愛の形
喫茶店業務も終わり、風呂と夕食を済ませ、何の気なしにテレビをつける。
テレビから流れる番組では絶世の歌唱力が披露されている真っ只中で、手に持ったリモコンを置くにも置けず、ソファに座ることもできず、その様を眺める。
鏡花「旦那様」
「うん?」
彼の右手…その上に置かれたリモコンに手を置き、ジッとこちらを見下ろしてくる。
…旦那様?珍しい呼び方をされたな。
鏡花「実は、気になっている映画があるのですが…いかがでしょうか?」
「…どんなタイトル?」
鏡花「『if√if』です」
「へぇ……。…見てみようか」
鏡花「!承知しました」
言うなり、彼の手の上からリモコンをそっと取ると、彼女はブルーレイの準備を始めた。
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雰囲気を出すため部屋を暗くし、二人並んで座って映画を見る。
異世界・能力・現実・もしも…そんな属性過多な映画だが、主人公と彼に仕えるメイドのヒロインのやり取りに、少し思うところがある。
なんとなく、自分たちに重なる部分があるように思え…チラリと彼女の横顔を見る。
鏡花「っ!」
と、彼女と目が合い…疑問符を浮かべる彼とは裏腹に、鏡花は慌てて目を逸らした。
そして、彼の目線は彼女の顔から下がっていき…美白であり小さい…無造作に置かれた彼女の左手へと向かう。
何も考えず、対して悩みもせず、彼は彼女の手に自分の手を重ねた。
鏡花「…!?」
息を呑む音。真っ赤になった耳。しかし彼はそれらに対して知らん顔をする。
バクバクと早まる心音。彼女は最早映画どころではないが、それでも平静を装って、画面に目を向け続けた。
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…もう知らない。もうどうでもいい。そんな思いが、彼を支配していた。
きっとそう、これは…一度に色々なことがあり過ぎたせい。一度といっても半年もない時間だが、その中で、多くのものを味わい過ぎた。
そして、冷めたのだ。たった一つ、嫌なことが起きただけで。
そして、何も考えたくなくなった。
人間だもの、ずっと走り続けることなんてできやしない。大人になったら尚の事。
だから、なんとなく手を握りたくなった。それだけの理由で手を重ねた。
映画が終わった後、彼は今、何をするでもなくベッドに寝転んでいる。
「思えば、小休止以外でこんな風に虚無るのは、マジで久々かもしれん」
なんて、心の中をそのまま、意味もなく呟いたり。
深夜というには少し早い。部屋の電気を消してみても、なんとなくまだ見える。
やらなければいけないこと、やりたいこと、沢山あるはずだ。
しかし、体が、脳が、言うことを聞かないのだからしょうがない。
鏡花「ご主人様。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ」
と、寝っ転がり、目を瞑りながら返事をすると、鏡花が扉を開けた。
鏡花「…おやすみになるところでしたか?」
「いや…のんびり、ボケーっとしてただけだ。何か用か?」
鏡花「い、いえ…用があったわけではなく…」
「…?」
鏡花「…ただ、その…今、何をしておられるのか……気になって…」
「…そうか」
鏡花「はい…」
雪のような肌の頬が、真っ赤になってしまっている。
彼女が部屋をノックした時、彼の部屋の明かりはついておらず、返事があるとは思っていなかった。そのため、昨日同様夜這いに来たのだが…思いもよらぬ事態になり、表情を隠す心構えもできていなかった。
「…なら、一緒にのんびりするか?」
と、体を横にずらし、ベッドにスペースを作る彼。
想像もしなかった提案に、思考が停止し…そして、彼女はその提案によって、"逆に"冷静さを取り戻したのだった。
鏡花「…では、失礼いたします」
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…二人して、薄暗い部屋の一つのベッドに横になる。目を閉じて、仰向けに寝転がった彼に習い、彼女も同様に瞳を閉じた。
「….…なんというか」
鏡花「はい」
「…疲れたのかもしれない。ここまで、色々なことがあって」
鏡花「…そう、ですね…」
「……ククトゥリアと旅行に行った日、俺達は、かなり親しくなった。…一線を越えるぐらいには」
鏡花「…」
「…次の日、森の中に開けた場所を見つけて、のんびり過ごす中で…"ククトゥリアの曲"ができた。渡しそびれたが。その日の夜…俺はもう一度、今度は一人で、そこを訪れた。…"俺自身の曲"も、そこで作れるような気がしたんだ」
鏡花「…それで、いかがでしたか?」
「作れた。で、試しに歌ってみてたら…それをククトゥリアに見られた」
鏡花「…」
「…褒めちぎられたよ。なんて言われたかは記憶が定かじゃないが…素晴らしい曲だとか、俺にしか作れない曲だとか…」
「……それで、ヤイナは凄いなと思った」
鏡花「ヤイナが…ですか?」
「ああ。…素の自分を曝け出すことができる。…そんなのは、子供の特権で…彼女も子供だけれど、10年後、20年後も、本質は変わらない…そんな気がする。…そう勝手に願ってるだけかもしれないが」
「…こっちの方がいい感じ、っていうのは、そういうことだろう。俺が仕事に身が入らずテキトーだったのは、素と言えば素だからな」
「…素の定義は置いといて、まぁそういうわけで…予期せずククトゥリアに"ありのまま"を見られて、気まずいまま別れたってだけの話だ」
鏡花「…ですが、旦那様にとっては、それだけではない…のですよね」
「…まぁ、そうだな。…なんというか、致命的なズレを感じた」
鏡花「ズレ…」
「……そのズレに、惹かれた部分もあるのかもしれないけどな…」
賞賛されなければ良かったのだろうか。
否定されれば良かったのだろうか。…自分のことなのにわからない。
ただ、嫌だった。
自分が駄作だと思ったものを名作だと言われたような「そんなわけないだろ」という気持ち。
考え方は人それぞれなのだから、否定、ましてや嫌いになるなんて子供のすることだ。それでも…僅かに残った子供心が、彼女を否定したのだ。
いや違う。それもあるが、それは本質じゃない、付属だ。
褒められようが否定されようが、聴かれた時点でもうダメだった。
彼の考えでは、自分の曲を歌うということは自慰行為でしかない。見られた時点で終わりなのだ。拍手されようがドン引かれようが関係ない。受け取られ方で違いが生まれるものじゃない。…おまけで受けるダメージの大きさは違うかもしれないが。
話したことにより再びぐるぐると回る思考。そうしてやはり、考えることをやめた。少なくとも今、答えも、納得できる言い訳も出てこないことは、これまでの試行で知っているから。
会話はそうして中断され、二人の間にはしばらくの間、静寂だけが流れていった。
鏡花「…旦那様は、もしもう一度あの方が会いに来られたら、どう対応なさるおつもりでですか」
寝返りを打ち、こちらに体の向きを変える鏡花。こちらを真っ直ぐに見つめてくる鏡花と横目で目が合うと、彼は再び天井へと視線を戻し、瞼を閉じる。
「…さぁな。突き返すことはしないが…なるようになってみないとわからない」
鏡花「なるように…ですか」
「ああ。初対面の印象はそこまで良くなかったアイツと、気がつくとあれだけ深い仲になっていた。…アイツといると、俺が予想だにしないことばかり起きるから…会ってみないと分からない」
鏡花「……」
私にとっては、貴方こそがそうなのです。
言葉は、彼女の中で溶け…彼の元に届くことはなかった。
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鏡花「…実は、二つ、お伝えしていない事があるのです」
「うん」
鏡花は、文字通り胸元から一通の白い便箋を取り出すと、少し躊躇う様を見せながらも彼に手渡す。
「…ククトゥリアからか」
便箋を開くと、中にはチケットが二枚。場所、日付などが指定されており、ここからもさほど遠くない。裏面などを見ても、特にメッセージが書かれているわけではなかった。
「…届けてくれてありがとう。鏡花」
きっと、たくさん悩んだのだろう。先程の答えを聞き、より躊躇ったことだろう。
鏡花「いいえ。…私の、役目ですから」
伏目で答える鏡花。頭をそっと撫でられ…大人しくそれを受け入れる彼女の心には…波の1つも立っていなかった。
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「…そういえば、もう一つはなんだ?」
鏡花「あの日…私が、忍として覚醒を遂げた日です」
「ああ、覚えてる」
鏡花「…忍の覚醒の事例は少ないですが、共通して言われていることがあります」
鏡花「覚醒の条件。それは…自分がどんな忍であるか、自分の中で揺るぎない形として出来上がる事」
「………鏡花は、どんな形を…決めた?…考えついたんだ?」
鏡花「…考えついたというより…落ちてきた……自然とそこに、ずっと前からあったものに…それの正体に気づいた。或いは『認めた』…という表現が適切かもしれません」
「…それは…聞いても、いいのか?」
鏡花「…はい……貴方様に、聞いて欲しいのです」
上半身を起こした鏡花に合わせ、彼も起きる。と、正座までし始めた鏡花に合わせ、彼もそれに続いた。
鏡花「…『国』でも『家』でも無く、『貴方』の忍として…貴方にとって誰よりも信頼される『モノ』になりたい。…私がいれば安心だと、貴方に思って欲しい。…それが、八田宮鏡花が忍として生きる核です」
真っ直ぐに、淀みなく伝えられた想い。
正体に気づいたのはあの日だが、それを言語化できたのはつい昨日のことだ。
横に並びたいが、対等になりたいのではない。
必要に応じて盾になり、影になれる。そのために常に側にありたい。
あの日助けてくれて、あの日信じてくれて、今日隣にいることを許してくれたこの人の『モノ』になりたい。
それが、彼女の答えだった。
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…自分には、そんな価値なんてない。どうしてそんな風に思ったのか。
国でも家でも無くなったなら、誘惑の必要はもう無いのか?
『モノ』とはどういう意味なのか。
…聞きたいことは山程あった。
けれど、真っ直ぐにただこちらを見つめ、待っている彼女に、それらを尋ねることはできない。
『イエス』か『ノー』か、ここで求められているのはそのどちらかだろう。
「……」
何も言わず、彼は両腕を横に広げる。
と…"そういう事"に疎い彼女も、その意味を理解し…座ったままおずおずと彼に近寄り…潤んだ瞳と紅み掛かった頬と共に、彼と同じように両腕を広げ…距離が零になると、その腕を閉じた。
「…鏡花」
鏡花「はい」
「……嬉しい。とても」
飾りのない、そのままの本心。
顔を見られないように、抱きしめる力を少しだけ強めると…
鏡花「……はいっ」
彼女もまたより一層、溢れんばかりの想いを伝えんと、目一杯抱き締め返すのだった。
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「…でも『モノ』として扱うつもりなんて起きないんだが…』
鏡花「いいえ、『モノ』として、扱っていただきます」
言うなり、彼女は力の入れ方を変え…彼を押し倒した。
鏡花「『モノ』ですから、どのように扱っていただいても構いません。『モノ』ですから、貴方を裏切ることなんてできません。『モノ』ですから、明確に『やめろ』と言われるまで、『貴方のため』を第一に行動いたします。『モノ』ですから、『ヒト』と同じように扱われると、不安を覚えてしまうかもしれません」
それが、彼女という個が選んだ愛の形。
どこまでも『モノ』として扱われたい。
端的に言えば…「気を遣わず、意識することも必要ない、持ち主が素のままでいられる関係」。
その関係が彼女の求める形であり、それが彼女の答えだった。
「…『モノ』は主人を押し倒すのか?」
鏡花「はい。『やめろ』と貴方様がおっしゃられるまで、自分の判断に従います」
「…どんな判断でこうなったんだ……」
鏡花「…『貴方様なら喜んでくださる』と『貴方様なら受け入れてくださる』と『貴方様なら私のような『モノ』にも愛を注いでくださる』と、『けれど貴方様は、私に手を出してはくださらないだろう』と、そういった判断です」
一方的に押し倒された状態。
解かれた彼の両掌に、彼女は自身の両掌を重ねる。
冷たくて心地の良い手。それを解くことはできず…自然と口から息を吐く彼。
1秒にも満たない不慣れな接吻。
この後の流れは詳しくないのだろう、自分を見下ろす、困っている姿が可愛らしい、頬を紅く染めた、雪女のような『モノ』。
一つの信頼の証として…ソレに、身を任せることにしたのだった。
結ばれる…というのとは絶対に別の形。だが、想いは確かに成就した。
手紙は渡してしまった。
彼に直接渡すのではなく、敢えて彼女を経由するように委ねられた手紙。
これで良かったのだと、今はそう信じている。