でぇと
鏡花「でぇと…に、行き、たいのですが…」
言い慣れない言葉。同時に聞き慣れない言葉でもある。
今日はずっと上の空のようだったが、どうやらそのことが頭を占めていたらしい。
閉店時間となった途端にそんなことを言ってきた鏡花に、彼は目を丸くした。
マスター「…何をする予定だ?」
鏡花「ぇ、ぇと……映画なんて如何でしょう?」
マスター「…わかった」
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そうして、定休日を利用して街へと訪れることになった。
仕入れもネットで済ませており、彼が外に出かける用事というのは多くない。
鏡花の方も同じく、自主的に外出して買い物に出かける、といったことは少なかった。
鏡花「…では、行きましょうか」
「ああ」
彼女の服装は、白い縦セーターに黒いコルセットスカート。髪はポニーテールに結ってある。
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2人して同じ家から、映画館まで歩いていく。
彼女の抜群の容姿ならば目立つだろうと思ったが、思いの外そんなこともなく、特に視線も感じなかった。
鏡花「忍ですから。気配を消すのはお手の物です」
「へぇ…凄いな」
なんとなく、彼女が彼女であることの理由を知ることができた気がする。
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『誰かの理想になれたなら…それだけで…』
『いや!行かないで!!』
映画はクライマックス。大切な人を守り抜き、自分の信念も守り抜き、主人公が命を落とすシーンだ。
チラリと横を見る。が…彼女は特に心を揺さぶられた様子もない。
手でも繋ぐべきなのだろうか?
そうも思ったが、別段いい雰囲気というわけでもない。
特に何事もなく、映画を見終えた。
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「…面白かったか?」
鏡花「そうですね…ヒロインの歪みと主人公の歪みが相対するシーンは良かったです」
「そうか。…どうする?この後」
鏡花「昼食は…近くに寿司屋があるので、そちらでいかがでしょう?」
「ああ」
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「帰ろうか」
鏡花「はい」
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気がつくと、帰路に着いていた。
……………いや、ちょっと待て。
あまりにも何も無さすぎる。
お互いにこの手の経験があるわけでもなし。
そして、お互いに好き好きオーラが出ているわけでもない。
これではただの散歩だ。
そして…鏡花も同じことを思ったのか、先程からこちらに気づかれないように顔色を伺っている。
鏡花「…でぇと、というのは…難しいですね」
「そうだな…。…まぁ、俺たちの関係は…結構複雑だしな」
複雑。そうとしか言いようがない。
共通の趣味がある友達でも、ただの雇用関係でも、ましてや相思相愛の恋愛関係というわけでもない。
だから…お互いの距離感がわからない。
…彼女には、この手の経験が一切ない。
箱入り娘。いや、箱入りくノ一というべきか。
だから…不安にもなる。
色々なものを失ってきた。そんな中で自分を認めてくれた、唯一の存在。同時に、任務のターゲットでもある。
そんな彼にどう接すればいいのか、彼が自分をどう思っているのか…"どう"思ってくれているのか、分からない。
怖くて…不安で……だから、そっと、手持ち無沙汰に揺れる彼の左手、その袖を、指先で掴んでしまった。
無意識に起こしたその行動に驚き、反射的に手を離す。目を丸くし、彼を見て、彼も驚いた顔をしており、罪悪感が込み上げてくる。
見ていられず目を逸らし俯いた。
「鏡花」
鏡花「…!」
初めて『ちゃんと』名前を呼ばれ、思わず目を見開く彼女。同時に、見た目では冷静を装っているが、内心では緊張で心臓がうるさい彼。彼は、隣を歩く彼女に左手を差し出していた。
「デートなら、これぐらいはしないとな」
鏡花「…はいっ」
白い右手で、左手をそっと握りしめる。
向けられた、ほのかに赤み掛かった笑顔に、不意にドキリとさせられる。
出掛ける前よりもほんの少しだけ、2人の距離が縮まった気がした。