序章
随筆的ファントム。
もしも誰かが心の底から僕を愛してくれるなら、そいつが幽霊でも構わないと思っていた。
大学浪人していた頃、親には地元の東京の大学に進学するように希望されていたが、志望校の受験に落ちて鹿児島の大学に島流しにされた。春が終わる頃に、栄養失調で通学できなくなり、大学を休学していた。心配したゼミの教授が当分の食料と住居を手配してくれた。
19歳の僕は青春特有の技学への熱中や挫折、昂揚や名残惜しさ、異性との苦い過ち...そういった健全なティーンエイジャーらしい通過儀礼を全く経験することなく、浮かんでは揮発する願望と自分の無力さの間をループするだけの、ここ12年ほどずっとそんな調子で流れてきた夏が過去12回例外なくそうだったように時間をかけて腐っていくのを待つのみであった。もはや僕には家族以外の人間といかなる関わりもなく、携帯のメッセージ欄に入ってくるのは広告と母親からのメールだけだ。開け放たれた窓からは海と山が近接する田舎町の湿った風が入ってきて、竹笹の葉がサラサラと鳴っている。額に手を当てて影を作りながら、誰でもいいから早くこの夏を終わらせてくれと思った。
僕は天井を見ながら、このまま実家に戻ってニートにでもなるか、と思った。東京にいた頃は周りに迷惑ばかりかけていたけれど、地元に帰ったら、食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりして、妹の受験を、ささやかな力ではあるけれど支えよう。毎日僅かに変わる空の色を見ながら、今より少しだけ寂しくない生活を送ろう。もう家族以外の人間と接触しないのだから、何も知らない他人がなんと言おうが構いはしない。
脇腹を下にして背中を丸め、頭から布団を被った。しばらくその姿勢でじっとしていると、突然周囲から光が消えた。おかしいな、停電か?でも向かいの家の照明は点いてるみたいだし...僕はドアポストを見に行って、公共料金の支払い書が数枚放り込まれているのを確認した。電気料金を3ヶ月滞納している。インターホンの電源を切っているので、電気を止めに来たのにも気付かなかったらしい。これはつまり今から電力会社に連絡し、この支払書を持ってコンビニに行かなければならないというアレか...。胃に対する負荷が増していく。僕はあきらめて、間違って洗濯してからずっと台所の隅に放置してある干乾びた札束をポケットに突っ込み、およそ3週間ぶりに外の世界へと出て行くことになった。
外に出た僕を最初に襲ったのは、辺りを包む、息を呑むほどの静寂。近くの建物、電柱、かき氷屋、遠くの山と、吸い込まれそうになる青空...みんな日に照らされた浅い海の底で眠る遺跡みたいだ。ひぐらしの鳴き声は、電子的なアンビエントのように単調で無生物的な波状の層を作っている。目的地のコンビニは、アパートに面した通りを直進して、神社になっている小さな山のような丘を通り過ぎ、交差点を右折してしばらく行ったガソリンスタンドの隣にある。僕が出不精になりがちなのは、このコンビニの遠さが一つの要因だ。スーパーは自転車で40分ほど走った所にあるが、そんな体力はないので殆ど利用しない。
コンビニの前では一目見てそれと分かる不良が屯してスマホを弄っている。中に入ると冷蔵庫の中のような温度と匂い。有線の放送ではアイドルソングをやかましく流している。最近ではアイドルソングでもクラブミュージックのエッセンスを取り入れたものが多い。EDMと女子高生の歌声が作る音の濁流が、ここ鹿児島の離れにある寂れた一角をも制して止むことがない。「ここは島国、私たちは太陽の子供」、まるでどこかの熱帯部族の儀式めいた歌詞を聞き流しながら支払い書をレジに持って行き、会計を済ませる。清算が終わると怠い店員の声に追い出され、熱い風に迎えられた僕は、サバンナに戻っていく。
滝のように流れる汗をなるべく意識しないように思考を消し、下を向いて歩いていたが限界が来た。僕は8月の真ん中で立ち尽くしていた。僕は太陽の子供、僕は太陽の子供...アイドルソングのサビを自己流に繰り返してみるものの効果はなく、そもそもアイドルソングで暑さを忘れようとしている時点で平静さを失っていることに気付く。どちらかというとビートに合わせて血圧が上がってきた気が...僕はここで死ぬんだろうか?短い人生だったな、何の未練もないけど...と早くも今生に見切りをつけようと心が折れかけている折、ふと目を上げるとひぐらしの鳴く声が聞こえ、葉陰の奥に構える神社が僕を見下ろしている。僕は、何か救済の気配に吸い寄せられようにして、参道を登っていった。その先に待ち受ける運命も知らずに...
参道を登り切った頂上は、この町全体を一望できる高みにあった。僕は苔むした石畳の階段に腰掛けて、コンビニの袋からガリガリ君を取り出して齧った。頭上には巨大な杉の木があって、ずっとこんな時間が続けばいいのに、と刹那に思った。
そんな中ふらりふらりと、知らぬ間に眠りの気配が近づいてきて僕を攫っていった。
一体どれほど眠っていたんだろうか。僕はハッとして体を起こすと、何やら丸っこくて固いものに思い切り頭をぶつけた。
「イタッ!」
と小さな女の子の声。女の子の声?
起こした頭を、起き上がり小法師よろしく突き戻されて後頭部の痛みに耐えていると、目の前でうんこ座りして真ん丸な額をさすっている女の子の顔が視界に入ってくる。年頃は小学1,2年あたりだろうか...っていうか誰だこいつ?何で寝てる僕の顔覗きこんでるの?
「うう、クラクラするよぉおお」
「あ、ごめんごめん!大丈夫?」
数秒後には目に涙を溜めているそいつの額をさすっている僕。終いには「痛いの痛いの、飛んでけー!!」なんてやっているのだからこっちが泣きたくなってくる。
「うん、大丈夫、痛くなくなってきた」
「そう?それは良かった。それで、君どこから来たの?お母さんとはぐれちゃったのかな?」
「ううん、お母さんはいない」
「そうなんだ...こんな所に一人で来ちゃ危ないよ?一人で帰れる?」
「うん、帰れる。鮎と一緒だから」
...ちょっと待てよ?今僕のこと名前で呼ばなかったか?
「鮎の方こそおうちに帰らなくていいの?もう晩ごはんの時間だよ?」
やっぱり聞き間違いじゃない。僕の名前を知っている。昔どこかで会ったことがあって、向こうは覚えてるけど僕だけが忘れている?記憶の引き出しを漁ってみるものの、どうしても思い出せない。
辺りを見渡すと空は赤焼に染まり、山の向うから闇色のヴェールが近づいてきている。
「ごめんね、できれば一緒に遊んでいたいんだけど日が暮れる前に帰らなくちゃ。また会えるといいね。バイバイ」
僕は足早に階段を降りていこうとした。すると小さな声が上から呼び止めた。
「私のこと、置いていくの?」
全身に鳥肌が立った。僕は引き返し、彼女の手を握って言った。
「ごめんね。もう置いて行ったりしないよ。途中までだけど一緒に帰ろう」
彼女は片手で涙を拭って何度も頷きながら、僕の手に引かれて一歩一歩階段を降りていった。
一体この少女、何者なのだろうか。さっきからずっと目を合わせないし、そのくせ痛いぐらい力を込めて手を握って離さないし...それに僕の名前を知ってることも気がかりだ。子供って苦手なんだよな...まあこの子の家に着くまでの辛抱だ。そう自分に言い聞かせる事にした。
妙なことは1つ2つと重なるものだ。神社近くの広い交差点で、思わぬ人物に遭遇した。
僕は、口を利かなくなってしまった少女にどう話しかけたものか思案していた。そもそも家がどの方角かわからないのだ。だから、隣に並んだ人影に気付くことが出来なかった。
「...鮎?」
声のする方向を振り向く。するとマリンブルーのシャツにデニムのショートパンツという格好の、僕と同じくらいの年頃の女の子と目が合う。アッシュ髪のショート。この髪型に声、間違いない。
「結衣?」
「えええええええっちょっとちょっと何で鮎がここにいんの?え、こっちの大学に通ってるの?びっくりなんですけど~!!」
取り敢えず落ち着け。あと何でここにいんの?はこっちの台詞だ。結衣は地元の東京に住んでいた頃の幼馴染で、何故今鹿児島にいるのか全くわからない。
「ああ、うん。桜島の近くにある大学に去年から...結衣は?」
「あ、あのね?話したいことはたくさんあるんだけどあたしこれからバイトだから...あ、連絡先!今教えるから」
結衣はバックからメモ帳を取り出し、用紙を一枚引きちぎってアドレスを綺麗な字で走り書きした。僕にそれを突き出すと、
「絶対連絡してね、それじゃ!」
と言ってあっという間に横断歩道の対岸に消えていった。僕は信号が 変わってもしばらく呆然として、同じ場所に立ち竦んでいた。少女がシャツの裾を引っ張ったのでようやく我に返ることが出来た。
今後、生きていれば連載を続けます。よろしくお願い致します。