私と、入学までの道のりについて。
「お嬢様……」
誰かの涙声が聞こえている。
悲痛な声だ。とても小さい。
『お嬢様』は、きっとこの声の持ち主の大切な人だ。ありったけの心配を乗せた声は、それでもそこにある呼び名の持ち主への愛情を隠し切れない。
聞いているだけで胸が痛くなってくる。
きっと、その『お嬢様』は今何か大変な状態で、声の持ち主はそれにひどく心を痛めている。
いやだ。誰かが悲しむのはいやだ。
自分が泣くのも、誰かが泣くのも、本当にいやだ。
涙なんて、嬉し泣きだけでいい。
私は一生かかっても、嬉し泣きなんてできなかったけれど。
……いいや、それは嘘だ。
嬉し泣きなら何度もしたじゃないか。物語の登場人物たちが、会いたかった人にやっと会えた時に。愛情に気づいた時に。
……嘘だ。
私は、私の経験で、一度そうやって泣いたじゃないか。
いいや、一度じゃない。もう何回かあるじゃないか。
十分頑張っていると、言ってもらえた日に。
ずっとお側におりますと、言ってもらえた日に。
そうだ、この声は――
なんで。なんで泣いてるの。どうして悲しそうなの。
お嬢様がどうしたの。何があったの。
違う、お嬢様は、――私じゃないか。
なにしてるんだ私は。
「――ぅしたの?」
無理やり声を出すと、目が開いた。
泣きそうな顔のメイドが見えた。
はっとしたように目が大きくなって、やがてゆっくりと細くなる。
目元と口元は、ゆるゆると動いて、控えめな笑顔を形作った。
「おはようございます、お嬢様。……少し、眠りすぎです」
え。
……確かに、陽射しが朝のものじゃない。
私は大きな音が苦手だったから、日前でもなるべくアラームに頼らず起きるようにしていた。
ど近眼の私は朝一で時計を確認するのも苦手だった。
そんな生活の繰り返しで、なんとなく日差しである程度の時刻が判別できるようになった。
「……確かに」
「お腹は空きませんか?」
「……喉が渇きました」
少し眠りすぎというよりは、だいぶ寝過ごした。
昔風に言うなら、大遅刻で重役出勤だ。
「すぐにお持ちします」
……本当に聞きたかったのは、授業に間に合わないと言うか、確実に朝食の時間は過ぎていると言うか、お父様とお母様はとか。
世の中には出勤の30分前に起きるなんてツワモノもいるらしいが、私にはそれは無理だった。起きたら洗濯をしなきゃならないし、掃除も。口に入れるものも用意しないと。だから出勤の2時間前に起きたんじゃ間に合わない。
今は家事はしなくても良いけれど、支度に時間がかかるのは変わらない。
「――任せるんじゃなかった!」
「っ!?」
び、びっくりした……
起動に時間がかかるロースペックなパソコンのような体をなんとか起こして、準備されていた水で顔を洗って、髪を梳かして、身支度を整えているところで、驚いてブラシをを落とした。
扉を隔てた先で、多分、メイドが誰かと話している。
実を言うと私の耳はちょっとだけ良い。
小さい頃は良過ぎて嫌だった。どんなに耳を塞いでも怒鳴り声は筒抜けで、それから逃げるためにイヤフォンをして音楽を大音量で聴くようになった。それでも耳障りな声は聞こえてくる。後年開発されたノイキャン――ノイズキャンセリング機能付きイヤフォンも、私には大して効果がなかった。それもそのはずで、本来の使用目的じゃないからだ。あれは例えば、通勤中のバスや電車の駆動音を消すための機能。私みたいに、人の怒鳴り声から逃れるためのエマージェンシー機能じゃない。進化したノイキャンは、人の声はかき消さない、なんて私の欲求から真逆の発展を遂げた。
がっかりはしたけど、怒鳴り声から逃げたいなんて理由で使う人間が少ないんだろうことに、どこかホッとした。
大人になって、僅かに耳が衰えても、怒鳴り声だけはどうあっても聞こえた。多分、刷り込みだ。幼少期に植えつけられた恐怖心は拭えない。
しかし、この世界では、誰かの怒鳴り声を聞くと言うのは稀と言って良い。
流石はお貴族様というべきか、みなさま品が良いので、声を荒げたりはしない。
聞き覚えのある怒鳴り声というのは、あれをカウントするのもなんだか申し訳ない気がするが、今世ではぶちまけられた紅茶に頭から突っ込んだ私を見た護衛その2の「ばっ!?」、そのくらいだ。
あとは――今世ではまだ出会ってないけれど、ヒロインの声。
いじめにあっても、やられっぱなしにはならない、正当な手段で立ち向かえる強い女の子の声。
……私は、何か言おうとすると、涙が出てくるし、正しすぎる主張に相手がキレてすぐに暴力を振るい始める。それを何度となく経験したから、やめてしまった。
多分、因果関係が逆で、本音を言うと涙が出てくるのは、正しいのに殴られて蹴られて虐げられる経験がフラッシュバックするせいだろう。どうせああなる、その諦めと歯痒さ。
いじめた、つもりはなかった。
本をあげたのは、蔑んだからじゃなかった。私はもう内容を覚えていたし、必要なら公爵家で買ってもらえる。
全部が余計なお世話で、彼女の自尊心を傷つけていたなんて、傲慢だったのだろう。
私は……
「……――、――」
誰かの声。怒鳴り声じゃないから聞こえない。
ただ、話してるのはわかる。
……盗み聞きは良くないんだよなぁ……よし。
小振りのベルのようなものを振る。ハンドベルみたいな形で、それよりも小さい。
どう言う仕組みか知らないが、このベルを振ると、大きな扉を2枚隔てていても、聞こえるらしくて使用人が必ず入って来てくれる。
耳に届いたのか、ぴたりと声が止む。
「お嬢様。お待たせして申し訳ありません」
「いえ。……何か、ありましたか?」
「いいえ。どうぞ」
「ありがとう」
……聞くなってことか。諦めて差し出されたグラスを手に取った。
「あの……午前」
「体調がよろしければ、まずはお食事を」
「……はい」
日前の私の親は、遅刻なんてとんでもないって言う考えで、そもそも寝坊なんてそれこそ死んでもできなかったわけだが、多分、遅刻しそうだったら食事なんか摂らずにすぐに家を出ろと言われたはずだ。
けど、……遅刻してもご飯を食べて行けって言う家もあることは、小説で読んで知ってる。
多分、メイドもそのタイプなんだろうなぁ。
私は八方美人だ。いつだって目の前にいる人に媚びへつらう。自分の意見なんかない。
それに多分、心配してくれてたんだろう。
「あの……心配しました?」
唐突な問いかけにも、慣れているメイドは如才なく答えてくれる。
「それはもう。旦那様は参内の時間を遅らせようかとかなり本気でお考えになって。執事長がなんとか宥めました。奥様も、妃殿下とのお約束を反故に」
「え!?」
「……しかけましたが、執事と、家政婦長がなんとか」
はぁぁぁ、と安堵のあまりため息が出る。
「お嬢様は今まで、こんな時間までお休みになっていたことはありませんでしたから」
そりゃ、私は他人が部屋に入ってきてるのに高鼾かけるほど豪胆な性格じゃない。
……はず、だったんだが。
どうも気づかず爆睡してたらしい。
「……お一人で、お城で戦って。……きっとお疲れになったのでしょう」
またちょっと、泣きそうな顔になる。
別に戦いに行ったわけじゃなくて、お披露目されに行ったわけだけど……
ああでも、貴族の女の子は、あれが仕事か。
一人ってわけでもなかったけどな。殿下も、護衛その2もいたし――って、あの二人は、……ここが乙女ゲームの世界であるなら、敵っちゃ敵か。そのうち私を殺す側に回る。
……まともで、優しい人たちから嫌われる私は、どうしようもなく性格が醜いってことなんだろうな。日本で生きていた頃とは正反対の綺麗な見た目をもらっても、そこは覆しようがないってことか……
「すみません。この話はやめましょう。お嬢様、食事のあとは、どうされますか?」
慌てたような声に、そうだ、ぼーっとしてたらまずいと気づく。
「今日の授業は全てお休みです」
「え」
「執事長が……先生からの助言を受けて取り計いました」
「……でも」
勉強――座学は3日くらい休んでも問題ないが、実技は3日休んだら取り戻すのに3日以上かかる。
まずいだろ。そもそも前世庶民、それもまともな両親に躾けられてない私は、育ちが悪い。そのせいで(はい定番の言い訳)姿勢も悪い。体を動かす全てのことに共通して、姿勢は大事だ。
姿勢の良さは、それを維持できる筋力と体力があるということ。正しい体の使い方を知っているということだ。
私はその土台が悪くて、何回も貴族を繰り返しているので猫は被れるようになったものの、今でも人目に付かなければとんでもない姿勢になっている。
それに趣味が読書で、実技がなければ日がな一日椅子に座って本を読んでいるというダメさ加減。
……せめて座学があれば、先生の前で姿勢を崩さないように気を張れるんだが。
「……ですが……」
非常に言いにくそうに声を上げたのは私じゃない。メイドの方だ。
「……もしお嬢様が、望まれるのであれば、と……先生は控え室に、午前中いっぱいは待機されてます」
——起こしてくださいよ!?
慌てて私は立ち上がった。
「お食事が先です!」
う、え、あ、でも……
「あれは先生がご勝手にされていることです。最低限の礼儀としてお茶をお出ししましたが、本を読んでお過ごしでしたよ。お構いなくと仰っていましたし、あくまでお嬢様が自然に目が覚めて、望むなら、と念押しされました」
「念押し」
「……睡眠が疲れを取る一番のお薬なのだと仰っていました」
苦虫を嚙み潰したような表情で言われたのを見て、私はなるべく刺激しないように「ご飯食べます」と告げた。
先生は私みたいな人間の扱いをよくご存知のようだけど、きっとメイドは規則正しい生活が大事だと考えてるんだろう。
どっちも無下にはしたくない。
遅い朝食を終えて、先生に会いに行くと、もうほとんどいつもの授業時間が終わる時刻に差し掛かっていた。
そのせいか、先生は私の体調を気遣ってくれて、授業というよりはお披露目会についての世間話のようなものになった。
眠る直前まで考えていたことを、私は思い切ってぶつけることにした。
「あの……先生は、……私の家庭教師を、……」
言葉はそこで止まった。
どう聞けばいいのかわからなくて、手紙にもかけなかったのだ。
クビにしたいわけじゃない。純粋にどうしたいのか聞きたい。先生の意思で決めて欲しい。
続けてくれても嬉しいし、辞めるのであれば、今までありがとうと伝えたい。
「……殿下が、何か仰いましたか?」
優しい声が下りてくる。
俯いて服を掴んだ手を見たまま、私はその声に後押しされて言葉を探す。
「先生は……象牙の塔の、第一位だと……」
「あぁ……」
苦笑めいた声。
「……すみません。自分のことは、つい、その、話しづらくて。……お話しませんでした」
……ああ、まぁ、そうか。自慢みたいになっちゃうもんね?
普通の子供だったら、懐いている先生へは質問攻撃を繰り出しただろう。それで多分、先生が第一位だということも普通に知って、……手紙でも、私はいつも自分の話ばかりしていた。
私は――元々は人の話を聞く方に回ることが多くて、日前の親も、自分がいかに苦労しているかを延々と話し続けるような人間だったし、私自身の話というのは、あまりしなかった。それを先生は聞こうとしてくれて、手紙までくれたのだ。
好奇心は猫をも殺す。
私はその諺を鵜呑みにしているかのように、人に尋ねることが苦手だった。
私の母親は日本語が不自由だ。嫌味ではなく。母親の中では「どうやって」と「どうして」が同じ意味。やり方を聞いたつもりが反抗したと見做されてよく怒鳴られた。
パソコンという便利なものを手に入れるまで、実用書の類が私をどれだけ助けてくれたか知れない。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、私は人に何かを尋ねるくらいなら、自分で調べる。調べ切れないことは諦めるのが癖になっていたし、そもそも、ある程度年齢が上がってくれば、習いは性になり、止むに止まれぬ事情がなければ何かを知りたいとも思わなくなっていた。
先生の爵位くらいは知っているが、それもお母様が先生を爵位で呼ぶからだ。お父様は名前で呼ぶ。そういえば、それも何故なのか考えたこともなかった。
先生について知ってるのはそのくらいだ。何回も繰り返しているというのに。私が読んできたループ物だと、みんな二回目の人生で、それまでになかった発見を何度もする。この人にこんな一面があったなんて、っていうのをやってのけるけど、やっぱり私は主人公を張れる器じゃないんだよな……。
いろんなことから学んでよりよく生きようとしてる人と、最初から逃げ腰の私じゃ……
「……そのことで、殿下が何か、仰いましたか?」
「……早く、城で勉強したらどうだ、と」
恐る恐る顔を上げる。口元に手を当て、先生は考え込んでいるような顔をしていた。
心臓がばくばくと嫌な音を立て始める。
頭の中でぐるぐると後悔が渦巻き始める。
あの人にも言われたが、先生は私にとっていつでも優しい。HSPは他人の機嫌に左右される。いつでも優しい先生の前では私は落ち着いていられる。
だけど、裏を返せば、先生の不機嫌ほど怖いものはなかった。
ややあって、先生と目が合った。
すぐに微笑んでくれたから、私はやっと息を吐いた。それまで無意識に息を止めていたらしい。
「殿下には、私から……公爵様にお願いして、説明しておきます。私の落ち度ですと、お嬢様への誤解は解いておきますから」
私への誤解はこの際どうでもいい。というか、誤解ではない。私は言われたことはちゃんとやるが、指示がなければ何もできない人間だ。
親しい人のことも知ろうともしない。何かをこの手で作り上げようともせず、自分からは動かない。
そんな私のことよりも、先生の落ち度にされる方が嫌だったし、それとも、そういうことにして、辞めたいのだろうか。
象牙の塔へ戻るのか。
先生は、……確か、乙前では、家庭教師を、そしてその後は学園の教師として、私――というかヒロインの前に現れる。
だけどもしかしたら、今回は違うのかもしれない。
「お嬢様?」
「……」
言葉が出ない。コミュ力低い私には、こう言う時なんて言えば相手の機嫌を損ねず、圧力をかけず、本音を聞き出せるのかがわからない。
「……お嬢様。お願いしてもいいですか?」
辞めたい、だろうか。もちろん、私に否やはない。寂しい気もするが、お礼を言って、それに――これで、もし先生が学園に現れないなら、何が功を奏したのかわからないが、私はループを終えられるかもしれない。
少なくとも、断罪の場に先生がいないのであれば、前の時よりも、私は苦しまないですむ。
子供の頃のように、先生がしゃがんでくれる。いつもは見上げる先生が、私の目線より下にくる。
「スクールに入学されるのと同時に、多くの貴族子女の家庭教師は任を終えます」
……ああ、まぁ、そうか。日前の私は家庭教師とも塾とも無縁だったが、大学入試までそうやって教わる人たちは多いらしい。でもこの国には高等教育機関はない。象牙の塔は、教育機関というよりは研究の場にニュアンスが近い。
と言うことは、スクール入学が向こうでいう大学入試のようなものなのだろう。
「私がお嬢様の家庭教師でいられるのもあとわずかです。その少ない時間を、私から取り上げないでください」
眉を下げて微笑む先生がそう言って、私の手にそっと触れた。なんのためらいもなく包まれる手。
実の母親にさえ「気持ち悪い」と言われて育った私に、汚い思惑抜きで触れてくれる人なんてほとんどいなかった。
まるで吐瀉物にでも触ったように振り払い、拭われて、手を洗って。大仰に避けて。
……見た目って大事だよね。
ある意味では仕方ない、当然の、自衛本能だ。疫病から身を守るために、普通じゃない見た目のものからは離れる。生物として賢いとも言える、けど。
疫病じゃない、うつらないと伝えても、本能的な嫌悪はどうにもならない。
……世の中にはとても幸せな物語がたくさん溢れていて、それを読んで私は共感して救われたつもりになっていたけれど、実話と謳われたものに対しては相反する感情が鬩ぎ合って、後味はあんまりだった。良かったね、と思えると同時に、どうして私には、心温まる結末も、優しい世界も用意されないのかと、僻んでしまう。
死ぬ直前にどんでん返しが起きたりして、なんて半笑いで生きてきた日前の最期は、なんにもひっくり返らず、家族への心証も家族からの態度も一つも覆らず、最悪なままだった。恨み辛みを頭の中でぶちまけて終わった。
日前の家族のことを考えればいつも冷えていく体温と反対に、繋いだ手は温かい。
「……先生、は」
「はい」
「……私は、まだ、……ここにいても良いと、思いますか」
――あの、息のつまりそうな、冷たい、
「ええ。もちろん。どこで勉強するかを選ぶ権利はありますよ」
……それは嘘だと、私は知っている。
学ぶ気、やる気さえあればと耳触りのいいことをどれだけ言われても、欲しい資格を得るためには卒業資格が必要で、お金がかかる。
返済不要の奨学金の知名度は低く、学校が斡旋するのは返済義務を負う奨学金だけ。
学ぶだけなら、確かにどこでもできるのかもしれない。
でもそれで誰かの役に立ちたい、お金を稼ぎたいと思ったら、やる気だけじゃダメなのだ。
日前なら金のかかる大学に。
今であれば、白亜の城に。
「お嬢様が思い悩むことはありません。今回の殿下の叱責は、私へ向けられたものです。……申し訳ありませんでした」
「違う、殿下は……殿下は、私以外にはまともだから、先生のこと責めたりしない。だから、先生が謝る必要は」
先生が目を見開く。
それで、私は何を口走ったか気づいて、息が引き攣れた。
先生は少し考えるような素振りをした後、微笑んで、何も聞かなかったことにしてくれた。
先生は、お父様とも少し話をしてくれたのかもしれない。
何日か後に、乙前ではお城で受けていた授業を受け持っていた教師陣が派遣されてくると話を聞いた。
お父様は、ここがいいならずっとここで勉強すればいいよと、言ってくれたけど、それが本心なのか皮肉なのかは私にはわからなかった。
最後まで私を見捨てなかった優しいお父様、だけど、……どうなんだろうか。
何はともあれ、斯くして私は、入学まで、家で先生に教えてもらうという今まで通りの生活を手に入れた。




