私の勘違いと、おそらく一人目の攻略対象について。
私が読んできたパターンだと、記憶している攻略対象のデータを書き起こしたりするのだが、私にはそもそも持っているデータがない。
そして私の数多ある欠点の一つ、
「好きなものへの記憶力が異常」の裏返し「興味ないことの記憶力がミジンコ」
のせいで、居並ぶ攻略対象と思しき人物たちについての記憶なんて、正直、顔くらいだ。
しかも私には画才がない。頭には浮かぶそれを紙に写せない。
仕方ないので、とりあえず、特徴だけ書いていくことにする。
眼鏡。
金髪。
銀髪。
黒髪。
パーマ。
……おい。おい私。もっとこう、なんかないのか。
眼鏡の髪色はなんだ。
パーマの髪色はなんだ。
家柄は。名前は。目の色は。
いや、目の色って、そんな記憶に残るもんか? と常々思っていたのは私の視力が弱いからだが。
そうだ、性格。性格も書いていたはず。
えーとそう、確か、俺様とか、ツンデレとか、クール系とか、弟キャラとか、お色気担当とか、チャラ男とかもあった気がする。
誰がどれだ。
性格。……いや、そもそも、私は前世……ええいめんどくさい、乙女ゲームらしきこの世界での前世は「乙前」、日本人として生きていた私は「日前」と呼ぶことにする! 両方を指す場合が前世!
私にはゲーミングセンスもなければネーミングセンスもない!
前世でも私は人の性格を何々系みたいに分類した覚えがない。小説のキャラクターでさえ、オフィシャルブックみたいなものや人物紹介に書いてあればそのまま鵜呑みにするくらいで、だいたい人間は多面性を持っているものだし、誰を前にするかで異なるペルソナをつけるのは、別に厨二病でもなく心理学の用語だし。
ああそういえば、一人称。小説で思いついた。一人称くらいは、覚えてるかもしれない。
確か……
私。
僕。
俺。
……うん。だから誰がどれだ。
……婚約者。婚約者の、髪色はなんだったか。一人称は。……パーマじゃなかったような気がする。
だめだ、思い出せん。それに、あんまり会話をした記憶がない。
そうだ、確か、先生……
先生が、いた。
家庭教師の先生が、あの場にいたのだ。
眼鏡をかけた、一人称「私」の、あれが先生だ。
小さい私の家庭教師で、のちに学校、じゃなかった学園でも先生になる人が、なぜかあの場にいつもいる。もちろん、私を断罪する側の人間として。
……ああ、なんだ、私、やっぱり家庭内不和も回避できてなかったんじゃないか。
家庭教師は使用人とは違うかもしれないが、少なからず知っている相手が娘を責める側に立つのを見るのは、あの優しい父母にとっては、辛かったに違いない。
私もそれなりにショックだった。ショックすぎて忘れていたのか。それとも、幼少期を知ってるからってそれがなんだっていうんだと、もうとっくに諦めていたのか。
少し、おどおどした喋り方をする先生だったな。頭が良いから、いろいろ考えてそうなるんだろう。
そこまで思い出した私は、ノートを一冊用意してもらった。
与えられたのは高価そうな装丁のノートだ。ありがたいことに留め具がついていて、鍵がかけられるようになっている。鍵はネックレスにしてもらった。
1ページ目にこう書いた。
眼鏡。一人称「私」。先生。
金髪。
銀髪。
黒髪。
パーマ。
行間はたっぷりあけて、何か思い出すかわかったかしたら、その都度足して行けば良い。
あとは方針だ。この人たちと、関わりを持つべきか否か。
しかし……名前すらうろ覚えというのは、マジで転生者失格だろう私。
多分聞けば「そうだった!」って思い出すんだろうけど、素で思い出せない。
読んできた物語の主人公と違って、私の記憶力のなさが悔やまれる。
まぁ私は主人公になれるタイプの人間じゃないからなぁ……。
正直、平民として生きていく気力もない。日前の私の精神状態が悪かったせいなのか、8時間働いて帰ったら、もう家事をする気力もなかった。歯磨きの間立っているのすら辛くて、洗面所で座り込んでいたくらいだ。そんな私が、労働基準法があるのかさえ定かではないこの世界で、真っ当に働いて生計を立てていけるのか不安。
そもそも、就職氷河期真っ只中を生きてきた私は、採用されることの難しさが身に染みてわかっている。お貴族様なんか真っ先に嫌厭されるだろう。それでも採用されるような愛嬌は私にはない。
お先真っ暗だ。
断罪されて死んだ方が楽。後先考えなくて良いというのは、本当に気楽だ。
……いやいやいやいや待て待て待て待て。
それだとまた、家族が犠牲になる。
つまり私の希望は、追放されることなく、投獄されることなく、家族も犠牲にならずに、私だけが死ぬことだ。後追い自殺されるのも困る。
多分、家庭教師の先生は、そろそろ派遣されてくる。
攻略対象と関わり合いにならないことを望むのならば、第一関門が、家庭教師の先生だ。
「……女の人が、良いです」
不当解雇は大問題だ。
ちょっと頭がまともに働き出したと言っても、私は何回も何回もろくすっぽ頭を働かせずに転生を繰り返してきた精神異常状態の罹患者だ。
先行き不安であっさりマイナス思考に一直線だった私を、朝の光を浴びて冷静になった私が頭の中で「しっし」と追い払う。
ここでまた不当解雇問題で、「もうどうにでもなれ」スイッチを再び押すわけにはいかないのだ。思い出せあの生き地獄。
私の今世の目標は、家族を不幸にしないこと――だと日前の家族が頭を過ってものすごくムカムカしてまた呪われろモードになるからやめよう。
そうだ、「私に優しくしてくれた人」を不幸にしないこと。
よし、これにしよう。
どうやってそうするかは追い追い考えれば良い。
今は考え込むな。またさっさと死にたいモードになっては困る。子煩悩なあのお二人に、賽の河原に行くような年齢の子供を亡くさせるわけにはいくまい。
というわけで私は、家庭教師が雇われる前に、家庭教師の性別を指定してみたのだった。
順調だと思っていたのだ。婚約者よりも早く出会う家庭教師との出会いを回避できたと。
「素晴らしいです。もう十分ですから、あまりご無理なさらず、ご自愛ください」
――その、言葉を、聞くまでは。
背が高めの、少し声の低い女性だと思っていたこの人は、男性にしては声の高い、そして男性ならば平気的な身長の、紛うことなきあの「先生」だった。
その言葉を忘れたことはなかった。まるきり不良で通した乙前は除くとして、家庭内では良い子でいようとした私に、向けられた言葉。
日前の家族は、どれだけ頑張ってももっともっとと、先を求める。私はいつも、どれだけ頑張れば終われるんだろうと、辛くて仕方なかった。精一杯やっているのに、まだ足りないと言われる。どれだけ頑張っても報われない。
そんな私にとって、その言葉は、多分ずっとずっと求めていたものだった。
やっと言ってもらえた。何十年頑張り続けても一度も言ってもらえなかった言葉を、やっともらえた。……あえて言葉にするなら、やっと解放されたというのが、しっくりくるだろうか。
ああ、うん。そうだ。「報われた」と、思ったのだ。どれだけ頑張っても、全く頑張っていない弟ばかり愛されるのを、なのに結果を出してもいない弟は頑張れとは言われず、結果だって出している私ばかりが言われるのをずっと我慢していた小さい私が、やっと。
やっと報われた瞬間だった。
満点じゃないのにもらえたその言葉が、どれだけ私にとってかけがえのないものだったか。
その言葉をもらって、やっと、今までの言葉が、全部全部、褒め言葉だったんだとわかった。
悲しくも辛くもないのに涙がどんどん溢れてきて、先生からもらった答案が濡れてしまった。涙をこらえようと力を入れたせいで、両端に皺が入ってしまった。その答案用紙は、その人生の私の宝物だった。
もちろん今の私にとっても、その言葉は宝物だ。どれだけ人生を繰り返そうが、それは私なのだから。いつまで経っても憎しみが消えないように、命がかかっている恐怖心によって獲得した異常な記憶力だろうが集中力だろうが、原因は全然嬉しくないし、忌むべきものですらあるけれど、それでも、そうやって頑張っていた私が報われるのはいつだって嬉しい。同じように、嬉しくて涙が溢れた。
だけど同時に、だからこそ絶望がある。
思い出したからこそ悲しかった。
どんなに頑張っても何をやっても満たされなかった私を、初めて満たしてくれた先生が、いずれ私を弾劾するのだ。
眼鏡の奥で優しく微笑むあの瞳に浮かぶのも、私が間違えた答えを告げて真っ青になるたび、宥めるようにに少しだけ困ったように微笑むあの顔に浮かぶのも、子供の頃の私を救ってくれたあの言葉をくれた口から出るのも――
――私への、非議だ。