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1-2


 外傷による生活性健忘だろう。


そう先生は判断を下した。


 それは自分の名前も、家族も、あらゆる全ての過去の記憶を思い出せないという乖離症状の一つであるらしい。多くの場合は強いストレスによって突如生じるようだが、今回は頭を打ったことの衝撃が原因であろうという話だった。


外傷自体は大したことはないので、これ以上入院する必要はなく、明日には家に戻って生活して構わないという。ただし、時間を置いて診察を受けに来るようにとその医師は告げた。


そしてわたしは、その言葉に従い、次の日から病院から『自宅』に戻って生活するようになった。


川谷唯衣。高校三年生。近くの進学校に通う少女。成績優秀で品行方正、物静かで口数が多い方ではないが、彼女を慕う友人も一定数いる。今は大学進学に向けて受験勉強に励んでいる、それが「わたし」らしい。


(やっぱり、ぴんとこないな)


記憶を失う前の「川谷唯衣」について聞いても、やはりただ他人の話を聞かされている気分になるだけ。空しさが募った。


「唯衣、本当に何も思い出さないの?」


「うん、ごめん……。思い出せないや」


 川谷裕子と名乗る女性――わたしの母親だ――が、自分の返答を聞いて眉を寄せる。


ぱさついた髪の中にところどころに白髪が覗いているからか、顔立ちは整っているのに平凡な印象を受ける。


母はそう、と言うとかぶりを振った。


「全く、何もこんな大事な時期にこんなことにならなくたっていいのに」


 そのぼやきには応えず、わたしは無言で自分の手のひらを見下ろした。小さい。小さく弱く、細い手だった。少女らしく頼りない、豆一つない白い手。


……どうして、何も思い出せないんだろう。


階段で足を滑らせるだなんて。それも、家の近くの公園で? 家の近くにあるなら行き慣れているものじゃないだろうか。そんなところで……。


そこまで考えたところで、母が「まあ」と口を開いた。


「忘れちゃってるのが自分のことだけなら、生活はできるもんね。それだけは本当によかったわよ。怪我が治ったら学校にも塾にも行けるし」


「そう、だね」


「とりあえず、今日は何もしないで寝てなさいよ。なんにせよ、怪我は早く治さなきゃ。受験生なんだし、ずっとそのままだったら勉強時間も減っちゃうしね」


「わかった……」


 わたしが再び首を縦に振るのを確認すると、母親は立ち上がって部屋を後にする。立ち去る背中から視線を外して、目を閉じた。


(学校……かあ)


 高校に通っていた。成績優秀で、品行方正な優等生。友達も多い。


それが「わたし」なら、学校に行けば、何かを思い出せるだろうか。


(でも……)


 どうしてなのだろうか。――行きたくない、と、心の奥が叫んでいるような気がするのは。




  *




「はあ? 記憶喪失?」


「あ、うん。そうみたいで」


教室内に響いた素っ頓狂な声に、わたしは少し身を竦める。


まじかそんなんほんとにあんの。心配よりも興奮が勝っているらしい『川谷唯衣』のクラスメイトの女子は、そういった内容のことを口々に叫び、そして興味深そうにこちらの顔を覗き込んでくる。


「ってことは、俺のこともわかんないの?」


「えーっと、うん。ごめん」


 やや困惑したような感情を顔に滲ませたのは、わたし――川谷唯衣の幼なじみであると名乗った、目の前の八上響也という男子生徒だった。


地毛か地毛ではないのかわからない焦茶色の髪を、襟足だけ少し伸ばしている派手な見た目で、まさしくクラスの中心人物と言った様子だ。住所もすぐ近くであり、ほんの数年前までは気軽に家を行き来していたという。


(あんまり「わたし」と付き合いのあるタイプっぽくないけど、違和感もないし……)


 幼なじみであるという彼の話は真実なのかしれない。


「ふーん、ま、覚えてないもんはしゃーないか」


「しゃーないって、きょーやん他人事すぎなーい? あー、もしかしてゆいゆいに忘れられて拗ねてんの?」


「実はな……それもあったりする」


「それしかないだろ! 何が実はな……だよ謎だわ」


「てか何そのムダなキメ顔」


近くの席に座っていた女子生徒につつかれながら、八上は笑う。


 怪我そのものは結局大したことはないから、と母に送り出されて登校してみたけれど、やっぱり居心地が悪い。


「つーか川谷、自分の名前も忘れたとかマ? さすがに信じらんねーんだけど」


「受験とか平気なん? 川谷さん受験組でしょ?」


「ま、とにかく何かあったら言えよ、唯衣。何か思い出しそうになったりした時とか、言ってくれれば手伝うから」


「ありがとう、えーと……八上君」


 気安く叩かれた右肩をさりげなくはたきながら言うと、八上は「やめろって」と右手を顔の前で振ってみせた。


「幼なじみからかしこまられると違和感ありまくりだし。フツーに響也でいいから」


「あー……うん。わかった、響也ね」


 声に出してみて、口になじみがあった。


 そうか、「わたし」も、彼を「響也」と呼んでいたんだ。……途端、居場所がほんの僅か戻ってきたようで安堵する。


「それにしても唯衣、ぶつけたところは大丈夫なわけ? 記憶喪失っていきなり言われたから、びっくりしすぎて、そっちのこと聞くの忘れてた」


「ああうん、傷そのものは大したことなかったみたいで。記憶を失ったのはショックか何かだろうって」


「それにしても、唯衣って階段から落ちたんでしょ? 落ち方悪くなくてよかったよね。いや、頭打ってる時点で落ち方悪いのか?」



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