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* 五里霧中 8

 休憩用に持ってきた飲み物を俺は全部吹き出した。

「坊ちゃん! 何やってんですかこんな所で!?」

「聞きたいことがあって」

「……本物だったのかやっぱり」

「本物ってお前なぁ!」

 訓練所からの知り合いに思わず声を荒げた。

「いや、馬車の紋章は確かに公爵家のものだったんだよ。……俺の身分だとちょっと……」

「お前この仕事向いてないぞ」

「このひとでなし」

「えーと、……今マリー様は授業中ですよ。坊ちゃんの頼みでも会わせて上げるのは難しいんですが……」

「じゃなくて、マルクスに」

「俺に?」

 同僚に目を向けると、むしろ喜んだ顔をして席を外してくれた。

 ……いい奴なんだけど……上級貴族が苦手なのはホント……

「あー……えーと、それで、坊ちゃん。わざわざここまで来て、聞きたいことってなんでしょ?」

「お姉様のことで」

 でしょうね。

 坊ちゃんは昔から、義姉であるマリー様が好きで好きで、話と言えばマリー様のこと。

「……お姉様は……マルクス達の名前を覚えてないって、本当?」

 俺は一回瞬きをした。

 ついこの前、初めて名前を呼ばれてびっくりした所だった。

 もともと、貴族は使用人の名前を覚えたりしないのも多い。「ちょっと」とか「おい」とか、「そこの君」、みたいなもんだ。

 名前を覚えられるのは執事長や家政婦長、後は乳兄弟姉妹くらいなんてのも少なくない。

 ただ、公爵は全員の名前を把握していたし、呼んでいた。元々そう言った性格の人なんだろう。人間を職種ではなく個として見るのは、公爵の仕事柄必須でもある。

 けど、あれはもしかしたら、名前を覚えられないマリー様の為でもあったのかもしれない。

 まぁ覚えようともしない公爵令嬢の方が多いんだが、それとはちょっと違う。固有名詞が苦手な節がある。

 マリー様への評価は、使用人と教師でかなり食い違っていた。

 物覚えがあまりよろしくないと思っているのが使用人で、俺の親友も含めた教師は覚えの早い生徒だと思っている。

 花の名前と花言葉を教えてみたが、花の見分けがそもそも難しいらしい。それに加えて、すぐに覚えたものと、何回も間違えるものとがあった。

 人名にも使われているような花や、逆に王家所縁の花で当時の両陛下の名前をつけられたものはすぐに覚えるのに、馴染みのない花の名前は、かなり愉快な間違いを連発したりしていた。

「名前を呼んで欲しいなら、お願いしたらどうです? 何回も伝えれば、そのうち覚えてくれますよ、多分」

「多分なの?」

「……まぁ、多分?」

「そっか……」

「そんなに名前で呼んで欲しかったんですか?」

「ううん」

「へ?」

「お姉様が『お前』って呼ぶの、僕だけだもん。だからそれは良いの」

 ……これ、止めなかった俺らにも責任があるんじゃ……?

「だからそうじゃなくて……なんでお姉様ばっかり……こんなの不公平だ」

「は?」

「お姉様は努力家だから、覚えられないっていうのは、時間が足りないとかじゃなくて、できないんだよ。なんでお姉様ばっかり……ただでさえ」

「坊っちゃん。もしそれがあの話なら、マリー様に聞かれる可能性がある場所で口にするのはダメでしょ? 家から追い出されますよ?」

「今授業中でいないって言ったのマルクスでしょ」

「……まぁそうなんですが」

「……お姉様にひどいこと言わせた」

「何があったんです?」

「お姉様がいる場所で話すのはダメなんでしょ?」

 ……うーん……成長が伺えて結構なことなんだが……やりづらくなったな……

「次の休みいつ? お休みとってうちに来てよ。その時話すから。お姉様の様子も聞きたいし」

「……それは俺に有給取れって言ってます?」

「お金なら僕が払うよ。お姉様が敷地内にいるときに話すのはまずいんでしょ?」

「そりゃまぁそうなんですが。……っと、そろそろ俺の休憩も終わりです。じゃあまた詳しい話はその時にでも」

「うん。お姉様の授業って何時まで?」

「後少しで終わりです。って言っても、休憩時間が始まるって意味ですけどね。一緒に帰るのは無理ですよ」

「わかってるよ。一目見て帰るだけ。ダメ?」

「まぁもう敷地入っちゃってますしねぇ……マリー様が休憩時間に通る道で、帰ろうとした時たまたま鉢合わせるくらいなら」

「ありがとうマルクス! 大好き!」

「はいはい。マリー様の秘密さえ口に出さなきゃ、俺も坊ちゃんが大好きですよ」

「言わないよ。お姉様が頑張ってるの誰より知ってるのは僕だもん」

 それはどうかな? と思ったが、口にはしないで笑うに留めた。

 俺自身としては、公爵家の行き過ぎた事なかれ主義には賛同しかねる。

 それを実行できてしまう権力というか行動力というか……にも脱帽しつつ思うところもあるが、陛下が許している以上、俺には何も言えない。ただそれを誰かが破って、ただでさえ追い詰められがちなマリー様が、折れたりしないように注意するだけだ。

 ――あんなに死にたがりだったのは、もしかしたらその秘密を、マリー様自身がもう知っているからじゃないかと、薄々思ってはいる。

 だがもし、そうでないとしたら決定打になりかねない。 

 知った直後、発作的に飛び降りかねないんだよな……

 なんでもかんでも思い詰める公爵令嬢、なんて面倒に違いないのに、実際見ていると悲痛すぎてそれじゃすまない。

 自由に恋愛できる権利もないから難しいかもしれないが、できるなら良い友人ができるといいんだが。

 その友人が能天気だったらなお良いね。

 多少は思い詰める癖が緩和されると助かる。

 ピリピリしていた二人、いや三人を思い出して、俺の笑いはいつしか苦笑に変わっていた。 









「話がある」

 うぁ、と思わず小声が漏れた。

「何の話かわかってるようだな」

「えー……あー……まぁ。ってか先生? 口調が戻ってるよ?」

 どうどう。

 一瞬黙り込んで、珍しく母上譲りの髪をぐしゃりと乱して、ため息を一つ。

「もう噂になってんの?」

「ああ」

「どのレベルの噂? お前が怒って口調が飛ぶくらい、品性下劣な噂? ――ってうぉ!?」

「もしそうだったら声をかける前に今のをやってる」

 ひく、と頬が引き攣った。

「……お前……あのな、……流石に死ぬ」

「発言には気をつけろといつも言ってる」

「あー……悪い。流石にこれはふざけるべきじゃなかった」

 多分こいつ初恋だし、自覚はしてないにしても、それが実らないってのは当然わかってるはずだ。こいつは自分の母上が苦労したのを知っているから、たとえ望めば叶うとしても、それを望みはしないはず。

 まぁ有り体に言うなら、潔癖なんだよなぁ……。

「その……ごめん」

 こいつとマリー様は似てる。

 とすれば、マリー様も気にするよなぁ……

 マリー様の本心とかけ離れた噂が立ってたら。

 このキレっぷりからして、思い当たるのは一つしかない。

 俺の友人は普段そんな暴力的な人間じゃない。

 怒るのは女扱いと、マリー様絡み。

 ここに入ってからはまだあんまり接点もなかった。異様にキレイな教師がいるとちょとざわついた同僚に、アレは賢者殿だぞと釘を刺したくらいだ。女扱いなんて俺はしてないし、むしろ怒らせると怖いから見た目についてあんまり口にしない方が良いとアドバイスまでしてやった。前者で怒られる心当たりは一つもない。

 後者はと言えば——

「その謝罪は何に対して?」

「……ふざけたこと。噂は全然勘違いだ」

 ちょっと下から睨めつけてくる親友に、頭を掻く。

「勘違い」

「ああ。……あのさ。まずその物騒な気配抑えてくんない? 耳鳴りがすげぇ」

 む、とした顔をして、それから手を一振り。それで耳鳴りが消えた。

「助かった。……先に言うけどな。お前も悪いんだよ」

「は?」

「まだ二回目なんだよ。マリー様が外に出るのは」

「知ってる」

 マリー様は自分でも言っていたが、極度の引きこもりだ。それを許容する両親と使用人一同の協力もあって、敷地外に出たのは、婚約者としてお披露目された時だけだった。

 一回目の外出から帰ってきたマリー様は、翌朝、なかなか目を覚まさなかった。それもあってマリー様を守るべき二人はピリピリしてたし、どうもマリー様は、周りの機嫌の良し悪しに左右されやすいらしい。俺が声をかけた時、不機嫌な二人に当てられたのか、可哀想にかなり顔色が悪かった。

「顔見知りが殿下だけ。知らない人間がいっぱい。不安だよな?」

「……」

「お前、エスコートする子が迷ってるのを見つけて、その子の横で、マリー様に笑いかけたよな?」

 眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔で「ええ」と返してくる。

「あんまり言いたかないけどよ。……お前、自分の見た目の威力を自覚しろよ。ここで働くなら」

「……その話が今回の噂とどう関わる?」

「お前がエスコートした子は、お前がマリー様に笑いかけたのを見て、お前の横でマリー様を睨んでた」

「――っ」

 こいつからしたら、挨拶しただけだ。別に誰から見たって非難されるような行動じゃない。だけども。

「知らない人間だらけで、身内はピリピリしてる。初めてまともに顔を見た子は睨んできた。気が休まらないよな? 懐いてる先生は、他の子のエスコートで頼れない」

「……仕方なかった」

「んなのわかってるよ」

 こいつの立場は都合が良かった。

 国内での立場は重要で、だけど爵位は高くない。

 階級を重んじる輩からすれば、爵位の低いこいつを平民につければ不満は出にくい。

 実力主義者からすれば、平民だろうと実力さえあれば重んじると、賢者殿のエスコートでアピールできる。

 次代と、そのエスコート役できている現当主に、どういった扱いをするのかを見られる場。

 象牙の塔の方も、人手不足には変わりない。現第一位のこいつが突出し過ぎた才能の持ち主でありながら、塔以外の働き方を選んだことから、そもそも塔に所属することへの希少価値というか、そこらへんが揺らいでもいて、塔はもちろん、王家だってそこは問題視していた。

 そもそもこいつは何回か爵位授与の打診を断ってきているから、立場自体弱い。

 まぁその爵位授与に漏れなくついてくる妙齢の御令嬢とのお見合いから逃げたいという本心もあるのだろうが。

 そもそも研究至上主義のこいつが、まともに奥方のケアとかできると思えないんだけど、というのが、こいつの立場が悪くなると知りつつ俺も無理に勧めなかった理由。

 こいつの人気が高い理由の一つに、研究に夢中で浮気なんてしないだろうというのもあるんだろうけど、そもそも研究に夢中すぎて奥方のことさえ眼中にない可能性も高い。

 マリー様に誕生日プレゼントを贈ったというのはしこたま驚いた。自分の誕生日も忘れるようなやつだからな。

「だから簡単な消去法だ。公爵夫妻は来賓の仕事。先生に頼れない、ピリピリしてる使用人は怖い、殿下は相変わらずの態度。そしたらもう、まともに口きけるの俺しかいないだろ」

「……」

「ちなみにどんな噂だった?」

「……」

「知っといた方が対策立てやすいんだけど」

「……お前の耳には入ってないのか」

「当事者だからかね? 今度ばかりは知らん。お前の耳に入ったのが驚き」

「……私もそう思ってはいたが、お前の話で合点が行った」

「ん?」

「私が聞いたのは……マリー・アン嬢は、護衛騎士に……一目惚れして、別れ難さのあまり……泣いていた、と」

「そうきたか。一目惚れしたのはあの子で相手はお前だよなぁ」

「実際は……」

「全然違う話だ。泣きそうにはなったが、泣いてはなかった。理由も俺は関係ない。ちゃんと公爵令嬢として振る舞えていたか、坊ちゃんに心配させたくないってさ。マリー様は責任感が強すぎるな」

「……だが、本当にお前は関係のない話なんだな? だったら何故」

「……怒るなよ? 両親・弟不在。姉代わりのお前にも頼れない。一般的な子供は他に誰を頼る?」

「……いるなら兄?」

「ご名答。それで一緒に帰れなくて寂しくなった。そんなところだよ。『もう一緒には、帰れないんですね』、寂しそうな顔でそう言われた」

「……」

「俺も兄代わりに昇格したのかね?」

 あんなに苦手に思われていたのに不思議なもんだが、仕事に行く親を見送る子供と全く同じ表情だった。

「……マリー様はさ。しっかりしてるけど、まだ子供なんだよ」

「……ええ」

「お前が心配してるような感情を、持つことができるようになるまでにゃ、まだ何年もかかる。俺の見た所、あと10年はかかるぞありゃあ」

「……10年ですか?」

「今やっと、親ないし守り手と離れる寂しさってのを覚えたんだろ? 普通は四、五歳で経験する。感情の発達がちっとばかし遅いんだろう」

「……そう……かもしれません」

「……問題は、だ。プレッシャーからの弱った表情が途端に下世話な噂になるあの見た目だよ」

「……」

「俺相手であれだからな。気をつけろよお姉ちゃん」

「――殺しますよ」

「お前も言葉には気をつけろよ!? ……まぁ冗談は抜きにしても、お前の見た目とマリー様の見た目の相乗効果でどんな噂になるか」

「締まりのない顔をやめれば良いんでしょう。わかっていますよ」

「待て待て。お前、あんな泣きそうになってたマリー様にんなまねしたら余計泣くだろうが。登校拒否したらどうするんだよ」

「自宅療養すれば良いんです。スクールで学ぶ内容なら、お嬢様はもう習得済みです」

「人脈とか友達とか、必要なもん他にあんだろ」

「……別に」

「いやいや別にじゃないから。ただの公爵令嬢だったらまぁ良いかもしんねぇけど、殿下の婚約者がそれじゃ困る」

「殿下も他に見初める方ができるかもしれないでしょう」

「あーあー、もうめんどくせぇ! んっとに、いらんとこばっか似てるなお前は! なんなんだよ顔と頭が良い奴は揃いも揃って情緒の発育が遅れんのか!?」

「急に喚くな」

「悪うございました! クッソ、遅れた思春期めんどくせぇ……」

「は?」

「なんでもないよ。……ただあの様子だと、……多分、スクールに良い印象はないだろ。懐いてるお前に冷たい顔されたら、孤立したように思う。そこらへんのマリー様の心の動きは、お前の方が詳しいだろ」

「――確かにマリー様の自己嫌悪は常軌を逸していますからね」

「自己嫌悪?」

「ええ。普通、自己嫌悪は状態を指す言葉です。何かを失敗した、間違えた、そういった自分の行いを一時的に反省したり選択した自己を嫌悪する状態を示しますが、お嬢様はそれが常態化しています」

「平たくいうと、ずっと自分が嫌いってことだな」

「ええ。……だから私も公爵を疑ったんですが、そうじゃなかった。となると原因が……」

「公爵?」

「忘れろ」

「……まぁ、良いぜ。俺はマリー様の内面があんなで、まだ子供だってのもよーく知ってる。ただ、俺から見てもマリー様の見た目は色々と唆るだろうなぁってのはわかる。わかったからさっさと馬車に乗せるようにルディに言ったんだが、一足遅かったみたいだな」

「……」

「いやいやそんな顔すんなって。仕方ないだろ。普通はあの年齢ってのは、青春真っ盛りだぜ?」

 殿下が上手くやれたら良いんだが……いつもみたいにやらかしたら多分、殿下の婚約者でも狙ってくるのはいるかもな。

「お嬢様はそれから……逃げようとするでしょうね」

「殿下がいるから?」

「いいえ。おそらく向けられる恋情に忌避感があるのだと思います」

「は……? 告白されたら嬉しいもんだろフツー」

「お嬢様の体質を忘れたんですかあなた」

「あ」

「まったく……」

「……まぁ一応、耳に入ったら止めとくよ」

「お願いします。……私の方はあまり……動けなくなりそうです」

「お前はまぁ動かない方が良いだろうけど、動けないってのは?」

「……私が殿下に、例の女生徒の案内を押し付けるわけにはいかないでしょう?」

 苦く笑った親友の顔を見て、俺はちょっと間を置いてから笑った。

「その殿下ってのは、王弟殿下のことか?」

「ええ」

「別に良いんじゃねーの? 今年からここの教師になったお前よりは、最高学年で勝手知ったる会長の方が」

「……昔から思ってましたが……時々びっくりするくらい甘いですよね」

「何が?」

「いいえ。……そうですね。あまり目に余るようなら、私も考えます」

「お前が動いたら余計マリー様が嫌われそうだけどな」

「なぜです」

「お前あの頃……気づいてなかったよな。うん。聞くだけバカだったわ。お前が絡んだ女の子たちがどんだけおっかなかったか」

「昔と今は違いますよ。あの頃は同級生でしたが、今私は教師です」

「……だから?」

「私を好きになる生徒はいないでしょう」

「……エスコートした子がマリー様睨んだって俺が言ったの信じてないわけ?」

「……私を好きになる生徒は滅多にいないでしょう」

「客観的に鏡を見てくれ。頼むから」

「……散々私をアレ呼ばわりしておいて……矛盾してるのわかってます?」

「いや、お前がマ……いや、……子供が大人に憧れるのは結構あるんだ。特にまぁ一般論でな? 女の子の方が精神年齢高い。ってなると、同い年の男はガキっぽくてイヤ、年上の人かっこいい! ってさ。だからまぁ、相当数いると思うけど」

 マセガキじゃなくてもまぁ……こいつの見た目だと仕方ないとは思うんだが。

 マリー様の中身があんなじゃなかったら、とっくにこいつに落ちてたろうし。

 眉を寄せた表情ですら美しいとしか形容できない。

 マリー様が見た目通りの性格だったら、嫉妬に狂った女生徒の圧なんて高笑いしながら返り討ちにしただろうが、なんせ中身が五、六歳だからな……。

 睨まれた直後は気にしてなさそうだったが、あの帰り際の泣きそうな顔と発言を省みるに、大いに気にはしてたんだろう。

 気に仕方がだいぶユニークだったけど。


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