アントワネット始めます
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
その日、どこをどう移動したのかは、まったく覚えていない。
気がついたら寝所で、ベッドの天蓋を見つめていた。
トワネットと呼ばれ続けていたあたしの正式な名前は、
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。
それが西隣のこの国では、
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌとなる。
貴族であることを示すフォンとかドの後ろは、あたしの身分――お母さまのハプスブルグ家と、お父さまのロートリンゲン家両方の血を引いていることを示す、ハプスブルク帝国の皇朝の正式名称になる。
それが様変わりして聞こえるのは、この国の言葉では、単語の最初につくhが発音されないせい。
言語が違うって、そういうことだ。
……でもでもまさか、マリア・アントーニアがマリー=アントワネットだとは思わなかったんだよう!
公用語はもともと複数あるものなので、あたしは音楽の勉強に必要なイタリエニッシュと、超公用語的な位置づけのラタインは一生懸命やっていたけれど、フランファリッヒウォルトは後回しにしていたし、その中でも読み書きより話したり聞いたりする方が苦手だった。
確かに、前世でも外国語は嫌いだった影響はあると思う。遊び好きで勉強嫌いだったツケが回っただけと言われちゃ、それもそうなんだろう。
でもでもフランファリッヒウォルトと、ウスタイヒフォルトって、系統が違うから覚えにくいんだよね。似ていても混乱するんだけど。
それに、またお父さまが上手に息抜きに誘ってくださってたし。
頭から煙噴きそうになってると、お父さまがマジ神に見えたね、あれは。
……フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン――お父さまは、皇帝だったんだよね。
神聖というほど教会に近しいわけでもなく、ローマも領地になく、すでに国内は四分五裂して帝国の亡骸となったとすら揶揄される神聖ローマ帝国。
その国内において、皇帝としてお父さまほど軽んじられていた人はいないだろう。
神聖でもローマにゆかりがあるわけでも、皇帝ですらないと陰口――いや、おおっぴらに軽視され、陛下という皇帝に対する尊称すら与えられなかったのは、皇位を得るために領地であるロートリンゲンを、フランスへ引き渡さざるをえなかった、領地なしの皇帝だからってだけじゃない。
もともと皇位がお母さまのものだったからだ。
お母さまの名前は、マリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ。
マリア・テレジアといえば、前世のあたしでさえ『女帝』という二つ名を知ってたくらい有名だ。だけどあたしの中で、お母さまとあの歴史上のマリア・テレジアはこれまで重ならなかった。
お母さまはお母さまという存在であって、名前で認識するのが遅かったこともある。
名前が長すぎて、似たような名前って世界が違ってもあるのねーとぼけぼけしていたこともあるだろう。
そしてなにより、お母さまは女帝――女性の皇帝ではなかったから。
お母さまはオーストリア皇帝家の名門、ハプスブルグ家の長女だ。
サリカ法典とかいう女王や女系継承を禁じた王位継承法に従って、ハプスブルグ家は皇位については男子継承を続けていたから、当然のことながらお母さまの兄弟が神聖ローマ皇帝になるのが一番揉めずにすんだのだろう。
けれど、リースルお祖母さまの唯一お産みになった男の子は、たしかレオポルトとかいうお名前だったと思うけれども、一歳になるならずで亡くなってしまわれたという。
というか、お母さまのきょうだいはもともと数が少ない上、夭折された方が半数はいるという。もっとも長生きされたというのは、アンナ叔母さまぐらいのものだろう。
って、あたしの生まれる前に亡くなられているけど。
ちなみにアンナ叔母さまも、お母さまに負けず劣らずの熱烈な恋愛結婚だったらしい。
それは置いといてだ。
お祖父さまのご兄弟の血筋も絶えたり生き残っていたのが女性ばっかりになっていたりしたもので、ハプスブルグ家は、いつのまにやらどこを探しても男系の継承者がいないという、びっくりするような女系一族になっていた。
法律変えてでも男子継承やめますか、それとも法律にのっとって王朝断絶、皇帝家やめますかというそんな状況で、時の皇帝だったカールお祖父さまは、お母さまを継承者とせざるをえなかった。
女子継承を禁じるサリカ法典が元来王家の土地相続法であり、王位継承に関する規定がないのだという主張でゴリ押したとかそうでないとか。
だけどそれは半分嘘じゃないかと思うのは、お母さまがハプスブルク家の全世襲領を相続した上、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーの君主にもなったからだ。
当然、お祖父さまの強引なやり方に、不満も問題も出まくった。
七年に及ぶ戦争と外交によって、ようやっとお母さまが皇位継承者だと認められてからも、ごたごたは尾を曳いた。
お母さまを皇位継承者だと認めさせたり、結婚を認めさせたりするために領地を各国に割譲したりしたせいもあって、もともとあってなきがごとしだった神聖ローマ帝国の国力が枯渇しかけてたこと、お母さまがロレーヌ公国のロートリンゲン家ご出身のフランツお父さまと結婚し、トスカーナ大公位だけでなく皇位をお父さまにさしあげたことを認めない国もあったこと。
さて、いったいどれが卵でどれが鶏だったのやら。
だからこそ、諸国との婚姻は結ばれた。
もともと政略結婚はハプスブルグのお家芸だったというが、お姉さまたちがあちこちの国へと嫁いでいったのも、獅子身中の虫ともいうべきバイエルンに対抗すべく、神聖ローマ帝国とは不倶戴天の敵であったフランス王国との婚姻による結びつきを強めるため、あたしが今ここにいることもその一環でしかない。
すべては神聖ローマ帝国――いや、ハプスブルグ皇帝家のためなのだ。
勉強した歴史と前世の記憶をいろいろ付き合わせているうちに、ようやく、あたしは自分があのマリー・アントワネットになったということ、なってしまったということを、深く深く納得していた。せざるをえなかった。
異世界転生もののテンプレだと思い込んでいた今世が、じつは異世界じゃなかったってこともだ。
そして、じわじわと恐怖が湧いてきた。
現世での現在と過去については、よくわかった。そりゃもういやってほど。
だけど、未来はどうなる?
なけなしの前世記憶から勉強の残り滓を煎じて搾り出しても、絶対王政、からのフランス革命でロベスピエール処刑される、ぐらいしか覚えてないし!
マリー・アントワネットについても、わがままで贅沢な王妃、ギロチン、以上ってなもんよ。
だって、世界史なんてもん、入試が終わったら飛ぶでしょ、脳味噌から!
でも、じゃあ、あたしはどうすればいい?
ギロチン、断固拒否。これは確定。
だったら、死刑にならない方法を考えなきゃならない。
それはつまり、未来の歴史を大きく変えることだ。あたしの知らないルートに踏み込むことだ。
たとえば、マリー・アントワネットがギロチンにかけられたのは、フランス王妃になったから。ならばフランス王妃にならなきゃいいって感じで。
じゃあ、この結婚やめますっていう?
無 理 無 理 。
ウィーンを発つ前に、ローマ法王特使、ヴィスコンティ猊下に取り仕切られた代理結婚式はもうすんでる。あの署名はフェルディナント兄さまを花婿代理にして挙式した、アウグスティーナ教会で結婚証明書にしたものだ。
つまり、公式には、あたしはもう、すでに、フランス王国王太子妃マリー・アントワネットになっている。
そして、この結婚には、国の面子と利益がかかってる。しかも神聖ローマ帝国とフランス王国、その両方のだ。
宗教的なことを言えばローマ法王の面子もだよなあ……。
たとえあたしがここでいやだって言い出しても、結婚は滞りなく済みましたってていで、このままフランスに送り出されるのはたぶん間違いがない。
フランスに着いてからとことん拒否ったとしても、マリッジブルーによる一時的な精神不安定とかなんか理屈をつけて、最終的に静養という名の幽閉状態にされそうだ。
それならそのままあたしが衰弱死しちゃっても、ともかく結婚したって名目は維持されるもんなー。
……ハア。
同じ理由で、一度結婚しておいてからの離婚、ってのもだめ。
たしか一度結婚したら片方が死にでもしない限り、いや女性は旦那が死んでも再婚はできなかったはず。結婚後も女性側が純潔でありつづけた、とかいう、よほどの理由でもない限り。
ハプスブルグ家もフランス王家も同じ宗教、同じ宗派なのだが、そこには王家は神の厚い加護のもとにあり、特別な使命を授かっているという不動の信仰がある。
神に誓った婚姻を都合が悪くなったから解消しますってのは許可されないのよ、うちの宗派。
そんなことしたら神の加護を手放しますって宣言するようなもんじゃない?
それがいやで、どっかの国の王様ってば、離婚がしたいために別の宗派だか立ち上げたって話を聞いたことがあるもんなあ。
そもそも、たとえよほどの理由で離婚が認められたとしても、それは女性側に重大な欠陥があった、ってことに、十中八九なるだろう。ふざけんなって思うけど。
この場からこっそり逃げだす?
まずこの警戒網から、どうやって抜け出しゃいいんだろう。
あたしに随従する、というか護送してる人たちがえーと……五百人はいないと思うんだけど、全員の動きなんて、ぜんっぜん把握してない。
運良く脱走が成功したらしたで、おつきの人たち全員が処罰されることは、もう目に見えてる。
国益を損なったってことで、彼らが死罪になってもおかしかない。
それは、ちょっと、やだ。
確かにあたしは死にたくないけど、でもその代わりにこの大勢の人たちが、死んだり、死ぬまで犯罪者扱いされたりしてもいいかっていうと、……何かが間違ってる気がする。
いや、だったらあたしが犠牲になりますって言えるかっていうと、それもどうかと思うんだけどね。
だけど、手持ちのお金もコネもなーんにもない今のあたしが、追っ手を死ぬまでかわせるかっていうとさ。
うん、無理!激しく無理!
なにせようやく着いたーと思ってた、この僧院に、ヨーゼフお兄さまが待ち構えてたくらいなんだもん!
一応皇帝になったんでしょうに。なんでそんなに足が軽いかなあ。
……となると、結婚したってていで、様子見に回るのが、まだましかなあ。
いや、その、直接まだ顔を見たこともない相手と、結婚からのおもに下半身方向のですね、アレとかソレとかコレとかしろっていうのもどうかと思うけども。
でも、逃げるのが無理なら、なんとかそっち方面はだましだまししながら、逃げずに周囲にじわじわ影響を及ぼしていけば、フランス革命阻止……は無理でも、こう、処刑とか極端な結果にならないんじゃないかなあ、なあんて思ったりして。
あたしを生かしておくメリットがデメリットに、言い換えれば殺すメリットより大きくなれば、最悪でも命は助かる。可能性がある。と、思う。思いたい。
てか、それ以外に手が思いつきません。
そのためには、なにを言っても聞いてもらえなければ意味がない。
相手を動かせるだけの発言力を持つ必要があるだろう。
動かすべき一番手近な相手というと、結婚相手のルイくんだ。
なにせ彼は王太子。つまり、フランス王国の未来の王様なんですよ。
国を一つ動かすことはできなくても、王様を動かすことができれば、それは国を動かすかなり大きな力となるはず。
……たしか、ルイくんは亡くなったお父さまやお兄さま、そして今の国王だというお義祖父さまと同じルイという名前だったはず。あたしやお姉さまやお母さまたちが、全員同じマリアという名前なのといっしょだ。
でもこれ、お互いのスペアっぷりを考えるとねー、合理的なのかもしれない。
あたしだって、というかカロ姉さまだって、本当ならルイくんのお兄さまと結婚するはずだったんだし。
……それがどうしてこうなった。
いや、ヨーゼファ姉さまや、ルイくんのお兄さまが亡くなったから、ってのはわかる。
でもそれが運命だというのなら、大っ嫌いだ、運命なんて言葉!
あたしがギロチンにかけられるとこまで、運命だなんて言葉で片付けられてたまるもんか!
あたしは深く深く決心した。
なってしまったからには、やってやろうじゃん。
フランス王国王太子妃マリー・アントワネットを。
ただし、贅沢アウト。ダメ絶対。高慢却下。ダメ絶対。
その一方で、スペアであろうが、スペアのスペアであろうが、国王のお義祖父さまとルイくん、あと有力者って言われる人とは、きっちり友好関係を築いていこうじゃないの。
今、力を持っている人に尻尾振らずに、明日は見えないんだから。
ほんとならば、そのついでに、姑であるルイくんのお母さまとも仲良くしておくべき、だったんだろうけどなー。
彼女の名前はマリー=ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス。
母国語でいうと、マリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセンという。
つまり、マリア・テレジアお母さまの皇位継承問題に、他の国と雁首揃えて介入してきたザクセン選帝侯国の出身の方なんだ。
仲良くなれなさそうな気が欠片も起きない相手だよね。もう亡くなってる方なんで、悪く言う気にもなれないけど。
てかそもそも、神聖ローマ皇帝位の継承問題に首突っ込んできてたのは、フランス王国だってそうですからー。
……しっかし、同じ言語圏なせいもあってのことなのか。
この故お姑さんの名前って、あたしともすごくよく似てるんだよね。
それだけじゃなくって、ヨーゼファ姉さまや、カロリーナ姉さまの名前ともかぶっちゃってるのよこれが。微妙に腹立つ上に、前世の知識的にはなんだか気持ち悪い。
嫁と姑が同じ名前とか、どんな重篤なマザコンかと思っちゃうじゃない。
選択肢のなさを理解してないと、発狂するかも。
……一瞬、ヒステリーからの体調不良を言い立てて、そのまま引きこもり隠遁生活に突入すれば、贅沢回避ってのは達成できるんだろうな、とか思ってしまった。
確かにそれはとても魅力的な考えだったけれども、自主的修道院的生活って、それただの幽閉じゃんとセルフツッコミしたところで正気に返りましたとも。やばかったわー。
だって、それじゃあ、有力者に取り入るなんてできない。それはつまり歴史を覆すことができないということだ。
そして、有力者に取り入ることができるのは、味方にすべきそれなりの価値を見いだしてもらえた人間なんですよ。
権益を求める大商人しかり、パトロンを求める芸術家しかり。
今のあたしはカロお姉さまのスペア、ただ神聖ローマ帝国から嫁いできたマリア・テレジアの娘、ぐらいの価値しかない。
それをアドバンテージにするのはいい。なんにもないより、ちょっとだけはましだと思う。
でも、いつまでたっても、それだけの価値しか認められなければ、単に、フランス国王の世継ぎを産むに足りる子宮の持ち主としか見なされないだろう。それも消費期限つきというね。
だったら、それに負けないような、あたし個人の価値を高めないと。
そのために、いったい何ができるのだろう。
うーんうーんと考え込みながら、あたしは街から街へ、一日の半分近くを馬車にゆられ続ける日々に耐えた。
予備まで最上級の馬車だってのは知ってるけど。知ってるけど……。
あー、ケツいてえ……。