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七話 幼い


白。

それは、どこまでも白く。



自分を産んで間もなく体を壊してしまった母は、年中床につき、それでも毎日のように櫛を通してくれる。

同族や実の父からいくら忌み嫌われようと、母だけは。母だけは、一等鶫に対し、愛情と呼ぶには難しい情を注いでいた。

『ごめんね、鶫。お前には辛い思いをさせてばかりいるね。

ごめんね。こんな風に産んでしまって、本当にごめんね。』

鶫は髪に櫛を通される都度、他に吐き出す相手がいないのだろうか、譫言のようにそう繰り返す母が、心の底から嫌いだった。

(そんな事を言うなら、櫛を入れないでくださいな。)

それが親心が故と、そんな都合よく受け止める事が出来れば良かったろうに。産まれ持ってそうであると呪いのように圧し掛かるそれが、鶫にそれを許すことはなかった。



立派な御社が建てられた山の上に、母の元以外に鶫に居場所はなかった。

部屋の外、境内には自分達以外にもその地に住まう人間が足を運ぶ事が多く、彼らの信仰心によりその存在を保たれているといっても過言でない一族は、より一層鶫を外に出す事を毛嫌いした。

言葉を理解して間もない頃、父に言われた言葉は忘れもしない。

『お前の様な異端を、人の目に曝すわけにはいかない。』

まだ自分の脚でまともに立つことも儘ならない、そんな血の繋がった幼子に対して、何を言い出すのやら。鶫はあまりにも聡かった。知らなくていい事ばかり知ってしまう。

既に自分が産まれて直ぐ、父の言葉を借りるのなら異端ともいえる、この地に本来産まれてはならない、一説では災いの象徴ともされるそんな、そんな存在が現れたと。人間という生き物はそんなに一日で何百里も移動が出来るわけもないのに、あっという間にこの下野国にその噂は広まってしまった。

せめてもの、慈悲なのだろうか。

父がそんな自分を殺さず、母の元で生かしてくれるのは。

しかしそこに愛はない。分かっている。分かっているのだ。もう何十年と母にただ櫛を通されるだけの日々を送っている。

襖越しに微かに漏れる陽の光を頼りに、一日、一日を数える。

気が、遠くなる。

果たしてこんな日々に意味はあるのだろうかと。

いつまで譫言を繰り返すだけの母と、共にこの空間で過ごせばいいのか。

(きっと、死ぬ迄ずっとね。)

母は、体を壊してしまったというが数十年長く保った方だ。

しかしそれも年々、徐々にだが弱りかけている。

先は長くない。

母に先立たれ、その先もずっと、ずっと、ずっと、ずっと。

たった六畳の、四方を襖に囲まれた、届く光など微かに漏れ出るばかりの、日に数回下女が配膳と布団を替えに訪れるだけのこの空間で、死ぬ迄、ずっと、一人だ。

いっその事、この同じ言葉を繰り返すことしか出来ない、心を病んでしまった母を看取った後、後を追ってしまうのも悪くないかもしれない。

父は、当に母も見限っているだろう。



鶫には兄がいた。

母譲りのその萌黄色の瞳もこの土地において見られる“色”をしていたが、あまりにも珍しい、それはこの島国において古くより高位な者のみが身に宿すとされる髪色をしていた為、自分とは真逆に産まれつきその存在を祝福された。

本来産まれる理由など、初めからなかった。

襖の向こう、名前も知らない下女達が廊下でそう話しているのを聞いてしまった。

求められてなど、いないのだ。

だというのに、どうしてこのような“色”を宿して産まれてしまったのだろう。

希望などない。そんなもの、抱きようもない。

満足に体を動かすことなく、狭い部屋に閉じ込められ、与えられる食事も満腹には程遠い。こんな体で、例えば外に出たとして、何が出来るだろうか。

何も出来ない。容易に想像がつく。自由に歩くことも許されず、散々壊されて本来の向きさえも忘れてしまった足首が、全てを物語る。

生きていても、意味なんてない。

母の言葉にただ耳を傾けるだけ。

意味など、あるわけがない。

私は、兄とは違うのだ。



『ごめんね、ごめんね鶫。立派に産んであげられなくて、そんな“色”に産んでしまって、ごめんね。』

嗚呼、違う。違うよ母様。

私、私は、結構好きよ、この“色”。

襖のね、間から差し込む陽の光に透かすとね、とってもきらきらと光るの。

きっと、外はそれ以上にきらきらしている筈なの。

境内を駆け回る人の子達のはしゃぐ声にとても近いわ。

好きよ。

本当は、母様が毎日丁寧に櫛を入れてくれたこの髪。

私のたった一つの自慢。

綺麗に整えてありがとう。でもそれだけ。

お小言がなければ、何も言うなんてなかったの。

私、私ね、本当に母様の事、恨んでないのよ。



鶫の予想は当たった。

母は間もなく、息を引き取った。

今際の時、そう、本当は伝えたかった。

しかしいくら聡い鶫であっても、彼女の精神がまだまだ幼い事に変わりはなく、彼女は浮かぶ言葉一つ紡ぐことなく、ただ泣きじゃくることしか出来なかった。



暫くして、鶫は母と長年過ごした部屋よりも、更に境内の奥深くに移されることとなった。以前まで襖の間から感じていた、あの僅かな光さえ届かない、暗い、暗い場所に。

日ごとに、食事を運んでくる下女の回数も減っていく。

数日食事を取らないぐらいではそう簡単に死ぬことはないだろうが、それが十日、二十日、三十、四十と、長く訪れなくなると、当然の事ながら鶫の体は情けばかりに敷かれた茣蓙の上からすら起き上がることすら出来なくなっていった。



早かった。

あまりにも、早かった。



それは、母が亡くなってそれほど日が経たぬ内で。

そういえば生前、眠りにつく意識の中で母と、あまり聞き覚えのない声をした父と、口論をしていた事を思い出す。

(そっか。)

母は、ごめんねと。そう、鶫に謝り続けた。

母は、ずっと、ずっと自分を、父から守ってくれていたのだと、そう、鶫はその時、理解できた。

水なんて、最後に口にしたのはいつだろう。

乾ききった喉が、小さく鳴く。

目蓋からは、多分。いや、産声をあげたその時振りだろうか、涙が溢れた。

浮かぶ水滴が、あまりにも大粒で、それだけで今ならこの体の渇きを潤してくれそうな。しかしそれは喉が震える度、一つ、二つと、体の外へと零れ出てしまう。



どうして、どうして、伝えることができなかったのだろう。

ああ、産声以来なんてそんなわけない。

泣いた。私は、母様が亡くなったあの時も、泣いていたじゃないか。



長い。あまりにも長い時間を過ごしたようで。

鶫にはもう、僅か四十日程前の事すら思い出すことが出来なかった。



この涙が、最後の一滴を零して、そうして母を想って死んでしまえたら、母は、こんな私を愛してると、言葉にしてくれないだろうか。



『誰かいるのか。』

呼吸が、薄い。

誰もいない。

誰もいやしない。

誰も気付かないで。

私、母様に会いたい。

邪魔しないで。

自由にして。

もうこんなに苦しいのは、嫌だよ。



『いるじゃないか。何で答えないんだ。』

暗くて、よく見えない。

重たい目蓋が邪魔をする。

ああ、違う。見たくない。何も、何ももう見たくない。



『どうして喋らないんだ。こんな所で何をしてるんだ。』

止めて。

どこか行って。

静かにして。



『こんなに痩せ細って。何も食べてないのか。』

良いじゃない別に。

放っておいてよ。



『体が冷たい。ここにいてはだめだ。』

体が、持ち上がる。

本能的に、残り少ない力が落ちないようにと、誰かの、体に小さく縋りついた。

声も、もう出ない。

この名前も顔も知らない誰かには、今こうして救われた所で、意味はない。

縋りつくこともまた、意味などない。

母以外、誰も望まなかったこの生を、やっと、やっと終えられようとしているのに、何故邪魔をするのか。

鶫は、最後の力を振り絞るかのように、目を開く。

開く。

開いた、その先には。

(母様、)

母と瓜二つの、萌黄色の瞳が自分を、鶫を、心配そうに見つめていた。











「怖くないよ。」

それは、なんだろう。

背後の戸板越しでもはっきりと、聞こえる声さえも掻き消すような雷鳴が響いている。彼女が、自分ではない誰かの名前を口にしていると、何の根拠もないのに弥代は、そう思えてなからなかった。

だから。

だから、双子の姉と自称し自分の懐に入り込んでくる彼女が優しく、自分の頭を包みこむように抱き寄せるのに、弥代は思い浮かべた。

思い浮かべたのは、一人の女性だ。

ーはるなー

濡れ羽色のような、しっとりとした長い黒髪を、絹糸のように滑らかに落とす。

耳に一房掛けようものなら、滅多に日の元に出ることのない白い肌の面積がより広く感じられ、その黒髪によって白さが際立ってしまい、それだけで目を奪われた。

『大丈夫よ。怖がらないで。大丈夫。ねぇ、誰も貴女を傷付けたしないわ。大丈夫だから。』

幼い我が子に言い聞かせる母親のように、落ち着いた声色が、そう、語り掛けてくる。

大丈夫。大丈夫。大丈夫。

摩耗しきった、既に膿んでしまった傷口を労わるように、優しく、優しく、何度も撫でられた。開くことのない、目蓋の奥で彼女は、何を思っていたのだろう。

温もりなど、とうに忘れた。

誰かに助けを求めようなど、もう望まない。

そう、決めていた筈の覚悟が、夢の中の自分は、彼女・はるなによって解かれていくのが分かる。

それは、紛れもない記憶の一片だろう。

まさか。まさかこのような状況下ではっきりと思い出すことになるとは。弥代は、想像もしていなかった。

大丈夫と、自分を抱きしめてみせる彼女がまだ口にする言葉が、記憶の中のそれを重なる。

全くの別人。彼女は、はるなではない。

はるな。はるなは、“色”を持たなかった。



「もういい、離してくれ。」

弥代はそう言って、自らの後頭部に回された腕から逃れるように身を捩る。

「えー?さっきまで怖がってたのにもう?もっとしてあげても良いんだよ?弥代だったらいくらでもしてあげるよ。」

「怖がってねぇ。ただ、取り乱しただけだ。」

そういうことにしておく。

腕を広げ、今度は背中に回そうとしてくる気遣いを悪いとは思いつつも、弥代は突っぱねる。気恥ずかしさもある。まさか雷程度にあんなにも恐怖を覚えてしまうとは。

そう、弥代は夜空を覆うその雷に恐怖を覚えた。

それに続くようにしてはっきりと、はるなとの記憶を思い出した辺りを考えれば、何かあの前後には雷でも、それこそ撃たれたような経験でもあったのだろうか。いや、そう上手く安直につながることはないだろう。ただの考えすぎだ。

それでも、思い出すきっかけになった事実は変わらない。

一呼吸挟み、背後で今も甲高い声を上げる彼女・詩良を無視し、気を引き締め戸口にまた手を掛けた。

何だ。こんなのただの仕切り直しじゃないか。

ほんの僅かの時間だったかもしれないが、思い出すあの感覚はとても長かった。

雷なんて、撃たれてしまえば人間一溜りもないだろう。

分かっている。分かっているさ、そんなこと。

けど、弥代には気がかりだった。

(昼にも、でっかいのが落ちてきた。)

あの時、どれだけの人間が落ちた雷ではなく、落とされた空を見上げただろう。

どれだけの人間が、空の上の人影に気付いただろうか。

(空なんて、人が立っていられるわけねぇだろ。)

ただ人並み以上に腕っぷしに自信があるだけで、それ以外なんら変わりないということは自分が一番知っている。知っていて尚、弥代は外へと、出る。

(人…人じゃない存在。俺は、見た事がある。)

春先、この里へ意識のない中運ばれ扇堂家の敷地内にある地下牢に閉じ込められた。

春原の手によって地上へと出ることが出来た際、対峙した、人成らざる存在。

(妖怪、もしくは、)

神、とでも言おうか。

榊扇の里が、扇堂家が祀り上げる神仏・水虎は、元は妖怪の類だ。

妖怪と言えば、以前吉野で会った“色持ち”の狼もどこか近しい存在だろう。

あれは、到底“色持ち”という理由だけでは並外れた脚を持っていた。

当人。いや、当の狼は自覚はなかったのだろうが、例え重くはなくとも人一人を背に乗せて、あれほどの速さで山道を駆け抜ける事などただの狼では成しえないと、そう感じたのを弥代は覚えていた。

自覚のない相手にそんな事いった所で意味があるとは思えない。何より、主人である男を同族である狼によって殺された彼女に、そんな事を聞けるわけもなかった。

そう易々と、神なんて存在が顕れられては身がいくらあっても足りたもんじゃない。

妖怪の類であれと、そう願い、外へと踏み出した。



外は相変わらず煌々と、夜であることを忘れてしまいそうな程明るい。

同時に、ゴロゴロと止む事のない雷鳴が轟く。

雷というものは、光ってから落ちるまで時間が空くというが、このような状況下ではいつどこに落ちているかもわかったもんじゃない。視界のあちこちで稲妻が駆ける。これ程までに酷い雷、お目に掛かるのは初めてだ。

刀なんて、構えたって防げやしない。

それでも反射的に、いつでも利き手で構えられるようにと右手で強く握りしめた。

「詩良!出てくんじゃねぇぞ!」

振り向くことなく戸を閉めれば、すぐさま足は顔馴染みの青年の元へと向かう。

元々数人で夜半に談話でもしていたのか、眠たげな表情を見せない集団の中に彼はいた。

「石蕗の兄ちゃん!」

「ん?あぁ、弥代くんじゃないか。君ももしかしてさっきの大きいので目が覚めたのかい?」

くしゃくしゃのフケ塗れの頭を掻きながら返事をした青年は、弥代の暮らす長屋横丁の中でも、弥代が来る以前より変わり者に部類する人物だ。

早くに親を亡くし、少ない財産でやりくりをして数年前から一人長屋暮らしをしているというが一向にその金は尽きることなく、のらりくらりと仕事もせずに趣味の物書きに耽る男だ。

しかしこの男、妙な所で博識で。

なんとやらは紙一重などという言葉があるらしいが、人は見かけでは判断が出来ない。

屋敷から離れ、この長屋に身を構え始めたばかりの頃は隣の長谷一家や、この石蕗という青年に色々と世話になったものだ。

「君も?」

「いやね、なにも今さっきこれが始まったばかりということはないんだよ。かれこれ、そうだね…、半刻程前からずっとこの有様でね。」

「はっ半刻!?」

石蕗青年が言うにはこうだ。

仲の良い呑み仲間と、昼間里に一際大きな雷が落ちた、あんなのここ数十年落ちたことがないと、そこから昔話に花を咲かせながら語り合っていた最中、家の中に日が出ている時以上に明るい光が差し込み、何事かと外に出れば既に外は明るかった。

しかし先ほど弥代が目を覚ますきっかけとなったであろう大きいものが落ちたのは、それが初めてであるという。

危ないとは思っても好奇心を抑えきられず、物書きの性分か、命知らずにも外へと飛び差し指さし騒いでいたのだという。そういう所が馬鹿だと周囲から揶揄されるのというのはさておき、弥代は石蕗から視線を逸らし、また夜空を見上げる。

様子は何も変わらない。変わらない所か、思い過ごしかもしれないがその勢いは徐々に増しているようにすら見えてしまう。気のせいであれ。いや、気のせいで片付けられない。

目を凝らしていると、ふと、何か影を見る。

何だと、更に目を凝らす。

焦点を影に合わせるようにすると、それは人影だった。

人影。昼間、雷が落とされた際に空に浮かんだそれに、似ているように思える。

人影は、何かを振りかざすように手と思しきそれを掲げた。

(あっ、)

それは、落ちる。

振りかざされたそれに合わせるように、意志を宿したように、一つ、たった一つ、落ちる、落ちる、落ちる、落ち、落ちた。

長屋の屋根によってその姿が見えなくなった、その刹那、地が揺れる。

前のめりに、体は倒れ込む。

直ぐ横で、同じように石蕗青年の体が横倒れになるのを見た。

何が起きたかなど、目を凝らしていた、その人影を捉えていた弥代ははっきりと分かった。

人影が、腕のようなそれを振りかざした。

それに合わせて、雷が、落ちたのだ。

まるでそれは、先ほど自分が目を覚ました際に体感したような、地面から突き上げられるような感覚。まだ灯りのない長屋の部屋から悲鳴が聞こえる。地べたに這いつくばるようにして、弥代は察した。

間違いない、あれはあの神仏と同列の存在であると。











秋滿は、走りだした。

(違う。私は、私はこんな事、知らない。)

まるで、体と意志が反するようだ。

自分の意志に逆らうように足が、前へと出る。

(止まれ、止まれ、止まるんだ。)

頭の中は、至極冷静だ。

しかし、足は止まらない。

普段走ることなどない、足裏を通じて体中に響く衝撃が妙に生々しい。

夢ではない。夢なわけない。

子供。あの子供に渡したものを思い出す。

(違う、違う、違う、違う、)

こうなると、誰が予期しただろうか。

秋滿には、覚えがあった。

吉兆として知られる事の多い白い鴉。しかしそれは“色持ち”という存在が二百年前よりも多く増えたこの島国にとって、東の地に、相反する地に産まれる色というものは災いの象徴とされた。

東の地で卵から羽化したのだという白鴉は災いを齎すから、それをかの里に置いてやるのはどうかとなんともまぁ子供染みた提案をしたのは、実の兄だった。

自分とは違い、本家の産まれとして恥じない権力を得られる立場に立つようになって以降、まともに口を利いたことはない。あの人を一族から除籍させるように進言したのも兄であると、風の噂を耳にしたことがある。

(違う。そうじゃない。そうではない。秋滿、駄目だ、止まれ、止まれ!)

足は今も止まらない。

同行していた嗣定や五鈴が飛び起き自分を呼び止める声が上がるのが分かる。

子等は何が起きているのか分かっていないのだろう。こんな時だというのに、嫌に冷静な頭はそそれを認識する。

足は、秋滿の体は門へと近づいていた。

門の前には、里の門番がいる。

しかし、彼らもその異変に気付き、動揺している。



その地に、踏み入れようものならかの神仏の呪いをこの身に流れる血は受けることだろう。止まれ秋滿、止まるんだ。



門番の二人を掻い潜るようにして、彼のつま先が僅か、ほんの僅かその地を踏みしめた。

『父上と、呼んだら、怒りますか?』

『一人で寝るのは、さみしくて。』

『おじ、さま?』

『自分の意志です。自分で、進もうと、そう決めたんです。』

『見てくださいな伯父様!ちゃんと、変われました。』

『そんな顔をしないでくださいな。自分で望んだことなんです。』

『雪那ちゃん、元気にしとるかなぁ…』

『早く、会いたいな…』






「ーーーーー和馬っ!」

体の内側から食い破られそうな程の激痛に、それまで冷静でいれた筈の意識が揺らぐ。

しかし止まらぬ痛みに、飛びそうになる意識も直ぐに戻ってくる。

飛んで、飛んでなるものか。

初めて、叫んだ。

こんなにも大きな声で、子供の名前を口にするのは初めてだ。

彼が、あの子供。いや、和馬が自ら名乗り出た。

自分は皮肉にもあの扇の末端の血を引いているから。ただこの白鴉を吉兆として、友好の証として渡してくることぐらい朝飯前だと。待っていて、くださいと。そう、言っていた彼が、和馬が、危ないと。

知っていた筈だ。

友好など、両家の和平など当の昔に破綻しているのだ。

それでも、それでもあの子が、和馬がこの地に、あの屋敷に招かれることがあったのは、それは紛れもない、あの大主がそれを望んだからだ。

「…和馬!」

大主は、あの出来事を未だに後悔している。

(そんなの。そんなの私も同じだ。)

秋滿は前へと踏み出す。

こんなにも。こんなにも感情のままに行動に移すのはいつ以来だろうか。

もしかしたらそれさえも、彼にとっては初めての出来事だったのかもしれない。











和馬は、気付いていた。

しかし、どうすればいいか分からなかった。

その白鴉は、託された時点から違和感があった。

吉兆の象徴として、友好の証として、献上品として渡すように、と。

国を、屋敷を出る際にわざわざ表に顔を出して迄、師である秋滿の兄がそれを託された。が、自分が何か口にした所で、身分の高い師には助言にもなりはしないだろうと言うのを止めた。

そして、武蔵国から相模国にある榊扇の里へ向かう最中、その白鴉が良くないものだと理解した。

吉兆など、嘘だ。

東。東の血に白い“色”を持つ鴉など、そんなもの吉兆の象徴ではない。存在そのものが厄災と、その象徴といっても過言ではない。

何故、何故このような存在を自分たちは運んでいるのかと。

何故、あの時、屋敷を出る時託されたその場で違和感を口にすることができなかったのかと。

このような存在を、あの子がいる里へ持ちいっていいわけがないと。

和馬は、気付いていた。

だから、自らそれを渡してくると名乗り出た。

それには尤もらしい理由が存在した。

十年程前、二人の幼馴染とこの里で過ごした時間を、和馬は覚えていた。

だが、今この厄災を齎すとされる白鴉を持った自分が、顔を合わせていい筈がなかった。どうすればいい。どうすればいい。

里に入ってしまったが、里の外にその鴉を放してしまってどうなる?里に災いを招かない可能性はどこにもない。どうすればいい?どうしたらいい?どうすれば、この存在を誰にも辛い思いをさせずに手放すことが出来るのか?

既に鴉の体には札が張られていた。それがどのような効果を与えているのか知らないが、少なくとも近くにいても和馬自身に不幸が降りかかることはなく、数日お世話になっている宿屋にも迷惑はかかることはなかった。

良かった。そう胸を撫でおろしたのも束の間。札が、一枚剥がれ落ちた。

和馬は、追いつめられた。

自分一人で、これをどうにもできようがない。

自分みたいな、元々“色”を持たずに産まれた存在が、何かを出来るわけがないのだ。

しかし、この鴉を連れて師の元へ戻ってどうなるというのか。

これは良くないものだから、持ち帰りましょうとでもいうのか。

これまで師と言葉を交わした事はあまりない。

例え親代わりであろうとも、幼少期のそれと自らこの道を選んでからのそれは全く別物だ。誰にも、誰にも何も言えない。

どうしたらいい。どうしたらいい。

どうしたら、どうすれば、どうすればいいんだ。



救いと、そう言える存在。

出会ったのは、紅葉が咲き乱れる時期。

紅色の紅葉が舞い散る、あの庭で、その一際鮮やかな、決して埋もれてしまわない“色”が目に焼き付いたのを覚えている。

『えっと…、ふ?ふ…あおい!何だっけ?』

『ふじわら、ですよ。雪那様。』

『ふじ、わら…ふじわらの、ふじわらさん?』

まるでそこだけ、晴天を切り抜いたような。こんなに近くで空を目にするなんて不思議な感覚だった。

『あっ、えっと…かずま、ふじわらの、かずまって言います。』

『か、かずま…?のかずま?』

『えっと、あー…ちがっ、ちがうくて…』

『雪那様。困っておいでですよ。』

『?』

秋空のような、澄んだ瞳。

献上品として屋敷に年に一度送られてくる果実のような瑞々しいその髪が。

『なんて、よべばいいの?』

『さて、なんと御呼びしましょうか。』

自分とは全く違う、その“色”を宿した彼女が、

『かずまで、いいよ…。』

『?』

おはじきみたいにきらきらと反射するその瞳が、






『和馬さん?』

『久しぶりやね、雪那ちゃん。』

こんな、こんな状況で会うつもりなんてなかった。

でも、でも。

たまたま目にした、その“色”に焦がれるように手が、足が、向いてしまった。

求めるように。心奪われた、あの秋空の日のように。

『雪那ちゃん、会いたかった…!』

会いたくなんてなかった。











春原は、寝つきが悪い。

それは何も、今に始まった話ではない。

十数年前、生家である水戸の屋敷が賊の襲撃を受け、自分以外の家族を失った。

当時屋敷には、自分の他に四つ上の兄と、両親、住み込みで奉公に来ていた下女達がいた。朝、目を覚ました時には焼焦げた屋敷の前の道端に、自分だけが転がされていた。

屋敷には、火を放たれたと思われる痕跡があった。

朝方に雨が降ったのか、火が敷地から外へ出ることはなかったようだが、春原は一晩にして家族と家を失った。

幸いにも、その頃水戸に立ち寄っていた下がり藤の家紋で知られる藤原家の者に行く宛てがない所を拾われた為、飢え死ぬことはなかった。

先日、里で自分の名を口にする、あの家紋が刻まれた装いをする青年に会ったものだが、生憎と記憶にはなかった。下がり藤と言えば、藤原の教えに付いていけず脱走を試みた際に勝手に付いてきた相良ぐらいしか知らない。

その相良もいつの頃からか保護者面をすようになり、春原の私生活や体に対して口を挟む事が増えてきており、鬱陶しさを感じてしまうぐらいだ。

どこにこの歳になって寝かしつけられる必要があるのか、私室として用意された討伐屋の母屋の一室の前まで、相良は付いてきた。

『良いですか春原さん!目を開けるから眠れないです!目を閉じたままにしているだけでも幾分か体は休まりますから!目は閉じてくださいね!』

夜だという事を忘れるかのようなはきはきとした声で言うもので、春原は返事をすることなく部屋に入った。

昼間に中庭の物干しで伽々里が干した布団の間に体を滑りこませるが、当然寝られるわけがない。

そう簡単に寝れたら苦労などしないのだ。

寝れないから、年々刻まれる目の下の隈が色濃くなっていく。

隈。隈といえば、懐かしい。榊扇の里での生活を始めたばかりの頃は、弥代。

彼女に会う、顔を合わせる度に、「おい隈っころ!」「てめぇ隈野郎じゃねぇか!何してんだこんな所で!」なんて呼ばれたものだ。

隈っころ。そのままだが、熊っぽくて強そうだ。

熊、熊といえばそこまで食に頓着することはないが、この里はわりと美味いものが多い。里の東の山奥側には大きな河原があり、野生の熊も出没するそうだ。秋の河原で熊といえば遡上する鮭が美味い。美味いものが多いこの里で、鮭を食べることは出来るだろうか。

などと、しっかり相良に言われた通り目は閉じたままだが、思考はぐるぐる回る。

普段春原は口数が少ないが、頭の中では常日頃関係性の高いものから低いものまで考えてはいるのだ。口には出さないが。

(鮭…、弥代は、鮭は好きだろうか。)

結局、行きつきのは彼女だ。

自分でも可笑しく思える程、春原の考えは彼女・弥代に引っ張られがちだ。

何か心残りでもあるのだろうかと、色々な事を考えてみるが考えた所で答えは見つからない。何も苦というわけはなく。どちらかというと弥代の事を考えていると、こんな歳になっておきながら子供のようにわくわくと感じてしまう。

恐らくは幼い頃の記憶。いや、どうにも霞みがかったような部分が多いが、幼少期を共に過ごした思い出があるからだろう。あんな“色”間違えるわけがない。

あの森での出会いは運命的だった。まさか迷子になっている自分を助けてくれるとは。まるで本当にあの頃の、あの頃、あの頃の…。

「いつだ」

いつだろう。いつの、出来事だろう。

漠然と、そんな事があったと。そんな感覚。それ以上も、それ以下もない。

「いつの事だ。」

分からない。

春原は分からない。

「あの頃と、同じ…」

その時だ。

外が、障子越しに異様なまでに明るくなったのは。


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