十話 千本槍の了い
結論だけを述べるのなら、昨晩榊扇の里に突如降り注いだ雷は、朝方になる頃にはその勢いが収まっていた。
自分に何が出来ただろうか。
身の内に流れる血そのものに掛けられた呪いにより混濁する意識の中、何が出来るわけでもなく、ただ気が付いた時にはきっとそれはもう終わっていたのだ。
稲妻が夜空を覆いつくしていたあの時よりも、若干眩しさは控えめな澄み切った空が広がっている。窓辺に手を掛ければその現実から背を逸らすように戸を閉め切った。一気に暗くなった部屋の中で膝を抱える。今も尚呪いによる激痛は収まることはない。痛い。ずっと痛い。堪える。でも、でも。堪えた先に何もなかった。藤原和馬は途方もない無力感にただただ苛まれた。
自身の力を封じる札を剥がすようにと、懇願してきたあの白い少女もまた、気付いた頃にはこの部屋に、目の前から姿を消していた。
足元には空になった鳥篭と、まるで焼き払われたような札の残骸が畳の上に転がっている。
少女の札を剥がした記憶など欠片もない。
が、ほんの少しだけ覚えている。
あの直後また意識を失う手前、誰かがこの部屋に入ってきた。
何も出来ずに畳の上で転がる自分に気付き声を掛けてきただろうが、堪えられるだけの余力があるわけもなく。
姿も声も薄らぼんやりと、分かっているのは大柄な男だったろうという事だけ。
今の現状からしてその男が、何かをしたと考えるのが妥当で。
自分は何も出来なかったと、ただその存在に怯えてどうすることも出来ず、助けを求めるだけで。
無力だと、思い知らされた。
「収まってんな…」
扇堂美琴の指揮の元、屋敷内にいた者達は皆、敷地の西に位置する地下牢へと避難を済ませた。広間で神仏・水虎を鎮める為に祈りを捧げていた扇堂杷勿は、弥代が春原を引き連れて戻る頃にはその場で意識を失っていたが、佐脇の手によって運び込まれた。扇堂美琴を先頭に、屋敷の中を隈なく確認し、逃げ遅れた者がいないか確認を行った後、二人も地下牢の階段の降りた。
元々屋敷にどれだけの者が暮らしているのか把握していたのだろう。当時広間に居合わせていた客人らや予期せぬ二人を含め、二百四七名がいる確認が取れた直後の彼女は大層肩を和らげていた。
それから二刻程は経っただろうか。
階段から差し込む外の明かりが日の出を知られるような明るさになる事、それまで聞こえていた轟音もまた落ち着きを見せた。
更に半刻程して、弥代は自らの意志で階段を上った。
地下牢の入り口から顔を出せば、そこには雲一つない、秋晴れのどこか遠い空が広がっていた。先刻まで激しい稲妻に覆われていた空と同じなんて信じられない程に。
その旨を伝える為に再度会談を駆け下りる。降れば降るほど入り口から距離を空けて、段差に腰を掛けて壁に寄りかかり寝ている者達がちらほら見えてくる。
弥代が初めてここに放りこまれた際はその広さに驚きはしたが、いきなりの避難に牢の鍵を用意するだけの暇はなく、二百余名は牢と牢の間の通路におしくらまんじゅうのように肩を寄せ合い一夜を過ごすしか出来なかった。
地下牢の奥へいけばそんな状態も緩和できたろうが、明かりを灯せるものも数が限られていた事もあり、出来るだけ近くで過ごすようにという扇堂美琴の指示があった為だ。何よりもこの地下牢は冷える。冷え切ったこの空間で人肌もなく過ごすのはかなり堪えるだろう。身をもって経験している弥代はそんな事を思い出す。
階段を降り切った所で、目当ての人物を見つけ声を掛ける。
「美琴さん、外収まってた。空も雲一つありゃしねぇ。」
「ありがとうございます弥代様。門番達も十分に休み動けますでしょう。屋敷の外の様子を見てきてもらいます。」
扇堂美琴は直ぐ近くに控えていた、付き人と思しき女に指示を送る。赤い瞳が特徴的なその女は通路で横になる人を踏みつけない様に慎重に奥へと進んでいった。
「俺、行けるよ。」
「それはどうかお控えください。これは屋敷の事です。本来であれば貴女様に動いていただく必要のない事。これ以上貴女様のお手を煩わせるのは私共、扇堂家としては不本意でございます。」
地下牢へと移動が終えた頃よりは時刻も過ぎ、明るくなった光が差し込むはするが薄暗さには変わりはなく。だというのにはっきりと物怖じることなく吐き出す。そこには彼女の強い意志が感じられ、それを前に弥代は再び自分がなどと、提案をする事は出来なかった。
「それに、」
ふと、手が伸ばされる。
「今はこの里に住まう民の一人なのですから、貴女は私たち扇堂家が守るべき立場にあるのです。」
その手は弥代、先刻水虎が放った水が頬を掠めた際の薄くなった傷口を摩る。
「それでたとえ、貴女が守られることを拒絶したとしても…」
傷はもう塞がりだしていた。
「そうかよ。じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。なぁ、所で雪那がどこら辺にいるか知らねぇか?入り組んでて、奥は分かんねぇよ。」
「雪那様でしたら突き当りを右奥に進まれた小路にいらっしゃる筈です。杷勿様もそちらにおられます。」
「分かった。ありがとうな。」
傷を拭うその手が離れると、弥代は奥へと進む。
彼女が言ったように突き当りを右へ曲がろうとすると、先ほど先に奥へと進んだ赤い瞳の下女が屈強な男を六人程引き連れてやってくるのが見える。その内の二人には見覚えがあった。
昨晩屋敷に踏み入る際に、正門で対面した二人だ。
こちらは顔を見ているので分かったが、背中では稲光が瞬き逆光となり顔は知られていないかもしれない。後々きっとバレる事だろうがこの場で気付いていない相手に一々頭を下げるのも進行を邪魔してしまうと考える。
彼等の本来の仕事の妨害をしてしまった事に対してだけ、心の中で小さく謝罪だけを述べた。
小路の先には初めから用意があったのか、布団の上で横たわる扇堂杷勿の姿があった。
直ぐ隣には広間で目にした時の装いよりも薄着になった、正確には肌着以外を纏っていない佐脇がいる。暗くとも目を凝らせば扇堂杷勿の上に掛けられた布団が異様に分厚い様子から体を冷やさぬようにと自身の服を脱いで与えているのだと分かった。
広間で掴みかかられた件も含め、主人に対する執着が狭間見えた気がする。
その奥には目当ての雪那の姿があり、声を掛けるよりも早く弥代の存在に気付いたのだろう佐脇が声を上げた。
「何用ですか。」
威嚇をするように吐き捨てられた第一声に、弥代は臆することはない。
「アンタに用はねぇよ。」
扇堂杷勿の横を通り、奥へと、雪那のいる場所へと向かおうとすれば突然腕を掴まれる。
「んだよ。」
「この御方を跨ぐな。」
「跨がねぇと奥に行けねぇだろ。」
「行かなければ良いだろう。」
「俺は雪那に用があるんだ。」
「今行かずとも後で済ませ。」
「俺は、今、雪那に用があんだ。」
「今する必要がないという事が理解できないのか。」
「はぁ!?」
埒が明きそうにない。
初めからこちらの意見に耳を傾ける気のないその態度に弥代は言葉を交わす度に苛立ちが増していく。掴まれた手前体制が良くないが胸倉の一つ掴み返してやろうかと思った矢先だった。
「弥代が、嫌がっている。」
その言葉と共に背後から手が伸びてくる。
振り返ればそこにいたのは、地下牢で過ごす内に姿を見失っていた春原だ。
てっきりどこかで寝ているものかと思っていたが、まさか真後ろにいるとは。
弥代の腕を掴む、その腕を離させようと力を込めている様子が窺える。
「止めろ春原。」
微かに佐脇の掴まれた腕から軋むような音が聞こえて、その手を止める。
「何してんだいきなりてめぇは…。」
「弥代が嫌がるのに、掴むのを止めなかったから。」
「んなことで突っかかんな。余計な事しねーでジッとしてろ。」
「分かった。」
春原を窘めた後、佐脇の方に向きなおればそこにある視線は敵意が含まれていた。
「んだよ。」
しかし佐脇はもう口を開かない。
ただ弥代を睨むばかりだ。
何を自分がしたというのだ。言えば自分は恩人だ。
それこそ命の恩人に対してそんな目を向ける意味が、弥代には分からない。
『また貴様か!また貴様は私たちから奪おうというのか!?』
きっとその敵意は広間で向けられたそれと同じものなのだろうが、弥代には覚えはない。覚えていないものに対してどうこうできるわけがないのだ。
「あのっ!」
空気が悪くなる一方、会話に交じることはなくともそれをずっと見ていた雪那が突然声を上げる。
「佐脇さん、私がそちらへ、向かう事は駄目でしょうか…?」
たどたどしく言葉を並べるその姿はどこか痛ましい。
雪那の言葉を皮切りに、大人しく何事もなかったかのように佐脇は若干乱れた扇堂杷勿の掛布団を直すと、静かに腕を組んで目を伏せた。
「…。」
「あの、お待たせしました弥代ちゃん。ごめんなさい、ここまで遅くなってしまって。」
「いや、お前が謝ることじゃねぇよ。」
なるべく音を立てぬように奥から出てきた雪那の後ろにぴったりとくっつくようなその姿は、扇堂杷勿の横にいる佐脇にどこか似ている。
彼の同席を断ることはなく、それでも弥代は雪那を連れて少しだけ人が少ない通路へと呼ぶ。
「とりあえず、怪我はないんだよな。」
何よりも心配した彼女の身を漸く訊ねることができる。
外見からは一切傷は見当たらないが、避難する途中に転んだなどがないかとも心配してしまうのはどこか気にしすぎ、過保護かもしれない。
「えっと、本当に平気です。どこも怪我していませんし、痛いところもありません。私は大丈夫です!」
大丈夫と、そう零す表情はやはり暗くて見えづらいが、声色からして彼女の言う通り問題はないのだろう。
が、一つ気がかりなことがある。
一撃目、神仏・水虎の水によって防がれたからいいものの、それを一切避けようとせずその場に立ち尽くしていたことだ。
やはりあの問題を先延ばしにすることがいけなかったのではないかとどこか思えてしまう。
でも、あの場では性急に解決を促すのは得策ではなかった。長く時間をかけて向き合うべき問題の筈なのだ。そう弥代は考えていた。
もしあの時、水虎の放った水が間に合わず、直下にいた雪那と春原に直撃していて二人がその場で絶命してしまっていたとしたら…。冷汗が背中を伝う。
「そういや春原、お前も怪我、してないんだよな。」
「怪我…、怪我は多分してない。」
「何だよその曖昧な返しは?」
「………恐らくしていない。」
「あ?はっきりしねぇな?」
「見える範囲の怪我はない。」
「見えねぇ場所は怪我してるってーのか!!?」
地下牢を出た門番達が屋敷の曽於tの確認をし終えたという報告が弥代達の耳に届いたのはそれから更に暫く経ってからの事だった。
ぞろぞろと二百余名程が一斉にではないが移動を始める。
階段付近の近くにいた者達から登り、外へと出ていく。
地下牢の右奥は奥まっていた為弥代達が出るのは人気が疎らになってからだったが、その頃には意識を取り戻したのか、自らの足で背中を支えられながらも歩む扇堂杷勿の姿があった。
背後にぴっとりとくっついていた春原に先に上るように託し、誰も他に残っていない事を確認してから弥代も登り始める。
つい先ほど外の様子を一度覗く際にも上った為、特に何も思い抱くことはなかったが、それでも地中から地上に出るというのは謎の高揚感があった。
地上を踏みしめる。するとそこには、頭を差し出す扇堂美琴がいた。
「改めてお礼を申し上げたく思います。弥代様。この度は雪那様の為とはいえ、あれ程天候の狂う中、屋敷に赴き、私共に自体をお教えくださりありがとうございました。本当に、ありがとうございます。」
何も弥代は礼が言われたくてしたんじゃない。
本心からそう思う。
歯痒さのようなものを感じながらも、やはり見た目よりも強い言葉を発する彼女の言葉は、受け止めざるをえなかった。
「弥代は思ってたけどお寝坊さんなのかな?ボクがこんなに近くにいるのに全く起きないなんて、ちょっとだけ心配だなぁ?」
「心配なのはてめぇの頭だよ。人の寝顔じろじろ見る趣味があんなら止めとけ。端から見たら気色悪ぃぞ。」
うだうだと意識は浮上しているものの、重たい目蓋を開けることが中々出来ず時間を費やすように転寝を打っていると、予期せぬ固さに目を覚ました。
随分と長い間寝ていた気がするが、感覚が追いつかないというか、あれほどの経験をしたというのにたった一晩の出来事で終わってしまったのが信じられないのだ。何が起きたのかなんて、弥代が知る由もなく。
伸ばした腕が彼女の頭部にぶつかったのだろうか。当たった場所を摩りながらふてくされたような表情を浮かべる詩良に、はっきりと悪態を漏らせば渋々弥代は体を起こした。
起きようと思えばいつでも起きることが出来たのだ。
だが至近距離で顔色を窺ってくる彼女の気配には気付くことがなかった。そんな距離にいられれば気付けても何もおかしくない筈なのに。違和感を感じつつも、桶に張った水で顔を濡らす。
「お腹空いてない?温めてあげようか?」
「要らねぇ。飯用意してもらう約束してっから。」
肩口からのぞき込んでくるように顔を近づけてくる存在を軽くあしらいながら、この長屋にはどこか不釣り合いな漆塗りの施された衣装箪笥から外行きを取り出し着替える。
「もう弥代ったら!朝から大胆なんだから!」
「何をどうしたら大胆になるのか知りてぇもんだな。帰ってきてからで頼む。」
鞘に括り付けた紐を腰紐部分と絡めさせる。体を少し揺さぶって落ちないことを確認すれば戸口に手を掛けた。
「ちょっくら出てくる。」
「うん、いってらっしゃい!」
まだ数日だ。
彼女が自分の家に無遠慮に上がり込んできてから数日しか経っていない。
だというのに、いってらっしゃいと、そう送り出される事に、弥代は違和感を感じなくなっていた。
里での暮らしを初めて、一人誰もいない長屋に帰ってきて壁越しに伝わる賑やかな団欒が少しだけ羨ましいと感じていた。それが彼女と過ごす内に気にならなくなって。双子の姉なんて名乗らなくても、別に彼女が、詩良が家にいてくれる事を、弥代は嫌とはもう思わなくなっていた。
少々うざい絡みは控えて欲しいものだが。
榊扇の里全域といっていい程の広範囲に降り注いだあの稲妻は、翌日の夕刻にその正体と思しきものが発覚した。
屋敷にそのまま居座っていた弥代の耳にもそれは入ったが、事態はまだ不鮮明な部分があまりにも多く、明日の朝にまた屋敷に来てほしいと弥代は言われていた。
別に聞かなくてもいい話だった。が、此度屋敷の皆を救ったといっても間違いない関係者の弥代が事の全容を知らないのはどうなのかという、扇堂美琴の言葉があったそうだ。
朝餉の用意を条件に、朝早くといっても日はとうに昇り切った時刻にのうのうと弥代は目覚め、屋敷へと向かう。
きっとあまりの遅さに飯は冷え切っているし、話は適当に終わって、摘まんだ内容だけを聞かされるものと、そうあってほしいものだと、そう思っていた。
「いや、全然じゃん。」
門番と揉めることもなく階段を昇り、門を潜ればいつから控えていたのかも分からない下女によって本堂へと通される。
履物を乱雑に脱ぎ捨てれば冷たい床板が足裏に直撃し、寝起きで足袋を履いてくるのを忘れていた事を思い出す。若干眉を顰めれば、何とも用意の良い事。下女はどこからか弥代の足ぴったりの真新しい足袋を差し出した。冬を間もなく控えたこの里は本当によく冷える。冷えには耐え兼ねられないと渡されたそれを素直に履いて、奥へと案内されれば、勾欄のあったあの広間よりも低い場所に位置する広間へと到着する。
すれば、そこには配膳盆によそられた熱を持つ食事が用意されていた。
「雪那がね、アンタの事だから昼時前に起きてのんびりと来るかもしれないと言うからね。わざわざこれぐらいかと用意させたんだよ。ありがたくお食べよ小童。」
広間の奥には小上がりがあり、その上には煙管を吹かすこの里の大主がいた。
「アタシが意識のない時に随分世話になったみたいだからね。美琴が言うんだ。じっくり話を聞いてお行きよ。」
「ははっ……、まじかよ。」
まじだ。
事の顛末とでも言えばいいだろうか。
そもそも此度の原因は十日程前、里に踏み入った藤原の遣いが持ち込んだものが原因だとされている。藤原という名前に聞き覚えがないわけがなく、弥代の脳裏にはあの白髪の青年が浮かんだ。
「そいつが何を持ち込んだっていうんだよ。」
「鴉だよ。」
「…鴉?」
「そう、白鴉さ。」
味噌汁と一緒に掻きこんだ米と、欲張るように放りこんだ芋を噛み締めながら弥代は箸を持つ左手を回す。
「白鴉ってのがどんなもんか知らねぇけど、何?有名なの?」
「ここよりも北に位置するとある国に纏わる言い伝えのね、水虎様のような存在と考えてもらって構わないよ。」
下野国の地に古くから伝わる伝承の中に、鴉天狗という妖怪が存在する。
鴉天狗とは天狗よりもより自然界に近しい存在、強力な神通力を操ることが出来る一族として知られていた。下野国はその土地柄も含め、一年の多くを雷や雹によって苦しめられており、かつては農作物がまともに育たない時代もあったのだという。
「ある農夫の願いを聞き入れたそれは天狗に姿を化けた雷神様だったというのが、有名な話だよ。」
「雷神様ねぇ…、で、それがそのさっきの鴉とどう関係があるわけ?」
「三十年以上昔の事だよ。私がまだ若い頃にね、里に訪れた商人がこんな話をしていたんだよ。なんでもここから北の御国の鴉天狗の一族に白が産まれ落ちてしまったね。その白がいけなかったんだよ。」
ここからは憶測であると、扇堂杷勿は述べた。
殆ど弥代と一対一で話をしているようにも思える空間だが、小上がりの脇には左右に身なりの整った者達がいる。その中には弥代の同席を求めた扇堂美琴の姿もあった。
「アンタ自身もそうだろう“色持ち”の話さ。妖怪の中でもより強力な力を持つものは生まれながらにして“色”を持つ。でもね、土地によって異なる“色”というものは、しかしその土地と対極に位置する“色”が産まれると、それは災いの象徴とされるんだよ。」
榊扇の里は島国の東・相模国に位置し、この地であれば青、もしくは緑などだと続ける。
「稀に雪那やあたしら扇堂家のように“混色”である紫色を授かる者もいるね。」
「“混色”?」
弥代は徐に疑問を漏らす。
「話の腰折りたいわけじゃねぇんだけど、その“混色”ってあれじゃねぇのか?俺や雪那みてぇに髪と目の色が違うことを言うんじゃねぇのかよ?」
「おや、知らなかったのかい?いや、知らなくても当然かね。“混色”以外に良い言葉がなくてね、一般的に知られている“混色”はアンタが言う通りかもしれないけど、その土地に限らず、近しい色が混ざこともまた、“混色”とされているんだよ。」
「それは、…えっと?」
「東の青、南の赤。混ざり合って産まれる色が紫と。その“色”はね、中でもとびきり珍しい“色”なんだよ。」
そうして語られるのはあくまでも大主の言葉だ。
集められた情報を元に築かれた今回のあらましだ。
藤原の遣いの手によって里に持ち込まれた、かの地に生まれし災いの象徴の白鴉。
同族が白鴉を奪え返しにこの里に訪れたのが二日前の日中、弥代が昼間に目にした雷の正体はそれだと思われる。
里のどこかに隠された白鴉を探す為、里を治める屋敷に迫ったのではないかと。
では何故、夜半突如としてあれほどの雷が里を襲ったのか。
「それがね、何とも舐め切った話なんだよ。聞いて驚くだろうね。畏れ多くもその雷神様の雷でね、あの晩誰一人死んでいないんだよ。」
「は?」
それは、驚かない方がおかしいだろう。事前にある程度話を聞かされていたのか、控える誰も驚いた様子を示さず、自分だけ素っ頓狂な声を上げるのに弥代は気付かない。
「誰一人、死んでない?嘘だろ?」
何も誰かが死ぬことを望んでいたわけではないが、どうしてそんな事が起きようというのか。
「ありえないと思うだろ?でもね、ありえたんだよ。何故夜半に起きたかっていう答えなんだろうけどね、あろうことかその神様は、人は殺さない主義らしいよ。」
「あれだけの事をしておいて!?」
「あれだけの事をしておいてさ。まぁ、被害がなかったわけじゃないよ。そこに人がいない事を分かった上で落としたんだろうね。恐らくは。」
「でも、だってそれなら!雪那とあいつに落ちかけたのは!?それも二度も!」
「神って言ったって万能じゃないよ。間違えることもあるんだろうよ。少なくとも昔聞いた話じゃ、雷神様は人間を無暗に殺すことはないらしいよ。丸一日かけて里の安否を行った結果から考えれば、それが及第点といったところだろうよ。所詮神のすることだ。アタシら人間には到底理解の及ばない考えがおありなのだろうよ。」
「んな話納得いくかよ!!」
当に空になった椀が転がる。
「なんでアンタがムキになるんだい?」
「なんでって…!」
「多少の怪我人は出た。でも死者が出なかったんだい。良かったじゃないか。」
「本気で言ってんのか…?」
「本気だよ。冗談でこんな事言える立場じゃないんだよあたしゃ。」
視界の端で転がっていった椀と膳を片付ける下女の姿が見える。
「神の気まぐれで生きながらえた、それだけの話さ。」
「気まぐれって、そんなもんで生かされて、なんでそんな…」
「生きてりゃなんぼなんだよ。」
「この里だって、水虎様の温情で守られている。それだけの事なんだよ。」
屋敷自体にもいくらかの落雷の痕跡があったそうだ。しかしそれも大主の言葉を借りるのなら生きてられたのだから他などかすり傷程度とでも言うか。
痛くも痒くもありゃしない。なぜなら死んだらそこまでで、死ななければそれを直す術などいくらでもあるからだ。
弥代は、どこか納得が出来なかった。
「話を戻そうかい。恐らくはあの晩、雷神様は見つけたのだろうよ白鴉を。そして目的を果たした雷神様は、この里を去った。めでたしめでたし。人間の都合によってでっち上げられた筋書きさ。」
「でもね、覚えておくんだよ弥代。そうでもしないとね、私たち人間は生きていくことすら難しくなることだってある。事実をそのまま受け止めて生きる事が、出来ない事だってあるんだよ。」
何故、そんな事をいきなり自分は言われなければいけないのか。
弥代はやはり、それが理解出来なかった。
「こんにちは、弥代ちゃん。」
「よぉ、昨日ぶり。」
弥代は、どれぐらいぶりに会ったと雪那に対して口にする癖があった。
雪那の前で他の人物に会った際には、そんな事を言う事はなかったので、自分に対してだけの癖なのかもしれないと考えていた。
「先日は、本当にありがとうございました。わざわざ私なんかの為に。」
「私なんかの為にじゃねぇよ。友達なんだ。助けにくるさ。」
そういうものなのだろうかと、雪那は考える。
「そういや返す機会なかったつーか余裕もなかったんだけどな。ほら、氷室さんから預かってた風呂敷持ってきたぞ。」
「ありがとうございます。これでまた持っていく際に使えます。」
「おいおい、またあんなデケェの寄越すつもりかよ。食い切るのも大変だったぜ。」
「でも食べてくださったんですよね。」
「そりゃ残しちゃ悪いからな。」
他愛もない話を続ける。
東の離れは、直接の落雷は免れたようで、問題なくこれまで通りの生活を送ることが雪那は出来ていた。
下女の戸鞠という女性が二人が縁側に腰かけて話す傍らで忙しなく離れの清掃を行っている。
(友達とは、なんでしょうか。)
どこか一方的に。それは初めの事から薄々と感じていたことだ。
きっとそれを享受してしまえば何も考えなくて楽なのだろうが、雪那にはそれが出来なかった。
(友達とは、なんでしょうか。)
新しい下女の戸鞠には年の近い、同じ“色持ち”での友達がいるという。
気心を許し、お互いに何かあれば支え合う。一緒にいたいと思える存在。それは恋慕とは違う、もっと柔らかくて、近しい存在。
(友達とは、なんでしょうか。)
弥代は先日、自分の命を危険に晒す事を顧みずに、雪那を守ろうと動いた。
それに対して、自分は何が出来ただろうか。考える間もなく答えは出る。何もできなかった。何か出来るわけもなかった。
だからこそ、余計に考えてしまう。
(友達とは、)
(私に、何が出来るというのでしょうか。)
「どないしよ…」
最期に食べ物を口にしたのは果たしていつだろうか。
里の人間から逃げるように、はるか昔の記憶を伝手に和馬が辿りついたのは、里の北東部に位置する比々多神社の境内だった。
あの日、宿で目を覚ました和馬はそれから暫くして里の中で会うわけがないと思っていた秋滿と再会を果たした。
ほんの数日振りの顔合わせだというのに、ずっと長い間顔を合わせていなかったような感覚に襲われ、年甲斐もなく、いやそれまで味わった無力感からか、泣きわめいてしまった。
人目など気にすることもなく、その足に縋りつき、全てを吐露することしかできなかった。
本当はもっと前からこうしたかったのかもしれない。
初めはどこか優しく、子どもにするそれのように頭を撫でてくれていた秋滿だったが、次第に顔色を強張らせていた。
一頻り話を終えた後、これからどうするかと問うた和馬に、しかし秋滿が告げた言葉は冷淡に。
『貴方は、もう帰ってきてはなりません。』
「要らんと、何が違うねん…。」
武蔵国へ帰ると、そう言った秋滿は和馬が言葉の意味を理解する暇を与えることもないままそのまま立ち去った。
遅れてその背を追ったが、昨晩の雷を受け互いの安否を確認するためにごった返していた里では直ぐにその姿を見失ってしまう。
五鈴と本来待ち合わせを約束していた、迎えにきてもらう場所へ足を運んでもそこには誰もいなかった。
無一文とまではいかない。多少のゆとりはあったが、そんな状況で食欲が湧くわけもなく、夕暮れにはどこで情報が回ったのか扇堂家の遣いに捉われ、根掘り葉掘りとまではいかないが自分の知っている事を吐かされた。何かしら罰を与えられるものと思っていたが、まさか身の内に流れる僅かばかりの扇堂の血によって事なきを得るとは考えてもいなかった。
(いっその事、罰せられた方が楽だった。)
口をついて出てくる言葉はまだ慣れない。
この“色”をこの身に宿してから三年以上の月日が経とうというのに、未だに耳に馴染まない。
『お可哀そう。自らの意志で他を取り入れてしまわれたのですね。元の性質にあまりにも適していません。』
見ず知らずのあの白い少女がそう称した通り、自分は何もかもがそれとは相容れなかった。
意志に反して口から飛び出る言葉は、馴染みのない様々な抑揚が混ざり、西の地で稀に見られるという黄色を宿した上に、東の地ではまるで彼女のように相反する対極の白を獲得してしまった。まるで呪いだ。分かっている。分かっているんだ。
でもそれもかれも、なにもかも全て自分が望んで受け入れたものなんだ。
『和馬くん、どうして…?』
どうして。
そんなの、そんなの…
「よぉ、和馬。」
「婆さんから聞いたぜ。お前が持ち込んだもんで里に被害が出たってな。」
「…」
「何とか言えよ。だんまりで済ませる気ねぇからな俺。」
予想外の人物に和馬は目を見張った。
いや、でもきっと予期はしていた。
「文句でも言いに来たん?」
「文句だ?んなお前に言って解決するもんでもねぇだろ。言うだけ俺が疲れるわ。」
何様のつもりだろう。
なら、なんでわざわざこんな場所にやってきたのだろう。
「もしかして、この前弁当摘まんだ事根に持ってるん?あんな些細な。」
「んなもんいつまでも抱えるわけねぇだろ。餓鬼じゃねぇんだぞ。」
どうしようもない話題だ。
本題を切り出すきっかけが、勇気がお互いにないような、無意味な会話を重ねる。
重ねる。重ねる。
「春原の野郎がよ、俺の真後ろにくっついてんの全く気付けなくてよ。」
「千方君なぁ、昔から存在感薄かったから。」
「そういや聞いてなかったけど、お前春原とどんな関係なわけ?」
「義兄弟言うかな。十やそこらの時に養子として引き取られてきたのが千方君や。で、こっちのお屋敷に預けられて数年過ごしてたなぁ。」
「え?じゃぁ雪那とあいつって面識あるわけ?」
「二人とも忘れとんのかなぁ。ワイら三人幼馴染やで。」
「一言もそんな事聞いてねぇな!マジかよ!?」
気付いた時には、自分から彼女の名前を口にしていた。
意図してか、意図せずか。彼女の名前が出た事で、弥代は少し黙り込んだ後、立ち上がった。
「俺は、お前の事責められる程えらい立場の人間じゃねぇよ。」
そんな言葉を投げかけられて、和馬は気付くだろう。
もしかしたら自分を探しに来るのは弥代かもしれないと予期していたが、それが何の為か。それは弥代と出会うきっかけとなった、例えばそう、
「俺はただ、あいつがそう望んだから。」
この夕暮れ時に風に靡くその藤色の髪が、何とも美しい。
「和馬さん。」
それまで腰かけていた本殿脇の岩場から腰を持ち上げる。
重たい。ただ立ち上がるだけでこんなにも重たいのだ。きっと逃げることは出来ない。
「久しぶり、雪那ちゃん。」
数日前にも顔を合わせている。
しかし自然と口をついて出てきた言葉は、まるでその再会事態を白紙に戻すかのように。
「君に」
言ってしまえばもう戻れない可能性だってあるかもしれない。でもどこか疲れきったように、和馬は口を開く。
「君に、話したかった事があるんだ。」
それはきっと、あの頃の続き。




