* 友人との会話の訳
いつもは目を見て話してくれるお嬢様は、今日も下を向いている。
ああ、やっぱり嫌わないとは言ってくれたけれど、男だとわかったからしばらくこの状態なのだろうか……
思いの外、寂しいなぁと感じながら、珍しく話しかけてくれたお嬢様に、少し背を屈めて高さを合わせる。出会いたての頃は、しゃがまないと合わなかった目線。本当は今のこれも昔のあれも、親子ならともかく貴族社会では無作法と言われるのだが、平民はよくやるし、この方がなんだか優しい気がする。
「どうしました?」
目は合わないけれど、今までの習慣でそうしていると、やがて下を向いたままお嬢様がすうっと息を吸い込んだ。
「……申し訳ありません」
「……ええと、あの、何がでしょう?」
え、まさかお嬢様本人からクビを言い渡さ……
「もう一度、お、お名前を教えてくだしゃい!」
……噛んだ?
「……あの、舌噛みました? 痛くないですか?」
口を手で覆ってこくこくと頷く。可愛いけれど絶対痛い。
可哀想に、手当もできないけど地味にすごく痛い。本を落として角が足の小指に当たるくらい痛い。
「……痛いですよね。こういう時に痛みをとる魔法でもあれば良いんですけど」
今度は首を横に振る。
どうにも、お嬢様は我慢強い。
「喋らなくて良いですよ。ええと、それで、なんでしたっけ、そう、名前を……」
……名前を、聞いてくれた?
「……すみません」
「いいえ、謝らなくて良いんですよ。そうですね、社交の場に出れば人の名前を覚えるのはマナーです。再度尋ねては機嫌を損ねる場合もあるでしょう。でも私は『先生』ですから。そう言ったことを含めて教えるのが私の役目です。だから謝る必要はないんです」
本来マナーを教える教師は私の他にいるはずだけれど、私も「先生」なのは違いない。
「ではもう一度」
自己紹介をすると、お嬢様は顔をあげてくれた。
「……アイザック、先生」
「はい」
「先生にぴったりの名前ですね」
「そうですか? こんな強そうな名前だと、名前負けな気がして、あまり好きではなかったんです。大抵の人は、名前のイメージで私が『アイザック』だとは思わないみたいですから」
スクールを卒業するまでは、それこそ女みたいな顔に男らしい名前だと、たま~に嫌味を言われたこともあったくらいで。
苦笑しながらそう告げると、お嬢様はちょっと目を見張ってから、
「……ふふ」
「…っ」
わ、笑った……?
「それ、なら、お名前では、お呼びしない方がいいですか?」
「ああ、いえ、あの、そうですね。なんでもいいですよ。今まで通り『先生』でも『アイザック』でも」
正解した時に嬉しそうな笑顔になるのはなんども見てきたけれど、笑い声は初めて聞いた。恥ずかしそうに口元を隠して笑うその仕草も愛らしいし可愛いけれど、それは娼婦の仕草だからやめさせないとと頭の片隅におきつつ、頭の中の大半が可愛いなぁに支配されていたから、受け答えで何を言ったかあんまり覚えていなかった。
「ダッサ、まだ名前覚えてもらってなかったとかウケる」
「うるさいよ。あと言葉が汚い。感染ると困るからやめなさい」
「そりゃわるーございましたー」
「……まぁ良しとしましょう」
「つーか、口調まで変えて尽くしてきたのに、名前すら覚えないとか、さすが公爵家のお嬢様はやっぱ違うね」
「お嬢様はちょっと色々、事情があるんです、多分」
「なんだそりゃ」
「とにかく今日は名前を聞いてくれたんだ」
「ああそう。今まで一回も質問してくれなかった子が、初めての質問で名前を聞いてくれたと。お前が男だとわかった途端に? マセガキか」
「だから言葉が汚い! ……あとそういうんじゃないよ」
「わっかんねーぞー。お前女顔だけど、結構その手の顔、需要あるらしいし。喰われちゃうかもよ?」
「あり得ない。いくつ離れてると思ってる? それに仮にそうだとしても、食われるのは逆でしょう」
「いやまぁ……はーあ」
「酒臭い息を吹きかけないでください」
「……お嬢サマが初めて口きいてくれたからお祝いしようっていう、頭がアレな親友の頼みを聞いてあげた親友に対する言葉と思えない」
「それは端から捻くれたものの受け取り方をするからでしょう。あと頭がアレってなんですか」
「……しっかし……その口調でそういう服着てると、本当に女に見える」
「……ならお嬢様が気づかなかったのも仕方ない、のか……?」
「男物の服はどうした?」
「ある。……捨てたわけじゃないけど、そういえば最近着ていなかった。というか、別にこれも女物ってわけじゃない」
「なら、賭けよう」
「何を?」
「お前が男物の服を着て、お嬢サマが目の色変えたら俺の勝ち。変わらなかったらお前の勝ちだ」
「断る」
「好かれてる自信があるわけだ」
「違う。お嬢様は……多分、怯えるだろうから、その条件なら私の負けになる」
「怯える?」
「詮索したら殺す」
「……おっかねーな、言葉が汚いのはどっちだよ。まぁいい。俺はなーんも聞いてねーよ。酒も飲んでるし忘れたね。けど一生そうやって生きてくわけにもいかねーだろ? 社交嫌いも大概にしろよ。社交の場にそのカッコで出たら物笑いの種だぞ」
「……そうか。……お嬢様も、そろそろダンスの教師がつくと言っていたな」
「あの場には男物の服を着た男が大勢いるぞ? 慣らしてやらなくていいのか?」
「……なら賭けの内容は、お嬢様が私に……こ」
「……そこで照れるか? お前の方がやばいんじゃねーの? 薄々思ってたけど、お前、ロリ……」
「違う!」
「俺が悪かった。わかったから、殺さないでくださいお願いします。……はぁ。じゃあ賭けは、お嬢様がお前に色目を使ったら俺の勝ち」
「私をあれ呼ばわりしておいて、お嬢様をいくつだと思ってる? そんな目をするわけないだろう」
「あーめんどくせぇな。じゃあお前らしい言い方にしてやるよ、お前に好意的な目を向けたら俺の勝ち。見惚れても俺の勝ち。怯えたらお前の勝ちだな」
「変わらなかったら? 引き分けか」
「変わらないってことはないだろ。ギャップ萌えってやつだよ」
「ギャップ……なに?」
「ダンスもお前が教えてやればいい」
「私は女性の踊り方など知らない」
「教えてやろうか?」
「なぜ知っている?」
「フォローのステップも知っていた方が、リードしやすいんだよ」
「……なるほど」
「お前の身長だとちょうど俺と組んで踊りやすいはずだ」
「……ヒールのある靴は履いたことがないんだ。公爵に止められてね」
「うん?」
「ヒールで思いっきりリードの足を踏んで全体重と加速度をかけて骨折させたとしても、仕方のない事故だと思わないか?」
「……酒が過ぎて口が滑りました。本心ではありませんのでどうかお許しください」
諸手を挙げて降参の意を示す親友を鼻で笑って、それから礼を言った。
浮かれてばかりいられないのも事実だった。自分に託された役目をそろそろ果たさないといけない。何しろ今までは全くと言っていいほど果たせていなかったのだから。
「俺がもし賭けに負けたら、男装のお前が平気になった後に一度俺が会ってもいいか? 最大限の猫を被って、お詫びに次の練習台になってやるよ」
「……私のこの顔が有効だったとするなら、その顔は……」
「だめか?」
この親友は、どちらかというと、いかにも男性らしい顔つきだった。強面というわけではないし、笑っていれば随分優しい印象になる、のだが……
「公爵の許可が降りたらですが……ずっと笑顔で、私の後ろにいるなら……まあ……いいでしょう、多分」
「ああ、妹に付き添う兄のように、前に出ないと約束するよ」
「一歩でも前に出たり、汚い言葉を使ったら、ヒールがなくても足に穴を開けて差し上げます」
大げさに顔を顰めるのを見て、言わなきゃいいのにといつも思う。ため息とともに苦笑すれば、笑った顔の中で黒い瞳が、少しだけ心配そうに揺れていた。
いきなり普通の服で、というのはよろしくないだろう。
あれこれ悩んだ末、喉仏を隠す意味で首を覆うように巻いていた布を外すことにした。
このくらいなら、そんなに怖がられないだろう。
それでも何か言われるかなと少しそわそわしながら挨拶をして、授業をして、そして――何事もなく別れた。
……目は、合っていたから、見てはいるはず。あれ、えーと……無反応、だった。
全くもっていつも通り。キラキラした目に不純物はゼロ。私と同じだからこそわかる。純粋に知らないことを知るのが楽しいという瞳に間違いない、あれはいつも通りのお嬢様だ。
……引き分け?
いや、なんだか、なんで?
そこはかとなく、こう、がっかりしたような……
う、恥ずかしい。
まんまと親友にのせられていた自分に顔が火を噴きそうだ。
お嬢様は男性が苦手なのを知っていたのに、何をちらっとでも考えていたのだろうか。あり得ないと言っておきながら。
と、とにかく、この格好は平気だった。私の女顔の勝利だ。それと、「嫌いになんてなりません」と言ってもらえたくらい、積み重ねてきた信頼の勝利。
これからも、少しずつ試して、少しでも怯えたそぶりがあったら、そこで一旦やめて、元に戻す。平気そうなら、続けて、普通の服を着よう。お嬢様の誕生日パーティーに、正装してみるのもいいかもしれない。いや、それで恐怖のパーティーになったら申し訳なさすぎる。だから、それまでに絶対に平気、という確信を得てからにしよう。
「ぶっ、くくく、あはは、は、……ひーっ、苦しいっ」
賭けの結果を聞かれて正直に答えた私は、今現在、親友に爆笑され続けていた。
「おま、お前、あれだよ………ひっ、はは」
変わらなかったと告げたところ、「おかしいな? どんな格好で行ったんだ?」と聞かれたので、事情を話していたところだ。突然笑いの発作に襲われた友人は、喋ろうとしては吹き出しての繰り返しで、全く話が進まなかった。
「そん、……くひっ、いや、待ってくれ、あははは……」
そろそろ吹っ飛ばしても良いだろうか? と思ったところで、察したのか掌をこちらに向けてきた。
憮然としつつ待っていれば、最後に一際大きく爆笑してから、ようやっと涙を拭って親友は普通に喋り出した。
「お前そんな格好してるから、心まで女になったんだよ」
「……決闘の申し込みならお受けしますよ。私の持つ全ての種類の力の全力をもってお相手しましょう」
「それ俺軽く100回は死ぬな!?」
「無論です」
「いやそーだけど、そうじゃなくて、待て俺の言い方が悪かった。んー、たとえな。たとえだ。女性が髪を切った。例えば、そうだな。このくらい」
と言って、人差し指と親指で長さを示す。
「それ、お前気づくか?」
「……いえ」
女性が髪を短く切り揃えるということはまずあり得ないが、それにしてもそんな僅か切ったほどで気づくわけがない。
「この前俺が着ていた服の色は? 制限時間10数えるうち」
「……覚えていません」
「うん。お前はかなり記憶力が良いけど、そんなもんだろう。言いたいことはわかってくれたか?」
「……」
「これだけ髪切ったくらいでも、気づいてやらないと女性は不機嫌になったりする。ドレスはもちろん、髪飾りとか、アクセサリーも毎回変えてくるが、その都度褒めるのが嗜みだ」
「そんな嗜みが必要なのか……私はやはり社交は遠慮したいな」
「ああ、だろう? なのにお前は、その違いを賭けのネタにしたわけだ。幾ら何でも成立しないだろ。ひどい話だ」
「え?」
「お前が完全に男装したらはっきり反応するだろうが、そんな首布のあるなしだの、服の色だの、些細な変化で、お前がそのお嬢サマの立場だったら、気づくのか?」
「……っ」
「いやまぁ……でも、賭けは俺の負けでも良いぞ? 女ってのは部分部分をよく見てるもんだからな。お前が好きなら気づきそうなもん……っておいおい、落ち込むなよ……マジもんのロ」
「違う殺すぞ」
「お前言葉が汚いって鏡向いて言えよ」
「悪かった。……確かに賭けにならない内容だった。お嬢様が気づかないのは当然ですね。……確かにちょっと気持ち悪いかもしれない」
「待てって。落ち込むなよめんどくせぇな。別に気持ち悪くはねーよ。それを気持ち悪いって言ったら、世の恋する乙女は全員気持ち悪いってことになっちまうだろ」
「……だから中身が女か」
「ああ落ち込むなって!」
「そうだな、男のこう言う考えは気持ち悪い」
「いや別に、俺はお前が気持ち悪いとは思ってないよ。面白いって思ってる」
「それで慰めてるつもりか?」
「本心本心。いやほんとに。お前が母上譲りのその髪を大事にしてるのは前からだけど、その長さの手入れを嫌気もささずに飽きもせずによくやるなぁって感心してるし、珍獣みたいな気持ちで見てる」
「……おい」
「それに、俺みたいな黒髪黒目は、だいたいお前みたいなキラキラした髪が好きなんだよ。恋の駆け引きなしに好きなだけ触れるし眺められるのは純粋にありがたいし、そこはお前のお嬢様に感謝してる」
「ほんとか?」
「ああ、ほんとほんと」
……お嬢様も黒髪黒目だ。いずれはお嬢様のために、この友人のようにバッサリ切ろうと思っていたが、それなら後ろで括るだけにしよう。
酒も手伝ってか上機嫌で私の頭を撫でる非礼も、許してやることにした。