* 王子様は悪役になりたくない 4
「オペラを観に行くことになった」
「おやおや若い身空でお可哀想に」
「どういうこと!?」
決然とした表情と、いっそ闘志が宿ると表せるほど決意の込められた瞳、何かに敢然と立ち向かうような緊張感、そして毅然とした声。
僕が惹かれてやまない女の子は、まるでこれから戦地に赴く女騎士のような様子で、僕に声をかけた。
見惚れるという言葉があるけれど、その言葉が持つイメージよりももっと強い何か。はっと息を飲むような美しさに、僕は釘付けになった。
なぜだろう、彼女が戦地に赴くことなんて決してないはずなのに、少し野鄙な言葉を使うのであれば、「これが地なんだろうか」と思えるほど、その時の彼女はしっくりきた。
そう、なぜだかとても――しっくりくる、と思った。
彼女に釘付けになる自分とは別に、もう一人の自分が、一体何を言われるのだろうかと、こっそり内心恐々としていた。
この雰囲気で出る言葉は、きっとこう、穏やかではないはずだ。
何か僕がしでかしたのだろうか。
どうしよう。
心当たりなんて、ありすぎていっそない。
彼女を前にするとなぜか僕の口は暴言しか吐かない。
後先が考えられなくなって、感情的な人間に成り下がる。
酷かったのなんて、客観的に見て、というか、事情を知らない第三者がみれば、浮気をしている場面を見られて逆上して怒鳴りつけるとか、男として人として最低なことをしたりする。
僕は彼女にとってあまりいい婚約者とはいえない。
彼女のことを褒められないし(心の中ではいつも目一杯褒めてるんだけど口に出すとなんでか暴言になる)、お茶会の話題も公爵夫人のことばかりだし(彼女が一番喜んでくれる話題がなぜかそれで、公爵の話題も喜んでくれたけれど僕はそれにさえ腹を立ててしまうので夫人の話しかできない)、彼女のエスコートも上手にできない(彼女が本当に苦しんでいるのは顔を見れば一目瞭然なのに、そんな彼女が可愛いと思ってしまう自分に嫌気が差す)し、そんなだから彼女が何を好きなのかもわからなくて、いまだに彼女が本当に喜ぶものをプレゼントできた試しがない(なのにいつも身につけてくれて嬉しい、可愛い)。
だからきっと、彼女から見る僕は、猜疑心が強く(わかりやすくいえば嫉妬深い)、自制心が弱く癇癪持ちで(すぐ怒鳴る)、……うん、まだまだ言えそうだけど落ち込むからやめておこう。
いいところが一つも思い浮かばないよ……
そんな僕に、彼女は婚約してからずっと、文句の一つも言わずに、嫌な顔もせず、公爵に言いつけることも多分せず、(時々斜め上な)気遣いをしてくれていた。
その、我慢強く寛大で、慈悲の心を持ち、なんでも受け入れて(受け流しての方が近いかもしれない)くれる彼女が、こんな表情をするようなことって、何。
後ろのノートンから漂ってくる気配は、もういっそ侍従ではなく暗殺者のそれだった。
もちろん標的は彼女じゃなくて僕。
ノートンはこんな下町言葉は絶対使わないけれど、多分ノートンの気持ちを代弁するなら、「今度は何しでかしやがったんだこのクソ王子は!?」だと思う。
氷の公爵がそれはそれは美しく冷たい絶対零度の微笑みを浮かべて、鎌を掲げている心象風景が一瞬で出来上がった。
僕の頭の中ではおそらく1分にも満たないうちに様々な思いが駆け巡った。
果たして彼女の小さく赤い唇から挑むように齎されたのは。
「オペラへ私を連れて行っていただけませんか」
一瞬、「オペラ」が何のことかわからなくなった。
「お……母にマナーを一通り再度教授願いますが、私のこの体質です。殿下にご迷惑をかけるのみならず、……恥をかかせるかもしれません。本来ならこのような……お願いをするべきではないと」
「なら誰にするつもりだ」
「……せ」
「一教師が血縁のない生徒を伴ってオペラを見に行く? 君は僕に醜聞を飾れと?」
「……わ」
「君を一度もエスコートできない出来損ないの男だって言われるのは僕だ」
彼女はパクパクと口を閉じたり開いたりした。言葉が出てこないらしい。
それを見て、僕はまた失言したと悟った。だけどどういうわけか、いつも口を挟むノートンは黙っていた。
「で……き、そこないは、私で、殿下は……殿下は」
彼女が出来損ない? そんなわけがない。
そんなわけはなかった。
彼女の欠点らしい欠点なんて、人に触れられるのが苦手、という特質を持っているだけだ。
ほぼ全ての科目でトップクラスの成績、立ち居振る舞いは講師が舌を巻くほど、性格だって、誰かと諍いを起こしたなんて聞いたこともない。
反論しようとしたけれど、ただでさえ白い彼女の顔が更に青白くなっているのに気づく。
吸った息を吐息として逃す。
「まとも、で」
まとも。
僕はスラングとまではいかなくても、下町言葉もなるべく覚えるようにしていた。
将来査察に向かう時。おそらく本来僕が聞くべき言葉は、貴族に相対した時に話す余所行きの言葉ではなく、彼らが通じないだろうと思って吐き捨てる普段着の言葉の中にあるはずだから。
まとも、と発音する単語は、僕の知識の中ではどちらかといえば平民寄りの言葉の中にしかない。少なくとも、王侯貴族が学ぶ単語としては教えられないし、日常でも使わない。平民もいる騎士団に出入りしていれば、耳にする機会があるかもしれない、そういった単語。
公爵令嬢の耳に触れることはないはずの単語。
少なくとも彼女の口から出るにはふさわしくない。
精神的にひどく追い詰められたような状態の彼女が口にする言葉はおそらく、慣れ親しんだもののはず。
彼女の出自は間違いない。義弟と違って公爵夫妻の正当な血筋を引く。書類上だけでなく、見た目の上でも見紛いようはない。
そんな彼女が口にするとは思えない。
どこかちぐはぐな印象を受ける。
「私、は」
はっとした。というか、思い出した。彼女は男が怖い。制服を握り締めている手は震えている。
「演目は?」
「……は?」
「オペラを見に行くんだろう。希望の演目は何?」
「きぼう……?」
おうむ返しされて、四阿でのやり取りを詳細に思い出そうと努力する。今の彼女はあの時に近い。
「わかった。ひとまず深呼吸しよう。それから、紅茶の準備を」
前半は彼女へ、後半はメイドに。
用意する場所を伝えれば、一礼して去って行った。
彼女はゆっくり深呼吸している。
最初は震えていた吐息も、だいぶ落ち着いてきた。
ミルクのたっぷり入った紅茶は、僕の目からすると色が薄すぎる(キャラメル色というよりはほぼ乳白色だ)けれど、彼女にはちょうど良いらしい。前も、とても美味しそうに飲んでいた。
「オペラのことだけど」
「……はい」
「君はどのオペラが見たいの?」
彼女が目を見開き、ゆっくりと瞬きする。
「どの……」
「……何か見たいオペラがあるんだろう? 演目じゃなくても良い。出演者や音楽家、脚本家、演出家、何か希望を教えてくれないか。チケットを取るから」
彼女は再度、ゆっくり瞬きした。
「……忘れたの?」
「いえ……考えていませんでした」
――考えていない。
というのは、もしかして、先ほど「きぼう」と鸚鵡返しされたのも、気が動転して言葉の意味が取れなかったのではなく……?
「……もしかして、オペラならなんでも良い?」
特に希望がなく、単純にオペラというものを見てみたかった、ということ?
「そう……ですね、……あの、できれば、……子供が見ても楽しめるようなもの、というのは……難しいでしょうか」
「……もしかして、オペラは詳しくなかった?」
「……社交、として、学ぶべきだとわかってはいるのですが、……私はなにぶん、物覚えが悪いので、……現状、手に余ります。今、王都でどの演目が上演されているのか、……調べてからお願いに上がるべきでした」
「いや、……チケットの手配は男の役目だよ。そう、……僕が何にするか提案するべきだった。……うん、……僕も今何が上演してるのかわからないから、ええと……調べる時間をもらって良いか。君の希望にそうような演目を選ぶと約束する」
彼女は花が綻ぶような笑顔を見せてくれた。
いつも浮かべている淡い微笑みは大人びて見えるけれど、この笑顔は初めて見せてくれた時から変わらない。ほんの幼い子供のような。
胸がぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
「ありがとうございます」
胸が高鳴りすぎて耳が聞こえなくなっていた僕は、彼女の唇の動きでそう言われたのに気づいた。
「ねぇ」
「はい」
「なんで何も言わなかったの?」
彼女を見送ってから、後ろも向かずにそのまま尋ねると、少し間が空いた。
別に僕が振り向きもせず話したことを礼儀がなってないと怒っている訳ではないはず。
これに関しては、いつものことだし、それで良いと思っている節がある。
ただあまりに何も言ってこないので、後ろを振り向くと、にこりと笑顔を浮かべてこう言った。
「初デートですね」
なんだろう。手本のような左右対称の笑顔が、完璧すぎて逆に作り物っぽい。なるほどこれが「貼り付けたような笑顔」。
――じゃなくて。
「でっ!?」
「チケットはすぐに手配しますのでご心配なく。勿論良席をご用意します。日取りが決まりましたら、殿下は公爵夫妻に手紙を」
「――公爵夫妻に?」
「ご令嬢をお誘いする許可をいただいてください」
「……誘う許可?」
「……我が国では、女性からデートの申し込みをするのは、あまり褒められた行為とは言えません。ご自分でも仰っていたではありませんか。『満足にエスコートもできないろくでなし』だと」
「そこまでは言ってないよね!?」
「本来、殿下の方からお誘いするべきところを、婚約者様から切り出さざるを得なかった。この点だけで、婚約者としての殿下の評価――公爵からの評価は地に落ちます。ですから、せめて許可をいただく誠意はお示しください」
「……あ、あぁ、そう……うん、そうだね」
「ソワレではなくマチネでよろしいですね」
疑問ではなく、あくまで確認、決まり切った伝達事項を伝えるときと同じイントネーションで言われた台詞に、僕は頭を傾げた。
「え? でもマチネだと休日になっちゃうよね?」
休みの日にわざわざ出てきてもらうのも申し訳ないんじゃないかな。
スクールの制服は準礼装と認められるから、そのままオペラを見に行っても問題ないはずだし。
「……初めてのデートで夜にご令嬢をお連れする許可を、あの公爵が出されるとお思いですか。それ以前に許可を求めた時点で、この婚約をなかったものにされかねませんよ」
「なんで!?」
とんでもないバカを見るような目でノートンが呆れたように言った。
「……未婚の、それも未成年の男女に夜間出歩かれては困ります」
一拍置いて、意味を理解した僕の頭部に全身の血が上る。
「……殿下の美点かと思いますが、醜聞になりかねないような誤解を招く言動について、もう少しご配慮ください」
「……はい」
「婚約者様にこれ以上、心労や配慮を強制するのは、私も胸が痛みます」
「待って。見捨てないで。頑張るから」
「……あまり言いたくありませんが、殿下のお立場では、どれほど頑張っても結果が出なければ意味がない、ということの方が多くなっていきます」
「わかってる」
そして多分、結果が出なければ見限られていく。緩やかに。あるいは急速に。僕はそれに気づいたり気づかなかったり。
その時泣きついても無様なだけで、より人心は離れていく。
こんな泣き言を言えるのは、今の内。まだ子供でいられる今だけだ。
「差し出がましいことを申しました。お許しください」
「え。なに、急に」
「結果がどうあれ、私は殿下について行きます」
僕はちょっと間をおいて、それから苦笑した。
「よろしく頼むよ」
公爵の不興を買って廃嫡か、僕自身の失脚か、あるいは単なる慰めか。
わからないけど、そしてその言葉は叶わない。
「ありがとう」
例えば僕がただの貴族の生まれだったなら、そのまま受け取れる。
けれど、生憎僕は王家の生まれだ。
ノートンは僕についているのではなく、この国の王子についている。
もっと言うなら、任命権は僕にも、ノートンにもない。平和的理由ならもう一人王子が生まれただけでも。
「はい」
首肯しつつ微笑みを湛えるノートンも、そんなことはわかりきっているだろう。
僕が王子であると言う自覚を持ち続け、そしてその立場を追われない限りは叶えられる約束であり、そうありたいという優しい嘘。
上演予定を調べると辞していったノートンの背を見送りながら、僕はもう一度笑った。
どんな未来が訪れるかわからないけれど、彼女は隣にいてくれるだろうか。
僕が何かとんでもない失敗をしたとしたら、筆頭公爵家のたった一人の正当なる血を引く彼女は、婿を取って家を継ぐかもしれない。
僕がどんなに望んでも、公爵の機嫌をひどく損ねる選択を、僕を見限った陛下はしないだろう。
彼女が望んでくれない限り。
オペラかぁ……寝ないようにしないと。
一通りの演目はもう諳んじられる程度に見てしまった。古典なら確実に眠気を催す。
かと言って、もしかしたら彼女は初めてのオペラかもしれない。なら奇を衒うより、王道が良い。
嫌いではないけれど、時間を見つけては足繁く通うほど好きではない。だから寝不足の翌日なんかは油断するとうたた寝してしまうこともある。
初めての、その……デ――、が、外出を一緒にするのに、いきなり居眠りしてたなんてことになったら、幻滅されてしまう。
初めてされた『お願い』を、完璧に叶えてあげたい。
今更ながらにやけて来た口元と、訳もなく叫び出したくなるような、意味もなく飛び上がりたくなるような、初めて体験する感覚。
いや、……初めてじゃない。初めて彼女を見つけた時と、婚約を受け入れてもらった時。同じような感じだったけど、それよりもっとずっと強い。
けれど、いやだからこそ、だ。
彼女の弱点を知っている僕は、彼女をそれから守らなければならない。
僕だって、本当は彼女と……その、……観劇とか、いろいろし、いや疚しい意味はなく、婚約者らしいことをしてみたかった。
だからオペラだって、退屈なのを我慢して何度も見た。
彼女が興味を持ったら、少しでも役に立ってみせたくて。
けれど彼女の特質は思ったよりも手強かった。日常生活に支障のないように、訓練をしていると聞いてはいたけど、僕の目から見れば支障がないとは言えなくて。
楽しそうに会話している生徒たちを、遠目に見つめているのを何度か見た。
相手が気づく少し前に、ふいと視線を逸らして立ち去る彼女は、やっぱり寂しげだった。




