどうしようかと。すっかり、禎一郎の心は不思議な事に日和に捉われていた。

「禎一郎、禎一郎…では、禎一郎様と御呼びさせていただきますね。」

様だなんて。そんなもの付けられる程高尚な身分ではない。だが、彼女にそのように呼ばれるのは、やはり嫌な気はしなかった。

不思議なものだ。女などとあんなにも言葉を交わす前は思っていた筈なのに、微塵もそんな考えが浮かばない。

「ですが、そうですね。禎一郎様だけ、名乗られて私が名乗らないのは、よろしくない、でしょう。」

彼女は、日和は暫く頭を傾けていたが、意を決したように口を開く。

「どうかお忘れのないように。私、私は日和。扇堂日和と、そう申しますの。」

瓦礫のようにそれは崩れるかもしれない。

「…扇堂?」

「はい、扇堂日和。日和と、どうぞ御呼びくださいませ、禎一郎様。」

その家名が、何を意味するのかを、禎一郎は痛い程理解していた。






「やな夢見せんなや…」

男がのそりと起き上がる。

頭上には水路を跨ぐようにして掛けられた橋がある。

夜中に雨が降った際に凌ぐことが出来るだろう程度にこの場所を選んだが、どうやら功を奏したようだ。

ごろごろと、忙しなく響き渡る雷鳴は、橋の上に落ちたのか。しかし男に傷一つありはしない。昔からこういう悪運だけは良いのだと零しながら股座の位置を直せば重たい腰を持ち上げる。

その上背は大きく、日中にこの里の大通りを歩けば大男と指を指され振り返られてもなんら不思議ではない風貌をしていた。

腕を通す事も儘ならない着物を肩に掛ければ、橋の下から頭を出す。

夜である。

本来月と星ぐらいしか輝く事のないだろう夜空は、断続的に瞬く稲妻によって煌々と、昼であると錯覚してしまいそうな程夜空を照らしている。

「難儀なこっちゃ…、えらいお怒りやなありゃ…」

男には、それらの心得があった。

何故このような事が起きているのか、あれを止めるにはどうすればいいのか、何をすべきで、何が最優先であるか。

しかし、男にはそれを全て成しえるだけの力はなかった。

とうの昔に手放してしまった為、どうしようもない。

絵空事。あれが今も手元にあるのならば全て、事なきを得られるであろうに。勿体ない事をしてしまったと、悔やむべきは今ではない。悔いても、悔いきれない。もうつま先を眺めるのは止めたのだ。

「何をするって?ははっ。そりゃ身の丈にあった手助けに決まってるやろ?」

まるで誰かがそこにいるように、男は言葉を投げかける。

「あー顔拝めんかなぁ…、拝めたらええなぁ…。」

男が、左腕を伸ばす。

人一人入れそうな隙間を作り、腰を抱くようにして歩き進む。

「ややなぁ、ほんま。人が寝とる所邪魔したらあかん教わらんかったんなかなぁあの坊主…、あっ言うてそんな歳変わらんか。儂の方が三つばかし上か?あかん、忘れてもうた。」

水路脇に設置された階段を登れば、また一つ、それまで自分がいた場所に雷が落ちた。

「はーちびるわこんなん。命いくらあっても足りへんで。ほんま、なんで儂生きとるんやろ…」

堪忍や、とそう零す。

不揃いな方言だ。

西の言葉ではあろうが、独特な訛りとでもいうか。

教わるのではなく聞いて適当に覚えたといった方が正しいだろうか。そんな耳当たりはよくない言葉を並べる。

「日和も見たくあらへん?あいつの成長した顔。どっちに似たんやろうなぁ…、全く、思い出せへんけどなぁ…」

誰もいやしない。

それでも男が語り掛けるのは、伴侶の誓を立てた女の名前だ。

男は、その女を諦めることが出来なかった。

「はよ、迎えにきいや、日和…」

愛した女は、この世のどこにももういない。

そんな事、男が一番分かっていた。











揺れが、治まる。

弥代は直ぐに起き上がる事はなく、辺りを見渡した。

夜に家の前に陶器類を置くような家はないものの、今の揺れで家の中のものが幾らか崩れたかもしれない。

先程以上に悲鳴がそこらかしこから上がる。

慌てて自分の部屋の前へと駆けよれば、中にいるだろう彼女・詩良の名前を呼んだ。

「怪我してねぇか?!」

「あっは、わざわざ心配してくれたの優しいな弥代はぁ…」

「軽口叩けるだけ元気なんだな分かった!」

戸を開けて、彼女の腕を強引に掴む。

いつの間にか着替えたのか、その装いは夜着からそこそこ見慣れた変わった着物を着ていた。

「もぉ!着替えてる最中だったらどうするつもりだったの!?」

「んなこと命掛かってんのにとやかく言ってられっか!怪我ねぇよな!?痛い所ねぇか?大丈夫だな!!」

「大丈夫、だってぇ…なんでそんな過保護なのさ。ボクの方がお姉ちゃ「それは今はどうでもいいんだよ!!」ん、」

その肩に手を置き、彼女の、詩良に怪我がないことを確認してからその腕を引いた。

「ちょっ、ちょっとぉ!」

「石蕗の兄ちゃん!こいつの事頼む!」

「えっ?あっ、ちょっと弥代くん!?」

掴んでいた手を石蕗青年に握らせると、弥代はそのまま踵を返した。

空を見上げる。

また一閃、しかし今度は見間違いではない。

はっきりと、その稲妻がある場所へと伸びるのを目にする。

「できっこない、たかだが人間が、できっこない、防げるわけがない、防げない、防ぎようがないことなんてわかってる、わかってる、分かってるさ、でも、でも…」

真っ直ぐ、その稲妻が指し示す方角を見る。

その先には、友達の住む屋敷があった。






駆け出す。

助走を付け、徐々にその速度を上げていく。

右手に握りしめた刀を、一際強く握る。

鞘から刃が出てしまわぬように、強く、強く握りしめる。

長屋横丁の入り口には戸口が設けられていた。

平和なこの里では存在する意味を問われるような、盗みを働くような奴が寝静まった頃入ってこれないようにするための戸口だ。

ご立派に掛けられた錠前は早々簡単に開けることが出来ない。一々そんなものに時間を奪われるわけにはいかない弥代は、戸口の手前まで来ると、その刀を激しく地面に突き付けた。

反動で足が宙に浮かぶ。体をそのまま伸ばしきればある程度の助走をつけていた事もあり、軽々と戸口を乗り越えることが出来た。

しかしその勢いは収まらない。

着地を取ってしまえば体制も、折角つけた助走の勢いも殺してしまいかねない。体を丸め、二転三転と前に進む。足が地に平行になる瞬間を狙って、飛び出した。

着地を挟んでまた走りだすよりは断然こちらの方が早い。

頬に付いた泥を払いながら、駆ける。

前へ、前へ、前へ…。

一人暮らしをすると提案したばかりの頃、もっと屋敷に近い長屋だってあるのにと彼女が残念そうな顔をしていたのを思い出す。もしあの時あの言葉に耳を傾けていたのなら、もっと早く屋敷へと辿りつけていたかもしれない。

距離にして凡そ二十町程。本来なら十分に走りきれる距離だ。しかしどこか足が重い。

『…怖い?』

つい先ほど、投げかけられた言葉を思い出す。

怖い?馬鹿言え。怖いに決まっている。

背後では今もどこかで雷が落ちる音がする。落ちる瞬間、空がピカリと光る。ピカリ、と。今正にどこかに落ちただろう。なら正面から見ていたら怖くないのかなど、そんなわけない。見えないからこそ怖い。見えた所で危ないと思ったその時には遅い可能性だってある。怖い。当たり前だ。いつ自分に落ちてくるかも分からないそれが怖くないわけがない。怖い。怖い。怖い。怖い。怖いさ。

でも、それ以上に今は急ぐ理由がある。

『いつでも屋敷に来てくださいね。』

『お腹を空かされているのでしたら猶更…』

『私は、お友達として…』

『心配をしては、いけませんか?』

お節介だ。そんなものいらないと言っても都度彼女は気に掛けてくる。友達だから、なんて。友達のその一言で片付く程簡単な話ではないだろう。

だというのに、それなのに、

『弥代ちゃん、今日もお元気そうで良かったです。』

自分の事を考えろ。お前にはまだ向き合うべき問題が山積みだろう。他人のことばっかり。自分の身をもっと案じろ。言った所で聞いた試しはない。

彼女は、いや屋敷自体がまだあの稲妻が屋敷へと伸びていたその事実に気付いていないかもしれない。

弥代は、走る。

走ったその先で、全部をどうにかできるわけがないと分かっていながら。

せめて、せめて友達を守りたい。

その一心で。






大通り沿いに駆けていると、右手から人影が飛び出してくる。今は夜であったが夜空を覆いつくすその雷によってその姿がありありと分かった。

弥代は足を止めることはなかったが、距離を突き放すように更に速度を上げる。これが限界だと思っていたが、限界のその先には若干の限界があるようだ。

「何ついてきてんだお前は!!」

しかしおかしな事に距離は開かない。

普段からは想像も出来ないような早さで、自分の脚についてくる彼・春原に弥代は声を荒げた。

「お前が向かうから。」

「金魚の糞じゃねぇんだぞ!危ねぇから戻ってろ!」

「それは駄目だ。」

春原の足並みが揃いだす。

「弥代も危ない。」

「んな事俺が一番知ってんだよ!ムカつくからそういう事言うんじゃねぇ!!」

「分かった。」

春原は、黙る。

この男の癖だ。いや癖というには語弊がある。彼の、弥代に対するいつもの反応だ。弥代が強く言えば、分かったと言って黙り込む。癪に障る。自分の意志がまるでないみたいじゃないか。春原と過ごす時間の中でその瞬間ばかりが弥代は嫌いだった。言いたいことがあるなら言えと、俺が言うから素直に従うのを止めろと、言えたらいいのだ。言えないから嫌なのだ。

それを一々指摘する余裕などない。

何故ならもう屋敷の門まで迫っていたからだ。

門番が刺股を構え、止まることなく距離を詰めてくる弥代と春原に矛先を向ける。

「止まれ!こんな夜分に何用だ!?」

「悪ぃけど時間がねぇんだよ!邪魔すんぜ!!」

階段を大股で駆け上がる。

門番の内の一人、背の高い方の肩に足を掛け、全体重を乗せる。ばねの様に跳ねれば門上の瓦屋根を掴みよじ登り、そうして弥代は気付く、思い出す。本来自分はこの屋敷に立ち入るにあたって、神仏・水虎の結界により弾かれてしまった過去があった事を。冷静ではなかった。そこまで落ち着いて考えるだけの余裕はなかった。雪那だけは何があっても守らなくちゃいけないと、その思いだけでここまで来たのだ。

結界らしきものはない。

難なく、その敷地に、瓦屋根の上に登れてしまった。

もしかしたら屋根の上は結界に含まれていないだけなのかもしれないが、そんな細かいことを追及する余裕はやはりない。

弥代は一度振り返り、眼下で門番によって取り押さえられている真っ最中の春原に投げかけた。

「春原ぁあ!!無事でいろよ!!」

もっと他に掛ける言葉はあったのではないか。

言ってから後悔する。違うもっと言いたいことがあった筈なのに、門番に拘束されている様子を目にしては、それぐらいしか言葉が出てこなかった。

しかし立ち止まってはいられない。弥代は、門の屋根の上から中庭へと飛び降りると、一目散に屋敷の右手、東の離れへと走り出した。






「弥代…」

まさかあのようにして閉じた門の上に登ってしまうとは、春原は想像もしていなかった。

どこか子供のように目を輝かせてしまう。

出来るだろうか、自分にも同じ事が。

事の重大性を何も理解できていないように、春原は近くにいた門番にその身体ごとぶつかりに行く。

弥代は何をしていただろうか。そう確か門番の肩に足を乗せて…、

「出来ない…。」

「取り押さえました!!」

「良いぞそのまま離すんじゃない!!」

二人の門番に圧し掛かられ地に伏せる。

咥内に砂利の感触を覚えていると、頭上から弥代に名前を呼ばれて春原は慌てて声のする方を見た。

「無事でいろよ!!」

言うや否や屋根から飛び降りたのか、姿が見えなくなってしまう。

「…弥代。」

「先輩!こいつ討伐屋の頭っすよ!?」

「なんであんたみたいな人がこんな夜中に屋敷に「分かった。」











どんどん、どんどんと襖を叩かれる音に和馬は目を覚ました。

どれぐらい意識を失っていただろう。

起きて早々に空腹感が襲い掛かる。

腹を撫でていると、浮き彫りになるあの痛覚に、身を縮こまらせる。胎児のように背を丸め込む。

そんなもので治まるのならこうまで苦しむことはないのだ。深く、その眉間に皺を刻まれる。

と、意識が一瞬逸れる。

その部屋には、自分しかいない筈だ。正確にはあの白鴉と自分の一羽と一人。

他に誰もいるわけがないのに、どこか人のような気配を感じ、いやこれは人ではない。人の姿をしているが、人ならざる気配。

和馬は、目を凝らした。

「遅いお目覚めですこと。」

少女だ。

あまりにも白い少女がそこにいた。

純白。自分とは違い混ざりっ気の一切ない癖のない髪は綺麗に整えられている。

肌も透き通るほどに白く、いっそ光を纏っているようにすら見えてしまう。

白い、どこまでも白い少女だ。

「だ、誰や…」

「お可哀そう。自らの意志で他を取り入れてしまわれたのですね。元の性質にあまりにも適していません。加えてこの里に掛けられた呪いが、貴方を蝕んでいますでしょう。苦しいですね。息をするだけでもきっと苦しいでしょうに。」

少女は、その幼い風貌から想像もつかないような大人びた言葉を並べる。また本来自分と少数の者しか知りえない事柄を淡々と述べて見せる。

和馬は瞬時に理解した。少女の正体を。

「鵺…っ!」

「ぬえ、だなんて。酷い名前で呼ばないでください。私には、鶫、と立派な名前があるのですから。」

鶫と、そう名乗った少女は和馬の額手を触れる。

「ねぇ藤原の御人。お願いがあるのですよ。」

「どうか、どうか私の」

「この御札を剥がしてくださいな。」











「無暗に人の命を奪っていいはずがない。しかし、それとこれは話が別であろう。」

男はしかし腕を振るう。

男の意のままにそれは振り下ろされる。

まるで手足のようだ。

その真下に人間がいないことなど知っての上だ。

「己が落としたもので死ななければいいだけの事。それ以外で死ぬことは一切厭わぬ。己にとっては関係のない事故。」

「己は只、ただ妹を、鶫を探しているだけだ。」

「鶫、鶫、鶫、」

「どこにいる、お前の匂いが分からない。だが、この里にお前がいることだけは間違いないのだ。己はあやつの言葉を信じた。」

「あやつは昔から嘘だけは吐かない。」

「どこだ。どこにいるんだ。鶫、出てきてくれ。どうか、どうか、どうか…、」











蒲公英の綿毛を吹かすのが好きと言った貴方様。

貴方様は全てを見透かしたような表情で物を語る。

ですからどうでしょうか?ご自身が保ってい調子を崩されるのは、不快でしょうか?

お生憎様と、私は成りはこのようではありますが、貴方様が見下してきたどの女性よりも頭が回りますのよ。

私の掌の上など、気付く事はないでしょう。

ごめんなさいね。

貴方様がどのような御人か、私には見極める必要がありましたの。

あの貴き御方を任せられるかどうか。

だというのに。

私ったら身分も弁えず、はしたないわ。

もっと貴方様とお話がしてみたいなんて、叶わない話。

禎一郎様。

藤原の禎一郎様。

どうぞ、あの御方とお幸せになってくださいまし。

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