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――殺してやる。
「ッッ」
目を見開いて。
瞬間、視界に飛び込んできたのは白い光だった。
思わずその眩しさに目を細めるが、少し遅れてから、その光は部屋の天井に備え付けられた照明のそれだったということに気が付いた。
次いで視界に入った白い天井には見覚えがなかったが、鼻につく臭いは消毒液のそれだ。どうやらここは病院であり、自分は病室のベッドに寝かされているらしい。ベッドの横のクリーム色のカーテンは閉められていて周りは見えないが、僅かに声が聞こえることを考えると個室ではないようだった。
「夢……?」
目を覚ますその瞬間まで、何か――夢を見ていたような気がする。詳しい内容は思い出せないが、リアリティのある夢だった、ような。
殺してやる。
確かに夢の中で、誰かに言われた――はずだが。よく、思い出せない。
「うっ」
上体を起こそうとしたところで、後頭部に鈍い痛みが走った。
顔を歪め、再び枕に頭を落とす。手を持ち上げて軽く頭に触れると、そこには包帯が巻かれていることが感触でわかった。怪我をしたのは頭らしい。
「頭……」
そこまで考え、思わず息を呑んだ。
後頭部に怪我を負い、病院に担ぎ込まれた。自分の置かれた状況を鑑みるに、それは間違いないようだ。
しかし、覚えていなかった。どうして自分がここにいるのか。どうして頭に怪我を負ったのか。その経緯。理由。何も思い出せない。
意識はしっかりしている。見ているものも歪んではいない、思考は正常、のはずだ。ではどうして?
「あ、よかった。川谷さん、目が覚めたんですね」
不意に、病室を仕切っていたカーテンが開いた。
姿を現したのは若い女性の看護師だった。おはようございます、とにこやかに告げた看護師が、こちらの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? 私の声、聞こえていますか?」
呆然としたまま、しかしそれでもなんとか頷いてみせると、看護師はそうですか、とまた朗らかに笑う。
「意識もしっかりしているみたいですね。では、すぐに先生を呼んできます。まだ目覚めたばかりなんですから、川谷さん、無理に身体を動かしたり、頭を動かしたりしないでくださいね」
それにも首肯を返すと、看護師は満足そうな表情で病室を出ていく。その背中をぼんやりと見送ったのち、再び白い天井に視線を向ける。
どうして何も覚えていないんだろう。
入院するような怪我を負いながら何も思い出せない、なんてことが果たしてあるのだろうか。事故か、はたまた誰かに頭を殴られたのか。それすらもわからない。
何も――覚えていない。
「川谷さん」
今度は男性の声だった。
天井から視線を横にずらすと、白衣を着た眼鏡の男性がいつの間にか、先程の看護師を伴ってベッドの側まで来ていた。担当医のひとだろうか。
幾度か瞬きをすると、彼は人好きのする笑みでもう一度「川谷さん」と言った。
「初めまして。僕が君の担当の中川です。とりあえず目が覚めてよかったよ。そこまで酷い怪我というわけではなかったんだけど、なかなか目を覚まさなかったから。意識もはっきりしているようだしね」
「は、はあ……中川、先生」
「君は二日前の夜、ご自宅近くの公園の階段から足を滑らせて落ちたんだ。受け身はとったみたいだけど、その時に酷くではなくも頭を、後頭部をぶつけてしまったようでね。それで運ばれてきたんだ。覚えてるかな」
「え……?」
階段から、足を滑らせた。
――だめだ。記憶を探っても、何があったのかまったく覚えていない。
それどころか――。
(家の前の公園、の階段……って、なに?)
異常だった。
普通ならば思い出せるであろうことが思い出せないことに、冷や汗が噴き出る。
「川谷さん? もしかして、覚えてない?」
頷いた。そう、覚えていない。何も思い出せない。
先生がさらに眉をきつく寄せ、「じゃあ」と口を開く。
「自分の名前はわかる?」
首を振った。
わからない。もうここまで来れば理解する。わかるはずがない。先程から呼びかけられている『カワタニ』というのが苗字であろうことには見当がついたけれども、それが自分の苗字であるとはまるで実感が湧かないのだ。
――記憶喪失。
漫画みたいな話だと思った。――該当する漫画を覚えていないのに。
「そうか……特に、事故のショックで前後の記憶だけ飛んでるというわけでもないみたいだ。……君、何か、こう、手鏡のようなものは持ってない?」
「あ、はい。ええと」
ややあって、尋ねられた看護師の女性が差し出したのは二つ折りになったコンパクトサイズのミラーだった。先生はそれをよし、と言って受け取り、それを今度はこちらに渡す。
枕元に置かれたミラーを手にする。ぼんやりと先生を見上げると、彼は表情を緩め、開いてみなさい、と告げてきた。
「君の名前は川谷唯衣。わかるかな、川谷が君の苗字で、唯衣が名前なんだ。川谷さん」
カワタニユイ。
それが、『わたし』の名前。
「しっくりこないかい?」
「いえ……その」
「君はいわゆる記憶喪失になっているみたいだからね、しっくりこないのは無理はない。わかるかな、記憶喪失。日常的なことは覚えてますか?」
頷くと、医者はそうか、と言い、枕元のミラーを指差した。
「それじゃあ、改めて開いてみようか」
言われるがままに閉じられたミラーを開き、そこに自分を映した。そして、息を呑む。
肩よりも長い、艶のある黒い髪。瑞々しく張りのある白い肌。薄く色づいた唇。
見たことのない少女が、自分が手にした鏡に映っていた。
「……」
鏡を見ても、何も思い出せない。
わたしは首を振り、鏡を閉じて、先生にそれを返す。
「だめです。何も思い出せません」
そうかい、と、ほんのわずか眉を下げる先生の顔を見ながら、わたしは、
――殺してやる、と。
そう夢の中で言った「誰か」の声を反芻した。