私の役に立たない決意と、その失敗について。
長めのペンダントトップ代わりになっている鍵を、ノートに差し込んで回す。
かちゃりと手ごたえがあってから鍵を抜き、留め具を外し、ノートを開く。
1行目の「先生」の欄に、「アイザック」と書き足した。
私にとってその名前で一番先に頭に浮かぶのは、天才アイザック・ニュートンだ。物理学だけじゃなくて哲学とか天文学とかも詳しかったんだっけ?
偉人伝はあまり読んでこなかったから、知っていることは少ない。万有引力の法則とか、授業で習う範囲のことしか知らないし、あれからもう何回も転生しているせいか、記憶もだいぶぼんやりしている。
だから、ただ天才と言うだけで先生に似合うと思った。
だから先生が不思議そうにしているのを見て、ちょっとおかしくなってしまった。先生を笑ったわけではなくて、この奇想天外摩訶不思議な世界に、アイザック・ニュートンがいるのかどうかわからないのに、ふっとそう言ってしまった自分がおかしかったのだ。
博識な先生が思い当たらないのだから、きっとこの世界にアイザック・ニュートンはいなかったのだろう。
それにしても、所変われば品変わると言うが、この世界では「アイザック」は強そうな名前なのか。もしかしたら、そんな名前の騎士とか英雄とかがいたのかもしれない。
思い出し笑いをしていると、心の奥がくすぐったいような感じがした。
「なつかし……」
これは、そう、好奇心だ。
知りたい。この世界の伝説、物語、歴史、何もかも。
言うなれば、乙前ではいつも復讐する為だけに生きていたようなところがあった。やり直す為だけに生きていたような気がした。
「よし」
とりあえず、先生のことは、今まで通り先生と呼ぼう。名前で呼ばれるのは嫌いみたいだし。多分、ヒロインだったら、そのトラウマを克服させて、きっとすごく大切な名前みたいに呼んで、先生はそれに幸せそうに笑うんだろう。
けれど私にそんな才能はないから、人の嫌がることはしない。これを貫く。癒すのはヒロインに任せる。
……きっと、あの冷たい目で私を見下ろしていた先生は……
「はは……」
落ち込まない落ち込まない。
名前では呼ばずに、それでも明確に線引きをするのだ。あの人はいつか私を嫌う。
関わり合いにならないでおこうとしても、上手くいかなかった。
避けるのがゲームの強制力とかで無理なら、それはもう受け入れるしかない。
おっけー、読んだことあるやつ!
それなら覚悟を決めるしかない。
他の、おそらく攻略対象だろう人たちのことも。
できれば心構えをしたいのだが、先生のことを鑑みるに、外見が同じとは限らない。
先生は、確か乙前の記憶ではブレザーのような、ごく一般的なスーツ姿だったはずだけれど、今世はなぜか、学者のようなローブ姿で現れた。そう、確かあの、私を断罪する時の、先生は、ローブ姿じゃなかったはずだ。それに確か、髪は……短かったのか、それとも後ろで束ねていたのかちょっと思い出せないけれど、あんな風に……今みたいに、長い髪を下ろしてはいなかったはずだ。
結っていない髪は艶々で長くて綺麗で、希望が通って女性の家庭教師がついたと喜んでいたのだけれど……あの優しい両親へのおねだりを以ってしても、抗えないゲームの強制力というのは恐ろしい。
これだと、記憶も当てにならない。髪型も服装も違うかもしれないとなれば、あとは顔立ちで判別するしかないわけだけど……人の顔を覚えるのが苦手なだけに、……難しい。
繰り返した回数だけ見ているはずなのに、顔立ちに絞って思い出そうとすれば、余計遠ざかって焦点が合わなくなったようにぼやけてしまう。
先生の中性的な顔のほかは……ダメだ、表情の方が印象に残っていて、どんな顔立ちかわからない。
冷たく睨んでいるのが先生だ。
あとは……不愉快そうに顔を顰めている人。
露骨に怒っている人。
嗤っている人。
……ダメだ、気持ち悪くなってきた。
今日はここまでにしよう。マイナス思考ダメ絶対。
今日はもう寝て、早いとこ起きて朝の光を浴びてリセットだ。
……なんとか、名前だけでも思い出せないかなぁ……先生みたいに、この人は安全だと思った後に、「そう」だったと知ると、余計辛い……
まぁでも……わかっちゃえば、……切り捨てるのは簡単だ。今までもそうやって生きてきたから。愛想笑い浮かべて、適度な相槌をして、些細なことを褒めて。
……大切だなと、良い人だなと、ありがたいなと思うと、どうしても上手くやれない。言葉が出てこなくなる。優しい人に対しては男女問わずそうなるけれど、その他大勢には接客中と同じ対応ができる。今日も名前訊けたし、もう少しで完全に切り捨てられるはずだ。
多分、好かれたいと、優しくしてくれたお礼がしたいと、変に気負うからおかしな態度になるんだろうなぁ。わかっててもどうにもできないのが悲しい。
決意をしてから今ならばフラグかよと突っ込みたくなるほど間をおかずに、私の「切り捨てる」なんて決意は文字通り和紙どころかコピー用紙にすら敵わないほど脆いと思い知らされた。
あの後は大変だった。
なんの後かというと、先生が、そう、私の淑女教育と芸術方面を除いた、一般教養から普通教育全般を引き受けてくれるアイザック先生が、乙前で私が断罪されるときと全く同じビジュアルで現れた後だ。
一目見た瞬間に、断罪の光景がフラッシュバックして、朝の光をたっぷり浴びることでいつも振り払っていたネガティブ思考が暴走して、全員呪われろとか滅びてしまえとかもう早く殺してくれとか、ありとあらゆる暗黒的な感情が暴発して、すっかり取り乱してしまった。
過呼吸とまではいかなかったが、何か言おうにも声が出ない。
唖然とする先生、取り乱すメイド。
そうこうしているうちに、護衛に連れられてというか持ち上げられて運び出されていく私の目に映ったのは、戸惑いと驚きと、心配そうな表情の先生だった。
先生は、まだあの先生になったわけじゃない。
何回めだったか、流石にもうこの日を迎えればどうにもならないと諦めた私が、ろくな抵抗もせず取り押さえられた日。引っ張られる腕の強さに顔を顰めながら連行されていく私を見る目は、冷たいままだった。
だからきっと違う。まだ、違う。どうして同じ格好をしていたのかはわからないけれど、いや待て、それが普通のはずだ。
もともと人の服装……というかファッション全般に興味がなかった私にとって、誰がどんな服装をしていたかは、ほとんど記憶に残らない。
例えるならあれだ。河原の石を見ても、「河原に石がいっぱいあったな」という印象しかないのと同じだ。鉱物学や環境学に詳しい人間はきっと、どんな種類の石が多かったのか覚えているだろうが、そうでなければいっしょくたに石は石。せいぜい、灰色っぽいとか白っぽいとか、丸かったか尖っていたか、そのくらいの印象しかないだろう。
私のファッションに対する知識はそんなものだ。服装の種類や名称にだって詳しくない。色の名前だって全然だ。流石にお年寄りのように緑を青というまではいかないが、ピンクよりだろうが青よりだろうが紫は紫。そんなレベルの知識しかない。子供の頃は、本の中で見慣れない色の表現が出てくれば、図鑑や辞典で調べたりもしたのだが、ある程度年齢が上がって精神的にちょっとあれになってくると、見慣れない色名があっても、なんとなくこんな色だろうとか、唯一色が付いている表紙や口絵を見返すくらいだった。
何が言いたいかというと、先生の服装について、はっきり覚えているのは断罪の日の服装だけだ。だけどあの日だけ違う服装だった、みたいな印象はない。だから多分、今日着てきたみたいな服を、私が見る機会のあった先生は普段着ていたということだろう。
今世ではなぜか、ローブみたいな服装ばかり見慣れていたけれど、何回転生しても、基本的に先生は今日みたいな服装をしていたはずだ。ならあれが地だと思う。髪型もそうだけど、あまりに乙前と装いが違うから、私は完全に他人だと思って安心していたのだ。
あの言葉を聞いて、先生が「先生」だと気付いた。いずれ嫌われる覚悟だってとうに済ませたつもりだったのに、あの先生の姿を見て、そんな覚悟はなんの役にも立たなかった。そしてあの服装イコール嫌われたと咄嗟に思い込んでしまったのだけれど、去り際の表情を見るに、そういうことでもなさそうだ。
それにしても。
「……まずったな……」
メイドが、もう勉強はスクールに入るまでしなくてもいいんじゃないですかとか言い出す始末だ。
いや私が悪いんだけど。そりゃ先生の顔を一目見てあんな状態になったら、先生と何かあったと思うかもしれない。
いや待てよ? 本当にそうか?
先生とは授業中しか会うことないし、その場にはメイドも護衛もいる。先生が私に何もしていないことは、見ていて知っているはずなのだ。
目の前で急に女の子の様子がおかしくなったりしたら、体調不良を私は伺う。それに先生は医学にも詳しかったような……いやそれはメイドは知らないか。
……とにかく最後があれでいきなり解雇はまずい。今日の無作法を詫びて、とりあえず最初の契約期間を全うしてもらおう。
繰り返すが、「もうどうにでもなれ」スイッチは押させない。不当解雇、ダメ絶対。
「これを先生にお願いします」
「解雇通知は旦那様と執事のサインが必要ですよ?」
「違いますよっ?!」
どちらかというと詫び状だ。
そういうちゃんとした形式があるんだなとホッとしたけど。
日前の漫画や何かみたいに「あんたクビよ」で馘首成立じゃなくて良かった。いやあれは、書かれてないだけで行間ではちゃんと書類記入提出および受理があったのかもしれないけれど。
あの後はなんだかんだで、両親が泡を食って帰宅した。
今日は御前会議なんだ、気が重いなあとか言っていたはずのお父様、あなたが何故ここに?
会議めっちゃ早く終了したんですか?
とか思ったけれど、この家は今の所後継が私一人なので、よくわからないけれど特別の許可があって、体調不良やその他変事があれば、御前会議中だろうがなんだろうが取り次いで良いことになっているらしい。
何それ怖っ!?
……御前会議に割り込む羽目になった伝令の人、御免なさい……。
心配おかけしたお母様とお父様にも、あと御前会議中断させて申し訳ありません……スケジュール無茶苦茶になったかも、あと議題に関わる方々も本当に本当にすみません……
両親には口に出して、その他大勢には心の中でひたすら謝り倒した。
体調管理、万全にしよう。
あと、精神的なショックを受けても、下手に取り乱したりしないようにしなければ。具体的に言うと、攻略対象らしき人々に遭遇しても、笑顔で、挨拶は絶対にするのだ。過呼吸は絶対起こさない。
……いやまぁ、過呼吸については、コントロールできるものでもないんだけど、気構えということで。
今できることといえば、そうだ。体力をつけよう。筋トレ……は、服がダメになるな。
……ああ、嫌なことを思い出した。
服に興味がないのって、思い出せばあれもある種の、日前の両親に対する嫌悪感だよなぁ……。
ブランド物の子供服を着せるのが好きで、まぁそこはいい。問題は、服を汚すとアホほど叱ると言う行動だ。母の頭の中では完全に、服>子供の図式ができている。服がシワにならないように叩くときは服が覆ってない部分を叩く。顔とか手とか頭とか。
別に泥んこ遊びが好きと言う子供でもなければ、そもそもアウトドアには興味がなかった。
受け取った飲み物をこぼすとかで、服を汚すとそれはもう怒られた。すごい剣幕だった。だから余計恐ろしくなって、手が震えて、またこぼし、と言う悪循環。
ファッションに命をかける人たちを否定する気はないし、綺麗に着飾る人を見るのだって嫌いではない。女の子が本気出して着飾ったのをみれば、可愛い可愛いと笑み崩れる時もある。その辺の感情は幸い消えなかった。ただ、自分が着る服に関する興味がごっそり欠落した。ファッションという文化に対する興味も同様だ。
だからこの公爵令嬢という立場で、服を選ばなくて良いという部分は助かっている。汚すと震え上がりそうなほど高価そうな服ばかりという部分には、非常に困っているけれど。
不良もどきになりきろうと頑張っていた頃は、端から服を汚していたりもしたのだけれど、内心ビクビクしていてちっとも楽しめなかった。あれも日前の両親に対する当て付けで、結局惨めな結果に終わった。恐怖心で顔がこわばっていたに違いないし、泣きそうな顔でひたすら泥んこ遊びに勤しむ幼女は、側から見たら間抜けを通り越して一種異様さを漂わせていたに違いない。
まぁそんな私なので、筋トレでもして、このいかにも公爵令嬢です、みたいな服がビリっと言ったら泣いてしまう。まず服装をなんとかしなければ。
しかしこの世界に、いわゆるトレーニングウェアとか、ヨガウェアみたいな物はああるのだろうか。いやそもそも、ヨガはもとより筋トレという概念はあるのか? 騎士団の訓練ならあるだろうけれど、それを騎士団志望でもない、ましてや女の子がするのはどうなんだ?
……そうだ、乗馬だ。
貴族っぽい運動といえば乗馬。乙女ゲームの世界なら、きっと乗馬という文化はあるだろう。多分。
少なくとも、乗馬が出てくる悪役令嬢ものは読んだ記憶がある。
……落馬すると下手すりゃ死ぬけど、まぁ落馬で死ぬなら、後追い自殺はされないだろうし、ある意味平和か……あれこれってマジでありなんじゃ? ありだよきっと。だってほら、
……いやいやいやいや待て待て待て待てっ!!!!
どぅおした私!!
いやほら、今世はどっちかっていうと死なない方向でって言わなかった!? あ、言ってないね!? 言ってなかった!! いやでもほら、とりあえず、そりゃ後追い自殺はされないだろうけど、あのご両親は絶対悲しむからね!? それに落馬で死亡って変事も変事一大事だよ。御前会議中断待った無しだから! それにその馬殺処分されかねなくない!?
やばいね私!? 思考回路が無茶苦茶だね!?
そうだお散歩行こう! 陽光もたっぷり浴びれるし、体力作りにもなって一石二鳥!
お庭をぐるりと一周すれば、結構な距離になるだろうし! セロトニンが出るくらいは時間もかかるしね!
先生へのお詫びの手紙は、メイドが「必要ないと思いますが……」と言いつつも、持って行ってくれた。
いや必要あると思う。先生のスケジュール無茶苦茶にしちゃったし。来る前ならともかく、家に来てから「すぐ帰れ」はない。ないわー……恨みがましい私だったら、口では「わかりました、お大事に」と言いつつ、心の中では100や200はグチグチ言う。
私は昔から、待たされるのが嫌いなのだ。あと約束破られるのが嫌い。だって子供心に傷つくじゃないか。普段弟にしかかかずらわない親が、「次はあんたの番ね」といい、それを真に受けて楽しみに楽しみにしていた挙句、反故にされる。何度も何度も繰り返すのに、その都度期待してがっかりする。バカみたいな自分が一番嫌いだった。理屈上は納得しても、仕方ない、いつものことだといくら言い聞かせたって、心の中はドロドロのぐちゃぐちゃだ。
……メイドの子にも、仕事を増やして申し訳なかった。子供に金銭を持たせないシステム、カツアゲ防止には良いんだろうけど、こういう時、お駄賃あげれなくて辛い。海外にだってチップ制度はあるじゃないか……
スマイル0円て効くのかなぁ……いや0円て結局価値ないってことじゃん……いやんなこたないか。ネットにはタダで価値のあるものもたくさんあった。玉石混淆だったけど。ただ私の笑顔なんかで嬉しいものだろうか……いや待て、今の私は私であって多分私じゃない。私がもし本当に悪役令嬢であるのならば、その見た目は折り紙付きなはず。だったら笑顔でお礼言われたら嬉しいんじゃないかな?! いや基本、笑顔でお礼言われて悪い気はしないよね。私なんか些細なことでお礼言われて舞い上がって何回もやってうざがられたくらいだし。はは……。
とりあえず、お礼言おう。