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紫音は朝から機嫌がよかった。目覚ましが鳴る前に目が覚め、カーテンを開けると眩しい光が降り注ぐ。
快晴だと直感しシャワーを浴びてさっぱりした後、いつもの洗濯に加えシーツも洗って干した。今晩、お日様の光に包まれ眠りにつくことを想像すると顔がにやける。
ささやかな幸せを噛みしめ、ここで一息ついて時計を見るとまだ八時半過ぎだった。一限は九時から始まるが、今日の講義は二限からとっているので時間的にもだいぶ余裕がある。
この際早めに大学に行き、二限が始まるまでカフェテリアでコーヒーでも飲みながら買っていた文庫を読んでしまおうと思いつく。
まだ最初の方しか読んでおらず、まとまって読む機会を探していたのでちょうどいい。決めたら後の紫音の行動は早かった。
さっさと支度を整え、玄関に向かう。今一度、鏡の中の自分を見て微笑み、紫音はドアを開けた。
化粧もばっちり。短くなった髪は洗うのも乾かすのもだいぶ楽になった。
うん、今の自分も悪くない。
「おはよう」
清々しい気分で部屋の外に出たのに、その途端耳に入ってきた声で紫音の気分は急降下した。明るかった顔がどっと暗くなる。
あからさますぎる紫音の態度に声をかけた本人は眉をひそめた。
「なんだ、その顔は。外はいい天気だっていうのに」
欝々とした気分がからっと晴れるような空なのに、それを跳ね除けてしまう人物に会ったのだからしょうがない。本人もわかって言っているに違いないので余計たちが悪いのだ。
「……いい天気の中、なんで朝からあなたの顔を見ないといけないの」
恨みがましく紫音が唱えると凰理は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「嬉しいか?」
「誰が!」
反射的に返して紫音は我に返る。相手のペースに乗せられてはだめだ。
そもそもどうして玄関を出てすぐのところで凰理に会うのか。それは……。
「隣人にはもう少し愛想よくしておいたらどうだ?」
なにげなく紫音の頭に手が置かれ、彼女の眉間の皺はさらに深くなった。
実はこの四月から空いていた紫音の隣の部屋に引っ越してきていたのが凰理だった。
それを知ったのが、凰理が紫音と四宮の間に割って入り、最終的に彼女を家まで送り届けた日の夜のこと。
『部屋まで送ってくれなくても平気だから』
酒だって飲んでいない。しかし凰理は紫音に付き添い、マンションの中まで入ってきた。さらにはエレベーターの中まで乗り込んでくるので、あまりに遠慮がない凰理にさすがにムッとする。
『女性の部屋の前までついてくるなんて、むしろ失礼じゃない?』
『自分の家に帰るついでだ』
意味がわからない。マンションの中まで入ってきている時点でついでとは呼ばないのではないか。そう言ってやろうとしたとき紫音の部屋の前までたどり着く。
『私の家、ここだから』
ぶっきらぼうに言い捨て、もう帰るよう凰理に目で訴える。紫音の視線の意を汲んだ凰理はふっと微笑み彼女の頭に手を置いた。
『じゃぁな』
なにか言うべきなのかと一瞬迷ったが、紫音はそのまま通り過ぎていく凰理を無言で見つめる。そして――。
『ちょっと待って』
『なんだ?』
紫音の硬い声に凰理はなんでもないかのように答えた。そのとき彼の手はドアノブにかかっていて、ちょうど紫音と並ぶ形になる。
『人の家の隣でなにをしてるの?』
『なにって、自分の家に帰ってなにが悪い?』
『はぁ?』
凰理が向かったのは来た方向とは真逆で、彼は紫音のすぐ隣の部屋の前で立ち止まった。そしてなんの躊躇いもなく鍵を開けたのだから二度見せずにはいられない。
『利都から聞いていないのか?』
聞いていたらこんな状況には、なっていない。凰理は大学に就職が決まったことを利都に告げると、このマンションを紹介されたのだと説明した。つまりは紫音と同じ状況である。
とはいえ、どうしてよりによって隣の部屋になるのか。
『……え、なに? 人の寝首を掻くつもり?』
『お望みなら、そうしてやろうか』
顔を引きつらせ尋ねる紫音に凰理は軽く返してきた。
思えば大学で倒れたとき、凰理は紫音に住所を尋ねもせずこのマンションに送ってきた。あらかじめ利都に紫音のことも聞いていたのなら合点がいく。




