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六話 落雷

秋の空気はどうにも乾燥していて得意ではない。

けほっと一つ咳を漏らせば、すかさず背後に控えていた下女が優しく背中を撫で摩る。

冬場の水仕事は皸になりやすいから秋の方が好きだけど、冬は雪が降るからやっぱり一番好きなのは冬かもしれません、なんて。何ともまあ気の抜けた初めましてを交わしてから早いもので季節は半周して、自分が苦手な季節を迎えてしまった。

冬場になれば率先して暖を焚き、誰に何と言われようとも着込んで、部屋に籠ることが出来るというのに。

秋口のまだ半ばに差し掛かったばかりのこの頃合いでは、周りの者もそこまで寒そうにしてない為、合わせる他ない。

庭で落ち葉を掃う名前も顔も朧気な、普段関わる事があまりない下女らを尻目に今もまだ優しく背中を摩り、自分の身を案じてくる彼女の、一つ足りない右手に触れ小さく払う。

「美琴様、無理なさらないで?」

極めて、彼女の言葉は少ない。普段の言葉遣いからすれば幾分か気を使っているその限られた言葉には、彼女の純真さと本来の生真面目さが窺えた。

(まるで、姉上のよう。)

赤を孕んだその瞳が、ではない。

彼女が自分に対して優しく接してくるその姿勢が、当の昔に別れを告げた歳の離れた姉によく似ていた。

自分よりも十も下の年若い娘を姉のようだと感じてしまうのは、どうにもおかしな話で。咳き込む素振りをしながら顔を隠し、ほんの少しだけ口角が上がった。



彼女の名前は、扇堂美琴。

相模国の領土の大半を占める、榊扇の里の統治してきた扇堂家の分家の娘である。

彼女は産まれながらにして、扇堂家の当主に求められる“色”というものを持ち合わせていなかった。生まれつき体が丈夫でなかった幼少期の頃より、周囲の者達は彼女に期待など持ち合わせなかった。何も期待外れだと、早々に見放されたわけではない。

彼女には父親は違えども姉がいたからだ。

彼女の姉は分家の産まれでありながら、あまりの美しさに羨む程の“色”を持っていた。

東の産まれに相応しいその“色”は、当時まだ存命であった大主の娘である扇堂春奈が到底持ちえないものだった。

しかし幼い頃の美琴からすれば、姉の“色”というものは自分とは無縁のもので。

姉よりも本家の彼女の、自分と同じ黒髪に心惹かれたものだ。

周囲の大人たちが姉に期待を寄せる中、彼女は一人遠目ながらも黒を追いかけていた。

父は違えど、姉はいたく彼女を構い倒した。

体が弱くなければきっとそんなに気にされる事もなかったかもしれない。

姉は、黒を追おうとするその視線を遮る事の多い人だった。



本家の産まれであろうと、“色”を持たぬ者に里を守護せし水虎様と契約を結ぶことはできない。

“色”を持たぬ本家の娘など、何の役に立つというのだろうか。

美琴の当時の父はそう、大主に進言していたそうだ。

大主は直ぐに答えることはなかったが、答えが出るよりも早く、あろうことか姉は里から姿を消した。

二十年程昔の事だ。



この所、断片的に昔の事を思い出すことが多い。

まるであの頃から止まっていた時間が、少しずつ動き出すかのように。

あの時の続きを見せられているかのような、そんな不思議な感覚に、どこかこの屋敷は満ちていた。

何がそうさせているのか、美琴は直接言葉を交えることはなかったが理解していた。

屋敷の東の離れでずっと隠れていた、孫娘が自らの意志で外へと踏み出したからだ。

今も変わらず背中を摩り続ける下女が一番親しいという者が、孫娘の元に仕えているということもあり、何の縁か、美琴の耳にはよく彼女の様子が届いた。

野田尻の鈴木家の元へ向かう道中、賊に襲われ付き人と離れ。一人危ない所をおかしな出会いをして救われたと。

下女が言葉を選びながらも身振り手振りしながら、ある程度誇張しすぎだと疑いたくなるような話をしてくるのは、足を運べるだけの体力も段々となくなってきてしまった自分にとっては最近の楽しみの一つであった。


そんな事を考えながら、息をゆっくり、ゆっくりと整える。

呼吸が落ち着いた頃、下女・巴月の手を借り立ち上がる。

柱に手を付き後数歩で辿りつく、過ごしなれた私室の襖に手をかけようとしたその時、空の青ささえも遮ぎるように何かが瞬いた。











下野国には都の名を用いた時代を創立したとされる、かの将軍家の家康を神格化し祀り上げる、三大都に及ばずとも賑わいを見せる都が存在する。

東照宮と呼ばれるその宮には、家康公以外にも歴史に名を刻んだ者達が深い眠りについており、名高い偉人達が神格化し祀られるその地は、他の土地と比べて暮らす人間達の信仰心というものが一際強かった。

少し離れた土地に、ある言い伝えが存在する。

それは雷を意のままに操るとされる雷神様のお話だ。

ある時、一人の農夫がこれ以上雹や雷によって苦しめられたくないと、天に祈りを捧げた。すると雷神様が天狗に姿を変え、農夫の前に降り立ったそうだ。

天狗の姿をした雷神様は、農夫の願いを叶えてやった。

その言い伝えは時が過ぎ、いつしか信仰心の強いその地に、雷さえも操るとされる天狗が住まうなどと、湾曲し知れ渡る。

人間の、信仰心というものは時に、人ならざる存在そのものに多大な影響を及ぼしかねない。そんなこと、人間は知る由もなかった。



焚火の爆ぜる音に、秋滿の意識が浮上する。

どれぐらい意識を手放していただろうか。

一寸のようにも思えたが、目元を覆う布が視界を邪魔しようとも眼下の焚火の中の小枝が炭になっているものが多く、暫くの間自分が眠ってしまっていたのだと気付かされた。

右手に控えていた枝木を適当な長さに折れば、それを火中に投げいる。

燃料を得た炎が一瞬大きく眩く燈るのを尻目に辺りを見渡せば、左手には幼い三人の子等が掛布に包まるようにして転がっている。

野営の経験のない、国から。屋敷から一度も外に出たことのない子等だ。

武蔵国にある屋敷を出てから数日、初めて目にする外の世界にそれはそれは目を輝かせていた。目は口程に物を言う。自ら発する事を良しとしない教えにより自発的に関心を口にすることはなくとも、子等の表情は好奇心に溢れていた。

出来うることなら一族に縛られず、自由に生きてほしい。

そう、秋滿自身も口に出来ればいいのだろうが彼も幼い頃から身に染みついた習性により何を言う事もできない。

ぐっと腹の中で堪えて、それを表に出せない。

表に出せないといえば、あの子供は今頃どうしているだろうか。

布を僅かに捲り、視線の先に聳え立つ壁を目にする。

忌々しき里の外壁だ。

あの壁の向こうへは、一族の血が濃ゆければ濃ゆい程に神仏の呪いを受ける。

人の信仰心により妖から神仏へと昇華した程度の分際で、まさか人の子を、血そのものを呪おうとは誰も予期していなかった。

過去、幾度も藤原の血族はこの地に住まう、今も尚貴族の肩書を捨てぬ哀れな一族に和平を申し出ている。

外界から隔たれたこの島国において、古くからこの地に住まう者達が手を取り合わねばならないというのに。

幕府の崩御が起きたあの直後、国を揺るがす事実にあの扇だけが反旗を翻した。

皆、あの扇が悪いと、そう教え込まれた。


(貴方も、そうでした。)


あの人も、あの一族と知り合わなければ今も昔と変わらず、私の前に居続けてくれたかもしれないのに…。

そんな事、今更考えた所でどうにもならないと分かっている。

秋滿は己の手を見つめた。

自らの意志で、名乗りを上げたあの子供の言葉を思い出す。






『榊扇の里へ、行かれる聞きました。』

そんな喋り方ではなかった。

西に訛りが混じ入った言葉遣いは、当人が意識をしているわけではない。

産まれ持った“色”とは異なる、前例のない手段にて無理に“色”を取り込んでしまった哀れなあの人の子どもは、それに内側から浸食されるように、汚されてしまった。

『何か、思う所でもあるのですか。』

分かり切った事。

子供が力を望むきっかけとなった存在が、あの里には存在している。

『約束したんです。今度こそ、守ってみせるって。』

そんな約束、叶いはしない。

藤原と扇のあの一族はここ百年手を取り合えた試しなどない。貴方があの屋敷で暫くの間過ごせていたのは、貴方が扇の末端の血を引くのを、上手く利用されただけだ。

結局一族の手の平の上で築かされたものに過ぎない。あの人と同じ轍を踏まされるだけだ。

相容れられない存在というものはどこにでも存在するのですよ。貴方があのお孫様の傍にいようとする事を、私は心の底から祝福できない。

いつか貴方は後悔する。貴方がしなくとも、私に訪れる日がやってきましょうとも。

『貴方が付いてきた所で、何も意味はありません。』

その道を、私は教えていない。望んでいない。

その道を選んだのは、紛れもなく子供自身だった。

貴方は藤原と扇の間に生まれた、哀れな子供。

貴方は、あの人と違って自由だというのに。

どうして自ら同じ道を選ぶのですか。






最期に触れたのは、鳥篭を彼に授けるその時。

久方ぶりに触れる子供の手は、自分よりも大きく、芯を抱いていた。






夜風が冷たい。

それもそうだ。既に暦の上では冬を迎えている。

いくら焚火を焚いていようとも、誤魔化しようのない冷え切った風が頬を撫でる。

「お目覚めですか、秋滿殿。」

背後から自分に投げかけられた声に秋滿は振り返る。

二人の男女だ。

二人とも夜闇に溶けたような黒髪をしているが、女の瞳は青く、男の閉ざされた瞳も女と似た青い瞳をしていることを知っている。

「お疲れでしょう。童らも流石に三日目ともなれば反抗的な目をする事も無くなりましたが、単純にそれだけの気力がないだけとも思えます。どうか、休める時におやすみくださいまし。」

「火が消えてしまっては、寝入ったとでも思われましょう。妖怪の中にも頭の回る者はおります。私が見張りを交代いたしましょう。」

二人は秋滿を気遣うような言葉を並べた。

「お気持ちだけで結構です。私はあまり深くありません。ご存じでしょう。」

そう秋滿が返せば二人はそれ以上何も言わない。

何も変わらない。

本家と分家の血筋の間には、例え長年連れ添ってきた戦友であろうとも明確な溝が存在する。きっと一生埋まらない溝だ。強く物を言えない二人は、早々に抱えていた枝木を地面に下ろすと、与えられた掛布に子等と同じように包まり静かになる。

誰も寝てほしいとまでは言っていない。

本当は話し相手にぐらいなって欲しかったが、それを告げられぬまま秋滿は空を仰ぐ。

空を仰ぐと、一線。

何かが、夜空を駆けた。

何かと、目を凝らすよりも早くそれは、それははっきりと、静かな夜空を照らしたのだ。











「----!」

雪那は慌てて目を覚ました。

覚醒しきらない思考が、それでも忙しなくぐるぐると駆け巡るような感覚と、妙な胸騒ぎが襲う。

自分がなぜいきなり目を覚ましたのかも、その原因も分からぬまま混乱する意識の中、何が出るわけでも無いのに思わず口元を抑えて、えずきながら背を丸めた。

どうにも形容しがたい、胸の奥がただざわつく。

呼吸を整えた後、辺りを見渡すがそこは間違いなく自分の私室だ。

夜半という事もあり灯りはないが、窓際の障子越しに微かに月明りが透けて、部屋を照らしている。

起き上がった際に乱れた掛布団を強く握りしめてみるも、そこに何があるわけでもない。

着崩れた合わせ目を引き寄せれば、じっとりとした汗で夜着が濡れている。

記憶になくとも悪夢でも見ていたのだろうか。

魘されていたのかもしれない。

額にも同じように汗が滲んでいる。

汗ばんだ夜着でこのまま再び寝るのは些か難しそうに感じる。

何より肌に纏わりつくこの感覚は控えめに言っても不快だ。

体を起こす。また目を覚ましてしまっては、今度こそ眠れない夜を過ごしてしまいそうだと、布団少しだけを正してから、冷え切った廊下へと向かった。

生憎と部屋には予備の服はなく、離れの奥にある衣装部屋で着替えようと、そう思ったのだ。






「あああああああああああああああああっ!!!!」

耳を塞いだ所で意味はない。

塞いだとて鼓膜を揺するそれは、悲鳴と一言で片づける事が出来ないだろう。

どたばたとそれから距離を取るように慌ただしく駆け回る足音が響く。

中には腰を抜かしたのか床を這いつくばり、誰彼構わず助けを求めてこちらへと逃げおおせてくる里の権力者達を前に、美琴はただただ口を紡ぐ。

本堂の奥、客間や広間よりも更に奥まった位置に存在する御堂には勾欄が存在し、よく里を見下ろす事が出来る。

里の大主である扇堂杷勿を筆頭に、扇堂家の上席達や里の采配をこれまでも決めてきた権力者達が集められていた。

招集を掛けられたのはまだ陽も高い内だったというのに、里の四方に今も住まうかつての豪族らが全員集まる頃には星が煌々と瞬いている。

この場にいる者達のどれだけの者が、それに対峙することが出来ようか。

自身の先が長くない事など誰よりも理解している美琴が、その場で取り乱すことはなく、静かに与えられた席に背を伸ばし腰を据える。

この里をその加護下に置く神仏の荒れ狂う姿を前に、彼らは掌を返したように酷く、取り乱すのだ。


一人、前へと出た人物がいた。

唯一この場において扇堂の血を持たず、里における権力者でもないただの大主の側近である男だった。

男はその背で大主であられる扇堂杷勿その人を守るように立ち上がる。

「お下がりください杷勿様!今のあの方はっ!」

見据えた視線の先。

そこには、まるで理性を失った獣のように床の上で悶え苦しむ、貴き存在から程遠い姿を晒す神仏・水虎がいた。

神の名を冠す神仏にあるまじきその乱れよう。

長い彼女の爪が名に含まれる虎を彷彿されるかのように、床に突き立てられる。

中にはそれの突然の変貌に、避けきる間もなく傷を負い出血を訴える者も存在した。

医者の肩書を持つ、本来ならば無謀にも前へと歩み出た男・佐脇が手当てを行う必要があるだろうが、佐脇にとってはそれよりも、大主で扇堂杷勿を守る事の方が優先度が高かったのだろう。

怪我人の声になど耳も傾けず、本来の彼の性分が、それこそ剥き出しになるかのように身構えてみせる。

しかし彼がどう守る姿勢を見せた所で、理性を感じさせないそれに意味はなく。それもまた剥き出しにした口元から、普段なりを潜めている鋭い牙が覗かせる。

だと言うのに目元を覆う布だけは一糸乱れることなく、それの視界を奪う役目を果たし続けるのだから、あまりにも残酷だ。いっそのこと、取れてしまえばいいものを。

「近付くんじゃないよお前たち。佐脇、あんたもだよ。

どうしてこの状況で私が下がれるとお前は思うんだい。口を慎みな、このど阿保が!」

御堂に響くのはよく通る、聞きなれた里の主の発声だ。

男が庇うように差し出した腕を掻い潜るように、扇堂杷勿は言いながら神仏へと一歩距離を詰める。

「どうしようもないんだよ。藤原の血筋が里の周辺を彷徨っている、本来の気質にそぐわないこの地に縛られるこの御方が弱まる、そんな時期に仕掛けられたりなんてしちゃ、こっちに打つ手なんてありゃしないんだよ。」

榊扇の里は、何も元からここまで大きかったわけではない。

扇堂の血筋がこの地に住み着いた二百年以上昔から、徐々に今の大きさになった。大山の麓に屋敷が建った頃から、まるで正に扇の末広がりのように里は広がり、今では相模国の領土の三分の二を占める程にまで大きくなってしまった。

神仏として崇める水虎の力により、里は常に外敵からの襲撃を受けない。外部からの干渉を拒むことが出来る程の力。しかしそれは扇堂杷勿が口にしたように、彼女の本質とはあまりに相性が悪かった。ただ、それだけの話。これはそれだけの話なのだ。











『ねぇ、聞いて弥代。私ったら、つい我慢できなくて笑っちゃったの。そしたらね、母さんにとても怒られたの。』

日当たりのいい縁側でくつろいでいると、まるで自分がそこにいるというのが見えているかのように自然な動きで彼女が近づいてきた。

貴族の娘という立場でありながら、どこか堅苦しくない言葉を好んで口にする彼女とは、この屋敷の中で世話になる立場であっても、気兼ねなく言葉を交わすことが出来るので、変に片意地を張ることはなかった。

彼女はくすくすと堪えることが出来ない笑い声を零しながら腰を屈めるもので、ついいつも通り、彼女がそう望むので甘えるように、身に沁みついた習慣のようにその膝に頭を埋めてみせる。

彼女の指は器用に、朝束ねたばかりの髪を解き、慣れた手つきで人の毛先を弄りだす。そうなってしまえば気が済むまでやらせてやるのが一番良いのだと知っている。

以前好きにさせなかった時は、それはそれは年甲斐もなく駄々を捏ねて、暫くまともに口をきいてすらくれない事があった。彼女がそんな子供染みた事をするわけがないだろうと、普段から猫を被っている姿しかまともに目にしてない奴等が反論を述べてきたががこれが事実だ。

彼女はその立場など全く気にも留めず、目が見えないという立場を利用して、周りを欺くことが大変上手かった。

暫く好きにさせていたが、ただされるがままというのは癪に感じだす。

そういう事を求めていたわけでもないのにと不貞腐れた声を上げてみれば、彼女は自然と笑う。

『今の、笑う所?』

『私はとっても面白かったわ。』

『…そ。』

普段通り三つ編みにでもされるのかと好きに触らせていたが、一向に毛先を弄るばかりで編もうとしない、そんな彼女に気付いた。

どうかしたのか、と問うてみると。

少しだけ珍しく、彼女はこちらの言葉を待つ事なく、ぽつぽつと言葉を零してみせた。

『どうしましょう。』

『どんな人なのかしら。』

『素敵な殿方だと良いわ。』

『でもあの藤氏の方なのでしょう。』

『怖いわ。』

『こんな私を受け入れてくれるなんて。』

『私ね、信じられないの。』

指先が、微かに震えている。

なんと声を掛けてやることが適切か、考えながら彼女の背中を小さく撫でてやる。

薄い背中だ。

彼女は、普通の人とは違う。

その目は何も映すことができないし、体だってそこまで丈夫じゃない。そんな体の彼女が人並みの幸せを手にできるとは、失礼だが想像がつかない。

屋敷からまともに外へ出ることもできないのに、肉付きの悪いその背中は、自分よりもずっと大きな存在などと、にわかには信じがたく。

外の世界を知らずに、この屋敷に縛り付けられるだけの、あまりにも可哀そうな存在に、手を差し伸べてやりたくなるのはきっと、きっと間違いじゃない。

間違ってないんだ。

なにもおかしくなんてない。

『なぁ、春奈。アンタが望んでくれんならさ、俺は、…俺は、』






地面から突き上げられるような衝撃に、体が微かに浮く。

突然の衝撃に、寝入っていた意識も一気に覚醒する。

追撃がないと気付くや否や、弥代は布団から飛び起きた。

右腕に体をすり合わせるようにして寝入っている彼女の腕を静かに払う。

目を覚まさないでいる様子を見て安心しながらも、急ぎ壁際に立てかけていた刀に手を伸ばしかけた所で、壁越しに隣の家から子ども達の喚き声が聞こえてくる。

子ども達の声に目を覚ましたのか、それとも先ほど自分が感じた衝撃に目を覚ましたのか。長谷夫婦の寝ぼけながらも驚いたような声も次第に聞こえてくる。

錯覚なわけがない。

しっかりと、一瞬だが確実に体が浮く感覚があった。だからこそここまで一瞬の出来事で意識が覚醒している。

ただそれが何だったのかが分からない。

身を低く屈め意識を集中させていると、徐々に外から聞こえてくるざわつき声が多きくなり、そうして寝ていた筈の彼女が目を覚ました。

「どうしたの?なにか、あった?」

目元を擦りながら起き上がる彼女・詩良は大きさの合わない弥代の夜着を殆ど纏っているような状態だ。弥代よりも若干背丈は大きいものの、夜着ということで若干大きいものを雪那が勝手に仕立屋に頼んだ故の大きさだ。夜着なのだから肌蹴てしまっても仕方がないだろうに、生娘のように恥じらい肌を隠すもので、それならしっかり帯を締めてから寝ろと思わずこんな状況だが文句を垂れてしまった。集中しようにも儘ならない。

「慌てることのねぇ女だなお前は。外が騒がしくなってきた。何かあったのかもしんねぇから見てくる。」

「危なくない?大丈夫なの?」

衣装箪笥から適当に上に羽織れそうなものを見繕って、それまで起こしては悪いと控えていた物音を遠慮なく立てながら土間に折り、袖を通す。

赤い髪結紐を一度強く結び直せば、迷いなく戸口に手を掛ける。

後方では詩良が行かない方がいいと止めるように声を掛けてくるが、今何が起きているのか分からないまま寝付くのはどうにもできそうにない。

何より眠りを妨げられた。

何か大切な、大切な夢を見ていたような気がするのに、何も思い出せない。

普段着とは違い腰紐は緩く、刀に結びつけた紐は本来の役目を果たすことは無く。斜めに肩を通し、胴の前にぶら下げるようにして身支度を終える。その時だった。

視界を覆いつくすような光が、戸口の木板の隙間から漏れ出している。

外に出て、弥代は何よりも明るいことに違和感を感じた。

異様なまでに明るい外は、夜半である事をまるで忘れてしまいそうな程だ。

時刻は丑三つ時など当に回ったであろう、誰もが寝静まる夜半であろうというのに、妙な明るさを感じた。

日の出にはまだ明らかに早い。

何よりも秋口というのには冬にかけて日が昇る時間帯が若干遅くなるぐらいだというのに。

違和感に辺りを見渡せば、井戸を囲むようにお向かいに住む横丁の住民が、自分同様に顔を覗かせ、不思議そうな顔をしている。

見知った仲の者達が、口を開きながら、腕を伸ばす。

その腕を、指先を、吊られるように空を見上げた。

「上?」

光だ。

目の奥に焼き付いてしまいそうな程の眩い光。

陽が高い時はそこまではっきりとその姿を捉えることが出来なかった、それは雷だった。

暗い夜空を覆い尽くさんといわんばかりの光が、空一面に拡がっている。

なぜ今まで気づかなかったのかと疑問を抱かずには入れない程の轟音が、聞こてくる他の音を掻き消すかのように、轟音と共に響き渡る。

一歩、後ろに下がってしまう。

弥代は今出てきたばかりの戸を潜り、家の中に逃げるように戻ってしまった。

「弥代」

畳の上で膝を付く、彼女が心配そうに自分の名前を呼ぶ。

「怖いの?」



「…怖い?」

そう、ただ返すことしか出来ない。

背後では今も戸越に轟音が響く。

体の奥底に直接響いてくるような、それによって掻き立てられるような心音が、弥代の思考を邪魔するようにさざめく波のように押し寄せてくる。

間近にある筈の音さえも雷によって掻き消され、収まった途端に角を見せる。

落ち着きようもなく、視界が揺れる。

焦点を失った瞳孔がただ、家の中を回る。

定まる場所を忘れた。

何を捉えていいのか分からない。

それは、それは、それは、それは、それは

「大丈夫だよ。」

それは、

「何も怖くないよ。」

それは

「誰もキミを傷付けないよ。」

それが

「ボクが、そんなことさせないから。」

それの正体も分からぬまま、静かに覚えのある温もりに頭を包まれる。

数日前にも感じたそれは、間違いなく人肌のそれで。

「大丈夫。」

無意識に伸びた指先は、追い縋るように彼女の肌に突き立てる。

「大丈夫だよ。」

視界が定まる。

彼女の口元が、誰かを呼んだように見える。

でも、それが自分の名前ではなかったと、弥代は轟音が響く中、何の確証もないのにはっきりと、そう思えた。












『水がね、霧みたいになって消えちゃったのよ。』

榊扇の里が祀り上げる神仏である水虎は、氷室と古い顔馴染みだ。雪那の従者として屋敷に住まうようになるよりももっと昔から、本当は互いの存在を知っていた。

しかしそれを特別に口にすることはないし、何も親しく口をきくような仲でもなかった。

あの社から離れに引きこもる雪那の様子を、変わり映えしない時間をずっと見守り続けるだけの、他に関心の寄せ処を失ってしまったような日々はある時を持って終わった。

まるでそれまで止まっていた景色が一気に進みだすような。それはあまりにも急激に。

『あの、春原とかいう男。“気”が込められた刀を持っていたの。人間の分際で、あんな大層なもの、どこで手に入れたのかしら。』

雪那が弥代と名乗る子供と一緒に屋敷に運び込まれた翌晩、随分と風通しの良くなった本堂の屋根を見上げながら、水虎が自分に話しかけてきた。

氷室には、覚えがあった。

夕刻に西の区画で、彼・春原の看病をしようと喚く二人の男の内の一人、眼鏡を掛けた男だ。

十年近くこの里を離れ放浪をしていた事があり、武蔵国周辺にて、下がり藤の衣を纏ったまだ年若かったろう彼を目にしたことがあった。

上手く出来すぎているとしか思えなかったが、下がり藤に携わる彼であるのならば、“気”が込められた武具を生み出すことが出来てもなんら不思議ではないだろう。

しかしその面影はもっと昔、旅の道中に刀を打ちなおしてくれた老人に似た何かを感じた。

何も確証はなかった。

全てそうであれば良いと、そう思っただけだ。

結果、討伐屋が看板を掲げたばかりの頃、相良と名乗る男の元を訪ねればあの老人の血縁者であり、鍛冶師としての腕もあり、かつ“気”を込められた武具を作ることが出来る者だった。

まるで誰かに全て仕組まれているのではないかと不安を感じてしまいそうなほど出来すぎた話だ。

けれども、今の氷室にはそれに縋るしかなかった。

自分一人の手でどうにかならない事など、嫌という程分かっている。

直接それを相談できる相手もいない。

せめて出来ることといえば、何が起きてもいいように、それから彼女を守れるだけの力が必要だった。

刀を用意してもらいたいなど、一から作るとなれば何も整っていない環境では無理があった。

だから、氷室は相良の伯父に当たる男がかつて打ち直してくれた刀を、整えてほしいとそう告げた。

全盛期まではいかずとも、あの晩春原が持っていた、神仏の水を蒸散させてみせたそれ程の力が、氷室には必要だった。











誰も彼も、勘違いよ。

そんな事、望んでないじゃない。

私、一言も、言ってないわ。

ねぇ、どうしてそれが間違っていないと思うの。

何の根拠もないでしょ。

ねぇ、そんなの貴方の偽善よ。

私の為って、そう言い聞かせてるだけ。

勝手なことをしないで。

私、私はね。

ただ、この時間が何よりも好きなだけなのよ。

これ以上も、これ以下も、何もかも全部全部全部全部、要らないの。

ねぇ、弥代。

貴女の事が、私、本当はね、

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