私と殿下とヒロインの誤解について。
殿下とオペラへ行く話は、一度流れた。私の体調を慮って、ということになっている。ヒロインと行くのだと思ったけれど、見舞いの品にと手紙と花束とオペラ鑑賞用のドレスがセットで届けられて、頬が引き攣った。
どちらにしろ、あの有様では無理だ。私にも言い分はあるが、殿下とオペラに行くなら、腕を掴まれた程度で取り乱したら話にならない。
かと言って、あまり長く、あの小さな子供をしょげさせておきたくもない。子供は興味の移り変わりが早いから、何か別の楽しみを見つけてくれたのなら良いのだけれど、それはそれで無責任か?
すっかり食欲が遠のいたので、昼食もそこそこにいつもの四阿でメイドの淹れてくれた紅茶を飲んでいると、足音が聞こえた。
顔を上げれば、ファンタジックな髪色が遠目からでも目立つ。
ヒロインだ。
私は本に栞を挟んだ。
メイドは私のすぐ横に立った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「アリス・キャロルです」
「……マリー・アンです」
なぜ今更? と思ったが、そういえば自己紹介してなかった。
「質問」
「……はい」
作麼生! みたいな勢いで言われたから、思わず説破と言いそうになった。
「大丈夫?」
「……おかげさまで、体調は問題ありません」
私が倒れたことはなかったことになってると言っていたけれど、大丈夫に対する返しとして他に思い付かなかった。そもそもあれは倒れたと言うのだろうか。過呼吸起こして立ってられなくなったのだが。
「そっか。良かった……って言って良いのかわかんないけど」
独り言みたいに呟いて、首を傾げる。可愛いけど、メイドが横で咳払いした。敬語使えってことだろうか。
「アーサー様って、いつもあんな調子ですか?」
「……あんな、というのは」
ヒロインは瞳を彷徨わせたが、意を決するように真っ直ぐこちらの目を見た。
「DV」
「いいえ」
暴力なんか振るわれたこと一度もない。ちょっと手を掴まれた時は、表情が怖かったのとヒロインがいたのとで、あの断罪を思い出して過呼吸起きちゃっただけだ。
殿下の名誉のためにも即否定一択。すると、ヒロインの目が据わった。え、なんで?
「握手」
「……はい?」
「握手して良いですか?」
握手? え、なんで? もしかしてヒロインって何かこうファンタジックな能力持ってたりする? 握手で相手の心を読むとか、癒しとか魔法とか?
差し出された両手は前世の私より随分綺麗だ。良かった、平民暮らしと言っても、そこまで過酷じゃないみたい。お父様ありがとう。あと陛下もありがとう。
「平民なんかと握手できませんか?」
「いえ。そんなことは」
ないのだけれども、これを触っても私は大丈夫なのだろうか。握手というのは、数えるほどしかしていない。護衛その1とはしたことがあるけど、あと先生ともあるけど、そのくらいで、私がもしああなったら相手に対して失礼というか…
「マリー・アン嬢とアリス・キャロル嬢? 珍しいですね、お二人で」
「……先生」
私は凝視していたヒロインの手から、声の方へ視線を向けた。
「こんにちは、アイザック先生」
「こんにちは。何をなさっているのですか?」
私はヒロインに向き直る。彼女はまだ私に向かって両手を差し出したままだった。
「握手して欲しくて」
「お二人は初対面ではなかったはずですが」
「先生も前に手を繋いでたじゃないですか。私が握手しちゃダメな理由、あります?」
……この人、ヒロイン、頭良い人だ。
ニコニコ笑いながら不思議そうに問い返すヒロインを見て、バカなんてとんでもないと思った。
「ええ」
ええ? ええってなに、先生あの、私の体質伏せるって……
「マリー・アン嬢は接触過敏です。対策をされていない方が無闇に触れられては困ります」
ニコニコ笑いながらサラッと暴露してますけど良いんです?!
「過敏症? 私恐怖症かと思っちゃいました」
……
「過敏ですよ。治療中なので握手はご遠慮ください」
ヒロインは「はぁい」と可愛らしく返事して、手を引っ込めてくれた。
私はほっとして息を吐いた。
「マリー様は先生と待ち合わせですか?」
「は?」
「一緒にランチを?」
「……いえ、私はもう済ませました」
「アーサー様と?」
「……いいえ、一人で」
ぼっち飯が一番落ち着くんだよ私は。それに今の食欲だと心配させるだけだ。殿下も先生もまともな人だから、きっと心配される。
「アーサー様のこと嫌い?」
「え」
「キャロル嬢。その発言は見過ごせませんね」
「すみません」
ぺろっと舌を出した。可愛い。あ、てへぺろって実際やるとこんな感じなんだ。可愛い。
「先生は図書館ですか? それともマリー様?」
「ええ、図書館に」
二人がこっちを一瞬見た、けど、私は見ての通りもう図書館で本を借りた後だ。座っているベンチの横に置いてある。
……もしそれがアイコンタクトならお願いだからやめてほしい。私には何も理解できないので。
「私も一緒に行って良いですか?」
「構いませんよ」
「マリー様、また来ます」
来るの? 殿下いないけど。
くるりと踵を返す。膝丈のスカートが風をはらんで、ファンタジーな色の髪が動きに合わせて揺れる。
先生は、少しこちらに寄って、屈んだ。なんだか苦笑している。
「お嬢様、また後ほど」
とりあえず頷く。ふ、と焦点が先生からヒロインへ移ると、睨まれていた。
……殿下が好きなんじゃなかったのかな。いや、でも確かに前は先生と並んで幸せそうに歩いていた。
「お嬢様」
メイドに声をかけられてハッとした。
「あ……」
瞬きすると、ほろりと何かが落ちていった。
……これはまさか、もしかして、涙か?
どうりで妙に心配そうな声だったわけだ。メイドの声が。
「どうぞ」
綺麗にアイロンがかけられた、良い匂いのするハンカチが差し出された、と言うことは、多分涙だったのだろう。
お礼を言って受け取って一応目元に当てる。
じわりと、布が濡れていく感触。
「大丈夫ですよ」
何が? と思って目を開ける。心配そうだけど微笑んでる。あの日目を覚ましたときみたいな。
「先生とキャロル様はあまり仲が良くないみたいですから」
「……え?」
思考が追いつかない。
泣いた理由がまずわからない。
そして先生とヒロインが仲良くないとなぜ大丈夫なのかもわからない。
いや、それは確かに私にとってはこの上ない「大丈夫」ではある。もし本当にそうであれば、少なくとも先生は私を殺す側にまでは回らないでくれるはずだ。
敵の敵は味方というのともちょっと違うけれど。
あの優しい先生が誰かと「仲良くない」と言われる関係になることがあるとは思えないが。
そしてそれが私にとっての「大丈夫」となる理由を、なんでメイドが知ってるんだろう。
もしかして、私以外にも記憶を持っている人っている可能性があるのだろうか?
基本的に私は私が信用ならないので、どちらかというと私の気がとち狂ってる可能性の方が、何回も人生繰り返してる可能性より高いのではといつも思ってはいる。
もしメイドが記憶を持ってるなら、私の気は確かだったという証拠になるけれど、それを確認できるほどの勇気はなかった。
私のおかしさは十分知ってくれているだろうが、だからってこれ以上心労を増やしたくない。
そしてもう一つ疑問なのは、さっきヒロインがこっちを睨んでいたことだ。
別に不思議じゃない。嫌われるのには慣れている。だからそれ自体じゃなくて、なのに先生と仲良くないってどういうことだろうか? 先生が私に構うのが嫌だから睨んでたんじゃないのか?
それとも、ヒロインも殿下みたいにツンデレなのだろうか?
いつの間にか見つめていたハンカチに気づく。考え事をすると視点が下を向く。メイドは私が考え事をしている時はそっとしておいてくれる。
「あの」
「はい」
結局私は、答えの出ない考え事にねをあげて、メイドの顔を見て、これからもずっとそばにいてくれますか、と良くわからない質問をした。
メイドは嬉しそうに微笑んで、私が持ったままだったハンカチをそっと取り戻して、誰よりもずっとおそばにいますよ、と言ってくれた。
実を言うと、ヒロインとは同じクラスだったりする。殿下も同じクラス。ここはまぁ、きっとそういうものなんだろう。
先生とヒロインの邪魔になりたくはないので、私はいつもより早めに戻った。「また来ます」とは言われたが、次の休み時間かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。待っている義務はないだろう、と一応、メイドにも私の考えが常識的か判断してもらった。
教室のドアを開けた直後、殿下と目が合った。というか、殿下がドアを凝視していたのだろう。
「おい」
殿下の声もよく通る。そのせいでクラス中の視線が殿下を迂回してこっちを向いた。
私は衆目を集めたいという欲望をひとかけらも持ち合わせていないので、全身を針で突かれているような嫌な感覚に陥った。
とりあえず呼ばれているものと判断して殿下の方へ向かう。どのみち、私の席は殿下の隣だ。
私は日前で生徒会や執行部にいたことがあるけれど、それらの活動期間はもっぱら放課後だった。だから生徒会や執行部の生徒は委員会を免除される。それに毎日あるわけでもないので、どの委員会に入るよりも拘束時間が少ないのが利点だった。
それからすると、特に転生ものの舞台が学園の小説に出てくる生徒会というのは妙に活動時間が長い。殿下も、割と生徒会の仕事やら公務やらでお忙しく、幸い私はこの席順でも登校拒否をしないで済んでいた。
「……お呼びでしょうか」
私が立ったまま返事すると、殿下が口を開きかけて、セキュリティソフトみたいな名前のお付きの人が咳払いした。
殿下はハッとした顔になって、座るようにと身振りで示したので、礼を言って座る。
殿下は声を潜めて、「大丈夫か」と聞いてきた。
……私の今日の顔色はそんなに悪いのだろうか?
いや、こんなに早く戻ってきたことがないから、それでかな?
「キャロル嬢に絡まれたんだろう。ユニウスが教えてくれた」
え、あの人いたの? それにしても、絡まれたって言い方……
「勝手に触られたりしなかったか?」
なるほど。伝え方が雑というか、本当に殿下が言った言葉そのままそれだけ伝えたのかもしれない。護衛その2ならそういう言い回しもしそう。もしかしたら護衛その2もその場にいなくて、伝言ゲームみたいになっていったのかもしれない。
「……わかってる、僕が言えたことじゃないけど」
「いえ……ご迷惑、を」
お見舞いの手紙が来たけど、謝罪の言葉が多くて情けなくなった。殿下じゃなくて私が。婚約者の腕を掴んだくらいで謝る必要は本来ならないのに。別に掴まれたって言っても痣になってるわけでもない。常識的な力だった。
それでも私はあの時、ヒロインが目の前にいることとスクールっていう場所、それと殿下が怖かった。しかも最後はダメ押しみたいに護衛その2が来たし。あの日と全く同じ格好で。もう自分のいる世界線がわからなくなった。
先生がいつものローブ姿で来てくれたのには本当に助かった。
「違う。……その、悪かった。配慮すると約束したのに」
「いえ、それは」
私が悪いので気にしないでください、と言おうとしたら、何か怒らせたようで表情が強張った。
「しただろう、約束」
「……はい」
「違うんだ、言いたいのは、だから……キャロル嬢は大丈夫だったのかっていう」
「ええ、はい」
あ、私の心配じゃなくてヒロインを心配してるのね。
「ちょうど先生が通りがかったので、私とはそれほど会話も」
してないから大丈夫、ヒロインを傷つけたりしてない。
と、言おうとしたのに、殿下がガンって、机を、殴った。
私は言葉ごと呼吸も止めた。ちなみに教室のざわめきもぴたりと止んだ。
その中を、パタパタとこっちに向かってくる足音が割って入り、振り向く間もなくファンタジックな色合いの髪が視界の端を翻った。
「マリー様!」
「っはい!」
ちょっと驚きすぎて、声量を間違えた返事が私の口から出る。
殿下と私の間に体を割り込ませるみたいに入ってきたヒロインから、咄嗟に仰け反って距離を取る。
「後で来ますって言ったのに、先に帰らないでくださいよ~、もうっ」
……すっごい可愛いけどそのヒロインスマイルを向けるべきはあなたの背中側にいらっしゃる殿下なのでは?
「……すみません、あの……次の休み時間かと」
ヒロインは瞬くと、また微笑んだ。
「また同じ場所で良いですか?」
私が頷きつつ「ええ」の「え」を口にしたかしないかで、「失礼ですが」とセキュアさんが(ごめんいまだに名前覚えられないなんだっけノートンだっけマカフィーだっけ)殿下の後ろから声をかけてきた。
「あまりに礼儀がなっていないのでお声をかけさせていただきます」
……私何かした? いや確かに殿下と話してたけど、ヒロインを無視するわけにも……
ヒロインも驚いたのか、殿下と私の間に割り込ませていた上半身を起こして、後ろを向いた。
「ごめんなさい。マリー様のことが気になって。殿下に背中を向けていたのは失礼ですよね。ごめんなさい。反省してます」
マリー様のことが気になって? 殿下じゃなくて?
……あれ、なんかバグってない? 大丈夫? っていうか私に何か用があるのだろうか? 心当たりがあるとすれば、転生者かどうかということだけれど、それは人前で話すのはちょっとどうだろう。
「公爵令嬢に何か御用が? 殿下との会話に割り込むほど緊急なのでしょうか?」
「会話ですか? 今の。そうは見えませんでしたけど」
何に見えたの?
なんだか雲行きが怪しい。セキュアさんの表情も険しくなる一方で、思わず殿下を見ると、殿下もなんだか不安そうな表情になっていた。
「……あの」
3人の目がこっちに向く。ちょっと怖いが、でも頑張れ私。
「……そろそろ、授業が始まります、から」
下を向いてしまった私は、どんな表情を向けられているかわからない。怖くて知りたくない。
くす、と苦笑のような笑い声がして、ヒロインは「じゃあ次の休み時間に」と言って、自分の席へ向かってくれた。
私は大きく息を吐き出した。
「……大丈夫か」
「ダメかも……」
何か言ってくるだろうとは覚悟していたけれど、それにしたってあんまりだ。疲れた。もう嫌だ。布団かぶって寝たい。
あそこは私のお気に入りだったのに。私はど田舎の生まれで、市街地より森林の面積が広い土地柄で育った。春夏秋冬関係なく家でも学校でも窓は開け放たれ、通学も下校も徒歩だった。多分だから、私は締め切った空間は苦手で、風の通る場所が良かった。あそこはよく風が通る。
そして明るいから本が読める。静かで、落ち着ける場所だったのに、この前から千客万来、と言うのは言い過ぎだけれども、そのうちあの場所が嫌なものになりそうでそれが嫌だ。
私は人見知りだ、それは嘘じゃない。初対面の人と話をするのは平気だが、突っ込んだ話をするのは大の苦手で、それもそんなに親しくない人と何か重要な話をするのは特に苦手だ。
今ならヒロインとの会話と義弟とのお茶、どちらか選べと言われたら迷うことなく義弟とのお茶を取る。
最近はとりあえず、その日何があったかを互いに報告する形に落ち着いていて、義弟のしたことをとりあえず褒めれば機嫌が上向くし大抵平和に過ごせる。
決まりきったルーティンは私にとってありがたい。逆に義弟にとっては退屈だろうに、飽きもせず繰り返しを厭わない。あれはあの子の才能だろうか、落ち着きのない子供だったのに。
「僕も同席しよう」
義弟とのお茶に? あれ多分義弟のトラウマだからやめて――って違う。現実逃避が長すぎた。
「……お忙しいのでは?」
「オペラに行く予定だったから向こう何週間か前倒しで片付けたんだ。それがぽっかり空いた。だから暇だ」
「……すみません」
「だからいちいち謝るな。お前の体調が戻ったらすぐ行けばいい。だから……キャロル嬢の距離の詰め方は少しおかしい。また倒れられたら困るんだ」
物理的なものだろうか、それとも心理的なものだろうか、もしくは両方。殿下に対しても私に対しても。
ただここで問題なのは、ヒロインと殿下は何度も何度も何度も結託して私を殺したということ。今の話し方だととりあえず、殿下はヒロインが私に触らないように同席を申し出てくれている、と思う。だが私にとってのトラウマ度は同じくらいな訳で、二人揃われると尚怖い。
「……ですが」
「そもそもなんの話があるんだ?」
それをあなたに聞かせるのはちょっと難しいだろうな……
口篭っている間に、ドアが開いて先生が入ってきた。安堵して小さく息を吐く。
そこでふと思った。
もしあのヒロインも転生している人だとしたら、私は何度も繰り返しているけれど、彼女はどうなのだろうか。
「マリー・アン嬢。少しよろしいですか?」
授業が終わって、先生が出て行く、はずが、振り返った先生にそう言われた。
驚いて目を瞬く。呼び出されるような何かをしただろうか。
とりあえず近づいて、ヒロインと話す約束をしたと告げると、先生は微笑んで、それから、「少し待っていてください」と言って、ヒロインの方へ向かった。
「……おい」
地を這うような声が聞こえてきた。多分これはあれだ。殿下だ。自分の体が跳ねたのがわかった。当然まだ教室内には人が多い。無視するわけにもいかないが、だからってまた過呼吸でも起こしたら大惨事だ。気合いで誤魔化すにしても、ここには私のトラウマの元凶がなんとびっくり3人もいる。
私の絹豆腐よりも脆いメンタルで耐えられるだろうか。この前失敗したばかりである。
振り返れば絶対に、トラウマ直撃待ったなしの表情の殿下がいる。
あぁやばい、耳がまるで水の中にいるみたいになってきた。
どのみちこれ以上は引き延ばせない。
覚悟を決めて目を閉じたまま振り返る。それしかない。
一歩ずらして、重心を移動する。その直後、風が動いて、私にとっては落ち着く香りがふわっと漂って、それから肩に、手が。
「お嬢様、お待たせしました」
先生だ。耳元でごく小さく言われて、知らず息を吐いた。ちょっと気が緩んだ。
「殿下もよろしいですか?」
肩に置かれた手にそっと押されて前に進む。
若干苛立たしげな足音が続いたから、殿下もとりあえず同意したということだろう。
この組み合わせで何? 何か起きたの?
殿下と公爵令嬢と賢者殿って何か大事起きてそうな組み合わせだけど、マジで何? 私何にもわかんないし私の能力何にもないからマジで役に立たないよ私は! せいぜい泣いて叫べばお父様が御前会議中でも城抜け出してきてくれるっていうアレな特技はあるけれども。
「……賢者殿」
目的地もわからない私はとりあえず先生に押されるがまま歩いているわけだけども、人気がなくなった辺りで後ろから殿下の声がした。
「はい」
「いつまでそうされるおつもりですか」
うん、私もちょっと思ってた。
「これは失礼を」
先生は今気づいたみたいに言って、手を離した。
「それで、僕の婚約者に何のご用ですか」
私と殿下にご用のはずでは?
助詞の使い方間違ってますよ殿下。
「こちらへどうぞ。簡易なものですが防音です」
促された教室は初めて入った。教室というか、控え室だろうか。それに……簡易じゃない。耳にくる違和感が今までのどれよりも強い。
——これは、長居できない。無理だ。
心細さにメイドの方を見る。そばにいますよ、というように頷いてくれた。
「殿下にお伺いしたいことがあります」
先生が後ろ手にドアを閉める。耳の違和感が予想通り強固になる。
殿下に聞きたいなら私は外に出てていいですか? と言いたい。なのに言えない自分の弱さが腹立たしい。
密閉された空間が耐えられないというわけではないけど、そこに苦手な人が加わるとダメだ。
「マリー・アン嬢に日常的に暴力を振るっている、というのは本当ですか?」
——ちょっと待て。なんだそれは。
「違います」
答えたのは殿下じゃなくて私。
殿下は多分、びっくりしすぎて言葉が出ないんだろう。
先生は苦笑を浮かべた。
「この通り、マリー・アン嬢はご自身の過ちについては包み隠さずお話しくださいますが、人のこととなるとどうも庇ってしまうようなので」
違う、本当に違う、待って何だこれは。私は言ってない。庇ってるわけじゃなくて、本当に殿下に暴力なんて、言ってない。されてないんだから、言ってない。
「違うんです、本当に」
待ってくれ、何かおかしい。これは……これじゃ私が、先生に告げ口したみたいじゃないか。違う。
殿下の顔を見ると、驚いた顔をしている。それはそうだ。事実無根のでっち上げで先生に呼び出し喰らうとか、私のいた日本だったら内申に響くし、っていやそうじゃなくて。
何でだ。ヒロイン? 話の出どころはヒロインだよね? さっきDVって言ってたし、先生とヒロインはさっき一緒に図書館に行ってたから、会話する機会はあった。
だけどどうしてその話を? 知らないうちに私が言ったことにされた? やっぱりこの前の侮辱的な発言はヒロインの逆鱗に触れたのだろうか。だから私が言ったことにした? 被害妄想って、ことにして、私を蹴落とす? そんなことしなくても、邪魔するつもりなんかないのに。
「私は、言ってない……」
「先生!」
メイドが、私を庇うみたいに声を張り上げて前に出た。
私は下を向いてしまっていたみたいで、床が濡れているのに気づいた。しまった、汚した、泣いてたのか。このくらいのことで?
「……すみません。私の言い方に問題がありましたね」
先生は少し、困惑を滲ませて言った。そりゃそうだ、急に泣かれりゃ誰だってびっくりする。
先生が前に来て、屈み込んで、私にハンカチを差し出す。
「許してくれますか?」
先生が謝る必要なんてどこにもないのに、自分が泣いたことが腹立たしい。差し出されたハンカチを握りしめると、先生が小さく「お詫びに、また一緒にお茶をしましょう。してくれますか?」と言った。
お土産はお嬢様の一番好きなチョコレートを。
ハンカチから離れた手は私の手を柔らかく包んだ。
私は頷く。謝るのはこっちの方だったから本当は首を振るべきだったが、お茶の提案は受け入れたかった。
先生は微笑んでくれた。
私は安心して息を吐いた。まだ若干震えていたが、とりあえず涙は止まったはずだ。
とそこで、大きめな咳払いが二つ重なった。
一つは女性のものだったから、メイドだろう。私はしていないから消去法で。
もう一つは殿下かセキュアさんかどっちかわからない。
先生は表情を苦笑に変えると、屈んでいた背を伸ばした。
「先日のことを聞いた騎士によると、マリー・アン嬢はこう仰ったそうです。『髪飾りを渡そうとしたところ殿下に止められました』と。間違いないですね?」
私は若干斜めになりながら頷いた。
というか先生もその場にいたのだが、来たことは伏せた方がいい、からこういう言い方をしているのだろうか。
「間違いありません」
殿下の付き人が肯定して、私も頷く。
「私はその時その場にいませんでしたから、どのように止めたのかはわかりません。お聞きしても?」
私は自分の右手首を左手で軽く持った。
「こうやって、手首を持って、です」
「力が強かった?」
「いいえ。常識的な範囲です」
痣どころか赤くもなってなかったはずだ。それにすぐ離してくれた。
「……私が過剰に……反応してしまっただけです」
「悪かった」
殿下が初めて声を上げたので、反射的にそっちを見る。
殿下が謝ることじゃない。本来なら。掴まれたのも手首だった。
「知ってたのに、つい」
「いいえ、私が、こんな」
「お嬢様は何も悪くありませんよ。生まれ持った体質はあなたのせいではないのですから」
先生にそう言われて、止まっていたはずの涙が溢れる。昔からちっとも思い通りにならない体がいつも忌々しかった。
母親に、「そんなのは普通じゃない」「お前はどうしてそうなんだ」と叱られる度に。
皮が剥けたボロボロの掌。アカギレだらけの指先、湿疹だらけの腕。
あの世界ではそれは私が責められるべきものだった。多分、産んだ人が悪いと言われるのが、あの母親には我慢できなかったのだろう。生まれてきた子供が悪いといつも言い放っていた。
好き好んであんな体に生まれたわけではなかったし、そもそも生まれてきたいとも思っていなかった。あんな世界で、生きてるだけで苦痛だったのだ。もし選択できるのだったら、絶対に生まれてこなかった。
——ずっと言って欲しかった。
ぼたぼたと涙が出てきて、みっともなくて嫌だった。後ろを向いて貸してもらったハンカチを押さえつける。
泣くな泣くな、私が泣いてる場合じゃない。これは後で味わえばいい。
殿下の濡れ衣を晴らさないと。
濡れ衣って、本当に辛いんだ。悔しくて、悲しくて、なのに信じてもらえなくて。あんな思い、二度としたくない。誰にもさせたくない。
「あのっ! 申し訳ありませんが、——もうよろしいでしょうか!?」
メイドがそう叫ぶ。待って待って、よろしくない。殿下に対する濡れ衣を晴らして、先生に納得してもらわないと。
振り向くと、メイドが通せん坊するみたいに両腕を広げて私の前に立っていた。
その後ろ姿を見て、また泣きそうになる。
メイドの身分で話に割り込むのは勇気がいるだろう。不甲斐ないばかりに何度もさせて本当にごめん。
「……大丈夫です。もう泣き止みました」
小声でそう言って、メイドの服を少し引っ張る。
うん、大丈夫。喋っても涙は出てこない。
「でも」
振り向いた心配そうなメイドの声に、お礼を言う。私のためを思って言ってくれたのはわかってる。
「殿下は一度も暴力を振るってはいません。……私は誰にもそんな話はしていません。……信じてく、れますか」
信じてください、と言いそうになったが、無駄なので疑問系にした。どうせ、何を言っても信じてもらえない。人は信じたいものを信じる。だけど、自分のことはそれで諦めがつくけど、他の人のことはダメだ。だって諦めるのはものすごく辛い。ずっと尾を引く。死ぬ間際まで。いや、死ぬその時まで。
「もちろん、私はいつもお嬢様を信じますよ」
先生がそう言ってくれたから、私は安心して座り込みそうになった。
「私がこの質問をしたのは、マリー・アン嬢に聞いたからではありません」
「キャロル嬢」
殿下の声に、先生はにっこり笑った。そうだろうなとは思ってた。殿下だって流石にわかったらしい。さっきのヒロインはおかしかった。
「誤解を受けてもおかしくはない態度だとは思いますが」
「……ごめんなさい」
珍しい、子供みたいな顔だった。




