スイッチ
旅行から戻ってきてから、マスターの様子がおかしい。
聞いても「何でもない」としかおっしゃって貰えず、マスターの忍としてどうすれば良いか分からない。
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これまでと何ら変わらない日常が返ってきた。
食器も磨き終え、椅子で目を瞑っていると…
扉をぶっ飛ばすような勢いで来店したのは、いつものやかましい少女だった。
ヤイナ「こんにちわーー!あっ!マスター!!旅行から帰ってきたの!?お土産は!?」
マスター「やぁ、ヤイナ。お土産は…すまん、買い忘れた」
ヤイナ「ええーーーーっ!!んー…じゃあ、とりあえずヤイナスペシャルで!ハチミツ多めでね!!」
マスター「はいはい」
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ヤイナ「…マスター、旅行、楽しくなかったの??」
マスター「ん?うーん…なんというか…沢山のものを得たけど、得たくないものもあったというか…」
ヤイナ「ふぅん…?…でも、なんか、いい感じだけどね、今日のマスター」
マスター「…良い感じ?」
ヤイナ「うんっ!!なんていうか…自然!!穏やか!!なんかこう、仕事してない!!!って感じ!!!」
マスター「仕事してないって…してるだろ?」
ヤイナ「そーじゃなくって!『喫茶店のマスター』じゃない感じってこと!…プライベートだと、こういう感じなんだぁ…って気がする」
そう言われ、自分を見つめ直す。
確かに…仕事に身が入ってないし、いつもなら仕事中は被る『喫茶店のマスター』としての仮面も、ヤイナ曰く被れていない、ということだろう。
いつもは接客しているということもあり、勤めて平静、(できれば)明るく、という感じにしていたが…。
今日は髪のセットも甘く、目もあまり開けておらず、人相は良くない。
脳の皺が無い。慢性的な頭痛も無い。大事なものを無くした悲しみは、回り回って彼に「どうでもいい」という余裕を与えていた。
ヤイナ「こっちの方が"らしくて"良いかも?」
それだけ言うと再びヤイナスペシャルを飲み始めるヤイナ。
"らしくて"とは…彼の1人の人間としての内面を見せた覚えはさしてないのだが…彼女にはお見通しなのだろうか。
ただでさえ多くない常連が減ってしまうかもしれない上、彼自身も素の自分を出すべきだとは思わないが…。
「…ヤイナパフェも作るか」
ヤイナ「えッ!?良いの!?!?」
キラキラと目を輝かせるヤイナ。
彼はスイッチに掛けた指を離し、
「ああ。たくさん来てくれる礼だ。…俺なんかより、ずっと良いモノができそうだしな」
ヤイナ「イェーイ!!ねぇねぇ、カウンターの中入って良い!?ヤイナが作りたい!!」
バタバタと立ち上がり、こちらの返事も聞かずカウンターの中に入って来るヤイナ。
キラキラした瞳で見上げてくる彼女の頭を、何も気にせず撫でる。
「好きに作ってくれ」
ヤイナ「イエーーイ!!!」
またも駆け出し、遠慮なしに冷蔵庫を開ける少女の姿に、心を救われたのだった。
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ククアからの連絡は、しばらく来なかった。
そしてこちらからも送ることはないまま、月日は過ぎていく。
自分のままで良い。ヤイナのおかげでその決意はできても、ククアと話せるかと言えば別だ。
心の奥に軽率に踏み込まれ、荒らされた。
あの時の冷や汗は、陳腐な言い方をすれば恐怖、恥、絶望感だ。…もう、元の関係には戻れない。その確信が生まれたからだ。許すことはできても、過去は変えられない。それが分かっているから、彼女も連絡をしてこない。
側から見ればただ歌っているところを見られて恥ずかしい、かもしれないが…自分を歌った曲だ。ただの一回、気の迷い的に作った曲。世には出せないその曲を、一番聴かれたくない相手に聴かれ、「お前のことだろう」と看破された上、絶賛された。
素晴らしいものを聴いたと、反射的に絶賛した彼女も、『聴かれたこと』『褒められたこと』が彼にとっては一大事であったのだと、少し遅れて気がついた。
鏡花「…マスター様、私にできることはありますか?」
「…というと?」
閉店時間となり、今日の片付けと明日の準備を進める中、唐突にそんなことを言われて疑問符を浮かべる。
鏡花「…ヤイナのように"気づき"を差し上げることはできないかもしれません。ですが…私にも……いえ、私だからこそ、できることがあるのではないかと思うのです。…ですが、それが思いつかなくて…」
ごめんなさい、とションボリと落ち込む鏡花。悩む主人の力になれず、その上、他の人がすぐさまそれを解決してしまった。…真面目な彼女が気にするのも当然だ。
いくつか、して欲しいことはある。
けれど、そんなことを頼めば、軽蔑されてしまうのは目に見えている。いや、軽蔑はされずとも、彼女の信頼を裏切ることになるだろう。
「…すまない、俺から頼めるようなことはない」
鏡花はその言葉に顔を伏せる。
「けど…そうだな……今日からは、俺の部屋に入って来てもいい。ノックして5秒待って、その間に俺が止めなければ入っていい」
鏡花「…よろしいんですか?」
「ああ。…まぁ、入って来る用事もさしてないだろうし、あまり機会も無いと思うが」
鏡花「いえ…ありがとうございます、旦那様。実は、ずっとお部屋の掃除がしたいと思っていたのです」
「はは…引かれなきゃいいけどな」
鏡花「それから…止めなければ、とのことですが…許可をいただけたら、の方が良いのでは…?」
「ああ、ヘッドホンとかしててノックが聞こえてない可能性もあるからな。勝手に開けていいよ」
鏡花「…かしこまりました」
言い終えると、自分の中のスイッチを切り替えた。
ヤイナはああ言ってくれたが、店としての体裁がある。
掃除や仕込みはベストを尽くしたい。
…そんな風に、自分と話している時はスイッチを入れないでいた彼に気づき…喜びが溢れそうになる想い。
……?何故?普通『悲しい』という気持ちが少しは出てくるのではないか?
いや、少しはあったかもしれないが…喜びに比べれば、ほんとうに些細なものだった。
「気負わない」というのは『信頼』の現れととれるが、「雑になった」ともとれる。
気の置けない仲とか、親しき仲にも礼儀ありといった言葉は…忍の名家で育てられた箱入りな彼女には遠い言葉で…故に、それを今、初めて味わった。
『これ』が答えなのかもしれない。
その感触を確かめるように鏡花は胸元に手をやり目を閉じた。
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…その日の夜。
コンコン、という控えめなノックが響く。
返事は無く、彼女はそっと扉を開けた。
真っ暗な部屋。睡眠用のBGMだろう、部屋の隅のスピーカーから緩やかに流れる鍵盤の音。充満している彼の匂い。
それらを意識した途端、心臓が大きく跳ねた。
寝巻き一枚の彼女はそっと扉を閉め、彼を起こさないように布団の中に侵入する。
…部屋に入っていいと言われただけで、夜這いをしていいとは言われていないのだが。
幸いにも彼が壁側に寄っていたため入り込めたが、それでも1人用のベッドは狭い。
彼と向き合うような態勢だと、どうしても胸を押し付けざるをえない。
穏やかな寝息を立てる彼の横顔を見つめる。
…好き、という感情を、彼女はよく知らない。
どこまでが親愛で、どこからが恋愛なのか。
彼のことは好いている。任務としての結婚にも抵抗はない。むしろ嬉しい。
しかし……これが恋だという確信がない。
あの時…忍としてのステージが上がった時、似た音を聞いた気もするが、恋を知らぬままこの歳になった少女がそれを自覚するには、まだ足りない。
…彼は、自分とは違う人と恋をしていたのだろうか?そして振るか振られるかして、帰ってきたのだろうか?
…その相手があの人。自分とは正反対なあの人。…だけど、外見(主にスタイル)で言えば、日本人と外国人という差はあれど、殆ど変わらない。
けれど中身で言えば…天と地ほども差があるだろう。どちらも名家の生まれで、才があり…という面では似通っているが…どちらも星空に浮かんでいるからと『太陽』と『月』を比べるようなものだろう。
鏡花「…マスター様。…私の、旦那様」
これも誘惑の一環なのだ、と言い訳をして、彼を抱き締める。
ドキドキと…安心と……少しの罪悪感。
目覚めて欲しいような…目を覚まして欲しくないような…そんな感覚。
「んぅ……きょう、か…?」
鏡花「はい、あなたの鏡花ですよ、旦那様」
寝ぼけた顔で尋ねられ、囁くように答えると、彼は再び目を閉じた。
…どうしてか、かなり気が緩んでいるようだ。眠気がピークだからなのか、ヤイナから悟りを得たからなのか…。
体を包む柔らかい感触に、無意識的に彼自身も、彼女を抱き枕のように抱き締め返す。
鏡花「…すきです。愛してます、私の、旦那様」
「ぅ……っ…」
起こさないように慎重に。しかし欲望の赴くままに…その境目の絶妙な力加減で、彼女はずっと、彼を抱き締め続けた。