空の欠けた月
月が欠けている。
窓の向こうに、顔の向こうに、視線の先で、月が欠けている。
つけっぱなしのテレビから砂嵐の音が流れてくる。
真っ暗な部屋で、自分が、いつの間にか居眠りをしていたことに気がついた。
疲れていたのはわかっている。でも布団に潜り込む気持ちにはなれなかった。
月をじっと見つめる。
遠くて近い、その空の天体は、全く動いていないようで、けれども動いている。
月を見たまま、動けない私とは違って、
今も月は、ぐるぐると地球の引力に振り回されている。
月をじっと見つめる。
私の視界から消えても、月はきっとゆっくりと動いていく。
朝が来ても、地球の何処かから、誰かに見える場所で、月は動いていく。
振り回されているのは私も同じ。
けれども私はここで、動けないで、じっと月を見つめている。
部活に疲れ、試験勉強に疲れ、身体の痛みに疲れ、疲れ果てて指の一本も動かない。
世の中のありとあらゆる事に振り回され、思ったように生きる事ができずに、疲れ果てて動けないでいる。
不安と不満と、失敗と失望に、心が何処か欠けてしまっている。
あの月と同じだ。
思い描いた本当の自分が、見えなくなってしまっている。
それでも、あの月は動いている。少しずつ、私の視界を移動していく。
夜風が吹き抜ける。遠くから、木のざわめきが聞こえてくる。
ずっとずっと、遠くの林から。夜の静けさを駆け抜けて、風と一緒に。
聞こえるはずもない、そんな、木のざわめきが
私の耳に、聞こえてくる。音を運んできた風が、駆け抜けていった。
カーテンが揺れて、窓の隙間に、視界の端に、ふと月が覗き込む。
スマホを手に取り、電源を入れて時計を確認する。今日も、いつの間にか深夜となっていた。
終わらない仕事の手を止めて、腕を伸ばす。右腕の肘の辺りが、音を立てる。
ふと思い立って、カーテンを引いて、窓の向こうを眺める。
欠けた月が、近くて遠い、その空の天体が、私の目の向こうにある。
時間は過ぎていく。じっとしていても、ただ時間は過ぎていく。
変わっていない様に思える毎日も、あの月の様に、少しずつ満ち欠けを繰り返し、
動いて、変わって、せわしなく時間は過ぎていく。
時間は有限だと、嫌というほど思い知った。
あの月と違って、自分の欠けてしまった時間は、
満月のように、戻ってきはしない。
幾度、そんな残念な気持ちに落ちいった事だろう。それでも時間は過ぎていく。
世界に、社会に、世の中のありとあらゆる事に振り回され、欠けていきながら、過ぎていく。
何億年も前から、変わらず回り続ける月と違って、
私は、人間は、あっという間に、その一生を消費していく。
大事だったものを何度も諦めて、幸せだった時間は何度も手からこぼれ落ちて、
それでも時間は、無感情に過ぎていく。
疲れて動けなくなっても、それでも朝はやってきて、無理を押して、生きていく。
振り回した身体が悲鳴を上げても、無茶を振られて涙がこぼれても、
感情の発露それ自体に疲れて、希薄になっていっても、怖がることも、怒ることも忘れても、
それでも時間は過ぎていくので、生きていく。
欠けた月は静かに、視界を去っていく。
いつか遠い昔に、同じようなことがあった気がした。
夜風が吹き抜けていく。遠くから、木のざわめきが聞こえてくる。
ずっとずっと、遠くの林から。記憶や時間を駆け抜けて、風と一緒に。
何処かで欠けた、心の破片を運んでくる。
手に取った欠片は元の形に戻ることはない。
そこで崩れて、手のひらから風に乗って、音もなくこぼれ落ちていく。
ライラックの香りを感じた気がして、緩んだ頬に、涙がこぼれた。